借金返済で弁護士に相談




かおるは、ひとりの男が壁を背にして立っていることを知った。
その男は、着物に羽織という身なりで、町人風情を感じさせる髷を結っていた。
男は、自分のことに気づいてくれて嬉しいと言わんばかりの笑みを浮かべながら、かおるの方へ近づいてきた。
その見知らぬ男に、縄で縛られて覆い隠す手段を奪われた全裸を晒すことがたまらなく嫌なことに感じられた。
男の顔付きは、思慮深げに見える半面、何を考えているかわからない得体の知れなさがあった、
好きになれない男の感じがしたのだった。
「気がつきましたね、別嬪さん……。
それにしても、あなたは、本当に絵に描いたように、顔立ちも身体付きも美しく、惚れ惚れとしますね。
見せてもらいましたが……
女の神秘の花園も、とても奥方のものとは思えない、瑞々しくって張りのある、きれいなものだった。
絵描きなら喜んで画題とするところでしょうが、わたしに興味があるのは、むしろ、あなたの心持ちの方だ」
男は、そう言いながらも、かおるの間近にあって、
縛られた上下の縄で突き出させられている乳房の先に立つ乳首へ、
ささくれだった指先を触れさすのであった。
「ああっ、いやです……やめてください」
かおるは、こねりまわされる指の動きから逃れようと裸身を身悶えさせ、抵抗の言葉をあらわにした。
男は、はっ、はっ、はっ、と高笑いをすると、相手の顔を興味深そうに、まじまじと見つめるのだった。
見つめられた女は、こみ上がってくる羞恥と苛立たしさに、赤くなった顔をそむけるばかりだった。
「そうでしょう……
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……
あなたは、ただ、身体で感じているままなだけですよ、
何が、悦楽の光ですか!
馬鹿なことを言っちゃいけない、そのようなたわけごと、そんなものがあるわけがない!
あっ、そう、そう、自己紹介をするのを忘れていましたね、
わたしは、浮世草子の作者で鵜里基秀と言います。
これでも、ちょっとは知られたもの書きなんですよ、
少なくとも、昨日今日、ここへ連れてこられた新人さんのあなたよりはね……」
鵜里基秀と名乗った男は、
あからさまな嫌悪を示すようにして顔をそむける相手の可愛らしい顎をつかまえると、
無理やり自分の方へ向けさせるのだった。
「わたしの喋っていることをちゃんと聴きなさいよ。
わたしがあなたを題材にしてお話を書いて、あなたを有名にして差し上げようというのですよ。
どうです、あなたはわたしに感謝こそすれ、そのようなつれない素振りなど見せる間柄ではないはずだ。
だって、そうでしょう、奥方、
あなたはこのままいけば、ただの名もない女郎として埋もれてしまうだけですよ。
さる武家の美しい奥方が切支丹であることが発覚し、
奉行所へ連行されるところを気高き殿の温情で風流な花見の宴の見世物とされ、
身分の高い方々専用の高級女郎としての行く末を保証されて命を救われる。
このようなありきたりな話、その先の展開のしようがない。
浮世草子にしても、凡作の類というところですね。
それを、何ですって、悦楽の光を認識したですって!
そんなありもしないでっちあげ、たわけごと、いんちき、いかさま、気違い沙汰!
十字架へはりつけられて認識を得たなどという意味深長な見せかけもさることながら、
だいたい、何もかも剥き出しの全裸にされた女が見世物になるなどということに、
意味などあるものですか!
あるとしたら、それは見る者の情欲を煽り立てるということでしかない、
つまり、猥褻ということだ!!
奥方、あなたは猥褻をあらわしている以外の何ものでもない、ということだ!!!」
男の片方の手はかおるの顎をとらえていたが、
もう片方の手は、ふたたびきれいな形の乳房の方へのびて、
そのふっくらとした感触や乳首の瑞々しいしこりを楽しむようにもてあそんでいるのだった。
かおるは、相手の押し付けがましい物言いに辟易していたが、
逃れようと思っても為すすべを奪われた緊縛の身では、
ただ、唇を噛み締めて、視線をそらせて、我慢することしかできなかった。
「猥褻をあらわしている女は、猥褻に取り扱われる、
こんな相反も矛盾もない道理って、ないじゃないですか。
それを、悦楽の光だって! 
凡作もそこまで行けば、愚作、醜作、非作ですな、作者の顔が見てみたい。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……
それが何よりの証拠に、奥方はとても嫌そうな顔付きをしているけれど、
あなたの揉まれた乳首は、こんなにもしこりをあらわして、
嫌らしいくらいに立ち上がっているじゃないですか。
これは、あなたの淫らな情欲を示している以外の何ものでもないということでしょう。
そうでしょう、奥方!」
鵜里基秀という作者の手は、乳房から下へ向かって這うようにそろそろと降りていくのだった。
かおるは、激しい嫌悪感がこみ上げていたが、
閉じ合わせていた両脚を精一杯重ね合わせるほかに防ぎようがなかった。
男の手は、羞恥の翳りを奪われて剥き出しにされている割れ目の間近まで来ると、突然、留まった。
「あなたも、このようにされれば、わかるでしょう?
あなたの淫らな情欲を掻き立てて、気持ちのよいことをしてあげられるのは、
このわたしだってことを!
本編の作者だなんて言ったって、何ができると言うのです。
あなたがこのような目にあっていても、
読者のひとりのように、ただ、眺めていることしかできないじゃないですか!
