恋に溺れながら 私の愛は乾いていく 高ぶるほど空虚 充たされるほど孤独 (中央公論新社 2005年1月25日 読売新聞掲載の宣伝広告文よりの引用) ああ、何とすてきな表現なんでしょう。 このように表現される小説をお書きになった作者の方というのは、きっと素晴らしい女性に違いありませんわ。 その通りなのです、恋に溺れれば溺れるほど、愛は乾いていくもの…… 官能は高ぶらされれば高ぶらされるほど、空虚になっていくもの…… 恋と官能を満たされるほど、女は孤独になっていくのです…… 女性というものを知り尽くした女性でなければ、絶対に表現できないことです。 私は、この作者の方を大きなあこがれを抱いて尊敬いたします。 百万の言辞を労して表現し尽くされないこともあれば、わずか四行で言い尽くされることもあるのです。 そのわずか四行は、真実をあらわすがゆえに、今度は私自身の物語の書き出しとなることができるのです。 そういうふうに思わせてください。 だって、素晴らしい小説を書くことができる才能などまったく持ち合わせていない者にとっては、 せめて、だれかれに気を遣うこともなく、勝手気ままに空想に耽ることが掛け替えのない現実なのですから……。 小夜子は購入したばかりの本の帯紙から眼を離すと、こわれものでも置くような丁重さでテーブルの上へ置いた。 書籍に対する丁重な取り扱いは、その著者を尊敬しているから行われることだった。 書籍をぞんざいに扱ったり、すぐに帯紙をひっぺがして、薄汚い指のままにページをめくるのは、 帯紙が俗称を腰巻と言うのであれば、腰巻を強引に剥ぎ取られて恥ずかしい箇所をあらわにされ、 汚らしい無骨な指がページの割れめへ無理やり押し入ってくる破廉恥に等しいことである。 本のなかに印刷されている文字を読むことは大切である、その内容を理解することはもっと大切である、 どのように書籍を取り扱おうと、その言語に表現されていることが認識されるのであれば、 帯紙の一枚や二枚、或いは、表紙さえもが喪失されたとしても、大した問題ではない―― このように考えることは、陵辱を売り物とするポルノグラフィは確かに破廉恥ではあるが、 それが認識を生むことであれば表現の大切なありようである、と言うことと同じである。 猥褻なポルノグラフィは破廉恥なポルノグラフィであるからエロなポルノグラフィであって、 言語は脳において概念化されなければ、絵柄のような記号か、意味不明の音楽のようなものでしかない、 と言い切ってしまう短絡さと同じことなのだ。 意味不明の音楽? ちょっと待った、意味のわからない音楽であれば、雑音か騒音と言うことではないか。 雑音や騒音が小夜子が書籍を丁重に扱うことと、どのように関係があるのか。 むしろ、彼女がそのとき居間で聴いていた音楽は、エドガー・ヴァレーズの「アイオニゼーション(電離)」であって、 それは騒音や雑音どころか、音楽史にあらわれたれっきとした芸術として書籍のなかにもある。 二つのサイレンと四十一の打楽器を十三人の奏者が奏でる楽曲は一九三三年の作曲であるが、 荒唐無稽な印象は少しもなく、むしろ、指揮者を囲んだ<最後の晩餐>のようなまとまりのある佳曲である。 ところで、今年二十七歳になる女性がミスター・チルドレンやポルノグラフィティを聴いているというのならわかるが、 いや、モーツァルトのセレナーデと言うならまだしも、どうしてヴァレーズの「電離」なのか。 しかし、それを言ったら、二十七歳の女性が勝手気ままに空想に耽る内容が、 どうしてそれほどまでにエロティックに奔放なのか、そのことを問いただすのと一緒のことになる。 つまりは、それが彼女の空想の意味であると言うならば、その意味は最初に打ち明けられていてもよいことだろう。 物語を読み進んでわかるというのでは、余りにもまどろっこしい、どのみち、大したことではないのだ。 その意味とは、小夜子の耽る空想は<性が顕現する荒唐無稽の存在>をあらわしたものであると言うことである。 この点では、「恋に溺れながら、私の愛は乾いていく、高ぶるほど空虚、満たされるほど孤独」と表現されていることは、 <人間のなかにある荒唐無稽の存在>を示していることでは軌を一にするから、小夜子も共感できたことなのである。 それにしても、「現代の愛の不毛」とは随分と謙虚である、「永遠の愛の不毛」と言ってさえ的外れでない卓見である。 もっとも、購買する読者は常に<現代人>であるわけだから、<現代人>にだけわかるということにしておかないと、 人類史の最先端にある<現代人>だからこそ知り得るという特権と自尊心が台無しにされてしまうのだろう、 ましてや、代価を支払って得ていることであれば、尚更である。 その表現媒体も同様である、腰巻を剥ぎ取られ無骨な指で割れめを陵辱された書籍というのは、 その印字された言語の内容の如何に関わらず、リサイクル・ブックショップでは廃品同然の扱いにされている。 