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 『 環 に 結 ば れ た 縄 』     パンフレット




演じられることは、演じているそれ自体がすべてを物語っている。
だから、加えられる批評などはすべて付け足しにすぎない。
付け足しということは、余計なものであれば、蛇足ということである。
鑑賞をさまたげる蛇足であれば、そのようなものは無用である。
無用でありながら、批評が歴史さえもって存在し続けるのは、
ひとは批評をすることが好きだということに尽きる。
批評は嗜好であるというであれば、それはひとにとやかく言われる筋合いのものではない。
よって、演じられることとは無関係にさえ、批評は好き勝手なことをほざいてもよいことになる。
批評、万歳である。
そして、批評が批評を生み、その上さらに批評が生まれ続けるということにおいては、
そもそも、何が論点であったかなど、遠くへ置き去りにされてしまうようなことがあったにせよ、
それはそれで、程よい娯楽になることに違いない。
批評は、嗜好であり、娯楽であり、ひとにとやかく言われる筋合いのものではないのだ。
たとえ、批評ということがひとにとやかく言われることであったにしても、である。

本演目に入る前に、演目の批評を行うのは、こうしたありようからである。
従って、そのようなものを読むのは時間の無駄だ、と心得る鑑賞者は、飛ばして先へ進んで頂きたい。




1. 女体緊縛の必然性




女体は存在しているだけで、縄で緊縛される必然性をもっている。
縄で緊縛されるというのは、縄で縛り上げられて身動きを封じられ、自由を奪われて拘束されることである。
そのように拘束した者の好き勝手に取り扱われる対象となることである。
女体は存在しているだけで、そのような存在になる必然性があるということである。
このように言うと、女性蔑視の男尊女卑の不届き者として、批判の槍玉に上がることは間違いない。
だが、事実を言っているのであって、女性を蔑視するから、緊縛される必然性があると言っていることではない。
もっとも、下卑たポルノグラフィからの発言であるとすれば、頭から相手にされないことであるだろうから、
馬鹿げたことを言っているとさえ、思われないかもしれない。
仮に馬鹿げたことであるにしても、人間にはそのような側面もある、
という物分りのよい評価に落ち着くのが関の山であろう。
人間が現象を眺める遠近というのは、対象に消失点というものを定めて奥行きを作り出しているものであるから、
事柄の遠近も、何処に価値の消失点を置くかによって、その相貌を大きく変えるということが起こり得る。
「人間としてあるまじき行為」という価値が女体緊縛の前提であれば、その必然性など荒唐無稽な話である。
必然性は荒唐無稽だとしても、女体緊縛が現実に存在している事実は否定できない、という必然は残るのだが、
その必然は猥褻な事柄であるということで、一応の存在理由をあらわすことはできる。
つまり、存在する女体は、縄で緊縛される必然性において、猥褻な事柄となる、という一般的評価の所以である。
だが、残念ながら、それだけでは肝腎な点が抜け落ちている。
女体は、<縄>で緊縛される必然性をもっている、ということがあるのだ。
そう、<縄>でなければ、女体が緊縛される必然性など、微塵もないことだ。
言い方を換えれば、女性が女体をもっていることで、女体は女性であると考える倒錯した思考においては、
もし、男性が女体をもっていても、女体緊縛の必然は絶対的なものである、と見なすことと同じということである。
女体をもっているから、女性なのではない。
女体は女性の属性であって、その属性を女性と同一性のものとして見なすのは、
縄で緊縛されるという方法において明らかにされるということが必然性を成立させているからだ、と言いたいのだ。
そのようなまどろっこしい論議はどうでもいい、
つまりは、女なんて、縄でふんじばってしまえば、女らしくなる、それだけのことだろう、
という批判が聞こえてきそうである。
まったく、その通りである。
女性という存在ほど、この地球上で、愛らしく、美しく、魅惑的で、かけがえのないものはない。
女性という存在がなければ、人類は滅亡する、という意味では、絶対の美神と言えるべきものである。
美神とさえ言い得るのは、現在は、男性という人類のひとつの形態を相手として種族保存を行っているが、
