《 縛 め の 変 容 譚 》 『時と愛の寓意』 アンジェロ・ブロンツィーノ(1503−1572) 画 ヴィーナス、この世でもっとも美しい女性を意味すると同時にもっとも愛のありようを体現する女神。 その彼女が生まれたままの姿を後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた姿にある。 彼女の燦然とはなつ美と愛が陵辱されるのをあらわしている姿にいる。 しかも、その陵辱される生贄を差し出しているのは、いたずら顔の幼い息子キューピッドである。 彼が彼女を緊縛した縄尻を取っているのである。 荒涼とした灰色の大地を背景に、その地へ正面を向いてひざまずかせられたヴィーナス。 金色に波打つ長い髪の柔和さは抜けるような純白の柔肌とあいまって芳香さえ匂い立つようであった。 大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇からは甘い吐息のぬくもりさえ伝わるようであった。 愛らしい乳首をつけたふっくらときれいな乳房と永遠を描くような優美な曲線にふちどられた肉体の栄光、 その壮麗な肉体に荒々しい麻縄が掛けられているのであった。 自由を奪われたあかしのように両手を背後にまわされて後ろ手に縛られ、 両腕をさらに不動にさせられるかのように雁字搦めに幾重にも縄を巻きつけられ、 美しいふたつの乳房は上下の縄にはさまれて、 まるでみだらな思いをあらわすかのように乳首をとがらせて突き出させられているのだった。 美と愛の永遠の守護神たるヴィーナスの尊厳は、その顔立ちと姿態に申し分なくあらわされていたが、 緊縛された姿にあるということで、その美貌と肉体は魔性の誘惑をもつものであることも示されているのであった。 そのような女神の相反・矛盾したありようを如実にさせているのは、彼女を緊縛している縄尻を取る者の存在だった。 背中に小さな羽を生やし、可愛らしいペニスをのぞかせた、あどけないいたずら顔の裸姿のキューピッドである。 彼はヴィーナスのとなりに立ち、画面のこちらへ向かって彼女を差し出すように、縄尻をもたげた仕草を見せている。 キューピッドの存在がなければ、或いは、被虐の姿にある屈辱的な美神として見ることもできたかもしれない。 だが、キューピッドの女衒のような存在感は、淫欲の受容者としてのヴィーナスをあらわにさせているのだった。 しかも、キューピッドのペニスが心なしか立ち上がっているように表現されていることに及んでは、 ヴィーナスの愛美の神聖と官能の淫蕩は相反・矛盾しながらもひとつにあるものだと感じざるをえなかった。 それは、彼女の白くふっくらとした股間にのぞく神秘的な黒い亀裂が、 天上の神聖と地上の淫蕩という遠近の焦点を合わさせていることでもあるようだった。 ふたりの彼方の地平には、太陽が顔をあらわしているのを見ることができたが、 それが曙光なのか、日没の光なのか、灰色の荒涼とした雰囲気からは区別のつかないところがあった。 その全体性が伝えてくるものは、物語はこの場面から始まるといった印象だったのである―― このようなありさまを見事に描いた絵画作品を前にしたとき、その作者の存在がどうしても気になるところだった。 展示を行っている画廊主へ問いかけたところ、作者はこの作品を描き上げた直後、病死したとのことだった。 つまり、この絵は遺作ということだった。 だが、こちらが熱心に作品の素晴らしさを語るほど、老齢の画廊主は快い反応を示さなかった。 「お客さまが言っておられるような傑作なら、もっと早い時期に評価されたのではありませんか。 このような主題の絵画は、所詮、あぶな絵のジャンルに収まるのがせいぜいのところです。 エロスがあからさまになることは一般には嫌われるものなのです、 ポルノグラフィというのは隠されてあることにその存在理由をもっているのです。 あからさまにされたポルノグラフィなど、意味のないものです、すぐに飽きられてしまいます。 隠されてあるということは、その所有者独自の価値があってのものだからです。 いえ、この作品がポルノグラフィだとは言っていません。 この作品にお客さまがおっしゃるような深い意味があったにしても、 一般の方々が鑑賞なされるかぎりは、猥褻としか思われないということです。 こうして、ほかの一般的な主題の作品と並べて展示するようなことは、すべきではないのかもしれません。 言うなれば、私の思い入れのあらわれというだけで、見たいと望む方だけに見えれば、それでよろしいことです。 