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表現とは、ひとのなかに内在している<或るもの>をほかのひとへ伝達するために外在化することです。 それは、生まれたばかりの赤ん坊が手足を動かし泣き声をあげて欲求を伝達することから始まり、 ついには冷たいむくろとなって動きをあらわさなくなるまで続く流動的な現象と言えることです。 生と死の違いは表現を行わなくなったかどうかの違いで、表現は生きているものにしかないということです。 身振り手振り、声をあげること、言語を用いること、絵を描くこと、物体を造ること、音楽を作り演奏すること、 舞踏をすること、演技をすること、運動で競い合うこと………表現が伝達の手段であるということでは、 芸術、スポーツ、科学、政治、経済、宗教、戦争、強姦、殺人にいたるまで、 人間の事象というのは、地球を舞台にした全員参加の表現の一大展示会と言うことができます。 一大演劇と言わず、<一大展示会>と言ったのは、そこには台本も筋書きも演出家も存在しないからですが、 <ひとつのものの見方>では、 聖書という台本の予定調和の筋書きで神が演出する人間の芝居ということにもなりますし、或いは、 人間の細胞に内在するDNAによる台本の筋書きで遺伝子が演出する人類の芝居ということにもなります。 いずれにしましても、表現が行われるということは、人間はひとりで生きているということではありません。 「人間ひとり」以外に「もうひとりの人間」がいるから、表現が行われるということです。 人間と人間が相対していることがあって、内在化しているものを外在化して伝達する必要があるわけです。 それは、ひとは他者の表現を見る者であると同時に、他者から自己の表現を見られる者であるということです。 ひとが鏡を眺めて自己に対するような場合でさえも同様です。 みずからに身振り手振りや言語さえ用いて表現し伝達しようとすることは、 みずからが理解しようと思う内在している<或るもの>を<もうひとりの自分>という人間に伝えることです。 それは「わたしもまんざらではない」ということかもしれませんし、或いは、言葉にはならないものかもしれません。 表現が「人間ひとり」が「もうひとりの人間」へ内在しているものを外在化し伝達するということに変わりありません。 すなわち、表現は外在化するものである以上、そのありようは眼で見て取ることができるものです。 見る者が同時に見られる者であるというそのありようにおいては、 相反や矛盾といったことは最初から起こりうることであると言えます。 なぜなら、内在する<或るもの>を表現する欲求は、 必ずしも表現されたありようにおいて、その欲求を満足させられるものとは限らないからです。 表現ということがはらむ最大の誤謬は、 内在している<或るもの>を完璧には外在化できないというところにあります。 しかし、このようなこと、今更言われなくてもわかりきっていることです。 人類の誕生以来、この人間の相反と矛盾のありようがあるからこそ、あらゆる叡智が生み出されてきたのです。 もし、人間が表現をその内在している<或るもの>の通りに行うことができるとしたら、 それと相対する人間もまたその表現に対してみずからの<或るもの>を内在している通りに表現できるからです。 従って、人間における問題は、この表現ということを根本的に解決できれば、一件落着できるということです。 それほどに単純で、問題ははっきりしているということです。 ところが、それがまともにできない、どうしてもできない――できないから、 人間の事象は相反や矛盾に彩られた複雑で怪奇でさえある<一大展示会>となっている。 そう思われてあたりまえです。 これはもう手の施しのようのない死に至る病と言えることです。 ですから、これまでに生み出されてきたあらゆる叡智も、この点から人類に対する絶望を抱く考えへと向かうか、 或いは逆に、希望を抱く考えへと向かうか、分かれるところとなります。 ですから、ひとが内在している<或るもの>を完璧に表現できないでいるということでは、 太古の人類とわれわれはどれだけの違いがあるかわからないと言えます。 