借金返済で弁護士に相談




ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、
自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。
フランツ・カフカ 『変身』 高橋義孝訳 新潮社

1916年、このような人間宣言が成されたとき、われわれはすでに現代の相克を意識していたのである。
人間が植物や動物、或いは、昆虫、引いては、鉱物などに変身するという考え自体は新しいものではない。
人類の創始以来、不明の存在理由を意識する人間にとって、自分よりも確固たる存在感を持つ対象は、
すべて変身可能なものとして、より強い生命のありようという憧憬を持って見られてきたことであったからだ。
ところが、カフカの主人公・グレゴールは、その異形において、
<人の注意を逸らせるものがなにもなくなった死>に至るという自己完結を示すのである。
人間がより強い生命を憧憬するありようは、現代という機構のなかでは、置かれる場所がないということである。
われわれは現代の機構のなかで、生きているのではなく、生かされているというだけに過ぎないのである。
より強い生命のありようを憧憬すれば、相克せざるを得ない現代に生き続けるほかないということである。

そうは言ったって、現代の機構に組み入れられることをしなければ、職を得ることはできない。
職がなければ、収入もありえない、というのが現代の市民と言うことではないのか。
収入もなく、食べる物も口にできなければ、『変身』の主人公のような自然な死が待っているだけではないのか。
少なくとも、現代の機構に組み入れられた場所で生きていこうとするならば、あたりまえのことではないのか。
人間はひとりでは何もできない、群棲することで、初めて人間のありようを生きようとするものだ。
群棲することが現代の機構を作り上げているものだとしたら、それこそ、人間を生かさせているものだと言える。
そのなかで味わう人間の織り成す喜怒哀楽、ちょっと危険で秘密めいた恋愛の発展と性の解放、
人間は不確かなものであるからこそ、その謎が物語になり、映画になり、ゲームになり、芸術になる。
それらを安心して楽しむことができるとしたら、それこそ、現代の機構に組み入れられていることのおかげによる。

成瀬薫が獲得した新しい就職は、一定の収入と社会的位置付けを明らかにするものだった。
彼はそのように信じたからこそ、
常識では考えられないような破廉恥な面接試験、福島の研修所へ同行した美しい女性秘書との愛欲行為を、
まるでひとつの物語の主人公のように、成り行きまかせの非現実的な大胆さで実行することができたのであった。
そうでなければ、当初からの非現実的な物語的展開に、常識的に従っていけるわけがない。
一般に読まれるための小説には、最低限のきまりがあり、そのきまりとは現代の機構を踏まえたものである。
推理、幻想、恐怖、官能のいずれにおいても、それを前提の舞台として展開されるものでなくてはならない。
これを虚構のリアリズムと言うが、そのリアリズムを支えているのは、既知に起こり得た事実というものである。
従って、起こったこともないようなことを表現しようとすれば、物語は破綻を示さざるを得ない。

破綻している物語であるにも関わらず、続けられていくとしたら、願望か憧憬の表現でしかない。
物語は、嘘とでたらめと荒唐無稽による非常識的・非論理的・非現実的な戯れと化すことになるだろう。
このような前段から入るのは、実は、成瀬薫が目をさましたときの印象がグレゴールと似ていたことによる。
成瀬の場合、気がかりな夢を意識したが、その気がかりさは、かなりはっきりとした像となってあらわれていた。
……小さくてぶよぶよした白い肉塊
……淀んだ水のなかに浮かぶ
……押し流されていく
……真っ赤な下水
……淀んだ水のなかに浮かぶ小さくてぶよぶよした白い肉塊が真っ赤な下水へ押し流されていく……。
このようなはっきりとした像が頭のなかにあった。
次に考えたことは、最後はどのように収拾をつけて終わりになったのか、まったく記憶になかったが、
れい子と少なくとも十回は交接に及んだという熱い思いであった。
彼女によって熱烈に執着された陰茎は、放出を重ねられた痺れから無感覚になるくらいの快感を感じさせられた。
快感はあっても、陰茎は失われてしまったのではないかというくらいの気持ちのよさであった。
生まれて初めて味わった、一度しかないというような体験であった。
だが、それはまた、不倫を成し遂げたという初体験でもあって、それが秘める不安も感じさせていた。
妻の麗子に悟られない限りは、言い訳を考える必要はないだろうが、もし、れい子が妊娠でもしたら……。
かつて、コンドームを装着しなかったことの非から堕胎させたように、
今度も同じことをしなければならないことを考えると、不安はいや増しに募ってくるのであった。
淀んだ水のなかに浮かぶ小さくてぶよぶよした白い肉塊は真っ赤な下水へ押し流されていくのだった。
