借金返済で弁護士に相談



見つめている。
そこに打ち捨てられた縄を見つめている。
幾十本もの細い植物の繊維が撚り合わされてできている縄。
なまめかしく螺旋をえがくその姿は、
ひとの細胞にあるとされるわれわれの歴史を遺伝するDNAと同じ形状をしている。
その縄をひとは結ぶ、
その縄でひとは結ばれる。



東京の閑静な住宅地域にある住まいだった。
夫婦の寝室はその家でも最も奥まった場所にあった。
夕食が終わり就寝までの余暇を楽しむような時間帯であったので、
あたりをまったくの宵闇と静寂が支配しているというほどのことはなかった。
たとえそうであったにしても、防音の施された窓とぶあつい布地のカーテンの遮蔽は、
ため息に始まりうめき声やむせび泣き、泣きじゃくることやよがり声、或いは、
絶叫でさえも外部へ伝えることはなく、ましてや、その物音がどのようにして作られているかなど、
近所の不審を買うような趣きはいっさい示されていなかった。
家のなかにいる者はそのなかで行われることに集中できる、比較的よい環境にあったのである。
その寝室にあるクローゼットの開かれた扉には大きな鏡が取り付けられていて、
渡された棒を跨がされた女の姿が映し出されていた。
部屋の中央に据えられたダブルベッドは蔦の絡まる装飾の鉄柵が頭と足もとに付いた立派なものだった。
そこへ渡された金属の長い棒はそれに劣らず虹色の光沢を放って冷徹な存在感を堂々とあらわしていた。
棒の一本あたりの値段は決して安価なものに見えなかったが、その価値が実用性にあるのか、或いは、
美術的効用にあるのか、それ自体が置かれているというだけでは判断しきれないところであった。
手術台の上のミシンとこうもり傘の並置という、
シュールレアリストの金科玉条的様式の例を待つまでもなく、
それ自体の完全無欠とした実用性が異なる目的の主体として厳然と並置されたとき、
そこに現出される美は、本来われわれが無意識として抱いている魔術的なリアリズムなのであるから、
虹色の金属棒においても、寝台の上にあってそれと並置されるだけの実用性が示されたものであれば、
少なくとも、美の現出ということにおいて存在理由を持つものと言える。
この場合、並置されているのは、女だった。
この女は、一般的に女という言葉から想起される漠然としたものでも、抽象的なものでもなかった。
芸術に関わる、ひょっとすれば自家撞着にさえなりかねない、
概念的な言語の妄執的組み合わせの表現といったことでの女ではなおさらなかった。
女は明確に定義できるものとしての実用性をあらわしていた、すなわち、
女という動物の自覚のために、特別な場合以外は生まれたままの全裸姿でいること、
女という動物の誇示のために、陰部の翳りは取り去られ割れ目があらわになっていること、
女という動物の飼育のために、縄で縛られ、繋がれ、吊るされることが常に行われること、
女という動物の調教のために、拷問に似た責め苦で官能を鋭敏に保つこと、
女という動物の肉体のために、いつでも挿入を受け入れられるように健康で清潔でいること。
この家で女という言葉が意味しているものはこれしかなかった。
クローゼットの鏡に映し出されている女はそれをあらわしていた。
女は生まれたままの全裸の姿だった。
人間というのは、人の間と書くように、種であるヒトであるとも、
これから進化を遂げるかもしれない先の不明の形態であるとも言えない、宙ぶらりんなものである。
しかし、女というのは明確に定義できるものであった、少なくとも、この家の主人はそう考えていた。
その女であることを本人が自覚するには、常にみずからの生まれたままの姿を見る必要がある。
それも、羞恥という人間の自覚をうながす判断力をもって行われる必要がある。
羞恥を持たない人間は人間ではない、人間が固有なものであると同時に社会的なものであるためには、
羞恥という判断力をもって自己と他者のありようを認識しなければできることではない。