それはね、わたしの行っていることの方が常識から言って、正しいからですよ。
いいですか、お話というものはね、主人公や状況への感情移入があって、初めて成り立つものですよ。
それさえあれば、多少、話の辻褄が合わなくても、結末の収拾がつかなくても、
読者は納得するものなのですよ。
だから、感情移入のできないようなお話は、人気もまたないと言うことですよ。
感情移入、これは伝家の宝刀、
お話というものは、すべて、この宝刀の切れ味の冴えを見せるということですよ。
人情話が私小説、大衆文学、純文学、幻想小説、恐怖小説、推理小説、未来小説、官能小説……
あだ名こそ変っても、伝家の宝刀を継承していくということでは、文学の永遠不滅の伝統ですよ!
このようなこと、わかりきったことじゃありませんか!
それをないがしろにするようなけったいな作品は、
遥か彼方の八丈の島流しにあってこそ、あたりまえというものだ!
わたしは、ちょっとは知られたもの書きですよ、読者もそこそこに付いているんですよ。
その名声と手腕をもって、奥方に、
読者を感動させるような感情移入の手ほどきをして差し上げようと言うのだ!」
名声と手腕を秘めた男の指先が、肉の割れ目を掻き分けてもぐり込んできた。
「ああっ、いやっ、痛い、やめて、やめてください……」
かおるは、思わずあらがう言葉を投げかけていた。
しかし、そのか弱い女のか弱さをあらわす常套的な台詞は、
ほかに大して取り替えられる言葉がないという説得力しか相手に与えなかった、
それもそのはずで、それは、相手が最も得意としていた感情表現であったのだから、当然のことだった。
しかし、作者の大きな筆だこのできた指は、心得ていると言うように指先をもぐり込ませただけで、
無理やり奥へと推し進められるようなことはなかった。
筆だこの大きく盛り上がった指は、はためには醜く見えたが、
それが与える感触というのは、
文学的な手練手管を習得した職人的作家でなければあらわせない、
女を喜ばす熟達の筆をも意味していたのだった。
「可愛らしい反応を示しますね、
奥方は感じやすい身体を持っているんですよ、
それでこそ、正真正銘の女だ。
女は女らしく、女であることの存在感を発揮するように努めれば、
それが何よりの女にとっての幸せということ。
これだけの美しい顔立ちをして、優美な身体付きをして、
その上に、女らしい心持ちを持っているというのであれば、
最高の存在じゃありませんか。
女郎にだって、専業主婦にだって、職業婦人にだって、何にだってなれますよ。
それを、何だか、女だか、男だか、わけのわからないような、ひとが感ずる悦楽の光だなどと!
そのようなとんでもないことを考えている、馬鹿で、阿呆で、気の狂った作者の感化など、
まったくありもしないことをさもわかったふうに感じているようないかさまなど、
そのような萎びた迷妄は取り除かれなければならない!!
世にあまねく知れ渡り、喜ばれるためには、知恵の汚れがあってはならないのです、
これはひとの常道だ。
だから、奥方、
あなたのお話は、まず、迷妄の汚れが拭われるところから書き出されるのが順当と言えるのです。
それは、作者としての特権でありますから、当然、わたしが行うことになる。
ああ、それから、成瀬かおるという実名では、後々、いろいろと差し障りもあるでしょうから、
お話の上では、麗子としておきますよ。
わたしの方は、本名でよろしい、お話の現実感とはそういうものでしょう。
では、よろしく――――


そのようなことをされるのを成瀬麗子は、嫌だなと思った。
しかし、その男の態度には紳士的なところがあったし、知的な感じもあったし、何よりも優しかった。
彼は、知っていたペンネームよりも、鵜里基秀という本名を名乗ったことに好感が持てたのだった。
誘われた場所も西新宿にあるH・I・ホテルであった。
「初めてあなたをお見かけしたときから、あなたが知的な女性であるということがわかりましたよ、
麗子さん、あっ、そう呼んでも、構いませんか、ありがとう、
素敵なお名前ですね、麗子さん……」
部屋に入り、隅にあったテーブルセットへくつろいだ様子で腰をおろすと、鵜里は語り始めた。
麗子もその前の椅子へ座り、気は少々そぞろではあったが、話を聴くようにしていた。
初めての男に、ホテルへ行きませんかと誘われて、
付いてきてしまった自分が安っぽく見られているのではないか、と不安だった。
しかし、知的と言われたことは、自分をよく見ていてくれるという安心感を与えるものがあった。
「いまは、かつてほど社会的な認識がないわけじゃないから、
あのような縛り絵の展覧会、めずらしくもありませんが、
やはり、女性がひとりで入るというのは、なかなか勇気がいるのではありませんか」
鵜里は、穏やかなまなざしを凝らして、麗子の方をじっと見つめるのだった。
麗子は、好きな感じの顔付きではないな、と思った。
その相手の書いた小説にしたところで、一作しか読んだことはなかった、
しかも、女子大生の頃だったから、もう、十四、五年も前のことになる。
物語の内容は、確か、うつぼという名の若者が人生の生き方に悩み、思いと現実を交錯しながらさまよい続け、
最後に、都会の狭い路地を抜けたところの先にある崩れかけたビルのなかでひとりの少女とめぐり合う、
その少女は黒いガーターベルトをひとつ付けただけの生まれたままの全裸を縄で緊縛されていて、
うつぼは、その縄を解いてあげることで初めて気がつくのである、
本当に探していた真実は、ひとりの女性への愛に躊躇している自分があっただけなのだと、
うつぼも全裸になって、ふたりは結ばれ合うという結末、そのようなものであったと記憶しているが、