このような淀んだ不安感から眼を開かされた現実との出会いであったから、、
彼は、自分が横たわっている場所がホテルの一室ではないという違和感がすぐには受け入れられなかった。
まなざしを動かして見える光景は、白い天井、白い壁だった。
眼を落とすと、自分の身体も真っ白なシーツに包まれているのがわかった。
まるで病院の一室にいる、という連想が一番ぴったりとした感じだった。
耳の奥がきい〜んとするくらい、空気さえも微動だにしないような静寂が漂っていたが、
どうしてここにいるのだろうか、という疑問がようやく首をもたげ始めた。
と同時に、片方の手がおもむろに太腿へ触れた。
もしかすると、下着を着けていないのでないかという漠然とした感触があったが、
確かにブリーフはなかった。
上の方もそうなのかと胸のあたりへ触れたときだった。
頭上から貫かれるような激しい衝撃が見舞った。
触れたのは、柔らかな感触のふっくらと盛り上がった乳房だったのである。
恐る恐る、もう片方の手も、もう一方の胸へあてた。
間違いなく、ふたつの豊満な乳房がそこにあったのである。
信じられないという思いは、身体全体を小刻みに震わすほどの驚愕を感じさせていた。
下腹部の箇所へ手を持っていくことは、驚愕を超えた感情を呼び覚ます以上、
心の準備なしには、すぐにできることではなかった。
と言うのも、すでに触覚として、下腹部にあるべきものがないと意識させられていたからだった。
手を持っていくことは、それを実証するということにほかならなかった。
不安は驚愕へと転化し、それがいまや恐怖へと変貌していた。
どうしてこのようなことが起こったのか、
という疑問が湧き起こる余地など、込み上がった恐ろしさの前にはなかった。
これは、気がかりな夢どころではなく、悪夢そのものであると思うには、
ふたつの乳房は余りにもふっくらとしていて、手に馴染むくらいの柔らかさを示し、
指先で触れる乳首は愛らしいほどの感触で、しかも、くすぐったい気持ちよさを伝えてくるものであったのだ。
下腹部には、男性を象徴するものがないどころではなく、女性を実在させるものがあることは確実だった。
成瀬は、そこへ手を触れることができないまま、横たわっていた場所から半身を起こす決心をするのだった。
そして、身体を起こして見たものは、
ベッドの上に身体を起こしている、否定のしようのない女性の姿だったのである。
足もとの方の壁に等身大を映す大きな鏡があり、
まるで、その事実を理解するのは、
それ見た当人が最初であるというくらいの明瞭な鏡像が示されていたのだった。
恐怖は、その鏡像を眺めているうちに、驚愕へと後ずさりし、不安へと逆戻りしていくものとなった。
自分の見つめている姿が本当に自分の姿であるのか、
という底知れない不安は、ふくらんだ胸をさらにふくらませるくらいの激しい高鳴りを呼び起こしていた。
鏡のなかから自分を見つめている女性の顔立ちは、どうみても、二十七・八歳くらいにしか見えなかった。
美しい眉に大きな黒目がちの瞳、通った鼻筋にきれいな形をした唇、
清楚で愛らしい感じのする美貌と言えば、紋切り型か常套句であるが、
はっと惹きつけられる美貌であったことは確かだった。
その顔立ちを栗色をしたウェーブのかかった豊かな髪が縁取っていたが、
髪の柔らかな感じは夢幻の艶やかさをかもしださせ、表情を妖艶なくらいに際立たせているのであった。
清楚な顔立ちに妖艶な表情、一見相容れないような感じが同居している不思議な魅力があったのである。
どちらかと言えば好みのタイプの顔である、と彼が感じたほどのものだったのである。
真っ白なシーツに包まれている身体がのぞかせる、
ほっそりとした優しい感じの首筋、なめらかな胸もと、なよやかな両肩は、
乳色をしている柔肌を輝くばかりにしっとりと映らせていた。
男であれば、その下までものぞいてみたいと思わせるほどのなまめかしさをあらわしているのだった。
それは、成瀬がシーツを剥ぎ取りさえすれば、容易に見ることのできるものだった。
だが、鏡に映る女性は、そうされることは恥ずかしいとでも言わんばかりに、戸惑いの表情を浮かべていた。
男としての自分が、女の裸身を無理やりあからさまにさせることが恥ずかしいことなのか、
女としての自分が、男から強引に裸身をあからさまにされることが恥ずかしいことなのか、
成瀬には、どちらともつかない思いが湧き起こっていること自体、混乱させられるばかりのことだった。
鏡の女性も、複雑な表情をあらわしながら、じっとなったまなざしでこちらを見つめるばかりでいた。
自分というものの所在は、ただ、自分という意識が点滅しているだけの状態に過ぎない。
心と呼ばれる不明の暗闇のなかで、それが点滅している限りは、自分という所在もわかっている気がする。
ところが、心が明白な明るさとなり、そのなかで点滅していることだとしたら、どうだろう。
自分というものの所在は不明になる、つまり、心と呼ばれるものが明白になれば、自分というものは存在しにくい。