羞恥のない人間は、自己と他者の羞恥の境界を知らないから、暴力や殺人を容易な行為として越境する。
女は人間の進化形態のひとつであるという意味においても、暴力や殺人の行為を超えた存在であるから、
女の自己判断力は羞恥を感ずる以外の何ものをも必要としない、全裸でいることはその自覚である。
自覚が女として誇示されるためには、陰部を覆い隠す恥毛が取り去られている必要がある。
まったくの翳りがなくなったふっくらとした小丘にあからさまとなっている深々とした割れ目は、
女でなくては示すことのできない人間形態の唯一性を羞恥をもって証明していることであるからだ。
その女は妊娠して子を産み出すという以外の生産性を持っていないから、飼育されるものでしかない。
女の生まれたままの姿には赤い縄の緊縛の意匠が施されていた。
日本には捕縄術というものが室町時代中期に中国から伝来したことを始めとして存在する。
その伝統と江戸時代に至っての様式の確立からすれば、
結び方や縛り方や縄の色などには相応の信仰があらわされているとされる。
しかし、そのような信仰のない者が縛った表象にそれらしい意義を押しかぶせたとしても、
女体緊縛はエロでも暴力でもなく芸術表現だと言っていることと同じで、おためごかしなだけである。
女がふたつの乳房を際立たせられるように菱形の文様の織りなされる縄掛けをされているのは、
それが長い時間の拘束を可能にするからであり、赤い色も白い肌に映えるからという理由にすぎない。
そうした美意識もさることながら、
縄による飼育がおよそ人間が考え出したあらゆる被虐の形態へ身体をさらさせる、
ということの方がより必然性を持った女と縄の相関関係である。
従って、女が後ろ手に縛られて両手の自由を奪われているありさまは、
みずからの意思では何も行うことのできない家畜とされる原初形をあらわしていると言える。
どのような動物でも飼育されているだけでは、死ぬまでの時間を引き延ばされている生にしかすぎない。
調教ということが行われることによって、辛苦は伴うであろうが、動物も生の充実感を味わえる。
女にとって最も充実感のあるものは官能の極みを味わうことで、その特質を遺憾なく発揮させることである。
すでに、自覚、誇示、飼育の段階で被虐のありように耐えられない人間にとっては、
調教を引き受けることによって達成する女という存在の自立は、不可思議か異常とさえ見えることである。
しかし、これは女の特質によることで成し遂げられることである。
これまで、女が被虐を受け入れる傾向をマゾヒズムという性的欲求の現象的分類化として見てきたが、
それは文化の歴史において、女が被虐の存在であったことを例証・立証しやすいということによるだけで、
女の特質は被虐を喜びに変えられるということではない。
その特質は、たとえば、出産時の死ぬ思いの苦痛を耐える喜びといった矛盾・相反する感覚の同一性を、
官能として全体化できることにある。
女は調教として、生まれたままの全裸姿を縄で後ろ手に縛られ、逃げ出せないように天井から繋がれた上、
ベッドの鉄柵へ渡された金属棒をあらわにされた割れ目へ深々と食い込まされるように跨がされていた。
両膝は跪いた姿勢にはなっているものの、ベッドの柔らかなクッションが体重のままに沈み込ませていた。
本人の意思に関わらず、女としての官能はその状況において、
食い込まされた金属棒がもたらす苦痛とそれに相反して刺激するクリトリスと膣への快感をえていた。
その苦痛と快感の同一性を全体性として封じ込めるように、
縛られた後ろ手、身体に施された縄の意匠が開放感を求めさせる拘束の抑圧感を絶え間なく伝えていた。
その開放感とは、女としての官能を絶頂の極みへと運ばせること以外にない。
跨った金属棒へは上気した身体が噴き出せた汗ばかりでなく、
高められた官能を示すようにどろっとしたぬめりがあらわれ、太腿までも伝わって流れ落ちている。
すでに一度絶頂を極めさせられていた。