進化ということが単に形態上の変化だけを意味するものならともかく、 ひとというありようの全体性において言うものであるとすれば、 少なくとも、ひとの表現ということにおいて、どれだけの進化があったのか、さらに問われることです。 と言うのも、われわれは異種に対してばかりでなく同種に対してさえ、 いまだもって、殺人、殺戮という表現を行っています。 内在していると言われる心というものからは、それは罪悪だとしているにもかかわらずです。 心――どのような定義をされようと、ひとを地球上におけるほかの存在と区別する最大のありようとされるもの。 その心をもってして、できないことであれば、ひとにはできないと考えられているもの。 しかし、そうした心でさえも、ひとに内在している<或るもの>の部分にしかすぎないとしたら……。 いや、仮説です、仮説にすぎません。 謎というものが存在していて、それを読み解くためにはどうしても手掛かりが必要だと言う意味で、 単なる仮説にすぎませんが、心というありようさえも包含するものとして、 ひとに内在している<或るもの>、言わば<全体性の認識>というようなものがあるとしたら……。 <全体性の認識>とは、これまでにヴィジョン VISION とよばれてきたようなもの、 眺望における拡大と深化の感受力、一瞬にして全体を把握する認識力。 しかし、このような感受認識力は特別な能力を授けられた限られたひとたちにしかなかったというもの。 従って、狂人か天才かといった世界に属する事柄で、一般のひとには無縁のように思われていたもの。 だって、そうでしょう、そんなヴィジョンなんて見たことないもん、 ましてや、その見たことを言語や絵画や造型や音楽や科学諸々で表現することなんて、できないもん。 まったくそのとおりです。 ですから、ヴィジョンは<わかるひとだけにわかる>秘法のようなものとして受け継がれている。 しかし、ここからが仮説です。 心の能力がヴィジョンを見させるのではなく、ヴィジョンを見る感受認識力が心を包含させているものだとしたら……。 これを<全体性の認識>とよぶことはできても、 われわれには、内在している<或るもの>としてしか知覚できない。 それを表現するひとにとっても、その<或るもの>をわかりやすく伝達するためにできるだけ綿密に行おうとするが、 その具体化され外在化されたものは、表現というものに備わる誤謬から完璧なものとはありえない。 そこには必ず<謎>が残る――。 にもかからわらず、その表現がわれわれを説得するだけの感受認識力があるとしたら――。 そこにある<謎>はまた、その表現の多様性をもあらわし、繰り返し接することをさせ、飽きさせないものでもあり、 幾世代にわたっても受け継がれるものでありうる。 実際にわれわれはそうしてあらわされた表現――人間が造り出したものを感受認識している。 どうしてこのような関わりがありうるのだろうか。 それは、われわれすべてのなかに<全体性の認識>が内在しているからにほかならないから。 もし、われわれに表現者に内在するものと同一の<全体性の認識>がなかったら、 われわれには表現者の表現をいっさい認識することができない。 ということは、わたしはあなたの表現さえも認識することができない。 そんなことはありえないでしょう。 ですから、あくまで仮説ですが、ひとにはすべて<全体性の認識>というものが内在していると言える。 しかし、くどいようですが、あくまで仮説です。 立証したものがありません。 人間は平等に造られているとされながら、実際にはひととひととの差異が目立つ、それも小さくはないかたちで。 やはり、ヴィジョンは限られた者にしか所有できない能力ということになるわけです。 ですから、ここではヴィジョンと言わず、<全体性の認識>と言っているわけです。 では、立証はできないものであるのか。 ご心配には及びません、表現は外在化しているものなのです、眼で見ることのできるものなのです。 表現を眼で見ることが可能な者であれば、だれでも同じ条件に立っているということです。 老若男女、そこにはいっさいの差異は存在しないということです。 行き過ぎて思い違いをされてはいけないので、はっきり言いますが、 人間の平等主義や男女の性差の平等、ましてや、宗教的な立場からの人間平等を言っているのではありません。 それは、いま言っていることからは先の事柄です。 