借金返済で弁護士に相談




どのようないきさつからそのようなありさまになったのか。
そのような問いが投げかけられるうちは、まだ、自己陶酔の域に達しているわけではない。
成瀬かおるという女が、身に着けていた着物を残らず脱がされ、胸もとに掛けられているロザリオを除いては全裸にされ、
魅力のある女であることを嫉妬され憎悪されるがゆえに、女であることの恥辱の姿をみずから思い知らされるために、
股間の恥毛をすっかり剃り上げられて、桜の大樹の横へ立てられた十字架へ衆人環視のはりつけの見世物とされたこと。
また、その見世物は、かおるが身分の高い者たち専用の高級女郎として、裸一貫の生活を始めるお披露目でもあったこと。
このようなサディズム・マゾヒズムの小説や映画によくありがちな紋切り型とも言える筋立ての立役者にあって、
かおる自身は、いったいどのような自己をあらわしたら、適切な存在理由があると言えることなのであろうか。
人生は舞台である、と喩えたシェークスピアの卓見は、各々がみずからの人生の主人公であるということにおいて、
世界には人口の数だけ舞台があり主人公がいるということであり、主人公だらけの広大な世界舞台においては、
かおるの立たされている下劣で卑猥な舞台など、ほんのちっぽけな赤面してしまうような場所でしかない。
かおる自身も、それを望んで、そのようになったわけではない。
全裸を十字架にはりつけられた姿を衆人の前へあらわしたところで、報酬をもらえるわけでも、有名になれるわけでもない。
相応の対価が自己に還元されるとわかっていれば、下劣で卑猥なことも演技のひとつとして行うことが可能である。
だが、彼女の置かれている境遇は、そのようなことを許されているものではない。
むしろ、彼女を手に入れるために、大枚が目付役や奉行に賄賂として支払われていると言うのであるから、
返済を義務付けられた借金を負わされている身分ということになる。
裸一貫にさせられた女が大枚の借金を返済する手段となれば、肉体で奉仕すること以外に成し得ない。
もっとも、これは女に限らず、男の場合も同様のことである、腕に技術がなければ肉体奉仕の業が定められている。
女にあてがわれる業が相応の対価を産む社会環境にあれば、肉体奉仕は何も売春行為を意味するだけのものではない。
しかし、売春行為が相応の対価を産むものである社会環境があれば、
成人にとっては言うに及ばず、未成年にさえも食指を動かさせる魅力が売春にはある。
売春行為は、元手が安価で安易にできるということの長所に加え、対価がほかの業に比べて高いという魅力である。
もっとも、紐の存在があれば当人に渡る対価は知れているし、
梅毒などの病気の危険性があることも折り込まれてのことである。
いずれにしても、貨幣が社会の価値基準を支えている場所においては、
変ることなく行われ、変ることなく行われていく、流通のひとつのありようであると言えることである。
だが、それは、かおるの高級女郎としての行く末についてのことである。
その前に、十字架にはりつけられているという状況があり、その過酷な状況を乗り越えないと先へは進めない。
満開の桜の大樹は、咲きほころんで、時折、舞い落ちる白い花びらのかもしだせる豊饒とした美しさにあって、
そのわきの白木の十字架に、これ見よがしに生まれたままの優美な全裸姿を晒させた美貌の女と行く春を競い合っていた。
桜の大樹にしても、それまで庭にぽつねんと置かれた周期性を持った見世物であることは同じであったが、
ひとがたったひとりぼっちで衆人環視のなかに晒しものになるということが、どのような思いを生むものであるか、
まして、それは、衣服をまとっている普通の状態であっても、緊張を強いるということであれば、
裸でいさせられるということ、ましてや、全裸であるということは、過酷な緊張を強いることに違いない。
それが、かおるの場合は、全裸であるばかりでなく、羞恥の翳りを奪い取られて女の割れ目を剥き出しにされている、
しかも、十字架という見世物専用の器具を用いられて、あからさまにされた裸身を堂々と見せしめられているのだから、
その極度の緊張において、気を保たせていられたということだけでも、並大抵のことではないだろう。
物語の主人公であり、筋立ての流れの必然から、すぐに気絶してもらっては話が先へ進まないということがあったにせよ、
わずかな時間であったならともかく、一時間近くは晒しものにされていたのだった。
もっとも、一時間というのは限度であったということで、そのときは、彼女も十字架上で気を失っていた。
従って、これは、約一時間の受難の状態における事柄である――