だが、調教が拷問に似た責め苦であるのは、極めた絶頂が開放感を呼び覚ます間もなく、ふたたび、
本人の意思に関わらず、冷めかかった身体へ無理やり火をともされるように繰り返されることであった。
金属棒へ跨がされている限り続けられるものであった。
それを本人の意思がどのような思いで自己を納得させるかは、言葉の補償作用のようなものである。
なぜなら、このようにしてできあがった身体は、
女という肉体としていつでも挿入を受け入れさせるものだったからである。
鏡はそのように女の姿を映し出しているのだった。
この家の主人が考えた、それが女というものの役割であった。
男としての役割は、この女という家畜の主人になることであった。
女がその特質を持って全体性とする官能を自覚させ、誇示させ、飼育し、調教する主人ということである。
鏡に映し出された女の姿だった。
夫の啓介が妻はこうあれと由美子に定めた姿だった。
ただの浅ましく情けない姿が官能の喜びにひたっているというありさましかない、と感じさせるものだった。
鏡が映し出す自分の姿を見つめる由美子には、疑問符はいっさい必要ないと思わせるものだった。
浅ましく情けない姿にある自分を知れば知るほど、興奮を感じ官能の喜びへと高まってしまう自分、
高校生のとき、初めてこのような自分に気がついて、抑えきれない思いからひとり部屋で全裸になり、
スカーフで手足を縛って、その姿のまま長い時間、思いを解き放つようにして自分を慰めることをしたこと、
そのような行いが罪深いことであるのは当然のことで、幼児洗礼を受けていた信仰者の身では、
その鏡に映し出すような跪いた姿勢で自分の罪深さの救いを祈りとして神へ捧げたことでもあった。
だが、いまはどのような思いで祈っていたことなのかを思い出せないほど、祈りの行いは遠いものとなっていた。
どのようにしても、自分には、収集のつかない思いにあることを解決することはできなかったのだ。
そのような人間が教育者の立場、学校の先生になるなんて間違っている、矛盾しているに違いない。
けれど、ひとから見られる自分が好感のもてる尊敬さえされる人物であろうとすることが、
自分を保っていられるやっとのことだったのだ。
だから、或る男が眼の前にあらわれたとき、自分のショックはどれだけのものであっただろう。
彼がこちらを見つめる真剣なまなざし、それは自分の思いの真実を見透かしているような激しさがあった。
このひとの言うなりになってしまったら、恐ろしいことになる、そう感じさせるものだった、
しかし、一方では、自分が待ち望んでいたことは、本当はこういうことだったのかもしれないとも思えた。
好きなひとだとは思っていなかったかもしれない、年齢も二十七歳離れて親子ほど違っていた。
両親を始めとしてまわりからも反対されたことだった。
だが、従うことのできるひとだと思えることが結婚を承諾させたのだ。
自分が漠然と予期していたことは、初夜のときから実行された。
驚きと戸惑いはあったが、逃げ出そうなどという気持ちは少しも起こらなかった。
世間の常識を超えた女の定義を聞かされたとき、それは自分には祈るということよりも具体的なことに思えた。
本名の美樹を名乗らずに由美子という名を与えられたとき、不確かだった自分には明確な立場であると思えた。
全裸になることを求められ麻縄で縛ると言われたとき、かつての罪深い行いが思い起こされたが、
主人であるひとの掛ける縄が柔肌を通して伝えてくるものは、想像もできなかった異様な感覚であった。
反発する言葉も、抵抗する素振りも、ましてや疑問さえ投げかけずにされるがままになった。
主人は思うがままになる女に嬉しそうな表情を見せ、それは自分を励ますものになることを感じさせられた。
一糸もつけない生まれたままの姿を縄で雁字搦めに縛られてベッドの上へ仰向けに寝かされると、
主人は添い寝して、寝物語を聞かせるように優しく<桃色の女の告白>を語り始めたのだった――