進化の必要性から可能となれば、別の種類の動物を伴侶とできる母体としての神の創造力があるからである。
幸か不幸か、遺伝子の問題で、それはまだ実現されていないが、科学の進歩は夢に終わらせることはない。
そのような超絶的な魅力をもった存在を縄で縛り上げて、
縛り上げた者の自由にしたいと考えるのは、
女性という美神に対する究極の愛であると言えば、一般的に聞こえはいいが、
要するに、それだけの力をもち合わせていない者が考えることに相違はない。
縄による女体緊縛に必然性があるのは、それが唯一のありようを示しているからであって、
たとえ、それが、いじめ、暴行、虐待、陵辱、殺害のありようを漂わせていることがあっても、
そのような行為が行われる一般性とは意義を異にする絶対性があるからである。
緊縛するというのは、確かに、拘束するということである。
拘束するということは、確かに、相手から自由を奪い、奪った者が相手を自由にできるということである。
女を縛り上げていじめると、その変化するさまがおもしろい、と伊藤晴雨は言ったが、
女体をあらゆる方法で責める、その研究にも似た姿勢の絵画や写真は、
女体責めの豪華絢爛があるだけ、それだけ荒唐無稽のありさまとなるほど、
絶対の美神となる力をもち合わせていない者が考えることが示されているのである。
伊藤晴雨に絵画表現というあらわれがなかったなら、
<女を縛り上げていじめると、その変化するさまがおもしろい>ということは、
子供が自分よりも弱い生き物をおもちゃにして遊ぶのと同様の意味しかもち得ないことだ。
人間の世界も一般の生物世界と同様、強者と弱者という緊張関係からできあがっている。
強者とは、より多くの自由を獲得できる理想像であるから、いじめる側は強者に立つことを願望する。
願望と言っているのは、自由の理想像へ近づくために、いじめる行為が梯子となるということであるが、
願望である以上、行っているいじめに際限がなく、相手の苦痛という現実感が希薄なものとなる。
理想像へ近づくことはもとよりできないが梯子を昇る、という荒唐無稽のあらわれということである。
それに対して、弱者は、より多くの自由を奪われる現実像であるから、
いじめられる側は弱者であることを否定する手段を求めることをする。
いじめが肉体的な事柄へ及んでは、すべてにおいて現実的な解決が求められるわけであるから、
否定の手段が見つけられなければ、とどのつまり、自害という現実に至るほかないことになる。
従って、いじめる側がいじめられる側の現実否定の手段を奪い取れば、両者の関係は絶対的なものに収まる。
人間という存在がそのありようから、自由というものを願望する限り、決してなくならない緊張関係である。
子供が自分より弱い生き物をおもちゃにして遊ぶという自由の認識が出発点のことであるから、
自分より弱い生き物をおもちゃにできる限り成立する事柄である。
女性がか弱い生き物であるという前提があれば、おもちゃという女体の緊縛は成立するということである。
だから、いまさら、女体緊縛なんて古臭いことだ、と感ずるとすれば、
確かに、女性が強くなったことのあらわれには違いないが、
強者と弱者の緊張関係がなくなったわけではないから、女体緊縛もなくなることはない、現実に存在する。
もっとも、この場合の緊縛というのは、いじめる目的を実現化するための拘束を行うことに過ぎなければ、
いじめるための拘束であれば、対象は、特に女性である必要がないし、女体である必要もない。
緊縛の手段も、手足の自由を奪えばよいだけで、手の込んだ意匠を凝らした縄掛けなど、必要がない。
手の込んだ縄掛けが行われるには、行われるだけの必然性が存在している。
もし、男性が弱くなったと言うならば、全裸の男体緊縛の流行を迎えても不思議のないことである。
美しいとされる少年や青年、中年や実年でさえも、もてはやされれば、縛られてあたりまえのことである。
いずれは、そういう時世が来るのだろう。
緊縛をファッションのように考えていれば、そのようなこともあり得ることのように思える。
男女平等という価値観が一般化していくならば、当然、そうあってしかるべきことのように思える。
男体は存在しているだけで、縄で緊縛される必然性をもっている、こう言い切れるのだ。
だが、実際は、このように言い切ることはむずかしい。
女体は縄で緊縛される必然性があるという根拠を示せるほどのものがないのである。