十字架にはりつけられるという想像を絶する現実を眼の前にさせられたとき
激しいめまいがわたしを襲いました
足もとがおぼつかなくなって
その場へくず折れてしまいそうでした
それまでずっと全裸でいさせられ
縄で縛り続けられた状態でいたのです
芯から休むことを許されない緊張の連続は
しばしの休息があったにせよ
思いも身体もへとへとに疲れさす大きな疲労を生んでいたのでした
足軽の人たちの手で縄が解かれていっても
縛られていた拘束から解放されたという思いはまったく起こりませんでした
むしろ
わたしが庭へあらわれてから
わたしを見つめ続けている沢山のひとの存在が
縄以上の強い拘束感を感じさせていました
わたしは
気を保たせようとすることだけで精一杯で
ふらふらするめまいのなか
力を抜き取られた身体を漂わされているという感じだったのです
足軽のひとたちの強い腕っぷしで
左右から両腕を取られ
足もとの方から両脚も取られ
身体を軽々と持ち上げられて
地面に横たえられた十字架の上まで運ばれていかれましたが、
もう
恥ずかしいとか
悔しいとか
情けないとか
辛いとか
哀しいとかの気持ちは擦り切れたようになってしまっていて
されるがままになっていることの方がどれだけ楽であるか
と思えるのでした
わたしは観念していたのではありません
このようなことをされるのは絶対に嫌だっだのです
嫌でした
しかし
この状態を断じて受け入れたくはないと思っても
それを実際に否定できる力がわたしにはなかったのです
わたしの現実は
わたしの身体を伝わってしっかりと届いてくるものであったのです
安楽な感じで身体が運ばれていったのは束の間
白木のがっしりと組み木された十字架の上へ身体を寝かされたときは
わたしの現実は
後頭部から
背筋から
お尻から
太腿から
ふらはぎから
かかとから伝わってくる冷たく硬い木質によって
はっと目覚めさせられるように気づかされるものでありました
こみ上げてくる不安と恐ろしさは
顔の区別のつかない五人の男たちが
わたしを囲んで仁王立ちになり
わたしの身体へまなざしを集めていることをはっきりとわからせるのでした
咽喉もとがきゅっと締めつけられたようになり
言葉も
悲鳴も
泣き声さえも奪い取られていくようでした
それまでにも
何か言うことができたわけではありません
言うべき言葉が何ひとつ思いつかないほど
虜囚の身にあっての過酷な状態は頭のなかを真っ白にさせていたのです
両腕を左右へめいっぱい広げさせられました
その手首へ縄が巻きつけられていきます
それはさらに十字架の横木へしっかりとくくり付けられていきます
両脚の方もきちんと揃えさせられると両足首を束ねられ
縦木に付いた小さな台を踏むようにして固定されていくのでした
身動きの取れなくなった自分の身体が強烈に意識されました
その身体は
覆い隠す手段をまったく奪われているだけでなく
恥ずかしい箇所をすべてあからさまにさせている姿でありました
羞恥と屈辱の思いがわき上がってきますが
心臓をどきどきと高鳴らせているのは
むしろ不安と恐ろしさの方でした
わたしはどうなってしまうのだろう
その疑問は
身動きを封じられた身体の現実感と同じくらい
はっきりとしたものでした
わたしの身体は
がたがたと震えていたに違いありません
しかし
そのようなことが取るに足りないことは
震えはすぐに全身へ行き渡る火照りへと変っていったからです
足軽のひとたちが
せいっの
という大きな掛け声とともに
地面に横たわっていた十字架を押して立てていったからです
眼の前にさせられた青空がはっきりと見え
それがぐんぐん迫ってくるようで
身体は中空へ浮かび上がっていくような
ふわっとした感覚のなかにありました
それはすごく気持ちのよいものだと感じられたことでしたが
ほんのわずかのことでした
突然
わたしの身体は
体重が重すぎるのではないかと感じるくらい
ずしりと下方へ落下させられる感覚にあったのです
小さな台に乗せていた足もとへ力が集中する一方で
両腕は痛みを感じくらいに張り詰めさせられました
わたしの身体は
十字架にくくり付けられていなければ
前倒しに地面へ落下していたことは確かです
十字架は地面深く掘られた穴へ突き刺されましたが
居所が定まらないようにふらふらしていました
わたしは
倒れるのではないかという恐ろしさでいっぱいでした
足軽のひとたちは懸命に十字架を支えながら
揺らぎを止めるように穴へ石を詰めて土で固めていく作業を行っていましたが
はかどらない様子に
激しく悪態をついているのが聞こえてくるのでした
このような酷い格好にされていることも
このような酷い格好になることを手際よくさせないことも
すべてわたしが悪いのだという思いがこみ上げてきて
このような情けない格好でいることが
