――それ以来、典子は縛られて昇りつめるなどという淫らな妄念を打ち払って、 父親の介護費用と生活費の捻出のために会社勤めとアルバイトを懸命に行った。 その父親も彼女が三十六歳のときに脳溢血を再発して死亡した。 若気の至りで行ったともいえる過去が現実に存在したことをあらわす写真だった。 このようなものがどうして夫の書斎に、しかも丁重に桐の箱に収めれてあったのか。 彼女はめまいを覚えるくらいの衝撃を感じないわけにはいかなかった。 緊縛を扱った風俗雑誌は他にもたくさんあるというのに、 よりによってなぜその一冊が…… 夫と結婚してすでに五年が経っていたが、 この雑誌の存在をまるで知らなかったということが彼女に新たな疑惑を引き起こした。 そもそも、大学の教授職にあるという立派な肩書きをもつ人物が、 どうして女子大中退の身寄りもない中年女を妻に求めることができたのだ。 原稿をワープロ入力するアルバイトの募集に応じてこの家に来たのが初めてだった。 若い女性はいくらでも職を求めてくるだろうから、採用はとうてい無理だと思っていた。 けれど、彼は顔をあわせた途端、びっくりしたような表情を浮かべて、 いつから来てくれます、何なんだったら、いまからでもいいのですが、と言ったのだった。 それから、伺うたびに仕事の時間量を増やされ、彼が不在のときは留守番までさせられた。 帰りが遅くなると、戻ってきてから夕食に誘われ、そうした時間も含めて賃金は支払われた。 三ヶ月ほどが経ったある晩、夕食に誘われたレストランで求婚されたのだった。 典子には驚きだったというよりも、からかわれているのではないかとさえ思えることだった。 だが、彼は真剣だった、親で苦労させられたという似たような境遇を持っているばかりでなく、 思いやりの深い優しい人柄に残りの人生を共に生きたいと思わせるものがあるからだと言った、 そして、きれいだからとも付け加えたのだった。 典子にしてみれば、ただ顔をあからめてとまどうばかりのことだった。 歳は四十四にもなっていて、結婚などもうまったく無縁のことだと思っていた。 結局、彼の熱心さに心動かされて、承諾の返事をしたのはそれから一週間後だった。 典子は幸せだった、初夜のそのときまで童貞だった夫の夜は生真面目でぎこちなかったが、 彼女には自分を思いいたわってくれる者がそばにいてくれることが何よりもうれしかった。 そうして、何ごともなく五年が過ぎたのだった。 いや、何ごともなかったわけではない。 もしかして、あのひとは最初からわたしをあの雑誌の女だと気づいていたのかもしれない。 いや、そればかりではない、あのような雑誌を大事にしていることはSMに興味があるのだ。 典子はそう思い至った。そう思うと、夫の態度とあの雑誌の存在が辻褄の合う気がした。 夜の営みで夫がぎこちないのは普通のセックスでは満足できないからなのだ。 かつて別れた恋人が縄で相手を縛らないと勃起しなかったように、 あのひとも本当はわたしを縛りたいと望んでいる、ただそれが口に出して言えないだけなのだ。 突飛な思いつきだった、しかし、他に理由が考えられない、偶然ではありえないことだからだ。 どう対処してよいものか、彼女は思い悩んだ。 妻の沈んだ様子に気がついて夫は心配げに尋ねてきたが、 気を使われればそれだけ、悩みは解決のつかない袋小路へとさまよっていくのだった。 典子はついに決心を固めた、そして、それを夫の帰宅と共に実行したのであった。 彼女は彼の前に桐の箱に入った例の雑誌を出して、 掃除をしていて見つけたのですが、これは何なのですか、と問いただしたのだった。 夫はびっくりしていた、眼をまるく見開いて唖然としたまましばらく言葉がでなかった。 そうだよ、ぼくにはこういう性癖があったのだ、本当はきみを縛りたいんだ、 だって、きみは『終焉なき悪夢』に載っている女性そのひとのはずだ、 と言ってくるのを、彼女は期待と不安とが入り混じった思いで待ち受けた。 隠していてもいつか明らかになることなら、いま裁きを受けようと典子は思ったのだった。 だが、夫の切り出した言葉は全然違っていた。 まさか、それを見つけられるとは思ってもみなかった。本当にすまないと心から詫びたい。 きみという妻を持つことができていながら、まだ未練たらしくグラビアの女性を取っておくなんて。 本当に恥ずかしいことだ。本当にすまない。 もうこの際だから打ち明けて言うが、その雑誌の或るページの女性がぼくの支えだったんだ。 その雑誌と出会ったのは一九七三年頃だったと思うが、父親が亡くなって一番苦しい時期だった。 雑誌にある『終焉なき悪夢』という写真の女性モデルにぼくは恋をした。 ばかげていると思うかもしれないが、ピグマリオンだって自分の作った人形に恋をしたように、 猥褻な雑誌のモデルだからといって関係ない、ぼくの当時の境遇にしてみれば心ばかりでなく、 恥ずかしいが、身体の支えにもなってくれたグラビアの女性なんだ。 きみは侮辱だと感じるかもしれないが、きみと出会ったとき、きみが写真の女性と似ていたことが、 いや、似ている以上に現実のすばらしい女性であることが、どれほどぼくに幸福をもたらしたか。 本当にすまない、君というひとがいまありながら、そんな写真をいつまでも取っておくなんて…… 典子はあらためて愛を打ち明けられたようでうれしかった。 そうでしたの、そんな大事なものでしたら、思い出に取っておかれたらいいですわ、 と寛容な態度を示して、夫をますます好きになるのだった。 それから三日経った寝室でのことである。 典子はスリップとパンティを着けただけの姿で夫の前に立っていた。 あの雑誌の撮影のときに用いられたのと同じ下着を捜したものだった。 髪型もヘアーサロンへ行って当時のままにセットしなおした。 四十九歳という年齢ではみずみずしさはとうに失われていたが、 夫は妻の変身ぶりに感激していた。 その妻は恥ずかしそうに言った。 もし、あなたがお望みでしたら…… モデルさんがされていたように、わたしもされてもかまいませんことよ。 かたわらのベッドの上には、縄がおかれていた。 |
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