これまで、男体緊縛が隆盛を見なかったのは、男性が強かったからではなく、
そのありように表現性が貧困であったと結論するほかないことだからである。
男性の立場であれば、美神への道を完全に絶たれたという、まことに残念で悲しむべき事態でもある。
熟年男性が生まれたままの全裸の姿を後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、
首縄から縦へおろされた縄を股間へもぐらされ、正座させられている姿は、本当の悲哀のありさまなのだ。
縄による女体緊縛というのは、そのような悲哀の程度にとどまるものではない。
それは、生まれたままの姿にある成熟した女性を眼の前にすればわかることである。








女体と縄との間には、相性が存在していることがわかる。
その優美さは、神のみわざと讃えられる女性の肉体は、
ほっそりとした美しい首、
なでた優しい肩、
なよやかな細い腕に華奢な手首、
ふっくらと隆起する柔らかな乳房、
わきのしたから腰へかけての弓形のあでやかな曲線、
まるみのある豊かで官能的な尻、
股間の麗しいなめらかさ、
匂い立つような太腿から脚まで伸びるしなやかさ、
すべてにおいて、柔軟性と曲線性につつまれ、大自然を思わせる壮麗な起伏に富んでいることをあらわしている。
このことは、身体の箇所のひとつひとつが縄を掛けやすい特徴を示しているということである。
後ろ手にさせ重ね合わせた手首を縛るとき、ほっそりと華奢であることがまとめやすくさせている。
その縄を身体の前へまわし胸の上へ掛けるにしても、隆起している乳房の弾力でずれることがない。
ふたつの乳房を上下から挟むような胸縄として施せば、縛った後ろ手は否応なくがっちりと固定されるのである。
さらに、古来より首やうなじの美しさを引き立たせるためにされてきた首飾り、
この場合は、掛けられる首縄というものが、これほどまでにしっくりと合うなまめかしい姿というものがほかにない。
牛や馬や豚や犬や猫などに掛ける首縄、畜生を意識させる以外にない野卑さとは大きな相違である。
その首縄を縦縄にしておろし、股間までもっていってもぐらせて背後へ引きまわすにしても、
陰茎と睾丸のような突起物があって邪魔をするようなこともない。
むしろ、麗しいほどになめらかであって、深々とした切れ込みさえあることが、しっかりと収まるようにさせるのである。
どうして、女体には女としてのわれめが存在するのかという疑問があれば、
それは、緊縛されるために掛けられた縄をしっかりとくわえ込むためにある、という因果の必然性を言うことができる。
この地球上に棲息する動物を探して、このような意味の縄の相性を示す存在は、女体以外にはないからである。
そして、そのわれめへもぐらせた縄を埋没するくらいに食い込ませるにしても、
股の縄を左右から引っ張り上げる縄は、弓形の曲線をもった腰があることで難なく果たせるのである。
そのあでやかなくびれは、優美さばかりでなく、機能的にも縄を引っかかりやすくさせているということである。
かぐわしささえ漂わせる太腿やしなやかな両脚に至っては、
きちっと揃えさせても、激しく折り曲げても、左右へ大きく開かせても、
その柔軟性は、魅力的な足首へ掛けられた縄を見事に固定させていくのである。
そして、この総体は、表面を被う柔らかで弾力のある脂肪の肌があることで、縄を芯から密着させる性質を示し、 
女体というのは、縄へなじむ肉体というものをあらわにさせている、ということをまのあたりにさせるのである。
従って、女体と縄の緊縛の相性は、白色人種・黒色人種・黄色人種を問わない、普遍的事柄と言えるものである。
しかし、もし、縄の緊縛による女体のオリンピック競技のようなものが開催されたとしたら、
当面は、日本の独壇場になることは間違いない、それほど、日本の緊縛はお家芸的な独自性をもっている。
この点は、女体緊縛の普遍性から少し脱線するが、参考までに言及しておこう。
女体に施された縄の緊縛を衣装にたとえると、それはわかりやすい。
縄は、ただ雁字搦めに縛るだけでは、拘束にはなるかもしれないが、緊縛にはならない。
いくら女体の性質が縄と相性をもっているからといって、縄掛けの方法が幼稚であれば、緩みなく締め上がらない。
縄掛けの方法が意匠にまで考えられ、様式化され、思想さえはらむことにおいて、初めて成し得ることである。
