見つめている。 そこに打ち捨てられた縄を見つめている。 幾十本もの細い植物の繊維が撚り合わされてできている縄。 なまめかしく螺旋をえがくその姿は、 ひとの細胞にあるとされるわれわれの歴史を遺伝するDNAと同じ形状をしている。 その縄をひとは結ぶ、 その縄でひとは結ばれる。 |
記念パーティーが終了すると、啓介は役員たちから二次会への同行を求められたが、 本日中に行わなければならない仕事を理由に断った。 社長の行動は常に推し量ることのできない独断に満ちていたから、役員たちも不思議には思わなかった。 啓介はホテルの前に客待ちしているタクシーに乗り込むと、行き先を告げた。 運転手は九十九里海岸と言われたとき、渋い表情を見せたが料金の倍額を支払うことで承知した。 車は一路目的地へと走り続けた。 運転手はお愛想に客へ話しかけたが、啓介の生返事に会話はいつしか途絶えていくだけだった。 窓から見える夜景も、首都高速を走っているうちはまばゆいばかりの光の集積であったが、 次第に分散へと移行し、ついに途絶えるということはなかったが、まばらな点在へと変わっていった。 啓介は窓外を眺めながら、記念パーティーに集まった三百人を超す人いきれを思い返し、 いま、闇夜に続く平野にともる人の気配に、 この地上で人が途絶えるということはないのだとつくづく思うのだった。 人が集まって営々脈々と生活している……生活してきた……生活していく……。 だが、その人との関わりも、この運転手が最後になるだろう……。 そう考えると、とっくの昔に忘れ去られた古いアルバムのページを開くような思いがこみ上げてきた―― そこには、そのような事実があったのだ、 大学受験のために予備校へ通っていた頃からは三十八年も経っている、 そのとき、人生というものについて本当に悩んでいた、 自分はどうしてここにいるのだろう、どうして生まれてきたのだろう、どうして生きていくのだろうかと、 考えるべきことは受験勉強であったから、そのような思いは足を引っ張るものでしかなかった、 だから、誰にも話すことはなかった、いや、話のできる相手がいなかった、 同級生、同学年生はすべて競争相手だった、 生まれたときから、選抜試験と名の付くことにおいては、 幼稚園、小学校、中学校、高校、予備校、大学、公務員、企業の場で、終生の競争相手であった、 少なくとも、生きていくことの意味は、その競争に勝ち続けて行くことでしかなかった、 その競争に負けて勝ち残れないことは挫折だった、 だが、挫折がそんな生やさしいものではないということがわかったのは、 信じていると思っていることを行動にあらわし、それが実現不可能だと悟ったときである、 人生のありようを「意識すること」として考えた場合、生まれた瞬間から死に至るまで、意識は連続してある、 そこで感じられること、考えられることは、すべて意識されることによってのみありうることである、 意識されないこと、つまり、生以前と生以後は、生にあることにおいては意味をなさない、 意味のあることは、意識されることがなければありえない、 意識のあること、つまり、生きていることにおいて実現されないことは意味をなさない、 この意識の途絶えることのない連続においてありうる終わりのない実践的思想、 つまり、永久革命というものが存在しうる、 この永久革命は、政治・経済・技術・科学・家族・道徳・習慣の変革を実現するものとして、 階級闘争から始まり、民族的舞台を超え、国際的舞台へとひろがり、地球全体に及んで勝利するものである、 その端緒が学生運動であり、そこへ参加することなしには、永久革命もありえない、 なぜ永久革命が人にとって必要であるのか、 それは現在の矛盾と相反に支配されている人のありようを実際に変革できる唯一の方法だからである、 大学へ入学するということは、その目的ある行動の許可証を授けられたことでもあったのだ、 だが、永久ということが永続してあるという意味ならば、実現は当然身近になかった、 身近にあったのは、相変わらずの選抜試験における競争のようなものだった、 永久革命を意義として、実際に行われることがどれだけその意義と矛盾・相反していようが、 最終勝利へ至る道としては、すべてはその目的のためにあるということであった、 男性の同志が女性の同志と交接して孕んだ子供を堕胎させるようなことも、 老婆の生活を支える下宿代を踏み倒し転居する先々でもめごとを起こすことも、目的のためであったのだ、 そうしたなかで、勝ち残れない者は挫折していくのだった、 結局、犯罪者になれないのなら、挫折者になる方を選ばねばならないということで、挫折した。 