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このような夢を見た。 真夏の白昼、下町風情の古い木造の住居が立ち並ぶ狭い路地裏を歩いていて、 やがて、そこが目当ての家だと思い玄関のガラス戸をあけてみると、 年齢は六十歳くらいの目鼻立ちの整った女性が全裸姿で正座していた。 女性は話し相手を見つけられて幸いだとばかりに無邪気に身の上話をはじめた。 話によれば、彼女はマゾヒストの愛奴として二十三のときから旦那様に囲われていたが、 三年前に旦那様が脳梗塞で亡くなってからは、ずっとばあやとふたり暮らしを続けている毎日である。 身のまわりのことは、ばあやがやってくれるから不自由はないが、たまには外出もしてみたい。 しかし、旦那様からはいつも裸でいることを命じられているので、下着はおろか装飾品さえ着けられない。 装飾品と言えば、唯一、恥毛を剃ったわれめに旦那様の名前の入った純金プレート付きのピアスをしている。 人さまにそれを見られることはとても恥ずかしいことだから、外へ出かけたくても出られないでいる。 口ではそう言いながらも、正座してぴったりと閉じてあわせていた太腿を開き加減にすると、 くっきりとしたわれめをのぞかせる股間に下がった金色の小さなプレートを光らせて見せるのだった。 でも……突然、哀しそうな表情を顔によぎらせるとさらに話し続けた。 自分はマゾヒストの愛奴になったことを後悔していない。 旦那様の言いなりに調教され、女であることの歓びを教えられて、幸せだったと思っている。 しかし、お慕いする旦那様がいなくなって、初めて愛奴でいることの惨めさを味わったことも事実である。 旦那様がいつお見えになってもよいように、旦那様のお好みの身体を保つのが日々の努めであった。 食事の世話から洗濯、部屋の掃除、耳の穴から鼻の穴、口、臍の穴、陰部の三つの穴の清掃、 整髪と剃毛にいたるまで、ばあやがすべて行ってくれていた。 自分は身体の線を気遣って食事に注意するだけでよかった。 そう言うと、今度は正座の姿勢を横座りにくずして、肉体の優美な曲線を見せつけるようにするのだった。 ふっくらとした乳房にいくらか張りは残るものの、乳首や乳輪はくすんだ薄紅色や褐色をしていた。 優美であっただろう身体の線は、首もとに寄る皺や腰付きの皮のたるみから年老いた年輪は隠せなかった。 このように旦那様のためにきれいに整えている身体なのに、亡くなってしまった旦那様はもう触れてもくれない。 私はいったい誰のために毎日きれいにしているのかと考えると、虚しさに思わず泣き出したくなってくる。 来る当てもない歓びを待ち続けながら、一糸もつけない全裸で一日中ぽつねんと正座し続けている、 命じられなければ何もできず、ただ虚しく日々を送り老いていくマゾヒストの愛奴とはこのようものかと、 小説や映画だったら、女として一番よいとこだけを映し出すことができるのに……。 ついに女性は言葉を詰まらせてすすり泣きを始めるのだった。 皺だらけの小さな婆さんが部屋の隅にいたが、無表情に座り続けている様子は居眠りしているようでもあった。 その婆さんが女性のすすり泣く声に眼を開いた。 婆さんは後の襖をあけると、押入れからものを取り出して女性の前へ放り投げた。 ドサッという音とともに置かれたのは、使い古された麻縄の束だった。 婆さんは歯の抜けたくぐもった声音で、 だらしない子だね、めそめそばかりして、お仕置きしなきゃならないね、 と言いながら、麻縄の束を拾って女性の背後へ立つのだった。 女性はすすり泣きながも、婆さんが後に立ったことを知ると、両手をそろそろと背中の方へまわした。 婆さんは女性を後ろ手に縛り始めた。 縛られるにつれて、女性のすすり泣きはやんでいった。 そればかりではない、こちらを向けて上げている目鼻立ちの整った顔には溌剌とした表情が浮かんでくる。 後ろ手に縛った縄が前へまわされ、乳房をはさんで上下へかけられていくと、 溌剌とした女性の表情は、顔立ちそのものが六十歳から二十三歳へと見る見るうちに変貌していくのだった。 