犯された形跡など微塵もない、純潔で美しい装いをあらわしているものには、相応の値が付くのである。 純潔で美しい装いをあらわしているものは、いつの時代でも立派に価値を認められるのである。 主人公小夜子の外観が純潔で美しい装いをあらわしているとしたら、 それは、ポルノグラフィで主役を張るという価値を認められてのことであって、 書籍同様、中身の言語とは別物である。 中身の言語、それは読者の脳髄に入って始めて概念と成す、人類が進化させた偉大な機能である。 それは、物語の主人公が本をテーブルの上へ置いただけで、こうして結論にまでたどり着かせてしまうものであるから、 紅茶に浸したマドレーヌから長大な物語が生まれたとしても、何ら不思議はない、まことに自然な成り行きと言えよう。 むしろ、これから始まる<被虐にさらされて女が女に目覚める成り行き>など、およそ退屈なことなのかもしれない。 だが、退屈であっても、小夜子がだれかれに気を遣うこともなく、勝手気ままに空想に耽るということが、 そういうことであるのだから、致し方ないとしか言えない。 作者は作者であって、主人公は主人公であるからだ。 麻生絵美子という先生が<似非現実>ということについて書いている。 (余談であるが、この麻生絵美子という先生は、素晴らしい美貌と姿態の持ち主である。 その全裸で行う講義が上演未定とされてしまったことは、返す返すも残念なことである) 「似非というのは、似てはいるが本物とは違うということです。 つまり、まやかし、ごまかし、にせもの、ということです。 小説のような物語は最初から絵空事ですから、どのように現実的な迫真力があったとしても、作り物の本物です。 それが作り物でなく現実を活写しているようなことであれば、小説ではなく、作り物のにせものということになります。 それは<似非現実>が表現されていることであると言えます。 なぜなら、そのとき、その表現されているありようは、 小説でもなく、現実でもない、作り物のにせもの、現実のにせものとしてあるからです。 小説がただの絵空事であるとそしられるのを恐れるあまり、 つまり、真面目で純粋な文学表現であると考えたいということが、現実との乖離をますます際立たせて、 そのありように苦悩することを近代人の自意識であると見なすようなことならば、もとより、絵空事が現実でない以上、 似非現実が現実でないと苦悩することは、自家撞着以外の何ものでもありません。 そのように表現された文学からその後の展開が生まれなかったとしても、 うまずめの女に妊娠の想像はあっても現実がない以上、子孫が継承されないというのは致し方のないことでしょう。 いや、現代であれば、体外受精というものがあるではないかとおっしゃられれば、その通りです。 外国の小説を翻案したような創作がそれにあたるわけですが、産めば、母親となることに違いはないことです」 この<似非現実>とは、まさに、作者と登場人物の関係にもあてはまることである。 小説のような物語が絵空事であるくらい、だれもかれもが認識している現代である、それに悩むのは大人気ない。 現代日本文学は、作者と登場人物の関係という<似非現実>に苦悩する現代人の自意識を土俵としているのである。 そこで、小夜子は、純潔で美しい装いをあらわしている書籍をテーブルの上へ置くと、 当然のように、作者の表現の苦悩などまったく感知もせずに、外出する装いにさっさと着替えようとするのだった。 彼女が外出するために着物に着替えたいという要望を持ったとき、 ひとりで着付けることも満足にできないものをどのように描写したらよいか、まず、作者は悩まされるのであった。 「急がないと、あの方との待ち合わせの時間に遅れてしまうわ」 彼女は、急かせるような独りごとさえつぶやくのだった。 そして、この活字を追っている読者、活字を紡いでいる作者の熱心なまなざしなど一顧だにせず、 身に着けているすべてのものを素早く脱ぎ去って、生まれたままの全裸の姿をさらけだすのであった。 瞳の大きな美しい顔立ちにウェーブのかかった柔らかな黒髪は、はっとさせられるほどの魅力があったが、 ほっそりとした首筋から両肩へ撫で下りた優しい線、大きくもなく小さくもなくふっくらと隆起したふたつの白い乳房は、 ピンク色をした可憐な感じの乳首を光らせ、それにまなざしを奪われていても飽きがこないほどの優美さであったが、 その下にのぞく綺麗な形をした臍のくぼみが悩ましい色気を放つ腰付きの方へと否応なく注意を向けさせるのであった。 だが、それも束の間、彼女は水色の湯文字を素早く巻いて覆い隠してしまった。 やはり、物語の主導権は主人公が持っているのであるから、そのようにされても仕方がないのであろうが―― いや、実は、小夜子が美しい全裸をさらしたついでに、これを読んでいる読者の方と一緒になって、 彼女が被虐の物語へ旅立つ前に初縄を掛けて楽しんでみようと思った次第なのであるが、やはり、まだ無理であった。 