心と呼ばれるものが解き明かされない謎としてあるならば、それは、人間が自分の所在を保有していることである。
心と呼ばれるものが、あたかもそうであるがのごとくに操作されれば、自分の所在は極めて希薄なものになる。
成瀬がそのとき、このようなことを考えていたわけでは当然ないが、
彼の場合の所在の不明は、自分というものの複数から由来していることであった。
つまり、簡単に言えば、ひとつを選択すれば解決するということであった。
われ思う、故にわれあり、という実在論へ展開すれば、現代に至る哲学的発展を見ることができたかもしれない。
ところが、これはポルノグラフィである。
残念ながら、形而上学的領域のみを扱って展開を求めるわけにはいかない。
下世話で、卑俗で、猥褻であることに存在理由を持っている限り、助平なこともしなければならない。
ひとえに作者の想像力と表現力と言語力に力がないために、このような相反・矛盾する表現の同居という、
何とも洗練されていないありさまを露呈するばかりことであるが、このような方法も当然に過渡期のもの、
いずれ優れた表現があらわれることで、形而上と形而下の婚姻表現は上手な交接が行われるものと思う、
と余談を書いている暇があるほど、成瀬の混乱はどっちつかずに揺れ動いているものであった。
男としては脱がせてみたい、女としては脱ぐのは恥ずかしい。
要するに、脱ぐのか脱がないのか、はっきりしろ、ということに尽きるのだが、
彼は、よく言えば、女心のようなゆらめき、悪く言えば、女の腐ったみたいな優柔不断を示しているのだった。
では、男心の決断としては、さぞ立派なものがあるに違いない、と誰しもが思う。
しかし、ここで、男性のよく行う無造作のように、シーツを蹴り飛ばす勢いで剥いで見せたところで、
男心はどこか納得できる部分があるかもしれないが、美しい女が行うには醜態としか見えないものだった。
彼が混乱させられているのは、
眼の前に映し出されている女は、自分の知っている限り、自分ではないかもしれないが、
自分であると仮定したら、自分であって決して悪くはないと思えるほどの好ましい感じがあったことだった。
その好ましく美しい女がその美しさを台無しにするような粗野で乱暴な振る舞いをするなんて……。
ほかに誰も見ている者のいない部屋で、自分の裸姿をあらわにさせるということが、
これほどまでにどきどきさせるものであるかということを、生まれて初めて知った思いだった。、
心臓は激しく高鳴り、顔はほんのりとした桜色に染まっていた。
その表情の愛らしさと言ったら、惚れてしまいたいくらいの女らしさを感じさせるものがあった。
ああっ、と成瀬は思わずため息をもらしてしまった。
そのきれいな声音は、悩ましくて可愛らしくて、自分でもはっとさせられるくらいの快い響きだった。
もう、わからなくなっていた。
自分が女性の姿にあるというのは確かなのだろうが、それはとんでもないことであるのだろうが、
その現実、これが夢でなければ、この現実が示していることは、
自分が女性の姿にあることが不快感を与えるものではなかった、ということだった。
それは、ありえないことが起こったという当惑や疑問以上に、実感を伴ったものとしてあったからだった。
美しい女が美しい裸身を見せるには、美しく見せる仕方がある。
少なくとも、自分が納得のいく仕方であらわにさせなければ気が済まない、という思いにさせるのだった。
成瀬はベッドの上へ立ちあがった。
見つめる者と言えば自分自身しか存在しないことがわかり切っていながら、
あたかも見られていることを意識するような具合に、
身体を包んでいた真っ白なシーツをほんの少しずつ肌からすべらせては止めて、
乳色に輝く裸身を勿体ぶってさらけ出させていくのであった。
まるで、ストリップ・ティーズである。
彼は、どうしてそのような自尊心を掻き立てられるのか、わからなかったが、そう行うことに自信があった。
顔立ちのこれほどに魅力的な女性であれば、身体も劣らずに素晴らしいものであるに違いないという……。
覆われていたシーツが剥ぎ取られ、あらわにされたのは、生まれたままの姿にある成熟した女性の姿態だった。
ふっくらとした形のよい乳房は可憐とも思える薄紅色の乳首をつけ、可愛らしい縦長のお臍、
しなやかできれいに伸びた両脚、なめかしい柔らかさを感じさせる白い太腿、流麗な線を描く両腕と両手、
それらが女らしさの麗しさとはこのようなものだと言わんばかりの優美な曲線に縁取られてあるのだった。
いや、それよりも何よりも、これ見よがしにさらけ出させている全裸の中心的な輝きの存在だった。
彼がまさに、ヴィーナスの誕生と思うように生まれたままの姿だと感じたのは、
その下腹部には覆い隠す陰毛の翳りがなく、剥き出しにされふっくらと優しく盛り上がった箇所には、
深々と神秘的でさえあるくっきりとした割れ目があらわされていることだった。
その清楚な顔立ちに妖艶な表情を漂わせた美麗な姿態の女の圧倒的な存在感は、
男だったら絶対にものにしたいと思わせる、女そのものを感じさせていたのだった。
男だったら?