わたしは人一倍淋しがり屋の女だと思っています、
いつも誰かがそばにいないと不安でたまらないのです、
棄てられるのが怖くて、好きでもない相手と惰性の関係を続けてしまうことが常でした、
サディズム・マゾヒズムというのは支配すること・隷属することの厳粛な関係だと思っています、
なるのなら絶対にマゾだと思っていました、
初めて縛られたとき、縄がこれほど肌に馴染むものとは思ってもみませんでした、
恥ずかしいところまでも剥き出しにされて縛られ、長い時間部屋へ放置されたままでいたとき、
なぶられること、屈辱的な思いになること、従順にならされることが、
わたしのなかにあった淋しさなど、どこかへ吹き飛ばしてしまい、
縛られて隷属することに喜びを感じさせたのです、何度でも何度でも縛られることを望みます。

わたしはひとからおとなしそうな性格だと言われます、
しかし、本当は違う性格の自分を相手にあわせてしまうようなところがあって、少々不満でした、
縄で縛られることになった初めてのときも、どのように気持ちを向けたらよいものか迷うばかりでした、
けれど、縄が肌に密着すると、抱きしめられたようにしっかりと受けとめてもらえた感じがして、
自分でもびっくりするくらい激しくのめり込んでしまったのです、
全裸の姿を後ろ手に縛られ胸縄を掛けられただけでそうだったのですから、
乳房を恥ずかしいほど突き出させられる厳しい縛りをされ、
腰のくびれを引き締められてから恥ずかしい割れ目へ縄を食い込まされたときは、
身体全体へ襲いかかってくる拘束感に失神しそうになったくらいでした、
やっと縄が解かれたときの充実感は、ゆるみきった身体に本当の自分とめぐり会えた感じがあったことです。

身体が疼いてくると男を求めてしまうわたしです、
男のひととセックスをしているとき、相手が鏡となってわたしが映し出されます、
そのわたしはとてもきれいに見えるのです、わたしはわたしに安心を感じます、
そのようなわたしの不安定さを彼に見抜かれてしまったのです、
縛られるなんてことは思ってもみないことでした、
背中へ両手をまわしてと言われたとき、自分の思いとは別に身体が言われるがままになっていくのです、
差し出した両手首へするすると縄が巻きつけられると、その強迫された感じは抵抗する力を一気に失わせ、
反応する身体の敏感さがとても恥ずかしくて、締め込まれていく縄へ夢中にさせられてしまうのでした、
今度は縄が鏡となってわたしが映し出されます、ごまかしようのないわたしです、
でも、きれいでないかもしれないわたしですが、とても安定した気持ちにあって喜びがあります。

初めての縄でした、
あれこれと考えることよりも、身体が自然に反応してしまう感じにはびっくりしました、
縛られてよかったと思いました、
恥ずかしくて気持ちのよいことをもっと知りたい、そんな貪欲な気持ちでいっぱいになりました、
そんなわたしを見透かしたように、縄がどんどん巻きついてきます、
裸姿へたくさんの縄を巻きつけられて、身体全体がぼおっとさせられる縄の拘束感は、
我慢しているものを吹っ切らせるようにわたしを強引に押し上げていくのです、
気がついたときは夢中になっていました、
ああしろ、こうしろと命令されるひとつひとつがわたしの恥ずかしさをあらわにしましたが、
いっそう気持ちのよいことへ向かわせるのです、もっとたくさんしてと求めさせるのです。

以前から縛られることには興味があったと思います、
男性と普通にセックスするのはもちろん好きです、
けれど、縄で縛られるということは、別人になったような不思議な気持ちを起こさせるのです、
縄がこんなにも恥ずかしくて強烈なものとは思いませんでした、
我を忘れてのめりこませるものだったのです、
そんなわたしを、意地悪く、最も恥ずかしい箇所があからさまになるような縛りをして、
大きな鏡の前へ見せつけたりするのです。
夢中になっていたわたしはそんな姿に、やめてと叫びたかったのですが、
そんな恥ずかしい姿にさせられて感じてしまっている自分に気づくと、
もっともっと夢中になってのめり込むことが嬉しくてしかたないのでした。

初めて縄が素肌に触れたとき、ざらついているけれども痛くはない感触は、
わたしを待ち焦がれていたとでも言うように熱い感覚となって絡まってくるものでした、
後ろ手に縛られたことは、これまで味わったこともない感覚にわたしを浸したのです、
一糸もつけない身体へ、縄の衣装をまとわされるように複雑な縄が掛けられ締め込まれていくと、
ふたつの乳首は痛くなるほどとがってしまい、身体全体が触覚になるのを感じていました、
身体全体がぼおっと熱くなってしまって、考えることがどこか空ろになるばかりで、
股間へ縄を通されたとき、もうすでにじっとり喜びのあかしをにじませていることがわかって、
恥ずかしくてたまらない気持ちになるのですが、その恥ずかしさが一方では、
股間へ通された縄を早く強く締め込んで欲しいと求めさせるのでした、
わたしは、縛られた縄の言いなりになることこそがわたしであると思いました。