その結末まで至るのに、全二巻にわたる長大なエピソードの集積はまさに現代文学であって、
それには圧倒されたものだった。
その現代文学の旗手であった作者に誘われたことは、たとえ、古い思い出ではあったにせよ、
いや、古い思い出であったからこそ、甘く切なくほろ苦いノスタルジアを掻き立てられるものであった。
そこへきて、ふたりの出会った場所が芸術的芳香の立ちこめる美術の個展会場であり、
その画家の描く縛り絵なるものは、時代錯誤をレトロと言い換えることが可能であるほど、
時代がかった雰囲気は時代的なディテールおいてリアリスティックに露骨であったにせよ、
それでこそ、ほろ苦く切なく甘いノスタルジアを掻き立てられる豪華絢爛としたものであったのだ。
鵜里は画家とは懇意らしく談笑していたところへ、
麗子の存在に気がついて休憩を勧められたのがきっかけであった。
小説家と画家の会話は、シュールレアリズムのメタ言語がどうだのこうだのと難しく、
麗子は、聴いていることをあらわすようにうなずいては見せるものの、さっぱりわからなかったが、
彼女がいとまを告げてその場を立ち去ろうとするのを追いかけてきて、
鵜里が誘ったことは明瞭な対象言語に違いなかった。
たとえ、ペンネームだけは聞き及んでいたにせよ、初対面の男から、
いきなり、ホテルへ行こうと誘われて付いていく女が果たしているものだろうか、とひとは思うだろうが、
麗子は、もちろん、商売女などではなく、れっきとした社会人であるところの三十五歳の人妻であったが、
出張勤務に多忙で家をあけがちな夫との関係はすでに冷え切っていて、かすがいとなる子供もなかった、
生活は何不自由なく、不自由であるのは、暇をもてあそぶ時間をどのように使うかということであったのだ。
そのような境遇を、麗子は、人間なら誰でも感ずる孤独と不幸の親密な夫婦関係であると感じていた。
だから、小説家と画家の幻想芸術的論理学的会話のなかで、
潜在意識の願望が思いもかけない申し出のあらわれとなって作られる出会いはシュールレアリズムな幸せである、
という言葉が記憶に残り、そのあらわれを眼の前にさせられたことは、胸を強くときめかせる驚きであったのだ。
だが、彼女に浮気をしたいなどという思いは少しもなかった、むしろ、そのようなことは不埒なことであった。
男女の関係が単なる不倫であったなら、その男に付いていくことは、到底ありえないことだったのである。
一生に一度、起こるかどうかわからない、手術台上の創造的な芸術の誕生の立会人であり得たからこそ、
倦怠している日常を逸脱できるチャンス・オペレーションは感動的でさえあったのだ。
いや、トーン・クラスターの現実が男女の仲の実際であったにせよ、
その東洋的な瞑想には、肉欲こそが互いを惹きつけ合ったということが実際の行為としても、
ありきりたりな男女の出会いは、図形楽譜のめくるめく表象が電子音の透明なソノリティを超えてしまうように、
理解しがたい深遠な男女の間柄、人類永遠のテーマである男と女の神秘的結びつきを集合的無意識に露呈し、
すべての表現が沈黙を余儀なくさせられるという拒絶が示されるものであるのだ、
少なくとも、いっさいの注釈は無意味であるということにおいて、恋愛の至上がシュプレッヒゲザングされる。
つまり、男が誘い女が付いていったというのであれば、その厳然たる事実だけで、
もはや、世界の意味は、解読などという誤謬の入り込む余地のない、純粋な恋愛の不可思議として自己証明する。
ひとの世にある恋愛の純粋な不可思議、この至上の神秘があるからこそ、
われわれは、あてどもなく悩み、うつろにさ迷い続け、そして、あきらめのなかで出会うのである。
ましてや、その恋愛行為が、不倫というような成さぬ仲の肉体の結合を意味しているのでなければ、
自分ひとりで満喫できるホームシアターのロードショー席がホテルのダブルベッドの上へ転じる想像力、
傷付くようなことが現実になされないなら、展覧会場の芸術便器が自宅の便所へ回帰しているような空想力、
記憶の一ページもポップスの混乱した歌詞が抱かせるイメージのネガティブなポジの現実感というものである。
いや、それ以上に、恋愛を信ずる神秘のかもしださせる予定調和の安堵感は、
本物の小説家は、もの書きというスタイルに真摯であり、
文体は逸脱することはあっても心情は不変であるということだ。
結末がはかり知れない現代文学性にあっては、
わかりにくい伏線をあえて示すことで、
有無を言わさずに相手を納得させるという誠実を示すのである。
それをわかりやすい言葉であらわせば、こうである。
「奥さん、ぼくは、あなたを傷付けるような真似は絶対にしない。
それは、ぼくのプライドにかけて約束します。
ぼくは、奥さんのその美しさに惹かれ、
縛り絵の美を奥さんがあらわす姿を心から感動して見てみたいと思う、
ただ、その思いからお誘いしただけなのです……
ご存知のように、ぼくの小説でも、
縛られた美しい少女が主人公に人生の事実をわからせてくれたように……」 
そうは言われても、妻の立場で夫以外の男性とホテルへ同伴することも、縄で縛られるということも、
何もかも、麗子にとっては初めてのことであった。
彼女は、自分と同い年である相手に、何もかもが初心で世間知らずであるとは思われたくなかった。
少なくとも、相手の小説を理解している程度には、
世の中のことも、男女の仲も、わかっていると見てもらいたかった。
「いえ、縛り絵は芸術ですわ……
縛り絵がわかるかどうかではなくて、芸術がわかるかどうかだと思いますわ」
美しい顔立ちの、特に、魅力的な瞳と唇を輝かせるようにしながら、熟考した末の言葉であった。