輝くような溌剌とした表情を浮かべていた鏡の女に、戸惑いと恥じらいと不安の影が広がった。
自分は自分であると感じている限り、間違いなく男性であるはずだった。
だが、自分の感じている現実の感覚は、いま眼の前にしている、女性そのものであった。
いったい、これはどういうことなのだ? 
それに、いったい、ここはどこなのだ?
茫然となったまま、成瀬は、裸姿を晒してベッドの上へ立ち尽くすばかりになっていた。
「どお、自分でも惚れ惚れとするくらい、
美しい顔立ちにきれいな身体をしているでしょう……」
突然、背後から聞こえた。
室内に響くはっきりとした声だった。
成瀬は、思わずしゃがみ込むと、シーツを掻き抱いて身体を覆い隠そうとするのだった。
「あら、あら、そうして恥じらいを見せるところは、もう、本物ね。
さすがは、選ばれていらっしゃった方だわ……」
部屋の片隅にあった扉からあらわれたのは、引詰めた髪型に黒縁の眼鏡を掛けた白衣姿の女性だった。
彼女は、彼が横座りになっているベッドの前まで来ると、皮肉な笑みを浮かべながらまなざしを投げた。
彼は、上目遣いにするのもためらわれていた、裸でいることがたまらなく恥ずかしかったのだ。
「そんなに恥ずかしがらなくても、いいわよ。
女同士でしょう。
あなたの生まれたままの姿は、あのマジックミラーの向こうから、しっかりと見せて頂いたわ。
わたしでさえ嫉妬を覚えるくらい、あなたの容姿は完璧な美しさをあらわしているわね。
あら、申し遅れたわ……
わたしは、研修教官の安藤恭子、よろしくね」
そう言って差し出された手を、成瀬は、握手をしてよいものかどうか、迷っていた。
当然のごとくに決めつけてくる言い方が反発心を起こさせるのだった。
まるで、やり手の女医を絵に描いたようなすらっとした背丈の三十五・六歳の女は、
ベッドの端へ腰をおろすと、俯いている彼の顔をのぞき込むようにして言うのだった。
「握手もしてくれないなんて、すねているような、随分と可愛らしい仕草もするのね。
わたしが教えるところなんか、もう何にもないんじゃない? 
あなたはすでに完璧な女性なのかも……。
どお、返事くらいしてくれたら、か、お、る、さん……」
彼は、自分の名前を念を押すくらいに強く発音する相手に、思わずまなざしを向けた。
教官を自称した女性の顔は、触れるくらいの間近にあった。
彼女は、成瀬の顔立ちをいとおしいものでも見るように、眺めまわしているのだった。
彼は、むらむらとした怒りさえ込み上げてくるのを感じた。
「ど、どうして、ぼくは、このような姿になっているんだ?
それに、いったい……いったい、ここはどこなんだ?
どうして、きみはぼくの名前を知っているんだ?」
激しく叫ばれた言葉は、きれいな女性の声音を響かせていた。
相手は、皮肉な笑みを浮かべながら、はっきりと答えるのだった。
「口をきいてくれたのはいいけれど、その喋り方はよくないわね。
きれいな女の子が男っぽい喋り方をするのは、ときには可愛らしい感じもするけれど、
あなたみたいな年齢の女性がそのような口のきき方をしたら、まったく艶消しね。
うんざりさせられてしまうわ。
人間というのは、外見にふさわしい口のきき方をするものなの。
品のない顔付きや格好をしているひとは、品のない喋り方をするものなの。
あなたは顔立ちも身体付きも惚れ惚れとするくらいにきれいなんでしょう、
だったら、きれいに聞こえるような喋り方をなさい」
「そんなことを聞いているんじゃない!
ぼくが聞いたことに、すぐに答えろ!」
彼は、思わず怒鳴りつけるような調子になっていた。
しかし、相手はたじろぎもせず、皮肉な笑みを浮かべるだけだった。
そのひとを小馬鹿にしたような表情は、怒りをますます焚きつけてくるものでしかなかったが、
吐き出された声音には、脅しつけるような冷たく重い感じが漂っていた。
「わたしが喋っているんでしょう。
わたしが喋っているときは、あなたは黙って聞くの。
わたしはあなたの教官だと言ったでしょう、
わたしは教官、あなたは生徒、それをわきまえなさいね。
それに、あなたは、わたしが話しているそばから、わたしの言ったことを反故にしているわね。
初めてのことだから許すけれど、この次同じような男の口のきき方をしたら、容赦はないわ。
女として恥ずかしい仕打ちをされることを覚悟しなさいよ。
わかったかしら? 