日本には、室町時代後期より江戸時代末期まで、流派の伝統をもった捕縛術という縄掛けの方法が存在する。
意匠と様式と思想のそのありようは、世界のどこの国にも、いまだ比肩するものを探すことはできない。
現代における縄による女体緊縛もこの捕縛術の存在と無縁なものでないことは、
捕縛術の存在が日本の伝統的衣装である着物の着付けと無縁でないのと同じことである。
着物が身にまとわされるためには、いくつもの紐が必要である。
整った着付けが行なわれるということは、それらの紐で上手に縛られるということである。
縄の緊縛の衣装が女体をさらに美しく引き立て、程よく締め上げることをさせている縄掛けの方法は、
着付けが着物をまとう女体を縛って苦しく締め上げることではなく、艶麗とさせるためのことと同様なのである。
全裸の女体への縄掛けのことを、縄の衣装、縄の化粧、縄の意匠、と言ったりする理由がここにある。
そして、肝腎なことであるが、日本人の女性には着物姿が最もふさわしいと言われることは、
文化の伝統と長い習慣から作り上げられてきた体型がそのようにさせているという事実である。
同じように、拘束するための道具であれば、手枷、足枷、首輪、鎖、皮紐、とあまたにあるが、
日本人の女性には、麻や藁で撚った縄が最も似合うものに見えるとしたら、
それは、縄と縄掛けに伝統があるように、その女体も伝統をあらわしているものだからである。
すなわち、日本人の女体の縄による緊縛の必然性は、まさしくお家芸と呼べるものと言えるのである。
日本人女性が美しく装うためには、着物の紐であろうと、麻縄であろうと、藁縄であろうと、
縄のたぐいで縛られるということが切り離せないことなのである。
しかも、その縄というのは、自然から生まれた植物の繊維で撚り上げられたものであるから、
自然の山野に宿る多数の神を信仰の対象としてきた日本人の宗教観からすれば、
皮ではなく、鉄でもなく、ましてや、ゴムでもなく、麻や藁から作られた縄で、
生まれたままの全裸という自然のありようを縛られるということは、
自然と一体となる宗教的拘束感を意味しなくて、
どうして、緊縛された女体がちまたにありふれたものとなることがあり得る、と言えるだろうか。
縄による女体の緊縛は普遍的である、それは人種を問わない。
だが、実際は、地球上において、日本においてのみ隆盛を見ている現象である。
女体緊縛は猥褻で非道徳的な事象であるから、そのようなものの隆盛が日本にある、
と声を大にして言われることはない、とっても恥ずかしいことなのかもしれない、だが、事実である。
縄による女体緊縛は、ありとあらゆる表現においてあらわれている、
芸術からポルノグラフィまで、大衆映画から風俗営業まで、女優の女体からとなりのおばさんの女体まで、
その一般化されたありようは、緊縛という異常な事態を尋常と思えるくらいの質量がある。
知られた女優が全裸を緊縛され、放尿や股間の剃毛を見せるという記事が堂々と一般週刊誌の表紙を飾って、
老若男女、誰でもコンビニエンス・ストアで見ることができるのだから、日常性にあるとさえ言えることなのである。
そこまであたりまえになっている、日本の縄による女体緊縛である。
もう、それだけで、<縄による女体緊縛の必然性>は立証されたことになる、と言われても不思議ではない。
世界に冠たる女体緊縛の日本文化、万、万歳、というところである、金メダルの独占は間違いないことだ。
だが、この文章表現は、ポルノグラフィである、皆と一緒にお祭り騒ぎに浮かれていたいのはやまやまであるが、
その身上である荒唐無稽を発揮しなくてはならない、普遍化された論理的思想へと向かわなければならないのだ。
先に、女体は女性の属性であって、その属性を女性と同一性のものとして見なすのは、
縄で緊縛されるという方法において明らかにされるということが必然性を成立させているからだ、と言った。
このことが、縄による女体緊縛の必然性を決定付けることになるのである。
女性は、その肉体と同一性のものとならなければ、女性ではあり得ない。
どのように優美で縄にしっくりとなじむ女体をもっていようと、女性であることの存在理由が示されなければ、
股間を剃毛されようが、放尿させられようが、脱糞させられようが、
乳首をクリップで押し潰されようが、針で陰唇を刺し貫かれようが、柔肌をひん剥かれようが、
いじめ抜かれるから女性である、というだけでは、女性たる存在理由をあらわすことにはならない。