お客さまは、見たいと望まれたから、そのようにお楽しみになることができたのです」 作品を否定しているとも肯定しているともつかない言いまわしであった。 もっとも、この画廊に来る客というのは恐らくなじみの人々だけであることは、雰囲気から察することができた。 思い付きから飛び込んできたような者は、かえって迷惑だと思われているのかも知れなかった。 だが、画廊主は親切にも、作者には家族があったはずだと言って、名簿から連絡先を調べてくれるのだった。 そうして教えられた電話番号だったが、現在使われていませんという案内が応えるだけのものだった。 思い切って住所の方を訪ねることにした、場所は世田谷の砧というところになっていた。 描かれたヴィーナスの美貌と姿態と縄で縛られたありさまを思い返すたびに、 その姿への思いは胸が締めつけられるようなものさえ感じさせるほどになっていたのだ。 住所のとおりに住まいは存在した。 古めかしい煉瓦造りの家だったが、門構えもきちんとしていて立派な住まいだった。 インターフォンを鳴らすと、落ち着いた声の女性が応じた。 画家について少し尋ねたいことがあるので、お話させて頂けないだろうかとの問いに、 しばらくの沈黙があったあと、短いお時間でしたらということで、鉄柵の門が開かれた。 玄関からあらわれた女性を見た瞬間、思わず総毛立たずにはいられなかった。 あの絵に描かれたヴィーナスと瓜ふたつと言っていい、優美な姿態をした美貌の若い女性が眼の前に立ったのだ。 画廊主から画家の年齢は六十歳には達していたと聞かされていたから、恐らく、娘に違いなかった。 だが、その女性は、「妻の百合と申します、どうぞ、お入りなってください」と言って案内するのだった。 なかは外観同様に古めかしかったが、きれいに整頓され清潔な感じがした、かすかな芳香さえただよっていた。 そのかぐわしい香りが妻と名乗った美しい女性からかもしだされてくるのは間違いなかった。 居間へ通され、テーブルをはさんで向かい合わせに腰掛けた。 短い面談ということで、お茶の接待のない失礼を詫びるのだったが、 美貌と優美な姿態もさることながら、しとやかな物腰と落ち着いた澄んだ声音も美しさをただよわせていた。 このような絵にでも描かれたような至上の美しさをもつ女性が現実にいるなんてことが信じられないほどであった。 何から尋ねてよいものやら、頭のなかは真っ白になってしまって、ただ相手を見つめることしかできなかった。 画家の妻は、そうしたこちらの様子に対して、膝に両手を置いておとなしく言葉を待っているだけであった。 閑静な住宅地にあった古めかしい家の居間に立ち込めた沈黙は動作さえも静止させるものだったのだ。 それが、どのくらいの時間、続いたものかわからない。 最初に言葉を発したの彼女の方だった。 「主人が亡くなってから、はや、二十年になります。 主人の描いた絵を憶えていてくださる方がまだおいでになるなんて、感激の至りでございます。 どうか、お時間のお許しになるかぎり、ここにおいでになっていてください……」 言われた意味がつかみ取れなかった。 眼の前の女性はどう見ても、二十歳なかばにしか見えなかった。 短い時間の面談しか許されないと言ったのも彼女のはずだった。 「ご主人は二十年前に亡くなられたのですか、それでは、あの遺作は二十年前の作品なのですか。 それをいま展覧会へ出品なされるというからには、やはり、奥様にも深い思い入れがおありの作品なのですね」 相手の艶麗な美の存在感にしどろもどろの調子なって、やっと話に応じているという状態だった。 画家の妻は、ほとんど表情を変えない美貌をこちらへ向けたまま、落ち着いた調子で答えた。 「もちろん、あの遺作には、思い入れはあまりにも深くございます…… ましてや、作品は火事で失われてしまったのですから……」 またしても、総毛立たずにはいられない言葉だった。 「えっ、私は、昨日、銀座の画廊でご主人の絵を見たんですよ、それで、今日、お伺いしたのですが……」 妻はじっとまなざしをこちらの方へ向けると、首を左右に振りながら言うのだった。 「そのようなことは、ありえません。 買い上げられたことの一度もなかった主人の作品はすべて火事で消失したのですから……」 「しかし、しかし、私は見ましたよ、 縛られたヴィーナスがキューピッドに縄尻を取られているあの素晴らしい絵を! ……恐らく、あの美しいヴィーナスは奥様がモデルなのではありませんか…… お目にかかったときから、そのように感じていました…… 初めてで、不躾な物言いをどうかお許しください、 私はヴィーナスのモデルがどなたであるかを知りたくて、こちらを訪問したかったのです……」 ひどく興奮した語調になっていた、事実を伝えたいためだった。 