わかったら、返事をして」
彼は、ふてくされたように、押し黙ったままでいた。
女として恥ずかしい仕打ちをされると聞かされて、
このような女性の姿にあって、生まれたままの無防備な素っ裸にあって、
か弱い存在であることを思い知らされたようで、悔しかった。
「何よ、今度はふてくされた素振りをして見せるの。
まったく可愛いいことをするじゃない。
まあ、最初だからいいでしょう。
あなたの質問にはきちんと答えてあげるから、安心なさい。
わたしは、あなたがしっかりと研修を受けてくれるのであれば、何も恐いところがない、よい先生よ。
わたしも、これが仕事なの、あなたが研修を受けることが仕事のようにね。
これで、ここがどこか、あなたにもわかったでしょう。
プロジェクトT・エンタープライズ社の福島研修所、あなたはその誕生室にいるわけね。
誕生室とは文字通り、女性として誕生したひとが最初に寝かされる部屋、わかったかしら?
次に、あなたの質問だけれど、どうしてこのような姿になっているかって?
そのような質問、残念ながら、わたしのような凡人にはとても答えられません。
あなたの言っていることは、どうして女性に生まれたか、と言っていることと同じですもの。
どうして女性に生まれたかなどということを、答えられるひとっているかしら?
生まれてきたときに女性だったとすれば、それは女性を引き受けて生きることでしかないのじゃなくて。
それがどうにもならないと言うのなら、性転換でもするかして、変る以外にないことじゃなくて。
あなたは、そうして女性でいる。
だったら、後は、あなたが女性を生きるように努力する以外にないんじゃなくて。
それができないと言うのなら、性転換する以外にないでしょう。
わたしに言えるのは、それだけ……。
わたしだって、ただの女性教官に過ぎないってこと、哲学者じゃないわけね。
どお、おわかりになった?」
皮肉な笑みは相変わらずだったが、優しい感じの物言いになっていた。
だが、その優しさの感じが揶揄されているようなものだとわかると、
成瀬のなかに、たまらなく切ない思いが込み上げてくるのだった。
両眼がうるみだし涙があふれるのを抑えることができなかった。
そのようなことで、めそめそしてしまう自分はどうにも情けなかった。
だが、ほかにどうしようもなかった。
むしろ、なよなよしていることの方が自然な感じさえ覚えることに圧倒されていたのだ。
顔を俯かせてむせび泣いている成瀬の顎を安藤教官の指先がとらえた。
教官は優しく顔をあげさせるようにして、鋭いまなざしを相手に注ぎながら言うのだった。
「泣いていては、おかしいわ。
あなたは、自分でも、惚れ惚れとするくらいの美しい女に生まれたのよ、それはわかるでしょう。
あなた自身が磨きをかければ、あなたは素晴らしい女性そのものになれるのよ。
女として生まれたからといって、誰もが恵まれた顔立ちや姿態を持っているわけではないわ。
あなたは、幸運な人間なのよ、それを手にしているのですもの。
しかも、あなたが研修をやり遂げて立派な女性として成長することができれば、
あなたは業務を行うことにおいても、男性に引けを取らない業績をあげることができるはずだわ。
だって、そうでしょう? あなたは、男性の意識を持ち合わせてもいるのよ。
詳しいことはわたしも知らされていないから、わからないけれど、
<プロジェクトT>とは、少なくとも、類まれなる美女が男性の職務意識を持って業務を遂行することだわ。
わかった? だから、いつまでもめそめそ泣いていないで、選ばれた人間の自尊心を見せなさいよ。
あなたも知っているかもしれないけれど、現象界は不可逆の物理過程を認めないわ。
あなたも、そのような姿に生まれた以上、元へ戻るということは不可能なのよ」
相手の語った最後の言葉は、死の宣告を申し渡されたのと同じくらい、成瀬に衝撃を与えたものだった。
全裸になって尻の穴まであからさまにさせられた常識外れの面接試験、
採用が決定し入社誓約書にサインをした結果は、女性の身体に変身させられたという非現実的とも言える処遇。
これがSFかファンタジーの物語であれば、想像力の世界へ遊ぶ展開を楽しんでいけるのかもしれないが、
成瀬にとって、幸か不幸か、ポルノグラフィの物語に居場所を定められている以上、
どのように非常識的・非現実的であろうと、彼はその事実と現実を受けれ入れるほかないのであった。
それができなければ、自殺する以外になかったのである。
だが、それほど容易に人生の選択など、できるものであろうか。
彼も決心を決めかねていた……もっとも、数ページに渡る入社誓約書を提示されたとき、
採用が決定した思いに舞い上がって、ろくに読みもせずにめくら判とサインをしたのだから、
今さら、決心もへったくれもないかもしれない、
契約書の類はそれを理解してこそ契約を意味する常識なのだから……。
「では、そろそろ、研修を始めることにしましょうか。
女はひと泣きすると、腹のすわった考えになれるものよ。
かおるさん、シーツを取って、ベッドからおりなさい」
安藤教官はそう言うなり、ベッドの下へ身を屈めるようにして、何やら準備をしている様子だった。
成瀬は、ベッドの上にじっとなったまま、動こうとはしなかった。
「あら、どうして言われた通りにしないの?