何度も言うように、そのようなありさまは、拘束を縄による緊縛に依存しなくてもできることである。
縄による緊縛でなければならないことこそが、女体緊縛の必然性をあらわすものでなければならないのである。
恐らく、ここで、どこがどう違うのかという不分明な感じが生じてくることであろう。
その理由は、言うまでもなく、われわれにエロスが発動していることによる。
発動されたエロスからは、エロスを感ずる対象はすべてエロスのものと見なす、という知覚が生じる。
これによって、縄による全裸の女体緊縛も、手枷・足枷された全裸の女体陵辱も、同一の事柄となってしまう。
クラフト=エビングが性衝動のモデルとして、サディズムやマゾヒズムとして分類化した概念領域を、
すべての人間の性行為にあてはまるものだと考えれば、縄による女体緊縛は<SM>のひとつのありようである、
縄による女体緊縛も女体を虐待する拷問も相違のないことでしかない。
だが、ほんの少し考えてみよう、人間の事象はすべてその人間の表現行為であるということを、
多義多様にある表現行為を一義の概念領域で囲うことができるものであるかを、
逆に、多義多様にある表現行為を一義の概念に依存して、その存在理由を理解できるものであるかを。
確かに、一義の概念は指標となるべきものである、だが、その成立自体も、やはり、表現行為と言えるものである。
サディズムやマゾヒズムは、エロスやタナトスと同様、指標の概念であって、そこから、
どのように表現行為を展開できるものであるかという、人類の進化途上の通過点に過ぎないことである。
歴史として示されてきた人類の偉大な叡智は、現在のわれわれがさらに探索を行うための蝋燭なのである、
蝋燭は、その熱い蝋を緊縛した全裸の女体へ垂らすということがサディズムである、という道具ではないということだ、
とまあ、ポルノグラフィからの発言であれば、少しももっともらしく聞こえない。
それもそのはずで、女体緊縛の必然性が、もとより、荒唐無稽以外の何ものでもないからである。
第一に、女性という存在が絶対の美神である、ということがいかがわしい。
そのようなことは、文学的夢想表現ならいざ知らず、誰も信じていない、当の女性でさえがそうであろう。
女性は雌であり、女体緊縛というのは、雌を雌のように取り扱うというだけのことである。
間違っても、以下に述べられるようなことでは、あり得ないのである。
 


女性という自意識の由来がその肉体に依存してることは、男性の場合にしても同じである。
だが、必ずしもそうではないのでないかということが、性同一性障害という概念化で明らかになってきた。
つまり、女体をもっていても男性であり得るし、男体をもっていても女性であり得るということである。
女性か男性かを区別させるのは肉体の相違にあるのではない、ということである。
このことは、一部の人間に生じていることだとすれば、確かに、心の病いのような取り扱われ方をする。
だが、その女性であるか男性であるかのありようを、人間は意識的に行うことが可能なことであるとしたら、
性同一性障害は心の病いなどではなく、人間心理の可能性、自由のありようを切り開いていることになる。
女体緊縛の必然性とは、まさにこのことによる。
女体は縄で緊縛されることによって女性になる、ということである。
女性の自意識が肉体に依存しているとしても、それは通常意識される限りでは、
女性であろうとすることに努めようと、肉体を美しく手入れし、綺麗な化粧を施し、似合う衣装をまとわせ、
そして、毎月訪れる月経という女性であることの苦痛で確認する。
女性にとっては、苦痛は否応なく周期的にあるものであるから、肉体の苦痛は日常的なものである。
それが、妊娠して腹を大きくふくらませた上に、出産という激痛を引き受けなければならないのであるから、
女性は、受苦の存在を生き続け、やがて、新しい生を産み出す歓喜に至る、事物の創造者ということである。
このありようには、神の如き尊大さを自負してさえも当然のことがあるが、
女性は受容する存在であるという、地に足のついた現実意識がそれに取って代わっている。
それは、出産した子に乳をやり、育てていくことを引き受けていることによる母性というものになっている。
従って、女性は、受身という存在ではない、受容することを引き受けている存在である。
妊娠の前提である交接が男性の挿入によって行われるということが女性の受身をあらわしている、