たまらなく哀しいことに感じられてくるのでした
ようやく作業が終わったとき
わたしは
生まれたままの全裸を恥ずかしい箇所までさらけ出して
高々と見せしめられた姿とされたのです
このような哀れな格好
誰が好んでなりたがるものですか
哀しいだけです
哀しくっても
わたしの力ではどうにもならないことです
わたしは
ただ
されがままの身にあるだけなのです
そのとき
庭も屋敷も
その場所が一望できる光景は眼に入っていたはずですが
十字架が立てられた瞬間に湧き上がった歓声と嘲笑は
それがすべて自分に向けられたものであるという意識を強烈に働かせ
涙のあふれるまなざしをおぼろげなものとさせるだけだったのです
しかし
泣きじゃくるなんてことはできませんでした
そのようなことに力をかけている余裕はなかったのです
身体は
中空へ浮遊させられているという思いが強くなる一方で
意識される身体の重量感が下へ下へと引っ張っていかれる感覚にあって
思いと身体とが上下へ引き裂かれていくのではないかという混乱が始まっていたのでした
わたしは
両眼を開いて
まなざしを一点に投げかけていましたが
見ていなかったも同然でした
屋敷の縁側に華やかな着物を着た女の方が
わたしの方へ向かってしきりに何かを喋っているようでしたが
聞こえてくる言葉は
意味を結ばない物音のようなものにしか感じられませんでした
もう
わたしからは
感情的な思いというものが完全に抜け落ちてしまっていたのでした
恥ずかしいとか
悔しいとか
情けないとか
辛いとか
哀しいとかの気持ちがわからなくなっていたのでした
それより遥かに
肉体からこみ上げさせられる意識が思いを占め
それがなかへなかへとわたしを閉じ込めていくのでした
わたしの哀れな格好はひとに見られているのだ
という思いは遥か彼方のことになっていたのです
それよりも
両手を広げさせられ
小さな台へ足の半分しか乗せられていない格好でいることが
耐えがたいくらいに辛いことになり始めていました
いったい
いつまでこのような格好でいさせられるのだろう
という疑問が頭をもたげますが
その瞬間に
そのような問いが無意味なばかりでなく
外へ向けられる関心が
ことごとく無意味であると思わされるのでした
身体を保たせていることが辛くなるばかりで
身体から力が失われていくようになればなるだけ
両手首と両足首の縄の拘束感は強烈なものとなっていき
苦悶を身体全体へ行き渡らせるようにするのです
わたしは
苦しいと感じました
しかし
その苦しさに閉じこもっていると
身体全体へ行き渡った苦悶は
苦しくはあっても
もう
痛みは感じられないものとなっていました
そして
その苦悶は
強い力で下へ下へと引っ張られるようなものであったのですが
不思議なことに
わたしの思いは中空へ浮遊させられたままでいて
しかも
それは苦悶の力が増すほどに
上へ上へと向かわせるように感じさせるのでした
何が何だか
わたしは
わからなくなってしまいました
わたしは
ただ
その置かれた境遇を耐えようと必死であっただけなのかもしれません
どうして
耐えようと必死であったのかと言えば
浮遊と苦悶に引き裂かれるようにしてあるわたしは
悦楽をも感じていたからです
その悦楽は
浮遊と苦悶の混沌とした泥沼の底に輝くわずかな光のようなものでしたが
その悦楽の光を感じられることは
耐え続けることを喜びと感じさせていたのです
わたしがあることは
このわずかな悦楽の光がわたしのなかにあるからこそ
あり得ることなのだと思えるのでした
苦悶は
耐えがたいくらいにどんどん増していきます
それと同じくらい
浮遊させられているという思いは
ぐるぐると漂っていきます
身体は
官能に掻き立てられたようにほだされて
熱く熱く燃え上がっていくように感じられます
その突き上げられていく思いは
昇りつめて
いきそうになる感じとまったく同じでした
わたしは
いってしまいそうでした
しかし
わたしは耐え続けることを欲したのです
そのいきそうになる思い以上に
悦楽の光はわたしに
もっと気持ちのよい場所があることを意識させたからです
わたしが求めれば
それは手の届くところにあると思わせたからです
しかし
わたしは
もう
わからくなっていました
耐えがたかった苦悶は
いつしかふわふわとした思いと一緒になり
それが気持ちのよいことのようにも感じられていたのです
ぐるぐると螺旋を描くように
泥沼を下へ下へと下降しながら
上へ上へと上昇させられていくのです
輝く悦楽の光
それは
見えていて
間近にありながら
遥か彼方にあることのようなものだったのです
そこへ行き着きたいと思いながら
わたしは
もう
わたしではなくなっていたのでした――






