わからない子ねえ、口で言ってわからなければ、痛い目に遭うしかないのよ。
よくって、女はいじめられたとき、最もよく女をあらわすものである、
とは、誰か偉い先生が言ったか言わないか、知らないけれど、女として教育することの金科玉条だわね。
それがここでは実行されるの、だって、研修ですもの」
教官の片方の手には乗馬用の鞭が握られているのだった。
「あなただって、そのなめらかな乳色をした柔肌を傷付けられたいとは思わないでしょう。
わたしだって、そんなこと、したくないわ。
でも、あなたが研修を拒むのなら仕方がないことね」
おもむろに振るわれた鞭は、ひゅうという唸りと共に成瀬の鼻先をかすめて、太腿のあたりを一撃した。
「あっつう! なっ、何をするんだ!!」
その返事は、さらに同じ箇所へ振るわれた鞭が答えていた。
バシッ!
「痛いっ! 畜生! やめろ! この馬鹿野郎!!」
成瀬は怒号をあげていた。
それに対して、脅しつけるような冷たく重い声音がかさにかかって吐き出された。
「わたしの言ったこと、全部反故にしたわね。
言われた通りのことができないばかりか、汚らしい男の口のきき方をしたわね。
許さないと言ったでしょう。
相応の罰を受けてもらうしかないわ」
女性教官は、等身大を映すマジック・ミラーの方へ手をあげて合図をした。
間もなく、部屋の扉口から、レスラーを思わせる筋肉質の屈強な体格をした男が入ってきた。
いや、トランクスと靴下とシューズを着けているほかは裸であったのだから、レスラーそのものであった。
褐色をした男の強靭な肉体が行う仕事としては、余りにも容易な作業であった。
男は、か弱い女が懸命になって覆い隠すシーツを身体から剥ぎ取り、
それでも全裸を縮こまらせて頑張るなよやかな肉体を軽々と床へ運び降ろした。
やめろ、やめろ、嫌だ、と叫び声を上げようが、身体をじたばたさせてもがいてみせようが、
男はむしろそれを楽しんでいるというふうに、女のきれいな身体のどこへ手を触れたらよいものかと、
よだれさえ垂らしそうになった顔をにんまりとさせながら、つかむ手をじらしてさえいるのだった。
「早くなさい、あなたのおもちゃじゃないでしょう」
安藤教官は、冷たいまなざしを向けながら、ぴしっと言った。、
レスラーはぺろっと舌を出すと、成瀬のほっそりとした両腕をつかみ、
無理やり背後へまわさせ、両手首を重ね合わせて麻縄で縛り上げていくのであった。
「嫌だ、嫌だ、離してくれ! 離してくれ!」
哀しいくらいの女の声音は、男の意思を必死に叫んでいた。
そのようなことはとんとお構いなしに、
レスラーは、女の肉体の背後から覆い被さるようにして抱きかかえると、
しなやかできれいに伸びた両脚を左右から捉え、股間を割り開くような格好にさせていくのだった。
「嫌だ! やめてくれ!! 嫌だぁ〜!!!」
きれいな声音は死に物狂いの絶叫を上げていた。
「この子に自分の姿をしっかりと見せてあげて。
そのひどい口のきき方がいかにふさわしくないか、
わかるでしょう……」
レスラーは、成瀬の裸身を抱きかかえたまま床から立ち上がると、鏡を前にして仁王立ちになるのだった。
一糸もまとわせられない生まれたままの全裸がさらけ出されていた。
しかも、女の羞恥の中心があからさまに見えるような格好にされていた。
抱きかかえるレスラーの強靭な腕には、
これ見よがしに割り開かれている両脚をさらに押し広げるような力が込められていた。
男の顔には、ざまを見ろとでも言うように、好色なまなざしと下卑た薄笑いが浮かんでいるのだった。
トランクスの男の箇所が異様なふくらみを見せているのがはっきりと示していることだった。
そのぱっくりと開かれたピンク色をした肉の襞が折り重なるところと菊のすぼみを見せつけられたら、
成瀬も男であったら、そのレスラーと同じ顔の表情とそり上がりを示していたかもしれなかった。
そのくらいに鮮やかで、きれいで、淫らで、浅ましく、恥ずかしく、悩ましく、そそるものだったのである。
だが、それはどこの誰ともわからない美しい女の陰部がさらけ出されているのではなかった。
自分の身体の最も恥ずかしい箇所があからさまにされているのだった。
「嫌だ、嫌だ、やめてくれ、お願いだ……」
彼は栗色の柔らかい髪を打ち震わせてかぶりを振っていた。
両眼からあふれ出していた涙が左右に飛び散っていた。
そうした女としての恥辱の姿を演出した安藤教官が主演者のわきへ立った。
「あなた、まだ、そのような口のきき方をしていて、恥ずかしいとは思わないの?