縛られるということに特に抵抗はありませんでした、
もちろん、本格的な経験があったわけではありませんでしたから、恥ずかしさと不安とちょっぴりの期待、
それと、縄を掛けられると自分と違う女に変わることができる、そんな遊びのような気持ちだったと思います
ところが、そんな余裕をもった気持ちも最初のうちだけで、全裸姿にさせられて縄掛けが始まると、
わたしの思いは、どんどん、どんどんと追いつめられて、強がって隠していたわたしの部分までも、
がっちりと複雑に縛られていくほどに、ほどかれて明らかにされていくのでした、
いやだと思っても、縄は無言の強迫を身体全体へ伝え、わたしの強がりなどちっぽけなもの、
もっと大きなものを教えてくれると言わんばかりに感覚をぐるぐると渦巻かせるのです、
縛られたことでこんなに変われる自分が、実は本当の自分なのかしらと思わせるのです、
なぜなら、わたしは、縛られて言われるがままの隷属を示すことが喜びとなり始めていたからです。

最初、縄は思っていたよりも硬くて、乳房へすごく食い込んでくる感じのするものでした、
でも、痛いというよりは熱くしみ込んでくるような感じで、縄は柔らかなものだとも思いました、
手で撫でられるよりも優しくて、歯で噛まれるよりも強烈という感じでした、
後ろ手に縛られたばかりでなく、身体のあちこちへ縄を締め込まれていくと、
立っているのがもどかしくなるくらいの感覚が一瞬気を遠くさせるものにさえなるのでした、
生まれたままの姿の恥ずかしいところにまで掛けられたわたしの緊縛姿を、
縄がとてもよく似合うよ、美しいねと言われたとき、考えてもみなかった思いがしました、
ひとさまから見れば、異様で異常で卑猥であるに違いない姿になっているわたしは、
このような姿になったことが喜びを呼び覚ますほど、きれいなったと思えるものだったからです、
そして、この喜びをもっと大きくしたいと欲張りになるばかりでした。

わたしのなかでは、自分を見せびらかしたいという思いと、
見せびらかしてあからさまになるのは恥ずかしいという思いが激しくぶつかりあいます、
全裸になった姿を縄で縛られたとき、わたしの身体へこのようなひどい仕打ちをされて、
本当は逃げ出してしまいたいくらいなのに、いやだとは全然感じないのです、
むしろ、もっと激しく縄に抱きしめられていたいと思うのです、わたしはわがままなのです、
そのわがままをかなえてくれるように、いつまでも身も心も縄で縛られたままでいたいのです、
縛られたわたしに関心をもってくれて、美しいと感じてくれて、愛されるのであれば、
わたしはどのような縄掛けも喜んで引き受けます、
わたしのいやなことは、縄に縛られて言われるがままの隷属を示せと手ひどく扱われることではありません、
わたしと同じように裸姿を縛られた女がわたしをそっちのけにして関心を奪うことです、許せません。

縄で繋がれる、それを思うだけでグッときてしまうのです、
そのような自分を見抜かれてしまったことは、とても恥ずかしいことでしたけれど、
自分を開放できる場所を与えられたことは、幸せなことなのだと思えるようになりました、
裸姿にさせられて掛けられる縄は、何度行われてもその恥ずかしさは変わりません、
ただ、縄で繋がれるたびに、少しずつ自由になってゆく自分が許せるようになったのです、
雁字搦めに縛られたり、縛られた身体のまま犬のように繋がれたり、苦しい思いで吊るされたりしても、
そんな不自由でひどい状態にあることが自由を感じさせるなんて、本当に不思議なことに違いありません、
けれど、本当なのです、わたしにとって、縄で繋がれるということがなかったら、
自由ということを感ずることも、またないでしょう、
わたしが本当に開放的な気分になって自分を満喫できる自由です。