このように見なされているとしたら、それは、ポルノグラフィの体裁のよい場面設定と同程度の認識である。
女性は、受身ではない、受け入れて取り込むことを行うために、挿入される陰茎を選択する。
間違ってはいけない、男性を選択すると言っているのではない。
男体をもっているから男性なのではない、このことは、言うまでもなく、女性と同じことである。
女性は、その男体にある突起物を選択するということである。
このことは、言うまでもなく、女体が陰茎を選択すると言っていることではない。
肉体が欲しがって性愛を生む、これは、ポルノグラフィとしてはロマンティックな香気を漂わせてよいが、
女性が選択し、男体は選択される陰茎をもっているということである。
或いは、純愛などと言うが、これが至上の愛をあらわすものであるとしたら、交接がまったくないという場合である。
選択される陰茎においては、純愛は陰茎の添加物以上のものにはなりえない、絵空事の小説ならともかくとして。
余談だが、『花と蛇』という小説において、団鬼六が卓見を示している事柄は、
生まれたままの全裸を縄で緊縛されたヒロインの静子夫人が奴隷の身上を決定付けられるために、
出所不明の精液で人工授精を受けること、犬を相手に獣姦を行うこと、
放出された精液を美容のために毎日飲むことを義務とされる存在に至るということである。

これは、選択される陰茎の意志が女性から剥奪されようとすることであるから、
もはや、静子夫人は、女性ではなく、ただの女体に過ぎないものとなるということである。
ただの女体、そのようなものは死体でない限り、実際にはあり得ないことであるから、団鬼六の死のヴィジョンである。
近年、セックスレス――男女が交接しないということが話題になるが、
人類の相対棲息数は、地球の居住面積によって決められているのであるから、
この現象は、人口の増加にともなえば、おのずと人口の抑制のために生ずる自然現象である。
ついでに言えば、地球の環境破壊が進展し、それが人類を脅かすものとなっているとすれば、
人類の相対棲息数を超えているシグナルである。
人口の余剰を産業技術が商売相手にしようすれば、自然破壊にまで及ぶ過激な生産が行なわれるということである。
同じことで、余剰となっている陰茎は、本来の目的に使用されないということである。
しかし、余剰になっている陰茎が遊んでいようと萎びていようと、
人類進化の過程にあっては、<選択される陰茎>というありようは、現状では変わらないものである。
それは、人類の創始以来、行なわれてきたありようであって、
結婚した伴侶のものであろうと、選択できないものであれば、ほかの陰茎が選択されるのである――不倫、
結婚関係がない場合でも、選択できないものであれば、ほかの陰茎が選択されるのである――浮気、
これに対して、男性が取ってきた処置は、金銭等によって選択する意志を買取して、交接を行うこと――売春、
選択する意志を無視して、女体を殺害に及んでまで交接を行うこと――強姦である。
ほかの動物一般においても、相対棲息数が余剰に至れば、不倫、浮気、強姦はあり得る。
売春があり得ないのは、人類を除いては、金銭等の流通という象徴制度がないということに過ぎない。
さて、<選択される陰茎>ばかりを論じていても仕方がない、
それでは、人類において、あたかも男性が優先するような論旨を示してきたこれまでの歴史的表現と同じで、
まるで、陰茎に共感と同情をもった男性びいきのノスタルジックな論理になってしまうだけである。
確かに、人類の陰茎は、愛らしく、美しく、魅惑的で、かけがえのないと感じさせるものがある。
しかし、女性が人類の伴侶として、ほかの動物の男性の陰茎を<選択される陰茎>とすれば、
人類の男性は、これまでに絶滅してきた地球上の動物のひとつに付け加えられるだけの話である。
そのとき、男性が作り上げてきたとされる文明や文化が維持できなくなることは必至だが、
そもそも、種の保存から、人類相互の殺戮や強姦や自然破壊を行う文明や文化が必要であるのかを問われれば、
逆に、人工という手を大きく加えずに、自然現象にさらされてあることの方が無難であるかもしれないのだ、
そもそも、この地球上には、台風や地震、隕石の飛来は、避けがたく存在しているものであるのだから。
自然へ帰れ、と言っているのではない、
自然へ帰ったからといって、<選択される陰茎>として、人類の男性が生き残れる保証があるわけではない。