十字架にはりつけられた女が気を失ったとき、見物していた者たちのほとんどは、すでに関心を失っていた。
異常を見せつけられた衝撃も、ただ同じことが繰り返されるだけでは、時間の経過とともに新鮮さを失っていき、
褪せた衝撃に至っては、それが淫らな関心を掻き立てられたことであっただけに、かえって目障りとさえなることであった。
かなり酒の入っていた赤ら顔の牛尾重役、熊田、猪木らの状況判断で、かおるは舞台から降ろされることになった。
すでに、屋敷の居間の障子はぴたりと閉ざされ、なかでは新たな風流の酒宴がたけなわであったが、
広々とした庭には、撤収にのために控えていた五人の足軽のほか、人影はほとんど見られなかった。
そのまばらな人影のなかに、本日の宴に招待を受けていたひとりの浮世草子の作者がいたが――
ちなみに、その男の名前は鵜里基秀と言ったが、同姓同名であるだけであって、本編の作者とはまったく関係がない――
彼は、十字架のそばへ寄ると、晒されている女の顔や姿を見つめ、撤収作業までもつぶさに見物しているのだった。
「へえ、信じられるか、この女、気をやっていたぞ」
かおるを十字架から降ろそうと下半身へ触れた足軽のひとりが叫んでいた。
「本当だ、見ろよ、太腿の付け根があふれ出させた女の蜜でてらてらと光っている」
かおるの裸身は男たちの手によって慎重に地面へ降ろされていったが、彼女に気を取り戻す様子は見られなかった。
「いやあ、顔の表情だって、うっとりとなったきれいなものだぞ。
これだけの苦痛に晒されていたのだから、さぞかし苦しかったに違いなかろうが、まったく不思議なくらいだ」
長々と横たえられたかおるの身体を取り囲んで、男たちは興味深げに眺め入っているのだった。
「いやあ、おっしゃる通り……
これは、女体の神秘と言う奴でしょうかねえ、実に興味深い……
差し支えなかったら……ほんの少しの間で結構ですが……
向学のために、両脚を開かせて実態を拝見させてはくれませんかね」
作業を行う仲間でない者が口を挟んできたことに、足軽たちは、怪訝そうにしてその者の方をじろりと見やった。
しかし、言い出されたことは、願っていたようなことでもあったので、誰からも文句は出なかったのだった。
美女の股間の様子というのは、金を払っても見るだけの魅力があり、この場合はただだったのである。
女は気を失ったままでいる、気がつかないなら、やってしまった方の役得であると思えたことだった。
この点では、下積みにいる仲間特有の暗黙の合意があり、浮世草子の作者もその合意に異論のあるはずはなかった。
「いずれにしても、ここじゃあ、まずい。
土蔵の二階へ運んで柱へ繋いでおけと言われているから、取り合えず、そこへ運ぼう」
足軽たちによって抱きかかえられた女の身体は、追加のひとりを従えて、庭から土蔵へと撤収されていくのであった。
美しい桜の大樹の横へ打ち立てれた白木の十字架は、放り出されたようにそのまま置かれていた。
誰が見ても、その堂々とした十字架は、
桜の大樹と並び合わせる風流を作るために最初からそこにあったとは思えなかった。
むしろ、風情をぶち壊しにしている、粋の感じられないものであった。
言わば、そのことに文句を言い出す者があらわれるまでの時間、
土蔵の二階で、六人の男たちは、かおるをおもちゃにしていたのである。