あなたのあからさまにしているそこが、
妖しく淫らな感じがして、美しいとさえ感じさせるものだとしたら、
それは、あなたが女らしさの色香をムンムンと放っているからではないの?
それを、そのような艶消しの男の口のきき方をしていたのでは、
ただ、肉の襞の折り重なったグロテスクとして見せるだけのことじゃない。
そのようなことなら、陰部を持っている女なら、誰だってできることじゃない。
そうじゃないかしら?
そのマジックミラーの向こう側から、あなたの挙動を逐一眺めている方たちだって、
そこが判断のしどころだと思うわ。
どお、あの方たちに、わたしは色香漂わせる女性ですってところを見せてあげないさよ。
女らしい泣き声を上げて、女とはこのように愛らしいものですってところを見せてあげなさいよ」
教官は、肉のなかから顔をのぞかせる敏感な可愛らしい突起へ、細い指先を触れさせた。
成瀬は、ほんの少しこねられただけで、股間から頭上へ貫く電撃のようなものを感じさせられた。
おぞましい、と思った、だが、こねられればこねられるだけ、
その込み上がってくる快感は、容易に言葉を吐くことを抑えさせるのだった。
どうしてか、わからなかった。
まるで、女として扱われていることが感じさせる快感が男の意識を上まわっているという感じだった。
いや、肉体そのものは女であったのだから……
男の意識と言ったところで……
そのようなもの……
そう思い込んでいるに過ぎないものであるのかもしれない……。
「ああん」
高ぶらされる快感に思わず声が出てしまった。
その女の声音は、悩ましく甘美なものとして聞こえてくるものであった。
鏡に映る女の羞恥をさらけ出された女は、清楚な顔立ちに恥じらいの花をなまめかしく咲きほころばせ、
どぎつい花園へ妖美で濃密な芳香を漂わせようとするのだった。
グロテスクが美麗なものとして映るには、いっそう甘美な女の声音が求められることであった。
女であろうとすることへ、女そのものとなることへ、向かうことなしには到底できないことであった。
そうなることが、とても自然な感じがしたのだった。
むしろ、男を意識して吐く男言葉こそ、男の概念を無理して頭で作っているような感じがした。
安藤教官の指先は、どのようにすれば女は感じるものかを知っている、女が行っている愛撫だった。
肉体から抵抗する力を奪い、女の羞恥の中心へ集中するように仕向けられていく愛撫だった。
もう、抑えるということも、もどかしく、
切なくやるせない声を上げて応えることが気持ちよさをさらに強めるものだったのである。
「ああん、ああん……だめっ、だめっ……」
後ろ手に縛られて自由を奪われ、屈強な男の手であられもない格好にさせられて、
その上、自分の大切な羞恥の中心を好き勝手にいじくりまわされている。
こんなに恥ずかしく、情けなく、悔しい姿があるだろうか。
しかし、そのような姿で高ぶらされていく官能は、身体が小刻みに震えるくらいに気持ちがよかった。
恥辱の姿を人前にさらけ出しているという嫌悪すべきありさまは、
清楚な顔立ちがあらわすうっとりとなった妖艶な表情において、
もっと淫らなことをされても、もっといじめられても、構わないとさえ思う気持ちにさせるのだった。
成瀬は、男として、そんな馬鹿げた気持ちになどなりたくはないと思ったが、
高ぶらされた肉体が考えさせることは、そんな思いの薄っぺらさと無意味さでしかなかった。
「どお、少しは女らしい気持ちになれたかしら?
大丈夫、身体の方は、もうしっかりと女らしくなっているわ。
敏感な方よね、このぐらいの愛撫で、花びらから蜜がのぞき始めているんですものね。
わたしの言うことも、少しは聞けるようになったかしら?