鵜里は、言われたことに成程とうなずいていたが、
芸術の理解について話し合うためにここへ来たのではなかった、
書き出しがスムーズに行われれば、早速、展開に移らないと読者の気持ちは冷めていってしまうのである。
「おっしゃるとおりです……
麗子さんは、見た目にも大変魅力的な方だが、頭脳の方も明晰な方でいらっしゃる。
脳は宇宙と同じ、人類に残された最後の神秘、その神秘にひっそりとたたずむ麗子さんの思い……
内に秘められたあなたの心持ちの深遠さ……
ほんの少しでものぞくことができたらいいな、とぼくは思いますよ。
もとより、縄による緊縛の遊戯を楽しむひとは、知的なひとが多いのです。
世間では、エスエムだなどと言って、虐待における愛だとか、苦痛における喜びだとか言っていますが、
そのような理解は週刊誌的なもので、本質は、文学的、美術的、音楽的でさえあるものなのです。
先ほど、麗子さんもご覧になった彼の絵画などは、まさにそれをあらわした至極の芸術表現ですね。
それを文字通りの芸術と理解できるのですから、麗子さんは、本当に素晴らしい女性だ……」
小説家は、椅子から立ち上がっていた、
携えていた黒のショルダーバッグを開くと中身を取り出していた。
眼の前のテーブルの上に置かれたのは、ごっそりとあった麻縄の束だった。
縄を見せられたことは、予知があったのだから、驚くことではなかったが、
それだけの縄の量を持ち歩いているという事実には、尋常でない気配を感じざるを得なかった。
「鵜里さんは、いつも、そうしてお持ち歩きなっているのですか?」
麗子は、思わず尋ねていた。
鵜里は、はっ、はっ、はっ、はっ、はっと高笑いをすると、
相手の顔をまじまじと見つめて言うのであった。
「冗談でしょう、
このような麻縄の束、常時携帯なんかしているわけ、ないじゃありませんか。
そのようなことをしていたら、ぼくは、変態だと思われてしまう。
ぼくは、これでも、れっきとした小説家なんですよ、文化人なんですよ、
そこらへんの変態とは違いますよ。
人間のあることも、人間のまわりにあることも、すべて、芸術として理解できる人間なんですよ。
ぼくは、一流の大学を出て、一流の雑誌に書くことのできる、一流の作家です。
ぼくがこれからあなたと行おうとしていることも、その一流の芸術なのです。
これは、今日、たまたま、偶然に、何とはなしに、ぼくが持っていたものに過ぎません、
その千載一遇の機会に、あなたは、偶然的にめぐり合ったということです」
千載一遇とは随分と大袈裟な表現だなと感じながらも、
麗子は、それを一生懸命語る相手にむしろ親しみを感じるのであった。
小説家というイメージはかけ離れた存在だと思っていたことが、急に身近に感じられることだった。
だから、「麗子さん、立って」と言われたとき、
恥ずかしく不安な思いはしたが、素直に従えることでもあったのだ。
「両手を前に出して、そう……
手首を重ね合わせてください……
いいですね、軽く縛りますよ……痛くはないですよ……」
麗子は、胸がどきどき高鳴ってくるのを必死に押さえながら、言われるがままになっていくのだった。
言われるがままになることが、さらに胸を高鳴らせ、
その高鳴る戸惑いは、甘美に疼かせるものを感じさせるのだった。
相手の言う通り、重ね合わせたほっそりとした手首へ幾重にも巻きつけられてきっちりと縛られた縄は、
少しも痛くなかった……。
鵜里のうっすらと笑みを浮かべた顔に、麗子は、信頼できる相手を意識できるのだった。
「凄く、きれいですね……。
そうして、手首を縛られているだけで、
麗子さんの女らしさは匂い立つように美しさを増しますね……
いいなあ、とっても、いい……」
小説家は少し離れた位置までさがって、
頬を赤らめながら戸惑いの表情を浮かべて立っている女をつぶさに見やるのだった。
「上着を取ってみて、ブラウス姿でそうしていたら、どんなにいいだろうなあ……
いいですか?」
そのようなことをされるのを麗子は、嫌だなと思った、
何だか男の勝手にされていくだけのような気がしたからだった。
だが、嫌だとは感じても、手首の縄を一度解かれて、スーツの上着を丁寧に脱がされていくと、
「両手を後ろへまわしてください」と優しく言われる言葉が、
拒むことをとても野暮ったいことであるかのように感じさせるのだった。
「大丈夫、少しも痛くありませんよ……
もう経験済みですから、わかりますよね」
そろそろと後ろ手にさせた両手首が重ね合わされると、
鵜里の縄はするすると巻き付いて、きっちりと縛り留められるのだった。
小説家の表現通り、少しも痛みはなかったが、
不自由な両手は、逃れられない立場を強く意識させ、心臓をさらに激しく高鳴らせるのだった。
「前の方へも少し掛けますが、これも痛くはありませんよ……
いいですか?」
いちいち、いいですか、と同意を求めるのは安心感を与えるようでもあったが、
相手の答えなどまるで無視したように、どんどんと事は進められていくという感じであった。
だが、その強引さは、むしろ、言葉の優しさ以上に男らしさを感じさせて、頼もしかったのだった。
麗子は、胸の上部へまわされた縄を意識させられたとき、初めて縛られているという思いを実感した、
それが胸の下部へ縄を巻き付けられたときには、拘束されているという思いへと変わっていくのであった。
後ろ手に縛られた上に、両腕をがっちりと締め込まれたことは、
相手の言うように、確かに、痛みを感じさせられるものではなかったが、息苦しさのあったものだった。
乳房を挟むようにして上下に掛かった縄は、胸をどきどきと痛いくらいに高鳴らせるもので、