言い換えれば、<表現のひとつの形態>を全体性として主張するつもりはサラサラありません。 ついでに言えば、殺人や殺戮を話題にしたからといって、 人類の平和などということも、全体性として主張するつもりはナベナベありませんし、 人間にこだわりを示しているからといって、俗にヒューマニズムと言われるものはカマカマありえません。 あるものは、立証される必要のある事実です。 いや、立証された事実をいかに用いることが可能であるかという方法です。 ですから、これはひとつの方法論を言っているにすぎないということです。 この方法よりも、また別の方法が人間にとって有効な手段となるならば、それが用いられるというだけのことです。 ですから、決定的なことは言われる必要がある、それが最終のものでないからこそ、常に必要なことなのです。 最終のもの……人間に終わりはありません、あるとしたら、 地球上に存在していながら絶滅した種がこれまであったように、種として絶滅するだけのことです。 そのときは、最終もへったくれもないわけですから、 つまり、受け継ぐ者がない者にとって、最終ということは意味をなさないということです。 われわれがすでに絶滅した種に<最終のもの>として意義を感受認識するのは、 われわれが受け継いでいる者であることによるからです。 われわれの存在というのは、先代と後代を受け継ぐ者であると同時に、その全体性であるということです。 しかし、このようなわかりきったことを納得したところで、一晩寝てしまえば忘れてしまうことです。 生きてあることの上で必要なことは、納得した考えを抱くこともそうですが、身体が要求することもあるのです。 物質界を構成する四つの元素といわれる地・水・火・風を四大と言います。 四大はまた人間の身体ということもあらわしています。 ひとが発見した<人間を支配する>力の最大のものはふたつあると思いますが、 皆さん、それは何だと思いますか、どなたでも、感受認識できることです。 それは、<神>と<重力>です。 これを旧来の二元論で言うと、 <精神>と<肉体>として相対させた事柄のすべてに作用する支配力と言い換えることができます。 <神>と<重力>の感受認識力なくしては、<精神>と<肉体>という二分化の考えも生まれなかったと言えます。 この両者の存在は、人類創始より人間の存在理由の根拠となってきたものです。 従って、この両者を抜きにした存在論の思想はありえません。 もし、<神>と<重力>が無縁のように思える思想があるとしても、 それは<神>と<重力>の支配を当然のこととして受容しているからで、 ましてや、否定しても始まらないということです。 なぜなら、実在の確定しない存在であるわれわれにとって、 「われわれを超越している存在」という認識は、われわれの何たるかを考え出させる糸口であり、 ひいては、答えともなる全体性を示していることによるからです。 <神>も<重力>も万有に行き届いている支配力であることでは、 言うまでもなく、地球上にあるという状態だけのことを言っているものではありません。 ひとはひとであるかぎり、<神>と<重力>の支配下になくしては存在しえないものです。 ですから、<重力>の認識が近代科学によって明らかにされたことで、 あたかも科学が神に取って代わるものとなりうるような熱狂を一時示したようですが、 時が経過し冷静になってみれば、かえって折り合いをつけられないでいることを眼前とさせられただけのことでした。 超越した存在である<神>が振るう罪深き人間への処罰がひとつの町を焼き払うことであるよりも、 より大きな暴力を手にしたごとくの核爆弾の所有が<神>に匹敵していると錯誤しているのですから、 それをありのままに表現しようとする独裁者とよばれる類の姿は、 <実在の確定していない存在>であるわれわれを如実に反映したものとして見ることができます。 従って、最も収拾のつかないありようは、<神>の名のもとに戦争を行う表現と言うことができます。 いますぐ戦争をやめろと言っても、人類の創始以来行ってきていることです。 人間をやめろということに等しいことですから、そこでは収拾がついても、また別のところで始めることになります。 なぜなら、超越している存在の<神>と<重力>の支配下にあるわれわれは、 われわれ自身において、その両者の折り合いをつける方法をいまだに獲得していないのが現状だからです。 <実在の確定していない存在>というわれわれは、<神>と<重力>の支配下からは絶対に逃れられないから、 殺戮の正当性を<神>という超越的絶対性の名のもとに表現できるということなのです。 殺人の正当性を超越的絶対性の名のもとに表現できることは、表現者の年齢を限定はしません。 年若い者がより年少の者を殺す場合でさえ、 相手を殺すだけの力さえ勝っていれば、殺すという欲望はみずからを超えた超越的絶対性となるだけです。 人類が異種に対してばかりでなく、同種に対してさえ殺戮を行えるのは、この超越的絶対性の認識があるからです。 それをどのような言葉の大義名分に置き換えてもかまいません、 要は<神>の支配下にあることに変わりはないのです。 実際には、ひとそれぞれにある<神>の支配、そのような人間が集落しても烏合の衆というほかありません。 そこで、<ひとつのものの見方>が明確である<特定の神>の支配下に置き換えること、 そのような方法がもっとも多くの人間をひとつの考えにまとめることができるとされて行われてきたのです。 <重力>に支配された人間の身体が要求する欲望―― その欲望のままに、食欲・性欲を満たすために同種の人間さえ殺し犯すひとのありようは破壊的ではあっても、 決して生産的ではありませんから、種族維持のためには<ひとつのものの見方>は必要なことなのです。 <ひとつのものの見方>が多くの人間をひとつにまとめるということでは、 <神>と<重力>の折り合いのつけられた考え方を示す表現がもっとも効果的なものであるということです。 しかし、実際には、そう簡単に折り合いのつくことではありません。 言ってしまえば、ああだのこうだのとやってはきてみたが、手の施しようがないというのが、いまだ現状でしょうか。 このような人間の暗鬱な場合だけを見ていると、本当にやりきれなくなってしまうので、 このような解決のつかない小難しい事柄には眼をふさいで、それなりに楽しく生活できるように、 ひとは<遊戯>というものを考え出しました。 <遊戯>の最大の特徴は、 <神>と<重力>の支配さえも<ひとつのものの見方>で擬似的に遊ぶことができるということです。 もちろん、擬似的にですから、人間存在の本来のありようの解決になることはありえません。 どのような遊戯に熱中しようとも、<神>と<重力>の支配下にあることに変わりはなく、 ましてや、それを擬似的に解決できるとしたら、それはただ錯覚しているというだけのことです。 どのような遊戯であろうと、それはわれわれに暗鬱とは対照的な明朗を知らしめることに存在理由があります。 たとえて言えば、真っ暗な部屋があって、われわれはそのなかに立たされているが何も見ることができない。 机の上にあるランプの光か、或いは、開け放たれた窓から差し込む陽光があって、部屋にあるものがわかる。 しかし、その部屋にある書籍や道具を使うにはまだ至らない、遊戯とは言わばその光のことです。 つまり、遊戯という明るさがあることで、われわれは暗鬱な場合でさえも見ることが可能であるし、 それと正面切って探求していくことさえできるということです。 ですから、ひとに遊戯を禁じるということは、暗鬱な場合だけを見ろということで、これではやりきれない。 子供が自分よりも力の弱いものへ、たとえば昆虫であるとか小動物であるとかへ暴力を加えたり殺したりしても、 それは<神>と<重力>の支配下にあることを暗鬱に表現しているだけのこと。 それが成長とともに明朗な遊戯へと展開しなかったら、対象の昆虫が人間になるということです。 表現というありようは始めに書きましたように、表現は生まれたばかりの赤ん坊から連続した状態で行われます、 冷たいむくろとなるまでの過程を<神>と<重力>の支配下にあるがゆえの水平の動きだとしたら、 <神>と<重力>の支配下に抵抗して垂直の動きをとるという表現もあります。 それが<芸術>であると言ってしまえばわかりやすいことですが、 どうも<芸術>という語は一般的にはきわめて曖昧なものをあらわしているようです。 それもそのはずで、<芸術>ほどわれわれのありように身近なものはないからですが……。 