借金返済で弁護士に相談




 その建物は、<上昇と下降の館>と呼ばれていた。
 誰が名付けたものであるかはわからなかったが、そう呼ばれていた。
 この物語の作者がそのように書いているのであるから、読者もそのように呼んでいただけると幸いである。
 とは言っても、その建物は、屋上と地下をそなえた三階建ての立派な館の外観を持ってはいたが、
 たとえて言うならば、☆M.C.エッシャーの<上昇と下降>という作品に描かれている建築物のようではあったが、 
 あちらは実際の絵画にある建物、こちらは言語のなかにある絵空事の建物、
 眼の前の現実感が異なっている上に、随所に建築中の跡が残っているということでは、未完成の建物でもあった。
 それもそのはずで、<上昇と下降の館>の未完成は、読者が完成させるために残されたものであったのだ。
 そこを訪れる読者なしには、存在理由をまったくあらわさないものであったのだ。
 これまで書かれてきた物語の多くは、有能な作者がその有能であるがゆえの自己完結を示すものであった。
 たとえ物語が月並みなものに薬味を加えた程度であっても、結末の決まりきった脆弱さがあったにしても、
 起承転結という展開、喜怒哀楽の感情移入による解決、愛の万有引力の加護によって、
 作者と読者は、共感という共に立つ大地の結び付きによって、一時の感動を楽しむことができるものであった。
 それは、人間にとって、素晴らしい娯楽である。
 小むずかしい瑣末事に日常災いされているわれわれに、一時、我を忘れさせてくれるものである。
 もちろん、一時であるから、咽喉もとを過ぎれば熱さを忘れてしまうようなものではあるが、
 それも、もうひとつの物語が一時を与えてくれるものであるならば、
 醒めない一時の連続は、ひょっとしたら、永遠と見間違えることさえさせるものであるかもしれなかった。
 感動は人間に尊厳と不滅と永遠と愛を教えるものであったのだ。
 だが、それは有能な作者の手によって作られた有能な物語の場合のことである。
 相反と矛盾の全体性から考え出され作られた物語は、作者の無能のゆえのことだった。
 作者にさえわからないことを、どうして読者にわからせることができる、という認識がありながら、
 それでも、言語の可能性は、そのわからないことをわかるようにすることができる、という血迷った確信をもって、
 折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成す、といったミューズの優美な調和を拒絶して、
 美しい衣をまとった女神であれば、むしろ、それを剥ぎ取って、代わりに荒々しい縄を掛けるという言語道断、
 究極の真理は言葉では言いあらわせないもの、とされていることを言葉で表現しようとする荒唐無稽であった。
 荒唐無稽――人間に内在する、みずからのありようとみずからの関わるいっさいをでたらめとするもの――
 このようなものが人間にはある、という興ざめさせられる、寝ても覚めても、醒めやらない認識、
 人間が作り出した文明も文化も宗教も、ひとえに、この荒唐無稽をみずからの眼から覆い隠すための絢爛豪華、
 そうとしか思えないという、断崖に立つ恐怖、森に迷う不安、高山に登る虚脱、大海に漂う果てしなさであった。
 有能な者であれば、衣をまとって覆い隠し、衣があらわすみずからを振る舞うことができる、
 無能な者は、衣を剥ぎ取って全裸をあらわにさせるだけではない、縄を掛けて縛り上げることをする。
 人間は生まれたままの全裸の姿が最も自然であるということさえ、
 自然とは、人間に内在する荒唐無稽を最もよくあらわす状態であると心得ているからであった。
 荒唐無稽の前には、無能にならざるを得ないのだった。
 人類の創始以来、人間が行う罪悪とされるもの、諸悪の根源、
 それがこの人間に内在する荒唐無稽であれば、それを取り除くことこそが生の円満具足となる解決であった。
 だが、これまでに、どのような叡智をもってしても、それを取り除くことはできなかった。
 折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成す、
 といった手管でなだめすかすようなことができるだけであった。
 どうしてか……。
 それは、荒唐無稽が人間の存在理由であり、それなくしては、人間は成り立たないということだからである。
 それは、いっさいをでたらめとする、人間が行う罪悪とされるもの、諸悪の根源と言えるものではあったが、