だが、どちらの事実か、判然としないものがあった。 画廊で素晴らしい絵を見たことの事実か、絵のヴィーナスに心惹かれてこの家を訪れたことの真実か。 「あのヴィーナスとキューピッドの絵は、確かに主人の最高傑作でございました、 しかし、それは消失されたものです、それは事実でございます。 そのとき、私たちは、かけがいのない幼い息子までも失ったのですから……」 その美しい顔立ちには、息子の死を告げるときでさえ、表情の変化がまったく見られなかった。 何がなんだかわからなくなっていた、このような非現実的なことがあるのだろうか、 それとも、眼の前の美しい女性はでたらめを言っているのだろうか、或いは、こちらの頭が狂ってしまったのか。 だが、そのようなことは、どうでもよいことのように思えた、 この美しい女性とふたりきりでいられることがもたらす、胸をつまらせるような幸福な思いに比べれば、 だれにも邪魔されずに永遠に続く時間をひたすら望ませ、 抱いた永遠をぶち壊されることを心の底からおびえるようなはかなさにあって、 ただ、すがることができるのは、輝くばかりの女神の美しさのみというおのれのありようが……。 「あなたは、この私に会いたいために、ここにおいでになったとおっしゃるのですね。 そのように言っていただけることは、光栄なことに存じます。 あなたのような方がいつかはいらっしゃるものと、アトリエもあのときのままにしておいた甲斐もございます。 どうぞ、ご覧になってください、あの傑作が生まれた場所を……」 ヴィーナスのモデルはしなやかな姿態を立ち上がらせるとさっさと居間を出て行くのだった。 その立ち振る舞いは、こちらの存在さえも無視した、どこか超然としたものを感じさせた。 彼女のあとに従って、廊下を奥へと向かったところに扉がひとつあった。 扉の前まで来ると、それまで家のなかに感じていた静寂は沈黙に近いものに変わっていた。 彼女は鍵を使って扉を開いた、なかへ入ると、扉を閉じて鍵をかけたが、 そのような所作が気にならないほど、室内の光景は圧倒的なものだった。 あの絵画にあったのとまったく同じと言っていい、灰色の荒涼とした大地がそこに広がっているのだった。 部屋の実際の大きさはどれくらいのものであったかはわからないが、 天井は天空のような高さを感じさせ、大地は遥か彼方に地平線を思わせるような遠近があったのだ。 思わず見とれたままでいると、ふと、気づいたときには、そこに彼女の姿はなかった。 荒涼とした大地にひとり立たされ、途方にくれた思いがした。 慰めは彼女への思慕の念にあるということをつくづくと思い知らされた。 「ヴィーナス!」 求めるように大声で叫んでいたのだろうが、感じられるのは恐ろしいくらいの沈黙だけだった。 「ヴィーナス!」 もう一度叫んでいた、だが、答えるものは何もなかった。 やがて、地平の彼方からこちらへ向かってやってくる人影が見えるような気がした。 それは次第に大きさを増して、長い衣をまとった女性が小さな子供を連れて歩いてくるのだということがわかった。 はっきりと顔立ちを知ることのできる距離まで近づくと、思わず叫んでいた。 「ヴィーナス!」 眼の前に立った美と愛の女神、 大きな瞳をなまめかしく輝かせ、開き加減の美しい唇からは甘い吐息のぬくもりを伝え、 金色に波打つ長い髪の柔和さは、抜けるような純白の柔肌とあいまって匂い立つ芳香に満ちている女。 「あなたのお望みのとおり、私は参りました。 あなたのお望みのとおりの姿になって、あなたに愛でられるために、私は私をあらわすのです」 澄んだ美しい声音が威厳に満ちた響きをおびて聞こえてきた。 ヴィーナスは純白の長い衣をまとっていた。 その衣をそばに一緒についてきた裸姿のキューピッドが一気に剥ぎ取った。 ヴィーナスはみずから衣を脱ぎ去ることができなかったのだ、彼女の身体には縄が掛けられていたのだ。 愛らしい乳首をつけたふっくらときれいな乳房と永遠を描くような優美な曲線にふちどられた肉体の栄光、 その壮麗な肉体に荒々しい麻縄が掛けられているのであった。 自由を奪われたあかしのように両手を背後にまわされて後ろ手に縛られ、 両腕をさらに不動にさせられるかのように雁字搦めに幾重にも縄を巻きつけられ、 美しいふたつの乳房は上下の縄にはさまれて、 まるでみだらな思いをあらわすかのように乳首をとがらせて突き出させられているのだった。 