しばらくは、物語の成り行きを追って、時期を見て、また考察・実行してみたい<似非現実>の問題である―― そうこうしているうち、小夜子は、手際良く和服を着付け終わっていた。 ひとりで上手に着付けられないために、物語の進行が滞っては、せっかくの着物姿も艶消しになってしまう。 それほどまでに、彼女の着物姿の艶やかな美しさは眼を見張らせるものがあったのである、 それは、その装いで逢瀬を望んだ相手を充分に満足させるものであったに違いなかった。 小夜子が男性と会う――彼女には三歳年上の夫がいたから、その夫に内緒であれば、それは逢瀬と言えた。 その男性と肉体関係にまで及べば、不倫と言って差し支えなかった。 彼女は、夫に満足していなかったのだろうか。 いや、そのようなことはない、夫の健一は、小夜子に恋したときから、彼女一筋に三年間思い続けている。 思い続けているばかりではない、毎週金曜と土曜の夜は、思いの丈をそり上がらせ、奥深くにまで差し入れて、 我慢の限度まで抜き差しさせて、あふれんばかりの思いを一夜に二度まで放出して、愛をあらわしている。 夫の独りよがりの愛などではない、奥深く差し入れられて、クリトリスまでも責められれば、 小夜子も愛する夫を確認するように、悩ましい声音をもらし、痙攣でもって愛をあらわすことしているのだ。 仲睦まじい、恋人同士のような夫婦だとまわりからも思われているのである。 しかも、小夜子に負けないくらい、健一は美男子であり、仕事も真面目に行う良き夫であったのだ。 もっとも、良き夫ではあったが、子供に恵まれずにいたから、良き父親であるかどうかはわからなかった。 このように、夫にも生活にも恵まれていながら、小夜子は、恋に溺れながら、私の愛は乾いていくというのだった、 高ぶるほど空虚、満たされるほど孤独だと感じていたとすれば、贅沢な悩みだと思われても仕方がない。 だから、彼女は、夫には言うまでもなく、だれに対しても胸のうちを明かすようなことはしなかった。 ただ、だれかれに気を遣うこともなく、勝手気ままに空想に耽ることをするだけであった。 ひとりで脳髄の個室のなかで空想に耽ることであるから、暴露されなければ、だれの関心も呼び覚ましはしない。 従って、会社へ出かけた夫の不在に、艶やかな着物姿で別の男性との逢瀬へ出かけることに後ろめたさはなかった。 現実に愛しているのは、あくまで夫の健一であり、その点では、純潔であったのである。 彼女が<あの方>と呼んでいる逢瀬の相手は、<似非現実>の男性に過ぎなかったのである。 色香漂わせた小夜子がマンションの玄関を出たときには、すでに、黒塗りの大型車が待機している状態であった。 彼女は、知合いのだれかに見られることだけは避けようと、あたりを確認してから車に乗り込むのだった。 車のなかには、運転手がいた、小夜子が運転するならともかく、運転手がいなければ車は走らないから、 運転手が着物姿の八十歳近い老婆であっても仕方はなかったが、 それがあの☆『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の鬼婆だったのである。 小夜子にしてみれば、初対面の相手であったから、この老婆がどのようなものであるかは想像もつかない。 禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、 皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわにしている様子は、確かに不気味であった。 しかし、この婆さんがしわがれているが丁重な声音で、 「お席におすわりになりましたら、ドアを閉めさせていただきます」 と語りかけ、まるで熟練のタクシーの運転手のように、手慣れた操作で自動ドアを閉め車を発進させたのであるから、 ひとは外見だけで判断してはならないと思わせるに充分だった。 目的の場所へ到着する間も――それは、東京を離れて高速道路を八王子の方面へ向かっていたのだが―― 運転手は節度をわきまえたように、口を一切開かず、ルームミラーで後部座席をのぞき見るようなこともしなかった。 好感を抱かないまでも、うとましさを感じる相手ではないと小夜子が思ったのも無理のないことだった。 屋上と地下をそなえた三階建ての立派な館の玄関前へ到着する頃には、 彼女は、あの方に会えるという恥ずかしさと嬉しさと切なさの入り混じった思いでいっぱいになっているのだった。 「さあ、お着きなりました、車からお出になってくだせえ」 運転手は、笑顔ひとつ見せずに、ドアを開けるなりそのように言った。 小夜子は、館の外観を見るなり、思わずため息をついて感慨をもらした。 「素晴らしい建物ですわね……まるで、遠い外国に来ているみたいですわ……」 鬱蒼とした森のような緑の木立に囲まれて、 M.C.エッシャーが眼の前へ描いて見せたような荘重な館がそこにあるのだった。 