ふたつの乳房を突き出すように麻縄が締め込まれると、 乳首や乳輪はみずみずしい薄紅色や褐色の色艶を放ち、首もとや腰付きはなまめかしい線を浮き上がらせた。 女性は縄で縛られたことで、若々しく優美な女をよみがえらせたのだった。 後ろ手に縛られ胸縄をされた全裸の若く美しい女性が、 それ以上年もとらなければ若くもならない皺だらけの小さな老婆に縄尻を取られているという姿だった。 婆さんは縄尻を引いて、女性を立つようにうながした。 立ち上がった女性の全身像は、女の優美な曲線を際立たせた肉体に縄の化粧が施されているという感じだった。 唯一の装飾品である肉の合せめに付けられたピアスから下がった小さなプレートがキラキラと金色に光っていた。 女性は恥ずかしそうに顔をうつむき加減にしていたが、頬は高まる期待から桜色にほてっている。 婆さんは相変わらずの無表情で、手にしていた縄尻をこちらの方へ差し出すとくぐもった声音で言うのだった。 旦那様、今日は遅いお着きで、この子も待ちかねていましたよ、どうぞ、縄をお取りになってください。 女性をつないだ縄尻が皺くちゃの手で差し出されている。 その捧げられた縄尻をマゾヒストの愛奴もまた上目遣いのまなざしで見つめ続けているのだった。 そこで目覚めた、一時の夢であった。 ポルノグラフィというのは、現実に成し遂げられない願望を成就させようとする性的志向の表現である。 現実には成し遂げられない願望であるということが最初の要件であって、 成し遂げられたことやありうることが表現されているポルノグラフィというのは、陳腐なだけの表現である。 陳腐というのは、かつてはこのようにあったという時間を表現しているだけのもので、 現在や未来において同じことを行ないたいとは思わせないありようのことである。 そのポルノグラフィの質について言おうとするならば、 この<現実に成し遂げられない願望>をどれだけ迫真的に表現しているかを問えばよい。 その他の表現にまつわるいっさいは、<願望>をあらわすための装飾にすぎないものである。 たとえその装飾が思想を明示するような類のものであってさえもそうである。 だいたいポルノグラフィにあらわれる思想ということがいかがわしさを漂わせている。 ポルノグラフィの身上が現実に成し遂げられない願望を成就させようとすることにある以上、 願望を土台として表現される思想など、絵空事かたわごとのようなものにしかならないからである。 それがもしそれらしくありうるような思想として感じることができるとしたら、 装飾の表現の巧みさであり、それ以上に<願望成就>への意思が強烈であるということである。 従って、ポルノグラフィには高級とか低級とかいった区別は存在しない。 そのようなことは、ポルノグラフィを商品化しようと企てる者が自身の利益のために行うことである。 ありえないだろうが、学者や批評家でそのようなことを行っている者がいるとしたら、 学術行為ではなくて営業行為にすぎないことになる。 高級の意味するところが思想のあらわす認識の深さにあるとしたら、 認識の深さはそれに見合う表現の技術を修練させることによって、 高級は優れた表現にはみなそなわっていることになる。 そして、表現は認識に応じた器を求めるものであるから、 深い認識を表現するためには重厚な形式が必要となる。 ポルノグラフィは重厚な形式ではない。 どれだけ長大な表現をとっても、重厚な形式には絶対になりえない。 ポルノグラフィの存在理由が現実に成し遂げられない願望を成就させようとする性的志向にあり、 それは荒唐無稽ということだからである。 荒唐無稽とは、 「とりとめがなく考えに根拠のないこと。でたらめ(広辞苑)」、 「この世の中で そんなばかな事が有るはずは無いということが分かりきっている様子(Bookshelf Basic)」 ということである。 つまり、ポルノグラフィというのは、その存立から<でたらめ>をもっているものである。 では、そのでたらめがなぜ迫真をもった表現として成立するかと言うと、 性的志向から熱望される扇情的な事柄が表現されているからである。 男性であれば勃起する、女性であれば濡れると表現されるありようを誘引する事柄が描かれているからである。 <でたらめ>を受け手との間でつなぎとめておくのがひとえに性的志向のみというきわどさであるとも言える。 性的志向と言っているのは、ひとにそなわっているエロスがもっているありようである。 エロスはただのエネルギーにすぎないものであり、生れてから死ぬまで持続するエネルギーである。 エロスというエネルギーがあらわれるには、形態という活動の現象と結びつくことがなければできない。 その結びつくありようを性的志向と言っているものである。 性の心理学では、この性的志向が結びつく形態をサディズム、マゾヒズム、同性愛等の概念として分類している。 ポルノグラフィは、エロスの結びつく形態の種類だけ表現のありようが存在するということである。 それだけの種類をもったポルノグラフィであれば、どのようなひとでもお気に入りのひとつは存在するはずである。 ポルノグラフィを好まないひとというのは極めて少数のはずである。 扇情的な事柄に刺激を受けないひとというのは、一般的には考えにくい人間存在である。 どのような人間でも発情する――この言いまわしは心地よい響きをもって聞こえる。 ひとは差別なく発情するがゆえに、エロスの前ではすべての人間は平等の条件で立たされている。 この点から願望をふくらませれば、ポルノグラフィは人類の聖典であると言い切る者が出てきても不思議はない。 しかし、それは<たわごと>であることはわかりきっている。 <たわごと>であるとわかりきっているのに、あえて行うことをするから気違い沙汰だとみなされる。 しかし、本人は真剣である、抱いた性的願望が人類のために成就できると思うほどに真剣なのである。 だが、これまで聖典がポルノグラフィとして用いられるようなことはあったとしても、 ポルノグラフィが聖典になったことはない。 ポルノグラフィには荒唐無稽の存在理由があるからである。 <でたらめ>はうさんくさいのである、ひとの性的願望は行儀よく規律されることを嫌うからである。 従って、ポルノグラフィを好まないと思うひとがあるとすれば、 その<でたらめ>の表現がそのひとの性的志向による願望と一致しないというだけのことである。 世界は広いし深い、求めればいずれ好ましいと思われるものとの出会いはあるはずである。 ポルノグラフィの願望成就の意思は、それに匹敵する願望成就の意思をもった受け手を渇望しているからである。 求める者にとっては、その願望成就の表現が福音となるに違いないほどに。 だが、そうでない者にとってはただの<でたらめ>にすぎない、或いは、好みではないものにすぎない、 笑い飛ばされるほどの<でたらめ>すぎないのである。 しかし、笑い飛ばされたからといって、その<でたらめ>が変質するわけではない。 ポルノグラフィの荒唐無稽は、どのような状況に立たされようとも、その<でたらめ>を変質することはない。 その存在理由が荒唐無稽であり、<でたらめ>をもっていなければポルノグラフィではないからである。 倫理や道徳の立場からポルノグラフィが批判されるのも、ひとえにその<でたらめ>の表現ゆえにである。 ポルノグラフィへの批判では性的志向による扇情的な表現が常に槍玉にあげられるが、 実際はその扇情的表現より遥かに恐れられているのは<でたらめ>が肯定されていることにある。 性的志向による扇情的表現は過激なものになればなるだけ、現実に行えるありようから遊離していくものである。 願望成就を求めている者以外、それを現実と認めることができないくらいに非現実的な表現となる。 従って、その表現を現実だと疑わずに思える者があるとしたら、もはや現実認識を欠いた者ということになるだろう。 荒唐無稽を実現可能であると信じることのできる狂気をもつということである。 そうした者がポルノグラフィに表現された荒唐無稽を現実の行動として行うことをすれば性的殺戮者となる。 荒唐無稽が現実化されたとき、現実化できない荒唐無稽の壁は死をもってしか乗り越えられないからである。 ポルノグラフィが単なる過激な性の扇情表現であれば、性的殺戮者への影響もありえないであろう。 ポルノグラフィが荒唐無稽という存在理由をもっているからこそありうることだと言えるのである。 <でたらめ>が性による平等的基盤を堂々と謳い上げるからである。 倫理や道徳が人間のありようを規律するために作り上げた差別さえ浮き上がらせるからである。 ポルノグラフィの表現する願望は、何ものにも規律されないということで荒唐無稽なのである。 この荒唐無稽は他に匹敵するものがないほど、人間における自由意思を確かなものとさせるのである。 いっさいの規律から開放されて、意思のおもむくままに生きられるという荒唐無稽な自由の世界である。 すなわち、荒唐無稽を払拭したポルノグラフィなどというものはありえない。 そして、芸術に昇華するポルノグラフィなどというものは存在しない。 ポルノグラフィの存在理由が曖昧とされているかぎりは、そのような議論が成り立つというだけである。 ポルノグラフィを収まりよく社会的に取り込もうなどと考えること自体が荒唐無稽と言えることである。 ポルノグラフィの存在理由は、ひとえに荒唐無稽にあるのである。 芸術のあらわす認識の表現は荒唐無稽の様相を示していても、芸術であるがゆえの論理性をもっている。 芸術的な評価を与えられたポルノグラフィというものがあるとすれば、それは最初から芸術だったのである。 ポルノグラフィと芸術の相違をひとことで言うとすれば、訴えかけてくるものの違いにある。 どのように装飾的技巧が施されていようと、扇情的に訴えかけてくるものはポルノグラフィである。 どのように扇情的な表現がされていようと、人間のありようの認識を訴えかけてくるものは芸術である。 これらを曖昧にする意義は何もないし、曖昧にしておくことにも意味はない。 曖昧になるのは、倫理や道徳が価値判断の根拠として脆弱なものとなっていることによる。 だが、倫理や道徳を社会的に強化すれば、当然、ポルノグラフィの弾圧ということも起こる。 荒唐無稽ということは、倫理や道徳が求める整合性とは絶対に相容れないものである。 混沌と秩序、エロスとロゴス、肉体と精神、形而下と形而上、人間と神、という相対と同様である。 言うまでもなく、政治性とも相容れない。 権力はポルノグラフィを弾圧するが、荒唐無稽ということを消滅することはできない。 ポルノグラフィにあらわれる荒唐無稽とは、実はそれを受けとめる側の荒唐無稽だからである。 人間に文字と絵画表現が可能となって以来、営々脈々と受け継がれてきたものは、 人間のなかにあって、欠くことのできない荒唐無稽の存在理由ということだからである。 われわれのなかにある<荒唐無稽>を発火させるものがポルノグラフィということである。 この<荒唐無稽>のありようは、人類が性を所有する動物存在であるかぎり不可欠のものである。 ひとにあってエロスの存在はただのエネルギーにすぎないものであるから、そこは善悪の彼岸である。 しかし、この<荒唐無稽>は善悪を作り出す根拠と言えるものである。 <荒唐無稽>それ自体はただの<でらため>にすぎない。 この<荒唐無稽>をただの<でたらめ>として放埓にさせておくことは、 ひとを集合させひとつの目的のために行わせようとすることには大きな障害となって立ちはだかる。 好ましいと思っている優秀な性的対象が個人に専有化されることを容認できない放埓をうながすからである。 ひとが集合し目的を実現するためにはそれをまとめ方向を与える者の存在が不可欠である。 その存在は他の者より優秀であることからその位置を保持するわけであるが、 同時に優秀な者は優秀な性的対象と結ばれることを目的として存在しようとするから、 他の者がその優秀な性的対象をみずからとは隔離された存在とみなすためには、 エロスが結びつこうとする<荒唐無稽>を意義のある形で抑制しなければならない。 それを宗教的規律で行なうか、政治的規律で行なうか、社会的規律で行なうか、道義的規律で行なうかである。 ひとを集合させるひとつの目的とは、最終的には種族保存を維持させることであるから、 その実現のために行なわれることがすでに支配者と被支配者間の性的相反と矛盾をあらわすものとなっている。 