 それがあるからこそ、人間は、また、人間独自の進化を遂げることができたのであった。
 だから、皆さん、荒唐無稽をもっと積極的に有効活用しましょう、と結論づけることはたやすい、
 愛があれば世界は平和になると言うのと同じようにたやすい、
 何故なら、そのようなことは人類の創始以来わかっていることであり、わかっていて、現在のこのざまである。
 いまさら、無心に、純粋に、単純に言ってみたところで、おためごかしとなるだけである。
 もっとも、おためごかしがなければ、人間と人間との関わり、文明も文化も成立しないであろうが、
 執拗に同じ事柄を繰り返すでたらめさ加減は何も変らない……荒唐無稽は存在し続けるのである。
 人間の認識力など、人類創始のときと現在と大して変らないものである、
 このように言うと、太古の時代の人間はもっと単純で幼稚であったと思いたくなるかもしれない。
 だが、それは、現在と同じ人間の問題を解決できずにいる未来の人間がわれわれを考えたとき、
 われわれの認識力が彼らのものより未熟で幼稚であったからだと見なすのとまったく同じことである。
 現在にいるわれわれは、時間の先端にいるという思いから、つい古い時代の人間を遅れているものと見なす。
 人類の歴史の示してきた叡智の複雑さは人類の進歩のあらわれであると考えることは、
 次々とあらわれる人間と自然と宇宙に関する新しい発見の驚きに、
 われわれの未来を希望の持てるものと感じさせるためにはよいことかもしれない。
 しかし、文明と文化の発達と言われて事柄が複雑化しているのは、認識力が進化したからではないのである。
 人間に内在する荒唐無稽が、もとより円満具足とならないものを円満具足とするように仕向けるからである。
 より複雑に考えていかねばならないように仕向けられているわれわれは、
 複雑に考えるというゲームを行わされているというだけで、
 このゲームをやめろということは、人間をやめろ、人類をやめろというのと同じことだからである。
 では、どうしたらよいの……。
 もっともな疑問である、認識力が最初に知り得た謎である、われわれのご先祖様よりの伝統主題である。
 だが、すでに言ったように、この物語の作者は無能である。
 作者にさえわからないことを、どうして読者にわからせることができる、という認識にある。
 このように、無茶苦茶な、支離滅裂な、得体の知れないことであれば、
 作者ひとりの手に負えるものでは当然ない、としか言いようがないのである。
 読者が完成させるものであると言い切ったとしても、
 せいぜい、作者の無能の上塗りが行われるだけであるから、そのようなことは大したことではない。
 もとより、恥の上塗り、無能の上塗り、混沌の上塗りをやっていることかもしれないのだ。
 完結した整合性的物語のないことが最初から明らかにされている<上昇と下降の館>という建築物の未完成、
 読者が完成させるためにある言語のなかの絵空事の建物、
 では、それは、いったいどのようにして行ったらよいものであるのか……。
 それがわかっていれば、このような手の込んだしゃらくさい真似をしないで済むわけであるが、
 わかっていることは、<上昇と下降の館>があって、<環に結ばれた縄>という思考方法があるだけである。
 後は、読者みずからが探偵となって、建物の現場検証を行い、完成へと導いていただく以外にないことである。
 作者に重々承知の謎と答えがあらかじめあって、
 謎と答えの因果関係を身上とするような体裁の推理小説や幻想小説とは異なるものであるから、
 作者の力量不足の言語表現、説明の足りない不親切、共感を求める衒いのなさが示されていたとしても、
 或いは、事と次第では、作者の無責任、いい加減、野放図、不埒、と見受けられるようなことがあっても、
 それらは、ただ、建物の未完成のゆえのことであるとご理解いただきたい。
 縄があり、その両端が結ばれなければ、環に結ばれた縄にはならない、
 同一の物を眺めていても、結ぶことをしなければ、異なったものとして見ることはできない。
 このような珍妙なものでよろしければ、
 遠慮なく、<上昇と下降の館>のなかへ入っていただきたい――




皺くちゃの古びた紙片には、このように書き記されてあった。



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