「そう、建物の外観は確かに立派だね……。 以前は、<上昇と下降の館>と呼ばれていて、確かに立派だったさ。 しかし、館の主が変れば、外観は同じでも、中身はまるで違うものになってしまうのさ。 以前の主は館長と呼ばれていて、なかなか人格者のようだったらしいが、経営の才覚はまるでゼロだった。 ひとが集まらなきゃ、銭は落ちない、動かない、回らない。 神殿でさえ同じこと、どのように崇高な神を奉ったところで、ひとが寄りつかなければ廃屋ということさ。 それで、館を手放さなきゃならなくなって、現在のご主人様、そう、奥様がお慕いするお方に住み代わったのさ。 ご主人様は、わしみたいに有能な老婆をいの一番にお雇いになるほど、才覚あふれたお方であったのさ」 干からびているくらいに小さな老婆だったが、重々しい両開きの玄関扉を難なく開きながら、ひとり語り続けていた。 小夜子は、<奥様がお慕いする>と言われて、思わず頬を赤らめるほど恥ずかしさを感じたが、 そのような思いも、館のなかへ入った瞬間、眼を奪われる光景に取って代わられた。 案内されたなかは、それほど広くはなかったが、まるで、劇場のフロントといった作りの場所であった。 その中央には、若々しい女性がはつらつとした姿で立っているヌードの彫像が置かれていたが、 それは眼を奪われるくらいに、異様で美しいものだったのである。 はつらつとした可憐さを輝かせた若々しい女性の彫像は、その純白の素肌の上へ縄を巻きつけられていた。 いや、巻きつけられていたというのは正確ではない、まるで、その大理石の彫像が生身の肉体であるかのように、 山吹色をした麻縄は巻きつけられた柔肌へ厳しく食い込んでいるのであった。 乙女は直立した姿勢にあったが、その身体のあちらこちらへ食い込まされた縄のせいであるとでもいうように、 姿態は悩ましくよじられていて、それは今にも、さらにうねりくねり悶えるありさまを見せるようであったのだ。 小夜子は、乳房を上下から挟んで巻きつけている胸縄が後ろ手に縛られた両腕を押さえ込み、 縦に下りるようにして掛けられた首縄を胸縄へ絡められて引き絞られることによって、 愛らしいふたつの乳首がこれ見よがしに突き出させられていることに驚かされるのもさることながら、 覆い隠す羞恥の陰毛のないふっくらとした股間へ縦縄が深々と食い込んでいるさまは、恐ろしくさえあったのだった。 だが、眼を奪われ続けているうちに、その恐ろしさが何故か甘美に疼くものを感じさせることが不思議だった。 縄で緊縛された全裸の女性の姿が残酷なものなどではなく、むしろ、異様だけれど美しいと思わせたことは意外だった。 女性が生まれたままの裸姿を縄で縛られているありさまを見たことがないわけではなかった。 男性週刊誌を見ることのできる機会さえあれば、顔見知りの女優の緊縛姿すら知ることができる世の中だった。 だが、眼の前に立っている若い女性がそうした表現と異なって思えたのは、 可憐な顔立ちに浮かべている恍惚とした表情にあった。 それは、大理石で作られた彫像であることを否定しさえするような現実的な表情だったのである―― このように恍惚とした、神と交感する者だけが得られる、 神的法悦とさえ言えるような喜びと美しさをあらわすことができるなら、 それは、恐らく、<高ぶるほど空虚、満たされるほど孤独>などということが下世話なことになるに違いない―― そう思わせるに充分のことだったのである。 しかし、彼女はいつまでも鑑賞するという余裕を与えられなかった、奥の部屋へと連れていかれるのだった。 この場合、連れていかれるというよりは、引き立てられていったと言った方が正しいに違いない。 なぜなら、立ち尽くして彫像を見つめ続けている小夜子の背後へまわった老婆は、 着物のふところから麻縄の束を取り出すと、凄んだ声音で言い放ったのである。 「ご主人様がお望みになられている、さあ、両手を後ろへまわすんだ」 小夜子には、言われている意味が全然わからなかった。 「言ったことが聞こえないのか、おまえを後ろ手に縛ると言っているんだ。 早くしないか、年寄りは気が短いんだ!」 どうして、突然、縄なんかで縛られなければならないのか……。 どうして、突然、丁重な老婆は態度を豹変させたのか……。 まったく意味がわからなかった。 実は、これらの疑問を解くには、☆『環に結ばれた縄』というパンフレットが役に立つのであるが、 <上昇と下降の館>が廃館になったとき、大量にあった在庫も資源ごみとして廃品回収に出されたのであった。 述べられた中身の世迷言の少々よりも、沢山のパルプの外身の方が世の役に立つと判断されてのことだった。 何を隠そう、鬼婆の奉仕の進言に、新しい館の主人が承諾して行わせたことだったのである。 鬼婆にしてみれば、忌まわしい過去の事実のひとつを消し去ったのであるから、都合がよかったのだ。 