ときの政治権力が転覆された場合、支配者側の性的対象が被支配者側によって強姦されること、 或いは、侵略の場合も同様で、征服者側が被征服者側の性的対象を強姦することが行なわれてきたのは、 抑制する規律が無秩序化された場合、エロスと<荒唐無稽>は性的願望を成就することを行なわせるからである。 ひとには性的自由意思があるとする願望が強姦を実行させるのである。 それは平等に与えられているひとの存在理由からくるものである。 エロスと<荒唐無稽>が結びつけば、どのような性的願望も実現可能なものとして官能できるのである。 従って、ただのエネルギーであるエロスを善悪の対象として価値判断することに成果が生まれないどころか、 かえって倫理や道徳の強制による因習を作り上げてきていることは、 そのありようそのものを単なる二項対立として解決しようとしてきたからだと言える。 エロスは善悪の彼岸にある、それを此岸にあらわすものは<荒唐無稽>の存在なのである。 この<荒唐無稽>とは、これまでひとのなかにある<悪>として表現されてきたすべての比喩そのものである。 従って、ひとがひとであるかぎり、この<荒唐無稽>の存在は消し去ることができないものである。 絶望的に厳然と存在する<でたらめ>という<荒唐無稽>なのである。 救いは愛にしかない、愛として表現されるものしかない、そう信じられる対象なのである。 だが、愛も、愛と憎悪という二項対立として見られるかぎり、 或いは、精神的な愛と肉欲的な愛という二項対立として考えられるかぎり、 つまりは、愛と憎悪はひとつの裏表であると言うのと、或いは、愛は幻想や盲信であるとされるのと同じことで、 愛とは究極には自己愛であると断定されるものでしかない。 言い方を換えれば、愛という免罪符を使うことによっては、性欲の表現はどのようにも変貌させることができる。 SMや陵辱に至らせる行為までもが愛の表現だと言ってしまえば、殺戮も同様に言えることであり、 死に至らせるまでのベクトルの点の位置が異なるだけで向かっている方向は同一のものである。 手前に位置して見ているから彼方にあることが別物のように感じられるだけで同じ直線上の道にすぎない。 SMや陵辱が最終のものでないことは、その快楽がつぎに求めさせるものは殺戮しかないからである。 演技として行なわれている表現行為のかぎりでは、そこには表現行為という抑制があるから問題外である。 映像表現であろうと言語表現であろうと、他者へ向けられた表現行為は作り物であることが要件である。 ポルノグラフィに表現されているエロティシズムやグロテクスのきわみと言っても、 それらはすべてひとが現実に行なうことの可能である以上の誇張と言えるものにまで到達していることである。 作り物でないものは、エロスと<荒唐無稽>が結びついて求める最終、つまり死に至ることでしかない。 なぜ死に至ることでしかないか、ひとは殺戮の欲望を本性としてもっているからである。 性欲や食欲や知欲があるように、殺戮欲をもっているからである。 性を根源とすれば、エロス(生の本能)とタナトス(死の本能)と対立させて考えることはわかりやすい。 だが、そうした二項対立から発展していく考えはそれぞれが自立していくことであるがために相反、矛盾する。 整合性の目的から追求されていくことであるがために必然的にそうなるのである。 そのあとは収集がつかなくなり、都合のよい形で根拠とされるだけで、形骸化したものはおのずと滅び去る。 エロス(生の本能)と対立するタナトス(死の本能)があるのではない。 エロスは生の本能ですらない、ただのエネルギーにすぎないものである。 生の本能と言うならば、性欲、食欲、知欲、殺戮欲の全体性である。 ここで言う性欲とは、空腹になれば食物を求め、咽喉が渇けば飲み物を欲しがるのと同じで、 生殖器官が周期性をもって準備する性交への欲望であり、エロスとは独立したものである。 ひとには生の本能に対立する死の本能などない、 ひとは他者を殺戮するか、みずからを殺すか、という欲をもっているにすぎない、 それはみずからを生存させること、自己保存の目的のために行なわれることであるにすぎない。 それを宗教的規律で行なうか、政治的規律で行なうか、社会的規律で行なうか、道義的規律で行なうかである。 