一方、<芸術>が垂直の動きをあらわす至高の表現において、 特権的であることを存在理由としているという<ひとつのものの見方>があるとすれば、 それは、われわれにとって身近なものであるとは言いにくいものになってきます。 何をもってして<芸術>であるかという定義によることになるわけですので、 それこそ、煎じ詰めれば、人間が表現して創造することはすべて<芸術>であると言えることになるわけで、 ですから、ここでは<芸術>の存在理由についてだけを。 <芸術>はわれわれ人間にとって、生命を維持するために衣食住を行うのと同様に不可欠なものです。 人類が誕生して以来、<芸術>という表現と方法を手にし展開させていることは、 ひとの表現における伝達の可能性を追い求め続けていることによるものです。 もし、人間から<芸術>を取り去ったら…… などという問いはまったく意味のないことで、人間からは奪うことも放棄させることもできません。 ひとが表現を行うものであるかぎり、<芸術>の表現と方法を用いずには果たせないことだからです。 *言い忘れましたが、ここで言う<芸術>とは、本来の意味の技芸と学術をあらわしていることです。 人間のすべての表現は、<芸術>の表現と方法によっているということです。 われわれが現在<芸術>の定義としていることは、 人類の創始より発展した人間の顕著な表現をわれわれを理解する上で分析考察した結果のものです。 われわれの表現が<芸術>の表現と方法から展開しているものであると見ることができれば、 われわれが<芸術>を鑑賞するということは、日常生活の行いとまったく同様のことと言えるわけです。 では、<芸術>に触れる機会のない者はどうなんだ、とおっしゃられるかもしれません。 それはありえないのです、ひとが表現する存在である以上、表現を求める存在である以上、 <芸術>は存在し、かつそれはひととひとの関わりにおいて伝播していくことだからです。 表現が伝達の手段であることにおいては、<芸術>は生命を維持するために欠くべからざるものです。 おっ、とっ、とっ、待ってくださいよ、ここで言っていることは、かたちを変えた<芸術至上主義>ではありません。 <芸術>は社会に役立つものだから必要であるだなんて!! そんなこと!! むしろ、<芸術>が存在しなければ、人間は社会さえ構成できないと言っていることです。 ましてや、芸術は社会や道徳に役立てるものでなく、芸術自身を目的として美に仕える独自の存在、などとは!! かつてはそのような<ひとつのものの見方>があったかもしれません、 現在、われわれが立たされている段階では、そのような<ひとつのものの見方>で展開は行えないでしょう。 人類は少なくとも創始以来、ここまできたのです。 だが、<神>と<重力>の支配下にあるわれわれにとって、水平と垂直の方向性が存在することは変わりません。 表現はその<場>において行われているということです。 さて、<重力>の支配下にあって、ひとにおける<性><エロス><官能>は絶対的なものとしてあります。 女性の場合にある方にとって、女性の裸体をあからさまにされたり、虐待されている姿を露骨にされることは、 決して気持ちのよいものであるはずはありません。それは、男性の場合にとっても同様のことです。 われわれが社会という群棲を営む上では、羞恥は互いの個人であることを確認する最も卑近な感受性です。 羞恥を煽る、羞恥を逆撫でする、羞恥で貶める―― 人間の社会性を問うには、まずは羞恥ひとつでどうにでもなることは、 羞恥が<性><エロス><官能>を起動力とした感受性だからです。 ですから、社会的な処罰として、生まれたままの全裸姿にして公衆へ晒すということは絶大な効果のあることです。 ひとが作り出してきた文化というものは、生まれたままの全裸の姿へ如何にして衣をまとわせることだと言えます。 身体の露出する部分が少なければ少ないだけ、羞恥の感受性が露わになることは避けられます。 羞恥を意識しないということは個人を意識しないということです。 それはみずからが全体の一部としてあることに甘んじられるということでもあります。 典型的なありようのひとつは軍隊の制服です。 見るための顔と使うべき手を除いては、ぴっちりと衣で固められた姿は羞恥を放棄しようとしているわけです。 