そのようなこととは露知らない小夜子は、もっとも、知ったとしても事態は何ら変わるわけではなかったので、 唖然となったまま立ち尽くしていた彼女は、鬼婆から、さも面倒くさそうに畳み掛けられるのだった。 「おまえがお慕いするご主人様のお望みであるのだから、 おまえは言う通りにするしかないんだろう……」 鬼婆は、老婆とは思えない腕力で、相手の華奢な両手首を背後へねじまわさせると、縛り上げていくのだった。 小夜子は、いやっ、とかすかな声音はもらしたが、あの方が望んでいることだと聞かされて、 思い焦がれる相手であれば少々のことをされようが付き従うという恋心なのか、されるがままになっていた。 「さあ、歩け、奥の部屋だ。 こんな彫像、おまえがいつまで眺めていてもしようがない。 ただの石のかたまりじゃねえか」 鬼婆は、はつらつとした可憐さを輝かせた若々しい女性の彫像へ足蹴りを食らわせると、 後ろ手に縛った縄尻を引っ張り、相手の背中を激しく小突いて先へ進ませるのだった。 小夜子は、狼狽したままだった。 どうして、どうして、という疑問は湧き上がってくるのだが、意味を取り結ぶことができなかった。 取り結ばれたのは、背後で重ね合わされて縛られた手首から伝わる<緊縛>という感触だけであった。 だから、言ったように、『環に結ばれた縄』というパンフレットは役に立つはずなのである。 小夜子がそれを一読できないことは、認識の過程を遠まわしにさせるというだけのことに過ぎないのだ。 それを鬼婆は廃棄処分にしたのだ、やはり、このばばあが女性の敵であるということは否定できない事実である。 しかし、一方では、認識の過程が遠まわしになるということは、物語が長引くということである。 ろくでもない認識の結末であっても、起承転結という物語の体裁さえ整っていれば、読者が物語を放り出すことない。 物語がつまらなくなるのは展開が読めるからで、ましてや、認識の結末が読めれば、物語に未練は起こらない。 従って、このような調子で進んでいたら、前途は暗い―― 物語は、すでに言ってしまったように、<被虐にさらされて女が女に目覚める成り行き>が見え見えである、 第一、「被虐にさらされて女が<本当の女>に目覚める成り行き」とされていないことが致命的である、 認識の結末は、すべてが表現されたあげく、<本当の何々>が浮かび上がらなければ、読者は納得できない、 われわれの現実生活は絵空事のように退屈な繰り返しだから、 せめて、物語に本当の現実をあらわしてもらいたいのだ、 これを本末転倒の事柄だと思われるとしたら、そもそも、小説というものなど誕生しなかったし、 とっくに死滅している文学形式である、それがまだ生き長らえているとしたら、ひとえに、読者の温情であろう―― 主人公の小夜子も、前途の暗い、薄暗い照明のともる長い廊下を歩かされていたが、 彼女の場合、自分がどのような場所にいて、どこへ向かっているかなど、関心を寄せる余裕はまるでなかった。 ただ、或る木製の頑丈な扉の前で立ち止まらされて、いきなり扉を開かれるなり、 しわがれ声だが重々しく申し渡されたことだけは、はっきりと聞こえたのであった。 「さあ、縄を解いてやるから…… この部屋で身に着けているものを洗いざらい取って、生まれたまんまの素っ裸になりな。 ご主人様は、常に、優しくおまえを見守り続けてくださるお方だから、 おまえは、言われたことには素直に従う方がご利益があるというものだ……」 そして、突き飛ばされるようにして部屋へ入れられると、扉を閉められ、ご丁寧に鍵までかけられるのだった。 思わずよろけて床へ座り込んでしまった小夜子は、ただ、茫然とするばかりであった。 あの方にお会いしたいという思いから、ここへ来ただけなのに、どうして、このようなことに……。 どうして、縄で縛られたり、裸になったりしなければいけないの……。 まるで、意味がわからないこと、不条理だわ……。 このようなことなら、家に帰りたい……。 縛られたり、ひとまえへ裸をさらすなんて、私にはそんな趣味ありません……。 「何をもたもたしている、さっさと脱がないか、 ご主人様は、それを望んでいられるのだぞ!」 突然、部屋に取り付けられているスピーカーから、しわがれた怒鳴り声が室内へ響き渡った。 小夜子は、その声の所在であるスピーカーの方をにらみつけるだけで、微動だにしなかった。 しばらくの時間が流れた。 やがて、依然としてしわがれているが、荘重な趣きをたたえた老婆の声音がスピーカーから流れ出すのだった。 「おまえは、何か考え違えをしているのではないか。 すべては、おまえ自身のためであることだ。 まあ、人間は人間である以上、過ちを考えるから人間であると言えるのだが、 その考え違いをしていることを人間のあかしだと思い込んでいたら、それこそ、思い上がりというものだ。 おまえがご主人様に愛をかけていただくには、おまえ自身も相応の準備をしなければ、道理にあわないだろう。 