このありように愛が存在しないのは、愛などというありようがなくても、成し遂げられることだからである。 もし、愛という存在が盲信や自己愛を超えて普遍的な作用力のあるものだとしたら、究極にまで至って存在する。 だが、愛は都合のよい位置まで、その作用力の有効性が見きわめられるところまでしか使われないのである。 従って、愛は人類を救うものだと叫ばれることは素晴らしいことであるが、作用力が及ばない。 愛ひとつにすべてを委ねるには、愛には確固たる根拠がないからである。 もっとも、そのように根拠のないものであるから、どのような表現に用いられてもそれらしくなるのである。 しかし、その根拠のなさは、受容という他に比べられない力をもっている。 この受容力はすべてのものを受け入れられるというほどに広大深遠なものである。 愛の万能を言うのであれば、この受容力のことである。 だが、残念ながら、この受容力をもってしても<荒唐無稽>を呑み込めないのは、 <荒唐無稽>がひとの存在になくてはならないものであり、愛がなくてはならないのと同じことだからである。 この二者を婚姻させようと、これまでにもさまざまな試みが行なわれきたが、これも二項対立だったのである。 愛と死という二項対立によっても、ひとが殺戮欲をなくすことができない絶対性と同じことなのである。 なぜなら、ひとを二項対立として考えることがすでに相反と矛盾の並置に存在することをあらわすことであり、 二者の相克から生み出そうとする相反と矛盾の解決は細分化していく過程を連続させるだけで、 解決という目的をえるためには、結局、どこかで折り合いをつけなければならないということになるにすぎない。 つまり、全体性からすれば、ひとの歴史過程というのは無秩序を増加させているだけのものにすぎない。 目的は、人類のための解決であるが、解決しようとすることがより無秩序を生み出しているということである。 いずれは熱死という状態へたどりつくことのあらわれである、エントロピーの増大ということなのである。 エントロピーとは、熱力学の第二法則で、現象の不可逆から生じるエネルギーの量をいう。 気体・液体・固体などの現象は時間を一方的にたどる不可逆をもっている。 氷は熱い湯の中へ入れれば溶けるが、溶けて水となった氷は自発的に分離して氷に戻ることは起こりえない。 このときの氷が溶けた状態をエントロピーの増大といい、 自然界ではエントロピーの総量が減少するような現象は起こらないとするものである。 何かを壊すとき増加する無秩序な要素は、熱死へ向かって増大し続けるのである。 ポルノグラフィの存在が歴史的に増大してきている傾向が意味していることも同じである。 人類は終末への道をころげまわりながら、重力のありようのままに落ち続けていくだけなのである。 人類が<進化>と呼んでいるものがそれまでのありようから発展させたものは、性と殺戮である。 すべての人類の文明と文化はこの上に成り立ってきたものである。 人間は異種へばかりでなく同種へさえも殺戮を行なう地球上にまれな種である。 また、人間は同種へばかりでなく異種へさえも性的行為を行なう地球上にまれな種である。 このまれであることが脳の発達にともない、手による道具の使用や言語の使用へと導かせたのである。 まれなありようとしての性と殺戮なくしては、人間は人間として存在しえないのである。 このように単純化すると、人間はそれほど単純なものではない、それは人類の成果を見ればわかることだ。 このように複雑な人類を相反として提示されることであろう。 人類が性と殺戮を存在理由として進化したなどとは、だれも信じたがらないのである。 それは人間はより良きものへ発展していくものであるという知欲があるからである。 さきほど、人間の生の本能の全体性と言った、性欲、食欲、知欲、殺戮欲の知欲のことである。 この人間にそなわる四つの欲望の本性は、そのありようとしては相互に相反と矛盾をもって並置している。 四つの目的は生存というただひとつのことでしかないが、そのありようは独立しているからである。 この四つの欲望の相反と矛盾があって、<荒唐無稽>というものが作り出されるのである。 <荒唐無稽>は知欲が行なう思考において認識されるわけであるが、 全体性的である<荒唐無稽>を知欲ひとつの窓で見ることにはかぎりがあるのである。 愛が受容力をもちながらも、作用力にかぎりがあるのも知欲のひとつのあらわれであるからにすぎない。 すなわち、この知欲というものも、善悪の二項対立へ発展するように、単一には収まらない欲望である。 同じことは食欲にも言える、草食だけでなく、肉食だけでもなく、雑食という相反と矛盾にある摂取の欲望である。 人間はその欲望するとおり、相反と矛盾をあらわにした複雑なものである。 複雑なものであるからこそ、性と殺戮が進化した人間の存在理由であると言い切れるのである。 なぜなら、人間が抱える<荒唐無稽>は<でたらめ>である、<でたらめ>はうさんくさいのである。 うさんくさいものは整合性があらわすものと正反対のものである。 では、性と殺戮が進化した人間の存在理由であると単純化することがどうして整合性とならないのだろうか。 人類は終末への道をころげまわりながら、重力のありようのままに落ち続けていくだけであっても、 それをみずからの手で終わらせることはしないからである。 殺戮欲の絶対性があって、みずからさえも殺す人間であっても、人間は生存を維持させようとするからである。 人間はその相反と矛盾の並置にある複雑さのために自己保存を最優先とさせるのである。 それを実現化させるための方法は、性と殺戮のありようによって始められるということである。 生まれ出るものは、成長し、成熟し、衰退し、死滅する、森羅万象すべてについて言えることである。 性と殺戮によって生まれ出るものが、文明として成長し、文化として成熟し、歴史として衰退し、死滅する。 人類史とはこれだけのことである。 ただ、その過程としての生のさなかにあることで状況を把握するから、成立して見えるだけのことである。 あとはどれだけ死滅することを引き延ばして生存し続けるかである。 六十歳の生まれたままの姿でいる女性が緊縛されて二十三歳の女性に若返るなどという愚にもつかないこと。 無邪気な一時の夢を見ることなのである。 いや、もっと過激な夢でもよい。 ポルノグラフィというのは、現実に成し遂げられない願望を成就させようとする性的志向の表現である。 現実には成し遂げられない願望であるということが最初の要件であって、 成し遂げられたことやありうることが表現されているポルノグラフィというのは、陳腐なだけの表現である。 陳腐というのは、かつてはこのようにあったという時間を表現しているだけのもので、 現在や未来において同じことを行ないたいとは思わせないありようのことである。 ポルノグラフィにおいては、生成される時間は超越されているのである。 その存在理由である<荒唐無稽>は、いっさいの無秩序をあらわすものであるから絶対的である。 ポルノグラフィの表現が歴史的に増加の一途をたどっているとすれば、 それは人類が熱死に至るエントロピーの増大をただ露骨なものとさせたというにすぎない。 ポルノグラフィの表現に接することで、現実に成し遂げられない願望にしばしの夢を見るということである。 現実は、終末への道をころげまわりながら、重力のありようのままに落ち続けていくだけなのである。 もう一度繰り返すが、 ポルノグラフィというのは、 現実に成し遂げられない願望を成就させようとする性的志向の表現である――― ―――その現実に成し遂げられない願望を成就させようとする性的志向の表現が、 もし、これまでにあった二項対立の価値観から生まれるものでなかったとしたら、どうであろう。 ポルノグラフィが<荒唐無稽>を存在理由としているというのなら、 その<でたらめ>こそが相反と矛盾の並置からの新たな全体性の表現を可能とするのではないだろうか。 また愚にもつかないこと、<荒唐無稽>へ想像力を走らせる。 可能性はあるのか。 それは試されてもよいのではないか。 これまでにそのような<荒唐無稽>な表現を試みた前例がないというのならば、 ここであらわしてもよいのではないだろうか。 <☆第1の階層 縄の導きに従って> ☆上昇と下降の館 |