永久革命の運動者である前に犯罪者になることが最終的な同志と呼ばれるものだった、 つまり、同じ人として、人を傷付け、殺しさえするありようを目的の意味とするということを、 信じていると思っていることを行動にあらわし、それがどうあっても実現不可能だとわかったとき、 その思想が生きていく上で何の役にも立たないと思い知らされたとき、 それに取って代わるものがまったくなければ、あとは何をすればよいか、 お決まりの自殺である、 自殺は人生においてできることがまったくなくなったと思う者が最後に行うことである、 だが、その自殺を考えたとき、とことん突き詰めて考えたとき、 恐らく、突き詰めて考えることをしないで行為を成就させた者には見出せなかっただろうことがわかった、 それは、死ぬ前に一度でいいから、思いのままの欲情を満たしてみたいということだった、 そこにも、ひとつの強い思いがあったのだ…… 女性が生まれたままの全裸を縄で緊縛されている姿を見たのは、 十二歳のときに出会ったエロ雑誌が初めてだった、 横座りになった女性が麻縄で後ろ手に縛られ胸縄を掛けられている姿態を背後から撮った白黒写真だった。 その姿の妖しさは、胸をきゅっと締め付け、 やるせないくらいの胸の高鳴りで身体全体を熱っぽくさせるものだった、 中学へ行く頃には、熱っぽく反応させられるものは如実に陰茎へあらわれ、 慰めずには抑えられないものとなっていった、 だが、どのような緊縛写真でもよいというわけではなかった、 体型があのひとを思わせるようなものでなければ、満足もなかった、 あのひととは、小学校低学年のときの担任教師だった、 名前を由美子と言った、 彼女の顔立ちの清楚な美しさ、姿態の優美さ、そして、何よりもその心持ちの優しさ、 だれかれなく差別をせずに相手を思いやる態度には気品さえあって、嫉妬さえ呼び覚ますものがあった、 そのような気高く美しいひと、そのようなひとを縄で残酷にも縛り上げることなど、 どうしてそのような想像が生まれるのか、不思議でならなかった、 だが、由美子先生が生まれたままの全裸になって後ろ手に縛られ、 美しい乳房の上下にも厳しく縄を掛けられながら、 その自身の恥辱に満ちたありさまを必死に耐え忍んでいる姿こそ、 エロ写真に重ね合わせて想像できる言いようのない欲情を噴出させるものであったことは事実だった、 エロ写真は猥褻なものだった、それで手淫して満足を遂げることはたやすかった、 しかし、緊縛された由美子先生を想像して勃起するものは、おざなりな満足ではなかった、 由美子先生を自分は本当に愛していると思わなければ、できないことだったからである、 由美子先生と自分との関係が実現不可能の恋人同士であることが理想であればあるほど、 いつしか、夢としてしか描けない美しい女性の想像は彼方へと追いやられていき、 サディズムだとかマゾヒズムだとかのお決まりのスタイルだけが現実に見えるようになっていった、 学生運動の頃には、暴力行為をその図式にあてはめて理解できるたやすさを知ったのだった、 猥褻なエロ写真を見て、由美子先生を想像して喚起させられる欲情とはどこか違ったものだったのだ、 それを思い起こしたのである、 みずからを死と面と向かわせる思いの果てに見出したことだったのである、 由美子先生を生まれたままの裸姿にして縄で縛りたい、 その心からの思いが自殺を思いとどまらせ、 その実現のために社会生活を営むことを欲求させたのである、 その変わりようを親を始めとして自分を取り巻くすべての人間が政治運動からの改心だと受けとめた、 だが、自分にしてみれば、心底はそれを望んでいたことに本当に出会えたという思いだったのである、 しかし、由美子先生は自分が二十五歳になったとき、癌で亡くなってしまった、 その四十歳という年齢にあってさえも、追い求めるのに充分すぎるほどの美しさをもっていたのだが…… 失意のうちに思い出を忘却のなかへ埋めるには、仕事に情熱を燃やすというほかなかった、 そして、十年間、勤めていた会社を独立して起業できるまでに至った、 その起業と同時に妻とした女が貴子だった、 