緊縛のリアリティ……。 女性が存在し、その女性が生まれたままの全裸にさせられて、縄があれば、 緊縛は生まれるのであるから、 <緊縛のリアリティ>などとは奇妙な言いまわしと言える。 だが、それでも、<緊縛のリアリティ>というものを思わざるを得ない。 リアリティーとは、現実性、真実性、真実、実体といった意味であるが、 緊縛という行為において、生まれたままの全裸の女体ということが最初の要件となっていて、 どうして、女体が縄で縛り上げられなければならないのか、 この疑問を打ち消すことができないからである。 誤解を避けて言うが、女性という存在を尊重するとか云々はまったく考慮していない。 最初に、緊縛というもののありようを知ったとき、そこには、裸にされた女性が縄で縛られていた。 それは、驚くべき光景であったには違いないが、不自然な感じはまったくしなかった。 それから、機会のあるごとに出会う緊縛のありようは、 そのことごとくが被縛の対象は女性であることをあらわしていた。 男性もないではなかったが、極めて少なかった、 しかも、その緊縛は美しさの感じられるものではなく、様式に至るまでの多様性にも乏しく、 むしろ、貧相な感じさえ与えることは、美のありようにおいては、 男性は女性よりも蔑視されているということを思わずにはいられなかった。 男性は貶められているから、全裸の汚らしい緊縛の境遇にあるのだと言われれば、その通りだった。 「縄で縛られた男性の裸体はもっと美しい、そして、それは人間の作品である」 このように言い切れる現象に遭遇できることは、ほとんどなかったのである。 従って、表現されてきた歴史的常識から、「緊縛は、まず女体緊縛ありき」としてきた。 だが、<緊縛>ということの表現においては、 女体緊縛というありようは、<ひとつの表現>として成立することではあるだろうが、 <緊縛のリアリティ>という観点からすれば、被縛の対象は女性であるべきであるという必然性はない。 言い方を換えれば、女体緊縛というのは、そうあって欲しいという男性からの願望表現であって、 <緊縛のリアリティ>を問われれば、 まことに心もとない、砂上の楼閣のようなものに過ぎないのではないか。 これを反駁するには、緊縛が女体に欠くべからざるものであることを証明する以外にない。 そして、緊縛された女体から生み出される現象が、 男性を始めとしてすべての人間に適用されるものでなければ、 リアリティということはあり得ないことである。 或いは、同等の存在理由を全裸の男体緊縛で示すことができなければならない。 厄介な問題である。 だが、このことが明らかにされなければ、<緊縛のリアリティ>は単なる幻想となってしまうだけである。 実は、まったく別の事柄でありながら、 <熱の入った>思い入れが<緊縛のリアリティ>だと思い込ませていることになってしまうだけである。 この<熱の入った>という部分は、エロスが発動されるということであるが、 四の五の言っているよりは、第一番として、 全裸の女体を緊縛して思いを遂げてしまうことの方がリアリティがあると思えるということだ。 そして、男性が行う女体緊縛の必然性を言うならば、愛の存在が二者を繋ぎとめるとすることである。 愛の存在は、エロスの発動よりも上位にあるとされていることだから、矛盾は生じない。 「全裸の女体緊縛のありようは、愛のあかしということである」 サディズムというありようだって、マゾヒズムというありようだって、フェティシズムというありようだって、 愛のあかしということで説明づけられるのであれば、女体緊縛も同様であって、相反はない。 愛は、人間と人間とを結び付ける、 縄なんかよりも断然、強靭で受容が広く意義深い絆であることは、一般的に認められていることだ。 何だ、大して考えてみるまでもなく、簡単に答えの出せる問題であったのではないか。 <緊縛のリアリティ>とは、つまり、愛が現出させる現象であるということである。 生まれたままの全裸の女体緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか――愛があるから。 生まれたままの全裸の男体緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか――愛があるから。 生まれたままの全裸の老人緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか――愛があるから。 生まれたままの全裸の幼児緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか――愛があるから。 