自分は何もしないで、ただ、満たされない自分の境遇を救って欲しいと求めるというのでは、虫がよすぎやしないか。 得るものの大きさは、払うものの大きさに相応するとういうのは、当然のことではないのか。 では、おまえには、お布施のように支払える金がどのくらいあると言うのだ。 全財産支払ったって、おまえがご主人様からかけていただける愛は、雀の涙ほどのものでしかないだろう。 それほど、ご主人様のかけられる愛は、広大で深遠なものであるということだ。 それは、金銭に置き換えて考えることのできない、人知を超越したものであるからだ。 そうした広大で深遠な愛であるからこそ、救いそのものであるのだ。 おまえがその広大で深遠な愛に満たされたいと思うなら、おまえ自身も、それに見合う努力をしなくて、何となる。 では、おまえに何ができるというのだ、精進する何ができるというのだ。 人間の行えることなど、たかが知れているのだ、ましてや、道を知らない者には何ができるというのだ。 何もできないから、満たされる境遇にあってさえ、満たされていないと思うのであろう。 道をみずから知ることは、人間にはおいそれとは行えないことなのだ。 だから、まずは、ご主人様のお望みになることに従って、その道を学ぶことをするほかないのだろう。 ご主人様は、いずれは、おまえがみずからの力で道を歩むことができるようにと望んでいられる。 おまえは、みずからの道を歩むために、まず、言われたことに素直に従うしか、ないのである。 着ているものをすべて脱いで、素っ裸になれと言われたら、なるしかないのだ……」 荘重な趣きではあったが、書かれているものを棒読みしている単調さがあるのは否定できなかった。 その考えに共感を持っていない者が共感をあらわそうとすれば、このようになるという感じだった。 いったい何を言い出すのかと思えば、聞きたくもないような説教に、小夜子も、うんざりしたものを感じるだけであった。 そこで、艶やかな着物を脱ぎ始める代わりに、床から立ち上がると、スピーカーへ向かって言い返したのである。 「家に帰らせてください…… ここは、私のいるところではないと思います…… 扉を開けてください」 スピーカーがマイクと同じ原理で作用が反対のものであったにしても、 スピーカーが小夜子の声を集音したわけではなかった、ましてや、小夜子の様子を見る道具ではなかった。 見つけることはできなかったが、マイクとカメラが確かに存在していることを裏付ける回答が返ってきた。 「では、おまえは、主役を降りると言うんだね、このシナリオの主人公をやめると言うんだね。 おまえが着物を脱いで生まれたままの裸姿になるシークエンスは、<女の脱衣>という、とても美しい場面だ。 おまえのように美貌で姿態も優美な女がやるから、さまになるのだ。 干からびた老婆がやったって、屁もひっかけられないだろう。 だが、仕方がない、おまえがその主役を降りるというのなら、急遽、シナリオを変更する以外あるまい。 ご主人様は<女の脱衣>をお望みだが、<衣類を剥奪される女>というシークエンスにするほかない」 小夜子は、勝手に決められている自分の立場が苛立たしくもあり、腹立たしくもあり、不安にもなってきた。 「私は、ここを出ていきたいと言っているのです、 お願いです、鍵をあけてください、家に帰してください」 懇願するような声音になっていたが、スピーカーは電気が切れたように反応しなかった。 代わりに、騒がしい足取りを響かせて、数名の者が部屋の扉の前までやってくる様子が伝わってきた。 鍵がそのはやる気持ちをあらわすかのように、がちゃがちゃと激しい音を立てて開けられていた。 ばたんと開かれた扉にあらわれたものを見たとき、小夜子は、思わず、悲鳴を上げずにはいられなかった。 一糸もまとわない生まれたままの全裸の男が三人、部屋へ踊り込んできたのだった。 <扉にあらわれたもの>といったのは、まさしく、見事に反り上がった太くて長い三本の陰茎だったのである。 亀頭が皮を剥き晒して、水を求めて喘ぐ魚の口は、糸さえ引いている状態だったのである。 この場合の<水>とは、言うまでもなく、性的官能を高ぶらされた女性が割れめへにじませる女の蜜のことであるが、 小夜子にあっては、にじませるどころか、突然の恐怖に後ずさりし、ぶるぶると身体を震わせることしかできなかった。 もちろん、この痙攣も、高ぶらされた性的官能のあらわれではなかったから、 彼女の蒼ざめて引きつった顔は、大きな両眼をさらに見開いて、美しい唇を激しく歪めて悲鳴をあらわにしていた。 「いやっ〜、いやっ〜、 来ないで、来ないで〜、 あっちへ行って、あっちへ行って、助けて〜〜」 火急の状況とは言え、四十歳台の腹に脂肪を膨らませた、まるで白い豚が直立歩行しているような男たちでは、 筆がすべっても、筋骨たくましく浅黒く精悍な若々しい風采と表現したのでは、誤謬に違いなかった。 だが、白い豚の外観であっても、揃いも揃って、その太くて長い陰茎はポルノグラフィであるからこその事実があった。 