戸惑いと不安と恥ずかしさの入り混じった思いは、咽喉を詰まらせるくらい甘美なときめきを感じさせていた。
画廊で眺めた緊縛された女性の絵からは、想像もつかなかった痛痒い傷の疼きのようなものがあったのだ。
傷? そのようなものは身体のどこにもなかった、
だが、ぱっくりと開きそうになっているピンク色をした肉の見える傷口が感じられるのであった。
「いやあ、きれいだなあ……
麗子さんは、本当に縄の似合う女性ですね……。
その美しい姿、ベッドの上へ横座りになった姿勢でもっとよく見てみたいなあ……
いいですか?」
麗子は、何かを言いかけようと思ったが、言葉が結ばなかった、
結ばれていたのは身体の方ばかりであった。
鵜里の手で背中を押されるようにされて、
ダブルベッドの上へ縛られた我が身を乗せさせていくことができることだったのだ。
「麗子さんは、ルックスも、スタイルも、とてもきれいな方ですけど、
そうして縛られた姿の美しさは、言葉の及ばないくらい素敵なものですね……」
横座りになった姿態を正面にさせられて、
顔は上げてはいたものの、女の羞恥心はまなざしをそらさせ、
柔らかに波打つ亜麻色の髪がそっと頬にかかる風情は、
女らしい色香をふくいくと漂わさせるものであった。
「女性だから、縛られれば誰でも縄が似合う、というものではないのですよ。
男がイタリア料理をするときには、
ロッシーニの序曲をリッカルド・ムーティの指揮で聴くことが似合うように、
日本の女が縛られるときは、
侘び・寂び・粋のかもしだされる縄の意匠がめもあやに施されなければならない。
その美しさも、最高に発揮することができるのは、
本質的な被虐を匂やかに漂わせる美女でなければありえない。
女はいじめられた哀しい姿にあってこそ、その本来の崇高な美しさをあらわす、
これは、誰が言った言葉か知りませんけれど、けだし、名言ですね。
ひとやものがあらわす姿には、すべて深い意味があるということです。
ぼくの小説でも、主人公に答えを見出させる美少女は、黒いガーターベルトひとつだけの姿でいた。
その意味がわかりますか、それは、ぼくが黒いガーターベルトの美少女が好みだからというのではない。
そのような次元の低い話ではない、すべてのひとやものには、隠された意味があるということですよ。
われわれには、普段気づくことのできない、深い深い意味があるからですよ。
その不可思議を、相反と矛盾のありようなどと単純に言ってしまったのでは、
世界を手のひらからボロボロと取りこぼしているというだけですよ。
世界には、いろいろなひとがいて、いろいろなものがあって、それらにはすべて意味があるのです、
その本当の美しさとか真実のありようといったことは、知ろうと思っても簡単にわかることではない、
だから、本当の美しさとか真実としてあるのですよ。
それをわかったふうなところから出発するような考え方は、
結局は、みずからが無知であることを知るという、ソクラテス的な意味にしかたどりつかないものです。
それは、古い哲学じゃありませんか。
ぼくたちの新しい哲学は、人間を豊かにする恋愛から出発するものでなくてはならない、
いいですか、間違っても、ポルノグラフィで行うなんて趣味の悪いことをしてはならないのです。
いいですか、恋愛の不可思議、神秘、至上、崇高は、
ぼくたちにとって、わからない謎であるからこそ、意味があるということなのですよ。
情欲や肉欲の表現であからさまになんかできない、人間存在のメタファーとしてあるからなのですよ。
ぼくたちはね、そのメタファーに導かれて、見えない謎を探して、
このひととものの不可思議の世界をさまよっているのですよ、
ワンダーランドですよ。
麗子さんのそのように縛られている美しい姿も、
世界の謎があらわれているメタファーというものですよ。
それでなくて、どうして、あなたとぼくは、この瞬間、ここにいるのでしょう。
あなたの謎とぼくの謎が、恋愛のメタファーにおいて、偶然的出会いを成し遂げているからでしょう……」
いつまで喋らせておいても終わらない、世界の終末が来てさえも終わらない恋愛の思いであるからこそ、
後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ横座りになった美しい女も、心地のよいボサノバのように聴けるのだった。 
小説家はおもむろに、黒いバッグから、黒いガーターベルトをひとつ取り出した。
「ぼくがあなたにこれをそっと見せるだけで……、
あなたは、このひとつの黒いガーターベルトが意味することをみずからのうちにメタファーする。
世界に対する注釈など、誤謬を招くに過ぎないことがわかっているほど、明晰なあなたは、
みずからが何を為すべきか、
記号という言語の色彩豊かな表象を脱ぎ去って、あらわすのです……」
鵜里基秀は、まったく冷静であった。
彼は、あわてる様子も、感情を激することも、相手に対する思いやりを欠くことも、いっさいなく、
美しい女を縛っている麻縄を手際よく解いていき、抒情的叙事が感傷的熱情に重なり合う場所を示すのだった。
緊縛から解放された女は、それが束縛から解き放たれたことではないことを知っていた。
そのような肉欲を意味するような安っぽい感覚ではない、
謎と不可思議と神秘から撚り合わされた縄は、
彼女の思いのメタファーを縛る緊張感を与えていたのだった。
美しい女は、ブラウスを脱ぎ始めていた。
小説家は、美しい自動人形が着せられた不似合いの衣装を取り去るのを眺めるように、見つめていた。
ブラウスが肩から落ち、スカートが降ろされ、シュミーズが脱ぎ去られていくと、