生まれたままの全裸の赤子緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか――愛があるから。 人間には、人間と人間とを心から結び付ける愛があり、それを否定できないからこそ、人間である。 だから、愛ゆえに、生まれたままの全裸姿のあなたを縛らせて…… 縄こそ、あなたとわたしを結ぶ、眼に見える愛の絆…… 緊縛の激しく熱い抱擁は愛の強さのあらわれ…… 緊縛されたあなたが美神のような輝きを示すのは愛の象徴として変容したからこそ…… そうして、交接することこそ、至上の愛のあかしと言えること……。 人類の繁栄、子孫の永劫、人間の勝利……。 まあ、表現であるから、如何ようにも書けることであるが、 人間に内在しているものが<愛>唯一のことであれば、確かにもっともらしいことである。 だが、人間には<荒唐無稽>が内在している。 これは、愛の解決をおためごかしと感じさせるほど、つかみどころのない暴力的な混沌をあらわす。 人間の行いのすべては、 この<つかみどころのない暴力的な混沌>を、 何とかして、折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成す、 といった方法で対処しているということに過ぎない。 もちろん、そこから、最高の叡智が生まれ、輝ける美が生まれ、より善き創造が行われるのであるが、 <荒唐無稽>を消し去ることはできない。 <より善き>があるなら、<荒唐無稽>は<より悪しき>破壊をもあらわすのである。 人間は、<愛>があるからというよりも、<荒唐無稽>があるから、人間であるにとどまるのである、 そう、言わざるを得ない。 だが、このようにあらわすことも<表現>だ。 折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成すための表現に過ぎないことである。 かくのごとく、人類の歴史は紡がれてきたのである。 内在する<荒唐無稽>は、最初からわかっていたことであった。 太古の時代の男性だって、撚った縄で生まれたままの全裸の女体を縛れば、 発動したエロスのさらなる高まりを感じることができたということである。 世界の何処の遺跡にも、そのようなありさまの描かれた事実が残存していないとしたら、 それは、当時は現代ほど、エントロピーの増大による複雑化の過程が進んでいなかったからで、 人間存在の荒唐無稽が強く意識されないということは、ポルノグラフィの存在もなかったからである。 ポルノグラフィの誕生は、人間に内在する荒唐無稽の認識がなくてはあり得ない、 従って、哲学の誕生をもって行われたことである。 哲学とポルノグラフィは、人間を地球に喩えるならば、太陽と月にあたる関係のものである。 この喩えは、少々わかりにくいかもしれないが、要するに、天体の運行と等しいという意味である。 ついでに言えば、ポルノグラフィは、 哲学がそれを認めたら一切を無意味化させてしまう<荒唐無稽>の存在を明示するために生まれた、 哲学が形而上学に終始しようとするものであればあるほど、 ポルノグラフィの示す荒唐無稽は際立ったものになっていくということである。 だから、ポルノグラフィに哲学を認めようとすることは、 哲学にポルノグラフィを認めることがあり得ないのと同様に意味を成さないことである。 むしろ、哲学という男性原理がポルノグラフィという女性原理を撚った縄で緊縛し、 発動したエロスの高まりから、さらなる叡智の認識へと至る、 という喩えであれば、充分に考えられるということを言いたい。 だが、そのためには、両者を結び付ける確固とした<緊縛のリアリティ>が必須である。 <緊縛のリアリティ>の根拠となるものは、確かに存在している。 従って、そこから始めるのが順当なことと言えるだろう。 それは、生まれたままの全裸を縄で緊縛された状態は、 動物が縄で拘束されているありさまと同様な状態をあらわすということである。 人間が人間の規律として考え出した善悪の以前にある状態をあらわすことができるということだ。 生まれたままの全裸の女体緊縛、どうしてそのようなものが存在するのか、 それは、人間がこの地球上に存在するほかの動物と同じ生き物であるからである。 被縛の対象が男体、老人、幼児、赤子と変っても、 それがひとつの動物であるということをあらわすことを<緊縛>は示すことができるのである。 以下のふたつの女体緊縛の絵画は、 このようなありさまが<人間にしかできない>ということで、人間の動物であることを明示している。 |
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桐丘裕詩 画 |
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白石伯山 画 |