人間は外観だけで判断してはならない、ひとつの例証と言えた。 しかし、男たちが揃いも揃って素っ裸で陰茎をそり上がらせているというのに、 女ひとりだけが艶やかな訪問着姿でいるという光景は、どう見ても不自然な感じをまぬがれない。 道理にかなうかどうかは別にして、とにかく、美術的な現象として不自然だった。 これまでの人類の美術史が示す通り、女性が美の主役として、 また、その美は男性の賞賛があってはじめて存在理由のあるものとして、 女性はヌード姿が最も誉れ高いものであったことでは、<☆このような表現>が伝統的であると言えた。 女性のヌードのさらに露骨で過激な表現がポルノグラフィであるとすれば、 <このような表現>は、ポルノグラフィの代用として用いられることがあったとしても、美術作品であった。 従って、ポルノグラフィは美術作品ではない以上、 <男性に混じって女性ひとりだけが着衣している>など、絶対にあり得ないことだった。 女性がヌード姿であることは、周知の一般的な前提であって、この場合も、 小夜子は、全裸の男たちに無理やり着物を剥ぎ取られ、生まれたままの姿をさらけ出され、 そり上がっていた三本の陰茎は、当然、行き場を求めての充血であったのだから、 三人が一緒になって行うというには、口と膣と肛門を同時に陵辱するという、 これまた伝統的な方法しかあり得なかったのだった。 小夜子も、女性の危機意識で、このような成り行きを漠然とながら予感させられたのである。 「そんなことは、いやっ、絶対にいやっ! そんなことをされるくらいなら、自分で脱ぎます、自分で裸になります! あの方も、そう望まれているのでしょう! お願いです、自分で脱がせてください!!」 男たちの無骨な六本の手は、よだれを垂らした三本の陰茎は、艶やかなひとつの着物に迫っていた。 女は、スピーカーに向かって、必至の嘆願を繰り返すのだった。 ようやく、スピーカーからは、やれやれ、というため息混じりの声が聞えてきた。 「男をそこまで迫らせておいて、やめにさせるなんて、どう収拾をつけるんだ。 脱がないの、脱ぐのと勝手気ままもいいところだ、おまえが主人公でなかったら、まったくできない相談だぞ。 人生は舞台である、と喩えたシェークスピアの卓見にあるように、 各自はみずからの人生の主人公であるということがあるからこそ、できることなんだぞ、わかっているのか。 それは、何もかもご存知のご主人様が見守ってくださるから、かなうことなんだぞ。 ご主人様の思し召しに感謝するんだな……。 いま、おまえが背にさせられている机に引き出しがある。 そのなかには、愛らしい顔立ちをした女性の面がある、その赤い口は大きく開いて男性を頬張ってくれるのだ、 咽喉もとへ深く入れば、頬張った男性を優しく、それから、段々と激しく、 行き着くところまで愛撫してくれるという電動のすぐれものだ。 電池の切れるまでなら、何十回でも、拒絶ひとつしない、従順な愛すべき女の鏡のようなお面だ。 それを渡せ、そして、せっかくお出でいただいたのに、お構いもできず、失礼を申し上げます、 どうか、これはほんのお詫びの品ですので、どうぞお納めになってくさだいと言って、しっかり頭をさげろ。 言われた通りにできなければ、後は、どうなっても知らないからな」 小夜子にすれば、後のことなど、考えの及ばないところだった。 ただ、役者が演出家の演技指導に従順になって、精一杯の感情移入で表現するということを行うだけだった。 男たちは、美貌の女を前にして、味わうことのできる優美な姿態がまさに手の届くところであったが、身を引いた。 もちろん、オナニー・マシンをただでもらえたことが代償となったわけだが、それは、やはり、一時の慰めに過ぎない。 男たちは、間近で知った女の魅力に対して、 再び出番さえあれば、そのときはやり遂げられるという希望の原理に代えたのであった。 しかし、そのような相手の思惑など、小夜子には思いも及ばず、 すごすごと部屋を引き上げていく三つの揺れる尻を眺めながら、ほっと安堵の気持ちを撫でおろすばかりであった。 扉が重々しく閉ざされ、鍵がかけられると、部屋には静寂が漂い始めた。 小夜子は、オナニー・マシンのしまってあった机に寄りかかったまま、放心したようにじっとしているだけであった。 そのようにして、どのくらいの時間が経ったであろう。 動こうとしない小夜子に対して、スピーカーもまた、まったく音を立てずにいるのだった。 彼女には、それが不思議に思われた。 その不思議は、どこからかはわからないが、自分をじっと見つめ続けているまなざしを意識させるのだった。 静寂が続けば続くほど、沈黙が深ければ深いほど、見つめるまなざしの熱心さを考えさせるのだった。 しかし、それは見つめ続けているだけであって、実際には何もしない。 