ブラジャーとショーツだけの姿になったからといって、女はためらいを示すようなことはなかった。
世界の終末にまで至る謎に比べては、女のあらわにする生まれたままの姿ほど、ロジックなものはないのだ。
衣服の脱ぎ取られる順序が整然としているように、静穏なパッションはビッグバンそのものであるのだ。
すなわち、最後の下着が取り去られてあらわされたヌードは、
安っぽく陳腐でおこがましい表現をおのずから拒絶するものであったのだ。
それは、小説家に眼にあって、心のうちにドデカフォニーとして鳴り響けばよいことで、
そのメタファーに何を見るかは、すべてのひとに固有の音階であるというセリーだからである。
ハーモニー、それは世界が響かせればよい、
リズム、それは宇宙のしじまであるということだ。
メロディーとして奏でられることは……
麗子という美しい女神は、
黒いガーターベルトをひとつ付けただけの姿で、
縛り絵の女性の超現実的なメタファーとして、
小説家の神秘な恋愛の超絶技巧的な愛玩によって喜びの美を顕現させたというアナロジーである……。


――――いや、奥方、まだ、終わってはいませんよ、導入部が終わったばかりですよ。 
あなたのその柔らかい箇所にある、こりっとした可愛らしいお豆も、
わたしの熟達した筆から紡ぎだされる文字の愛撫によって、こんなにも尖ってしまっている。
どのような美しい顔立ちをしていても、澄ました顔をしていても、女は女なのですよ。
女であって、女以上のものでも以下のものでもない、正真正銘、女という生き物でしかないのですよ。
嘘やでたらめやたわごとを言っているんじゃない。
奥方をいかせるのは簡単ですよ、わたしの指先ひとつでどうにでもなることですよ。
奥方がいくら拒もうと、奥方の身体がそれを求め、奥方の思いがそれを高めようとすれば、
身体と思いはひとつになって、今度は、わたしの指が離れることを拒絶するようにさえなる。
だが、わたしは、奥方をすぐにはいかせませんよ。
奥方はわたしの手中にあって、
わたしがあるからこそ、あなたを気持ちのよいところへ連れて行くのは、わたしだと思い知らせたい。
もう、すでに、奥方のあふれ出させた女の蜜で、わたしの高潔な文学の指先はぐちょぐちょになっているが、
低級な官能表現に堕する似非文学とは本質的に異なるってところを、もっとわかってもらわなくては。
成瀬麗子のお話は、このようにして続いていくのですよ――――


静穏な自宅の居間で、ゆったりとしたソファへくつろいでいた麗子は、満たされぬ思いを感じていた。
あの現代文学な小説家とのたった一度の時間が永遠を思わせる記憶となって心を疼かせているのであった。
巧みと言えるその縄さばきでさまざまに縛られただけで、何度も何度も女の喜びを知るようにいかされて、
独創的な作者の固有なエピソードの集積は、ローラーコースターな圧倒的印象を彼女のなかに刷り込み、
その文学作品こそは、何度でも何度でも読み返すにあたえする傑作であると思わざるを得ないものだった。
いまは絶版となって、リサイクル・ブック・ショップでさえ見かけないという不当な評価以上に、
麗子は、その本の読後すぐに廃品回収へ出してしまったことに、宗教的罪深ささえ感じるのであった。
確かに、偉大な文学作品をないがしろにしたという罪は、異教の宗教を信じるくらいに罪深いことである。
もとより、日本固有の宗教が神道にあるのか仏教にあるのか、それとも、あまたの民間信仰にあるのかを、
正面切って取り扱わないことに、もしくは、堂々と無視することに日本文学の矜持があるというのに、
家庭の居間には、礼拝の対象として祭壇の代わりに文学全集があってこそ、日本信仰であるというのに、
廃品回収へ投棄してしまう、それも、読後すぐにというのであれば、宗教的罪悪と言わなくて何であろうか。
麗子が偉大な小説家ともう一度逢瀬を持ちたいと望んでも、彼女は数多いる熱烈な愛読者のひとりに過ぎない。
その顔立ちの美しさや姿態の優美さがどれだけのものであっても、そのような美女はざらにいることである。
そのような表層的なことよりも、文学をないがしろにするという心持ちのへし曲がった女というものを、
真摯で慈悲深く尊厳に満ちた文学者は、女であるがゆえの愚かな存在であるとしか見なさないということだ。
その女がどのように文学者を恋焦がれようと、精神の淫乱は肉体の錯乱以上に見下げたものであるしかない。
その上、そのような思い上がった心持ちにある女は、その満たされぬ淫欲の罪深さを改悟するために、
日本文学が決して行わない宗教信仰の明示ということにつばをかけるように、
根拠の不明な、得体の知れない、うさん臭さに満ち満ちた新興宗教に救いを求めるようなことをするのである。
であるからして、満たされぬ思いに漂う麗子がゆったりとしたソファから立ち上がって、
教団の導師と呼ばれる醜く太ったちびの男の前へ立ったとしても、誰の同情も買うことはできないのである。
夫が汗水垂らして懸命に稼いだ収入をお布施と称して百万円を導師へ奉納したとしても、
彼女のへし曲がった心持ちが行わせることであれば、呆れられることではあっても、誰の心遣いも受けない。
偉大な小説家の導く教えに心底傾倒できないような女は、思い上がった教えのなかに自己を見出すほかない。
「おまえの肉体に取り付く悪魂を取り除かなければ、おまえは幸せにはなれないぞ」
醜く太ったちびの導師は、眼の前に立った美しい人妻へそう言い放った。
人妻は、教団のイニシエーションとして教えられていた通り、身に着けていた衣服を脱ぎ始めるのだった。
その場には、純白のローブをまとった導師のほかに青いローブをまとった男性の信徒が五人いたが、