自分がマゾではないかと思ったことは何度もありました、
女性が縛られた写真を初めて見たとき、それがわたしだったらと思うとゾクゾクしてくるのでした、
わたしが縄で縛られた美しい奴隷となって、命令されるままに従順に従う姿を想像するだけで、
顔がほてり、あそこがジトッと濡れ始めるの感じ、身体がふわっと上気していくのを感じます、
わたしは生まれたままの姿になって、自分を縄で縛って慰めたこともあります、
けれど、それがいけないことだとも思っていませんでした、
精神的にも肉体的にも痛みをともなうことは快楽の近道へ通じることです、
すごく恥ずかしいことをされたときの自分は頼りがないけれど、
とても愛らしい存在であると感じることができます、
いま、あるひとの奴隷になることができて、とても幸せな思いでいます、

縄と聞くだけで、とてもエロティックで卑猥なものを感じます、
虐げられたり責められたりして官能を高められるのは、女の特権ではないかと思っています、
恋人のため、主人のためなら尽くしたいと思うのと同じで、
縄のためならどんな思いをしても尽くしたいと思うのは、
縄で縛られることで自分がどんな女にでもなれるということがあるからです、
わたしは本当に欲張りな人間なのかもしれません、
縄で縛られあらわされる女の数だけ、それを望む多くの方に所有されたいと願うからです、
でも、行われることのあまりの恥ずかしさやひどさのために、
自分はどうしてこんなことをしているんだろうと思うこともあります、
でも、気持ちのよいこと、満足感のためには、耐え忍ぶことも喜びなのです。

わたしがマゾになったのは、特別なことからではありません、
好きなひとの喜んでいる顔が見たい、そのために尽くしたいという、それだけの思いからです、
わたしは、相手の言うがままになる自分、相手のされるがままになる自分、
そういう自分の姿に感じるのです、ひとからすれば馬鹿なことだと思われるかもしれません、
従順、服従、隷属、こういった言葉は、わたしにとって、縄、鎖、首輪、檻、磔柱を意味します、
縛られ、繋がれ、吊るされ、閉じ込められ、見せしめにされ、責められ虐げられているとき、
もうひとりの自分というものがあらわれて、そのわたしがわたしの姿を見つめているのです、
惨めで、可哀想で、情けなく、浅ましく、そんなひどいありさまにいるわたしであればあるほど、
わたしは激しい興奮を感じ喜びが高まっていくのです、もうどうなってもいいさえ思うのです、
これはきっとわたしのわがままなのです、わたしはマゾとしてもっと欲張りになりたいからです――

話を聞き終えると、そこに語られたいろいろな事柄が自分の思いのあらゆる断片に相応するようで、
それは、後ろ手に縛られ、肉体のあちらこちら、恥ずかしい女の箇所を含めて掛けられた縄の拘束感が、
奪われた自由のなかにあることを教えるばかりでなく、
惨めで恥ずかしくひどい姿にさせられていることがあってさえも、
主人に隷属することで感じられる、官能の異様な高まり、喜びの思いを正当化するものであることを悟らせた。
主人は緊縛されて女となった自分の姿を強く抱きしめて唇へキスをしてくれた。
自分は思う存分このひとに甘えられるのだと思った。
このひとの思うがままの女になることで、本当の自分になれると思った。
いま、自分はこの家で女として生きている、それが自分に与えられた明確な役割であるから。
疑問符はいっさい必要ない。
疑問符は生きることに役割を持たない人間が自分をもてあまして悩む玩具のようなものだ。
自分が感じられること、全裸の姿を後ろ手に縛られ身動きできないように天井から繋がれ、
主人が新しい商品として考えた形状記憶合金の金属棒を翳りのない剥き出しの割れ目へ激しく食い込ませて、
一度極めた喜びの絶頂から冷めた官能をふたたび無理やり押し上げられていく拷問のような姿にあって、
その姿にあってこそ、何度でも何度でも自分を解き放つことのできる喜びを感じられるということ……。


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