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田畑が米や野菜を作り出し生活を満足させるように、 牛や馬や豚や鶏が労働や食を生み出し満足させるように、 女は性欲を満足させ子孫をふやすための家畜のひとつに過ぎないと見なされれば、 家畜とするためには、動物と同じように生れたままの全裸にして、 飼い主の思い通りとなるように、縄で縛り上げて馴致させることが行われる。 人間が他の動物と比較して優位にある属性が手の使用や言語を用いることにあるとしたら、 全裸姿を後ろ手に緊縛され猿轡を噛まされている姿というのは、 行動の自由を剥奪されただけでなく、動物の水準にあることをあらわしている。 因習とは、人間が動物状態から完全に脱皮できない事情を習慣やしきたりとして残していることである。 その習慣やしきたりを習熟させるために、仕置きや折檻や調教が行われるとすれば、 生れたままの姿にさせられた女が後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされ、畳の上へ座らされている姿も、 馬が四肢を束ねられて小屋の床へ転がされている姿もまったく同様のことをあらわしていると言える。 以下の椋陽児の絵画は見事にそれを伝えている。 |
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椋陽児 画 |
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野良着を着た頑迷固陋とした顔付きの男があぐらをかき、畳に置いた盆で食事をとっている。 男の前には全裸姿を縄で縛られた女が座らされている。 SM絵画の流儀に従えば、何も知らずに農家へ嫁がされた純情な娘が、 夫の横暴で変態的な性欲を満足させるために行われる虐待に耐えている図ということになる。 男性というサディズムと女性というマゾヒズムを対照させた紋切り型とも言える表現である。 男性が能動的・社会の支配者、女性が受動的・社会の隷属者と見なす価値観のある場所であれば、 性差をあらわす性的表現として、古今東西を問わずに示されるありきたりな表現である。 しかし、この絵画は、それにとどまらない。 絵を見つめて、ほとんどのひとは、ふたりの関係が夫婦をあらわすものだと感じるはずである。 男女の相対であれば、父親と娘、兄と妹、叔父と姪、或いは、恋人たち、と想像は可能である。 だが、絵は描かれているふたりの関係が夫婦以外にありえないことを直感させる。 それは、描かれている状況が食事の風景というありふれた日常性にあって、 男の取る食事のありさまと女の境遇とが際立った対比として表現されているからである。 男の妻となった女は、着ているものをいっさい剥ぎ取られて生れたままの姿にさせられている。 生れたままの姿であることは、裸一貫の何の財産も所有していないことをあらわしている。 嫁いできたときの持参金や家具類は夫の家の所有物となり、 妻は夫へ隷属することだけを意思とされるのである。 女は裸にさせられたばかりでなく、両手を背中へまわされて縛られている、 行動の自由を奪われたその姿は、縄を掛けた夫への隷属を表明させられていることであり、 ふたつの乳房を上下から挟むようにして掛けられた胸縄は、 後ろ手に縛った拘束を揺るぎのないものにするためのものであったが、 乳房があらわす豊かな母性さえも虐げられるように突き出させられて、 夫の縄の管理下にあることを示されているのである。 さらに、腰へ巻きつけられた縄は、尻の亀裂へもぐらされ、女のわれめを締め込むようにされている。 縄を掛けた夫以外には許してはならない妻の貞操を示すために、膣が縄でもって封印され、 陰部を刺激することさえするその縄は、女の情欲が男の支配下にさせられていることが示される。 そして、女は、置かれた境遇に対して申し述べることをいっさい否定されるように、 手拭いの猿轡でしっかりと口をふさがれているのである。 夫と一緒に団欒とした食事を取ることを許されず、 全裸姿を縄で緊縛された身の上をさらすだけのことをさせられている女は、 妻にとって生活をなす衣食住とは、隷属した身においてのみありうることを表象しているのである。 この女性のありようは、動物であることの人間が馴致教育されて家畜化されるためには、 緊縛は不可欠のものであるというリアリティを示している。 人間にとって、<緊縛のリアリティ>とは、教育であると言うことだ。 |
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