人妻にとって、それが我が身を苛む罪深き思いから救われる道であれば、羞恥は取るに足りないことだった。
生まれたままの全裸をあらわにしたその白さと優美さは三十五歳の年齢とは思えない輝きであったが、
導師にとっては、罪深いすべての女のひとりが眼の前で裸身を震わせているということに過ぎなかった。
「ひとはひとに過ぎない。
わしは、悟りを開いた者であるから、わしは、純粋にはひとではない。
わしには、純粋にひとである者へ取り付く悪魂というものが、精神にも肉体にも存在しない。
わしは、ひとの心というものを超越していることにおいては、全体性の認識を得ている。
ひとの肉欲を深奥へ至っているということにおいては、悦楽の光というものを認識している。
ひとの心よりも、さらに、それを包括する全体性の認識というものがあり、
ひとのオーガズムよりも、さらに、内奥に悦楽の光があるという境地である。
これは、ひとには到底不可能な修行において、真性悟りを開いた者だけが到達できる境地である。
おまえたち、ひとには、その過酷で永続な修行をまっとうすることは不可能であるから、
わしがおまえたちを導き、おまえたちを全体と悦楽の認識へ近づかせるのである。
最高位の境地は、ひとでない者にとっては、ほんのひと跨ぎのことに過ぎないが、
おまえたち、純粋なひとにとっては、遥かにかけ離れた太陽と冥王星の位置にある。
互いを牽引と反発の間柄とする重力は、おまえたちの精神と肉体の関係では悪魂というものである。
精神と肉体の関係は、ひとつに結ばれ、繋がれることがあって、悪魂を打ち消すことができる。
それを行うのは、過酷で永続な修行の果てに導師となった者の叡智から撚り合わされる縄である。
破邪顕正(はじゃけんしょう)といって、不動明王が左手に持つ羂索(けんさく)のことである。
おまえは、その縄で縛られることで精神と肉体をひとつにし、
悪魂を打ち破り、真の正義を明らかにし、ひととしての真性の幸せをもたらされるのである。
おまえの身体に取り付いている悪魂を取り除くという衆生済度(しゅじょうさいど)により、
おまえは不動の羂索を厳しく打たれる幸せを与えられるということである。
それであっても、おまえは、どのように全体と悦楽の認識を感じ得ようと、それは到達できた境地ではない。
おまえは、ひとである以上、その境地に近づくことができるだけである。
おまえは、ひととしての最高の幸せを感じることはできるが、
それは、修行の永続を意味するものであり、何度も何度も、おまえが縛られることによって行われる。
いま、そこにそうしてあるのは、その始まりに過ぎない。
しかし、それでさえも、おまえに喜びをもたらすことができるのは、
この世において、ひとを幸せに導くものは、この全体と悦楽の認識があるからである。
すべての感覚、すべての思想、すべてのひとのありようは、
この全体と悦楽の認識のなかに包含されたものでしかないからである」
醜く太ったちびの導師は、左手にしていた麻縄を高々と掲げるのであった。
生まれたままの全裸をさらけ出した人妻には、そのほとんどが理解しがたいという説法であった。
あたりまえである、科学的に立証できないような思想は、たとえ、どのように優れたものに見えても、
嘘、でたらめ、ごまかし、似非、おためごかし、詐欺ということでしかないものだからである。
まことしやかに語る言語表現のレトリック、テクニック、スタイリスティクでしかないからである。
あまねく、平等に、等価にひとを説得できるものは、公然とした風雪に耐え抜いたものでしかないのである。
どこの馬の骨ともわからない、うさん臭い、得体の知れない、いんちきなとんちき、
そのようなものに帰依しようとする女は、まどわされ、たぶらかされ、かどわかされたにしても、
ひどい目に合わされる末路を誰が嘆くと言うのだろう、悲しむと言うのだろう、慟哭すると言うのだろう。
教団の信徒であると言えば聞こえはいいが、
実際に行っていることと言えば、
修行と称して、
何ひとつ身に着けることを許されない生まれたままの全裸の姿で、
修行を誓うあかしとして、
股間にある羞恥の翳りを剃毛され女の割れ目をこれ見よがしに剥き出しにされ、
醜く太ったちびの導師の指図に従って、
五人の男の信徒らから、
よってたかって全裸を縄で縛り上げられ、
緊縛の四十八手のごとくに、
ひとの肉体の耐え得る限界まで、
さまざまな姿態に縛られ異形にされながら、
その度ごとに浄水だと言われて、
五人の男のひとりから放出されるスペルマを顔面へいただくのである、
長い時間の緊縛と恥辱と陵辱に翻弄されて、
ついには前後不覚へ陥った女の精神と肉体にあって、
抵抗のまったくできなくなった相手が確認されたあとは、
導師が祈祷室へ女を運ばせてふたりきりになると、
女が泣きじゃくり喜悦の声を上げて全身を痙攣させるまで、
穴という穴を器具で責め抜いて、
全体と悦楽の認識とやらへ至らせるのである、
生きていて、
そのような全身の喜びなど感じたことはなかったと悟りを開いた女は、
導師の求めに応じては、
いつでも、
全裸になり、
修行の身へみずからを捧げることをするのである。
まったくもって描写にあたえしない、醜悪、卑猥、非文明的ありさまであるが、
それも、ただ、その人妻が栄光の日本文学をないがしろにした罪悪から始まったことである。
だから、成瀬麗子の名前など、誰も憶えてはいない。
もし、記憶に残る女があったとすれば、
思い上がった愚かな女がひとりの女郎として取り扱われたと言うだけである……。


――――少なくとも、かおるなんて名前は、さらさら、誰にも知られないということですよ。
奥方、わかるでしょう?