貴子は顔立ちも姿態も美しく、育ちも学歴もあって、性根も決して悪くはない女だった、 妻として世間へ出して申し分のない女であった、 だが、普通に行う男女の性愛であれば、男性を口に含むことさえしたが、 縄で縛られることだけは、両手を前にした縛りでさえ激しい拒絶を示すのだった、 そのようなことは、変態か精神異常者が行うことであり、人間としては最低の行為であると信じていた、 会社設立のための出資金を貴子の実家が援助してくれたこともあって、なくてはならない妻だったが、 全裸にした相手を縄で縛り上げなければ欲情の本当の満足を得られない者にとって、 普通の男女が行う性愛は緩慢で起伏がなくただの繰り返しにしか感じられないものだった、 入れて出すという淡白にしかできないことだった、しかも、事業は順調で多忙を極めたという状態にあった、 結婚して五年が経ったとき、貴子はまだ三十三だったから、望む相手をほかへ探すに遅くはなかった、 離婚を切り出したのは貴子の方からだった、子供はついにできなかったから、話は簡単にまとまった、 貴子の実家は出資から手を引くことになったが、それを補填してかつ慰謝料さえ支払うことができた、 コンピュータ関連の事業は急速な成長からの利潤を生んでいた、 実際、それからの十年間はインターネットの商用化も絡んで、女性にかまける時間ももてなかった、 ようやく、五十を過ぎたとき、余暇というものが少し作れるようになった、 だが、五十歳を越すと、性欲もかつてのような華々しいものは望めなかった、 ところが、縄で触発される欲情は普通の性欲とは異なるものだというくらいに精彩を欠いていなかった、 かつて、由美子先生に抱いた想像力は、健在としてその実現への欲求を掻き立てたのだった、 求める女性を探し続けさせたのだった、 そして、ついにひとりの女性とめぐり合うことができた、五十三歳のときだった、 女の名前は美樹と言い、二十六歳になる小学校の教師であった、 何と言う偶然であっただろう、或いは、必然であっただろうか、 その上品な顔立ちに優しさをただよわせる美貌、ふくいくとした色香のただよう姿態、 着物姿がこれほど似合う女性はいないというくらいに華やかで、 その優美な立ち振る舞いと澄んだ声音の喋り方は圧倒的な存在感があった、 由美子先生が二十六歳の年齢のまま生きていれば、かようにあると思わせるものであった、 彼女は友人が経営する女子学校に勤務していて、そこの創立記念に呼ばれて見かけたのであった、 恥も外聞もかなぐり捨てて、彼女へ結婚を申し出た、 それが人生にたった一度の機会であると思えば、人はみずからに素直になれるものだ、 ただ、相手があってのことで、その相手が受けとめてくれるかどうかは別問題だが、 友人が仲立ちになってくれたとは言え、美樹は大いに戸惑ったに違いなかった、 だが、こちらの熱心な求婚に対して、ついには承諾の返事をあらわしたのだった、 娘ほども年齢の違いがあるということもさることながら、 美樹は結婚の条件として、妻の立場としては由美子と呼ばれることさえも承諾したのであった、 そのような奇妙なことを疑問ひとつ返さずに受け入れたのである、 美樹は謎めいた女だった、自分のことを少しも語ろうとはせず、与えられたことだけを素直に行った、 まるで、奴隷のように主人にかしずくことが自分の本当のありようであると言うように、 初夜に生まれたままの姿になることを求め、麻縄で縛ることを迫ったときも、 恥ずかしさのあまり全身を桜色に上気させて、そのまま失神するのではないかと思わせるほどだったが、 何もかもを言われるがままのものとして隷属を示すのであった、 これ以上の存在はなかった、妻としても、女としても、由美子という存在はかけがえのないものだった、 それからの三年間、思うがままの想像を実現させたこととして、人生の至福であった、 だが、それも終わりを告げようとしている―― タクシーは九十九里海岸までたどり着いた。 夏も終わり人気のない場所へ降り立とうとする客をいぶかし気に見つめながら、 倍額の料金を手にしたタクシーの運転手はほくそえんで、エンジン音を響かせながら立ち去っていくのだった。 啓介は海岸に沿った道を無表情に歩き続けた。 寄せては返す潮騒が煌煌とした月明かりのもとに開けゆく大海原の存在を間近に伝えていたが、 彼にはそのふくいくとした潮の香りでさえまったく気にならなかった。 