互いの個人であることを確認する感受性を放棄しようとするわけですから、 当然、戦闘状態になれば、敵とする相手は個人ではありませんから、行われることは殺人ではないわけです。 これまでに行ってみたためしがあるのかどうかわかりませんが、 この説を立証するのに、互いに生まれたままの全裸姿になった同士が戦闘状態になるとわかることだと思います。 しかし、羞恥を隠すということが<性><エロス><官能>を起動させないということではありません。 むしろ、制服のありかたが個人を意識させないということでは、 制服を身にまとう、或いは、制服姿を前にしたときほど、<性><エロス><官能>は起動しやすいと思われます。 <性><エロス><官能>は<ひとつのエネルギー>としてあるものですから、 その独自性は<全体性の認識>にあって、どれほどのものか――たとえて言うならば、 われわれは何もひとの全裸を見ることだけでその<ひとつのエネルギー>を発動させているのではない、 山岳や森林や海などの自然の景色を見つめているときでさえ、そのエネルギーを働かせているということです。 われわれの<全体性の認識>にあって、そのエネルギーは生命力と同じ意味合いを持っていると言えることです。 いや、待ってください、エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)と言っていることではありません。 そのような働きのあるものがサディズムだとかマゾヒズムの表現を行わせているというのは、 確かにわかりやすいことですが、<性><エロス><官能>自体には働きはないのではないかと思います。 それはただの<ひとつのエネルギー>にすぎないのであって、 それが結びつく表現において<志向性>というものがあって、 その<志向性>、言い換えれば、<全体性の認識>の部分部分を組織づけているありよう、 それが働きではないかと思えるのですが――。 いや、何分にも、<性><エロス><官能>というのは混濁とした未分明の領域で、 それを相手にしようとなると、どうしても確固たる構造を持って現象化している表現を通さなければ見えない。 人類が考え出した飛躍的な思考方法、撚り合わせて縄を作り、それで或るものと或るものを結ぶということ。 直立歩行で自由になった手の使用があって始めて成し遂げられたそれは大きな進化であり、 火の使用と合わせて、人類になくてはならない生存方法であると言えます。 その撚り合わせた縄で生まれたままの全裸姿にさせた男女の身体を縛り上げるということ、 ただ、<性><エロス><官能>の俗に言う欲望のままに行っていることだとするには、 余りにも構造化している表現のように見えませんでしょうか。 それはひとりの人間がそのような<ヴィジョン>を見ているということでなくて、 <全体性の認識>として表現できることであれば、誰でも見えるということになるのではないでしょうか。 エロだとされて下卑た忌避される対象と見受けられる表現と、 人間にとって偉大で崇高だと思われている表現が並列されて、 そこに相反と矛盾があらわれるたとえようのない支離滅裂があってさえも、 人間にある<全体性の認識>は異なるありさまを見させる―― なぜなら、われわれは<神>と<重力>の支配下にある<場>に存在しているのであって、 われわれには、水平と垂直の方向性が存在し、その流動性にあることを生と感じているから。 とまあ、都会の夜景を眺めていて、考えたことでした。 T.E.ヒューム(1883−1917)というひとは次のように書きました。 「宇宙の包括的な機構を見出すには一つの困難がある、 そもそも、そういうものはないのだから。 宇宙はただその部分部分が組織づけられているにすぎない。 残余はすべて燃えがらである。 ロンドンが夜きれいに見えるのは何故か。 あたり一面の燃えがらの混沌が、 有限数の燈火の、単純な秩序づけられた排列に、取って代わられるからである。 『ヒュマニズムと芸術の哲学』 長谷川鑛平訳 法政大学出版局」 そして、何と多くの謎がひとには存在するのだろうと思ったとき、 宇宙というものがえらく身近に感じられるものだと気づいたのです。 |
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<☆第1の階層 縄の導きに従って> ☆上昇と下降の館 |