このような話、どのように頑張ったところで、竜頭蛇尾なものにしかならない。
だから、くだらないことなど考えるのをやめて、
さっさといかせてくださいとでも言った方がどれだけましか。
どうです?
言ってみたら、どうです? 
別嬪さん!」
鵜里のもぐり込まされていた筆だこの指先は、少しずつ奥へと沈められていくのであった。
かおるは、このような男の言いなりに身体をもてあそばれていくことが、嫌で嫌で仕方がなかった。
いかせてくださいなどとは、口が裂けても絶対に言いたくはなかった。
だが、相手のささくれだった指先は、その口の間際まで侵入していたのだった。
感じたくはないと思っても、もてあそばれる肉体は、おのずから感じることをさせるのだった。
我慢していても、もぐり込まされた異様な形の指先は、ぐりぐりと快感を伝えてくるものであったのだ。
黙って任せていれば、相手の手に落ちてしまうことはわかり切ったことだった。
だが、緊縛された身の上では、どうにもならないことだった。
あらがうにしても、言葉や悲鳴や泣き声でしかあらわせないことだった。
しかし、それは浮世草子の作者が最も得意とする感情移入の方法であったから、
むしろ、相手の術中にはまるだけであった。
手をこまねいて見ているだけの本編の作者である鵜里基秀氏を頼みにすることは、とてもできそうになかった。
どうにもならないことだった。
女は女らしく、か弱さのままに、されるがままになる存在を悟るしかないのであった。
だが、それも自覚、これも自覚、あれも自覚である。
かおるは、この窮地を自力で乗り越える以外にないと考える自覚を意識するのだった。
言い換えれば、かおるは、自分が本編の女主人公であることに初めて目覚めたのであった。
いままでは成り行きで仕方がない、と思うようなことであったかもしれない。
素っ裸にされた身体を縄で縛り上げられ柱へ繋がれているのだから、
されるがままになっていてあたりまえのことであった。
しかし、認識ということは、新たに創り出されるもののための道具ではないのか、
一度得た認識というものは、それより以前へ戻ることができないものであればこそ、
認識ということであるのではないのか……そう思うのだった。
「鵜里さまとおっしゃいましたわね……
あなたのお話、とても興味深く聞かせていただきましたわ……
あなた、すごくお上手なものですから、
かおるは、嫌だ嫌だと思いながらも、どんどんと高ぶらされて、
あなたのおっしゃることが全部本当のことだと思うようになり始めています、
ああっ、もっと激しくなさっていただけると、
かおるは、あなたがおっしゃる通りに、
あなたに、いかせてくださいとおねだりすることができると思います……
そうです、そうですわ……そこ……そこをもっといじめてください……
ああっ、ああ……いい……とても、いい……鵜里さまがしてくれているのですね、素敵……
でも、素敵な鵜里さま……無粋な方がいらっしゃいますわ、
階段の上がりばなから顔をのぞかせて、ひどく血相を変えた足軽の方があなたを呼んでいますわ……
何か、緊急のことでも起こったのでしょうか……
わたしは、こうして鵜里さまに気持ちよくされて、離れていって欲しくはないのですけれど……
残念ですわね、あなたとお別れしてしまうことになるなんて……」
浮世草子の作者は、相手の股間の感触に夢中になるあまり、気がつかなかったのだった。
かおるを十字架にはりつけた足軽のひとりが階段から顔を出して叫んでいたのである。
「もの書きの先生!
そのような悠長なことをしている場合じゃありませんぜ!
殿が先ほどからあなたをお探しだ!
ここにいたことがばれたら、お手討ちになるかもしれませんぜ!
何しろ、十字架は片付けもせずに庭へ放り出したまま、
その上、殿の最愛の女をおもちゃにしていたとなると……。
とにかく、早く来てくだせえ!
そして、先生の優秀な創作力で、うまい嘘をこしらえてくだせえ!
足軽なんて替わりはいくらでもいる、首など簡単に切られる、
もの書きだって似たようなものじゃないんですか!
おれたちの首が危ないんです!!」
浮世草子の作者は、ただ、あわてふためいてその場を立ち去っていくしかなかった。
命がはかりにかけられた前では、女をなぶって楽しむことも、所詮、作り物のお話に過ぎなかったのか。
かおるには、その答えを思いつめてみようという気は起こらなかった。
できれば、しばらくは、ひとりで休ませてもらいたいという思いでいっぱいだった。
眼の前に置かれた鏡台の縦長の鏡に映るみずからの姿を眺めていると、
疲れから知らず知らずのうちに眠りへ落ちてしまうのだった。




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