やがて、ゆるい上り坂になる細道まで来るとそこへ入り、雑木林の暗いトンネルの奥へと向かうのだった。 しばらく行った突き当り、まわりには人家のかすかな灯さえ見えない場所に一軒の廃屋があった。 勝手を知った家というように、立て付けのへし曲がった扉を無理やり開けるとなかへ入っていくのだった。 天井はすでに一部が崩れ落ちて、そこからは星のまたたく夜空が見えた。 啓介は上着の左右のポケットから麻縄の小さな束を取り出すと雨ざらしになった床へ置いた。 そして、天井を仰いだ、そこには腐食していたが太い梁がまだ家を支えていた―― 悪い状態にはありたくないものだ、 いまが悪い状態であれば、より良い状態へ移ろうと願う、 そのための努力を人間はする、 世界が円満具足とするためのよりよい世界実現というものをすべての人間は望んでいる、 だが、実際はそうではない。 世界がより良いものになって欲しいと思うことはするが、 実際の変革が行われることを望んではいないのだ、 いまより良く変わるということが本当に自分にとって良いものであるかどうか、 それを恐れているからだ、 より良くとされる変革が実現されたとき、 それがより悪い変革であったらということを恐れているのだ、 世界にとってより良く変わることは望ましいことだ、 だが、自分にとって、変わるということがもたらすものが必ずしも良いとは限らないのだ、 だから、この違いをはっきりと認識せず、 より良く変革することが世界をより良く変えると考えて起こす行動はすべて挫折するのだ、 挫折はその行動が最初から実現するものとしてシナリオ化されているからだ、 実現するものは変革ではなく、挫折ということだ、 世界は円満具足とした状態ではない、これは誰もが感ずることだ、 だから、世界が円満具足とした状態に変革されて欲しいと思う、 だが、その実現が自分にとって円満具足としたものでなかったなら…… 円満具足を欲しながら、円満具足となることを望まない、 これが人間ではなく、自分というもののありようなのだ。 この矛盾に対して、行動をもって解決するほどの批判的な眼を向けることができれば、 「○○運動」「××運動」「△△運動」と言われるものが起こりうる、 そして、そこで挫折した者こそ、その批判した対象の者に最もよく成り変るということだ、 自分がそれだった、 自殺は人生においてできることがまったくなくなったと思う者が最後に行うことである、 あらゆる新規事業に失敗した、 頼みの綱であった、温度が加えられるとその箇所が熱く膨張し、 さらに振動を加えられると波型の小さなうねりをあらわすという形状記憶合金の商品化も失敗した、 せいぜい女を楽しませる道具にしかならなかった、 負債は十億に及んでいる、 返済するめどは立たなかった―― 啓介は着ていたスーツを脱ぎ始めた。 ネクタイを取り、シャッツを脱ぎ、下着を脱ぎ、ブリーフを脱ぎ、靴下さえも取り去って、 生まれたままの全裸姿になった。 部屋の隅に転がっていた木製の椅子を据えると、その上へあがった。 手にした麻縄のひとつを梁へ掛けると環になるように結んだ。 そこへ首を通した。 その姿勢のまま、もうひとつの麻縄を環に結ぶと後ろ手にした両手首を通して締めた。 天井の大きな穴から差し込む月明かりの下、 全裸の男が後ろ手に縛られ梁から首を吊るされている姿が浮かび上がった―― 心残りはない、 由美子は自分という主人がいなくても生きていけるほど、自立した女だ、 彼女にとって、自分はただの通過点にすぎなかったのかもしれない、 願わくば、今年入ったばかりの営業課にいる美青年と由美子が絡み合うところを見たかった、 恐らく、あの美しい青年は皮の剥けていない小ぶりのものに、なよやかな姿態をしているに違いない、 その全裸を縛られた青年の小ぶりを生まれたままの姿を緊縛された由美子が口に含む、 頬張ったものを思いを遂げるまで愛撫するのだ、緊縛の法悦のなかで…… 縄で目覚めさせられ、縄で眼を閉じさせられる人生だった―― 啓介は椅子を蹴っていた。 彼の激しく勃起した陰茎が最後の夢の想像によるものなのか、 或いは、縄の圧迫が肉体へ加える苦悶によるものなのか、本人にはもうわからなかった。 ただ、誕生した場所へ生まれたままの姿で戻った安堵感だけはあったかもしれなかった。 |
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