それとも、一度は昇りつめてみないと、女の本当の喜びがわからないかしら?」
女性教官は、股間を愛撫する指先へ熱心さを加えながら、キスをするくらいに顔を近づけて言うのだった。
成瀬は、悩ましい上目遣いで相手を見やるが、半開きになっているきれいな口もとからは、
うう〜ん、うう〜ん、とやるせなさそうな甘いため息がもれるばかりだった。
「どお、昇りつめてみたい? 遠慮なく言いなさいよ。
わたしは、きちんと研修を受けようとする子には、いい教官だと言ったでしょ。
わたしの言うことがきちんと聞ける子には、ご褒美だってあげることにしているのよ。
どお、昇りつめてみる?」
安藤教官の指先は、返事を待たずして、成瀬の官能をどんどん押し上げていくものであった。
女は、高ぶらされる快感へ夢中に舞い上げられるばかりで、返事もおろそかになってしまうのだった。
そして、ううっ〜ん、ううっ〜ん、ともうあと一歩というところまで押し上げられたときだった。
教官の指先は、固くしこっていた敏感な愛らしい突起から離れていった。
それは、成瀬には、唖然とさせられるようなことだった。
「だって、あなたは、返事をしないじゃない。
黙っていたってわからないのよ、はっきりとおっしゃいよ。
わたしは、安藤教官のご指導にそって女になる研修をまっとう致します、
わたしは、その手始めとして、女の喜びへ昇りつめることをして頂きたいと思います、
生徒の研修宣言よ。
あなたが言ってあたりまえのことでしょう」
昇るように押し上げられていた階段を上昇するか下降するかの決断を迫られたようなものだった。
拒否すれば、落下して、解雇同然の処遇が待っているだろうことは予想できることだった。
これも組織に属したことで与えられた境遇なのだ、
その職務であり、遂行なのだ、
ここまで来て、やめにするということは、すべてを反故にするということにしかならない……。
「……わたしは、安藤教官のご指導にそって女になる研修をまっとう致します、
わたしは、その手始めとして、女の喜びへ昇りつめることをして頂きたいと思います……」
成瀬は、一字一句間違わずに復唱するのだった。
「結構、それでこそ、あなたは選ばれた女。
では、わたしが優しくいかせてあげるわね。
いいわね? かおるさん」
念を押された女は、はい、と素直に答えるのだった。
安藤教官の指に身体を預けるほかなかった。
それが研修であり、社員としての義務であると感じたことだった。
敏感な愛らしい突起へ加えられる教官の巧みな指先の愛撫は、
一度は冷めかかった女の官能をみるみるうちに煽り立てていくものだった。
股を開かされ続けていたために、両脚は痺れ切って、ほとんど力を失っていた。
だが、こねりまわされる感触は、先ほどにも増して敏感であるように、甘美な疼きのうねりを感じさせていた。
そのうねりが高まるのに合わせて、力のない太腿の付け根のあたりを気張ると、
女の羞恥の中心から背筋を伝わって頭上へ貫く激しい快感が走るのだった。
ああっ、ああっ……
ああん、ああん……
ああっん、ああっん……
込み上がってくる快感のうねりに押し上げられて、
なりふり構わない悩ましい声音を張り上げさせられていた。
気持ちのよいところへいかせて欲しい、そこへたどり着きさえすれば、
行われていることの一切がどのような恥辱であれ、屈辱であれ、破廉恥であっても、
すべては喜びのなかで帳消しになると思えることだったのだ。
女としての喜びがそれを成し遂げてくれるなら、自分は女であることを喜ばしいと思えるのだった。
「安藤教官……
かおるをまた離すようなことはしないでください、
かおるを絶対にいかせてください、
かおるに女であることの喜びを目覚めさせてください、
お願いです……」
成瀬は、官能にほだされて舞い上げられた思いから、思わずそう哀願しているのだった。
安藤教官は、皮肉な笑みを浮かべているのは相変わらずだったが、
「もちろんよ、わたしが絶対にいかさせてあげるわ」
と優しく答え、花びらからあふれ出して滴り落ち始めている蜜のぬめりに指先をてらてらと光らせながら、
女を最後の階段へ昇らせようとするのだった。
「ああっ〜」
成瀬は、男に抱きかかえられていた全裸をびくんと大きく痙攣させたかと思うと、喜びの絶頂へ昇りつめた。
それでも、教官の指は離れることはなかった。
その余韻を楽しませるクリトリスへの愛撫のひとつひとつに、
女は裸身をびくつかせて反応を示しながら、
うっとりとなった妖艶な表情で快感の波間を漂っているのだった。
誕生室には、成瀬と安藤教官とレスラーの三人しかいなかったが、
マジックミラーの向こう側からは、その様子の一部始終を眺めていた組織の者たちがいた。
女の喜びに浸り切っていたかおるにとっては、それはまだ思い及ぶようなことではなかった。





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