その緊縛されたヴィーナスの縄尻を、背中に小さな羽を生やし可愛らしいペニスをのぞかせた、 あどけないいたずら顔のキューピッドがしっかりとつかんでいるのだった。 遠目に見たときは、ヴィーナスがキューピッドの手を引いてやってくるように思えたことは、 幼い息子に縛られた裸身の縄尻を取られて引き立てられた母の姿だったのだ。 「どうして、そのような姿に、あなたはそのままでも充分すぎるほどに美しいというのに!」 言葉が沈黙となるように、疑問も答えとなるように、意味がないことはわかっていたが、叫んだ。 「あなたが望んでいられることを、どうしてあなたが否定なさるのですか。 あなたがご覧になりたい私は、もっとも崇高な美のなかに、もっとも卑俗とされる淫欲が存在する私。 私が縛られてどのような淫蕩な姿をあらわしても、私にある至上の美を見ることがあなたにはできること。 なぜなら、卑俗な淫欲など存在しないからです、あるのは官能……聖なる官能があるのみだからです」 あからさまにさせた彼女の白くふっくらとした股間にのぞく神秘的な黒い亀裂が、 天上の神聖と地上の淫蕩という遠近の焦点を合わせたような言葉だった。 「そうです、望まれれば、愛しきわが幼子にさえ、私を捧げることにやぶさかではないのです」 神聖の傲慢とも受け取れるような発言だった。 緊縛された母の縄尻を取った、いたずら顔のキューピッドのあどけないペニスも思わず立ち上がるのだった。 「だが、われわれは神ではない、人間だ。 神には許されても、人間には許されない尊厳というものがあるはずだ」 ヴィーナスの愛美の神聖と官能の淫蕩に、このままずるずると引き込まれていくのがただ恐ろしかった。 「何をおっしゃいますの、あなたがお望みになるように私はなりますと申し上げたはずです。 あなたが望まれているから、私がこのようにあるのです、私はあなたのヴィーナスなのです。 私を淫蕩に取り扱おうと、神聖に取り扱おうと、あなたのお望みになるまま。 私は、自由を奪われ、愛しきわが子に縄尻を取られた屈辱な姿にあって、生贄としての身を差し出しているのです。 愛るするも愛さないも、あなたの思いのままひとつ、それこそが私のヴィーナスとしての尊厳なのです」 女神は、縄で荒々しく緊縛されたしなやかな姿態をもどかしそうにしながら、大地へひざまずいていくのだった。 それは、あの絵で見た光景そのままのものだった。 いや、そのような絵が描かれれば、傑作になると思えるものだった。 そのときだった、突然、天井が割れて、めらめらとした炎のかたまりが落下してきたのだった。 炎のかたまりは、みるみるうちに落下の数を増し、あたり一面が燃えさかった。 「ヴィーナス! キューピッド!」 叫び声を上げた、だが、言葉は沈黙となるだけだった。 そして、ヴィーナスとキューピッドは何事もないかのように、縄でつながれたままそこにいるだけだった。 炎はついに眼の前を覆い、真っ白なキャンバスのようなものが見えるだけになった。 ――気づいたときは、銀座四丁目の交差点の雑踏のなか、白日の燦々とした太陽の下にあった。 あのヴィーナスとキューピッドの絵が本当に存在したものなのか、確かめねばならなかった。 展示の行われていた画廊へ足は向いていた。 だが、行ってみたところ、その絵だけが展示されていなかった。 実は、画廊へ向かう途中、恐らく、絵はそこにはないだろうと確信のようなものが湧き起こっていた。 老齢の画廊主とふたたび話すことができた。 画廊主は初対面の客には快い応対をしないといった感じで答えた。 「お客さま、そのようなあぶな絵に属するような作品を一般の作品と並べて展示する画廊はないと思います。 お客さまはこちらで見たとおっしゃいますが、それではまるで私どもの見識を疑っておいでのことのようです。 私どもは、残念ながら、あぶな絵のジャンルのお取り扱いはございません。 どうか、お客さまの勘違いと、お考えになっていただけたらと存じます」 画廊主のまったく言うとおりのことだった。 存在するわけもない絵画作品を展示することなど、不可能だったのだから。 彼女が言ったように、あの傑作はとっくに火事で消失されたのだから。 嘘ではない、私は二十年前にその絵を描こうとした画家だったのだから。 |
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