      ここで、注釈を付け加えておかなければならない。
      なお、この部分は、本編の注釈であるから、必要と思われない場合は飛ばしてください。
      鵜里基秀という浮世草子の作者は、
      かおるのあらわしたありさまを女体の神秘と言ったが、これは正しくない。
      本編の作者である鵜里基秀は、
      かおるの感じ得た悦楽の光というのは、女性に固有のものであるとは考えていない。
      同じ状況があれば、男性でも感じ得る可能性があると言いたい、つまり、人間に固有のものである。
      ただ、美しい顔立ちと身体付きをした男性が、
      生まれたままの全裸を恥毛を剃られた姿で十字架にかけられるということは、
      物語の設定や流れで決して無理なことではないが、
      本編の場合は、男が女として生まれ変わったという実存があるので、
      このように表現されているのである。
      さらに、言えば、この悦楽の光というのは、オーガズムのことではない。
      オーガズムの機能は、この悦楽の光を見るためにあるものだと考えている。
      性がその極まったありようとして、オーガズムにとどまる見方をしている段階は過去のものである。
      そのようなことは、小説や映画やコミックスといった絵空事において、
      わかりやすく伝達されるための表現方法に過ぎない。
      従って、本編も物語である以上、同様である。
      悦楽の光は、人間自身のなかで認識されるものでしかないからである。
      この<悦楽の光>が存在するものであるということは、<全体性の認識>があるということと同様である。
      <全体性の認識>というのは、次のように言っていることである。
      心――どのような定義をされようと、ひとを地球上におけるほかの存在と区別する最大のありようとされるもの。
      その心をもってして、できないことであれば、ひとにはできないと考えられているもの。
      しかし、そうした心でさえも、ひとに内在している<或るもの>の部分にしかすぎないとしたら……。
      心というありようさえも包含するものとして、
      ひとに内在している<或るもの>、言わば<全体性の認識>というようなものがあるとしたら……。
      このように言っていることである。
      つまり、これまで考えられてきた方法としての人間観に対して、
      心よりも、さらに、それを包括する<全体性の認識>というものがあり、
      オーガズムよりも、さらに、内奥に<悦楽の光>があるとする見方である。
      この両者が認識されることで、初めて、相反と矛盾における全体性というものが有効となるのである。
      有効と言っているのは、これは、人間観に対する方法であって、
      この前提から出発する見方がどのような可能性を人間に切り開くかが問題であるということ、
      認識ということは、新たに創り出されるもののための道具に過ぎないということである。



かおるが気を取り戻したとき、
そこが土蔵の二階であることは変わらなかった。
白木の柱を背にして、全裸の姿を後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ、
立った姿勢でくくり付けられていることも変わらなかった。
眼の前に縦長の鏡を備えた鏡台が置かれているということも変わらなかった。
だが、明らかな変化があったのである。





☆NEXT

☆BACK

☆縄の導きに従って タイトル・ページ




inserted by FC2 system