まあ、ここでは、人類男性の生存の可能性について考察しているものではないから、女体緊縛の本筋へ戻ろう。 
女性は、受容するために待ち受けている存在である、何かを待っている存在なのである。
彼女の眼の前に差し出されたものが……
それが荒々しい雰囲気を漂わせた麻縄であっても……
それで生まれたままの全裸の姿になって縛られると言われても……
そのことが待ち受けている何ものであるかを推し量れる限りは、女体として引き受けることに応じる。
だが、受容することであるか否かは、緊縛された女体のあらわすことに依存しているのである。
「<緊縛のリアリティ>とは教育である」と言った者があるが、
それに従えば、
生まれたままの全裸にさせられた女体は、緊縛されることによって、
「知能をつけられ、ある技能について才能を伸ばされるということになる」と定義されている。

もし、縄による全裸の女体緊縛がただの暴行や虐待や陵辱といったことに過ぎないものであれば、
縄掛けの方法や意匠や様式が複雑化することはあり得ない、
緊縛の技法が複雑化するためには思想がともなわなければあり得ない、
その思想は、少なくとも、
知能をつけられ、ある技能について才能を伸ばされるという、
教育としてあり得ることである。

実際には、次のような過程である。
生まれたままの全裸にさせられた女体が縄で緊縛されるということは、確かに、いじめれることである。
いじめられることは、自由を奪われる弱者の現実像であると言ったように、理想や幻想に置き換えることはできない。
どのような理想や幻想に置き換えることをしても、現実にある境遇が破綻をもたらすことになるからである。
全裸を縄で縛られている境遇は、まずは、羞恥、悲哀、嫌悪、残酷、無情をあらわし、感じさせることをする。
このことを引き受けるには、理想や幻想へ自意識を置き換える、
たとえば、いじめられて性的快感を感ずるありようをマゾヒストと理想とするならば、
マゾヒストになる幻想へ自意識を置き換えようとすることになるわけだが、
それはマゾヒストという非現実へ転化しようとする自由への願望である以上、
自由を奪われる弱者の現実像ということと矛盾するために、破綻をもたらすことになる。
この破綻は、男性の場合であれば、もとより、理想や幻想が現実意識であるところがあるから少ない、
マゾヒストに転化できると思い込むことの可能がある。
だが、女性は、このような現実的に何ら甲斐のない理想や幻想を抱くようなことで、解決を求めることはない。
むしろ、いじめられるという現実像をそのまま引き受けることをする。
これは、いじめられるということが精神的にも肉体的にも苦痛を感じさせることであっても、
むしろ、肉体へ密着している縄へ意識を集中することができるほど、大地に足のついた現実意識としてある。
この引き受けているありさまをマゾヒストであるからと定義されれば、女性はすべてマゾヒストということになる。
だが、そのようなことはあり得ない、これは、女性一般のありようである。
たとえ、緊縛された全裸の姿で、股間を剃毛されようが、放尿させられようが、脱糞させられようが、
どのような羞恥の姿をさらけだすことがあっても、女性とは美しいものであろうとする自意識がそれを超越させ、
さらに、なぶられ続けてさえも、受苦の存在を生き続け、やがて、新しい生を産み出す歓喜に至ろうとするのである。
それが発動したエロスが官能を昇りつめるために行なわれることであると言うならば、
出産の偉大な受苦を引き受ける自負は、最大の肉体的苦痛さえ、歓喜を前提としてはいとわないということになる。
出産――この場合は、子を生むことではないのだから、何かが新しく生まれると言うことである。
それは、神に近き存在者の自意識が生まれるのである。
古来より、人間を超越するものとの交信を司ったシャーマンの自意識である。
全裸を縄で緊縛された女体は、その女性の自意識において、人間存在の意義を告げる媒介者へと至るのである。
このありようは、サディズムでもマゾヒズムでもない、
エロスの発動から官能を通さなければ見ることのできないものを見ているということであり、
女性がその女体によって、縄による緊縛と結び付かなければ生じ得ない現象と言えるものである。
これが、女体緊縛の必然性である。




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