小夜子は、会いたいと思いあこがれたあの方の存在を認めることはできたが、 その果てしない沈黙は、独りで放って置かれている自分へと思い至らせられることになるだけであった。 たとえ電気製品であろうと、スピーカーがあの方の声音さえ響かせてくれないことは、 たまらなく寂しいことに感じられるのであった。 そして、その寂しさは、いつまで続くかわからない静寂を考えると、切なさへと変っていくのだった。 切ない思いは、言いようのないほど、自分が惨めなものとしてあるように感じさせることだった。 ふいに、夫の健一のことを思い出した――涙が浮かび上がってくる。 だが、それ以上に夫のことを思ったとしても、どうなる――涙はあふれるばかりにまなざしをにじませるだけだった。 どうして、このようなことになってしまったのだろう……後悔の念が湧き上がり、それがますます胸を詰まらせるが、 静寂と沈黙は渾然一体となって、いっそうの深みをあらわして、身体をしっかりと取り巻くだけであった、 身体を取り巻いている着物と帯と紐が息苦しいほどの切迫感でそれを伝えているかのように……。 小夜子は、ほっそりとした自分の指が着物の帯締めに触れているのが不思議だった。 両手の白い指先が、自分の意思とはまるで無関係なように、帯締めを解き始めていることは……驚きだった。 ばかなことをしている…… それはわかりきっていた…… だが、ばかなことをする以外に、しようがなかったのだった……。 素晴らしい才能の女流小説家の描くすてきな物語世界に納得を抱くのであればよかったのだが、 平凡な家庭の主婦に飽き足らなかった小夜子は、人知を超越したお方にお会いしたいという恋心を抱いたのだった。 あの方に抱かれれば、夫では到底満たされない、 <高ぶるほど空虚、満たされるほど孤独>という思いから救われると信じたのであった。 幸か不幸か、小夜子は、美貌と優美な姿態を兼ね備えた女性だった。 あの方の真意というのは人知を超越している存在であったから、われわれの知る由もないが、 鬼婆という荒唐無稽を現象化したような存在には、思いあがった女は格好の生贄であったのだ。 人知を超越した崇高なお方が極悪非道の鬼婆をお雇いになるというのは矛盾したことのように思われるだろうが、 すでに、天使であった存在が背徳すれば悪魔に成り変わる立証があるのであるから、摂理と言えることなのであろう。 この点については、M.C.エッシャーに☆『環の極限 W』という卓見がある。 時空を超越して呪われた存在である鬼婆が小夜子を郊外の廃館へ拉致したのは、当然の成り行きだったのである。 永遠のヒロインである醜悪な鬼婆でさえかなわないことを―― 人間のくせに、人知を超越したお方と不倫しようなどということは―― 虐待される生贄の資格充分のことだったのだ。 生贄であるから、部屋へ押し込められて、扉に鍵をかけられ、 地球上に棲息する動物である姿のままに、一糸もまとわない生まれたままの全裸になることを申し渡されたのである。 だが、小夜子にとっては、言われるがままになるよりほかはなかった。 <女の牢獄脱出>が物語の筋であれば、そうなったはずだが、<女の脱衣>では、脱ぐしかなかったのである。 小夜子自身は、あの方が見えないカメラで一部始終の自分を見つめ続けていると思い続けていたわけだが、 すでに、自宅で着物へ着替えるとき、その全裸の一部を見させられているわれわれ――読者と作者――にとっては、 もういい加減に、見せるところまで見せないと、主人公への共感が放棄されるのは決定的な状況であった。 共感を放棄された主人公が全裸にされ、嬲られ尽くされるというのがポルノグラフィの常道であれば、尚更だった。 そうしたきわどい状況の小夜子は、正絹の地に白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物に豪奢な笹地の帯を締め、 髪型は柔らかなウェーブを持たせた初々しい若奥様といった感じの艶やかな黒髪を強調した姿にあった。 うりざね形の顔立ちは、細くきれいに流れる眉の下に、澄んだ大きな瞳を愛らしく輝かせ、 小さくまとまりのよい小鼻をひらかせた鼻筋は純潔をあらわすかのように通り、 大きすぎず小さすぎない美しい唇を品を示すような真一文字とさせているのであった。 だが、表情は幾分か蒼ざめた感じにあったが、それが美貌をいっそう際立たせるものにしているのだった。 彼女のまなざしはみずからの胸のあたりへじっと注がれていた、 それは、ほっそりとした白い指先が紫地の帯締めをもてあそぶようにしているからだった。 躊躇をあらわしている仕草であったことは間違いないが、見られていることへの媚態と受け取れないこともなかった。 みずからに自信がある者は、行う事柄の如何に関わらず、遊戯という余裕を示すものである。 この場合、たとえ、それが自惚れであったにしても、小夜子がみずからの身体に自負を持っていたことは確かだった。 その証拠に、帯締めに指が持ってこられるまでの彼女は、両眼に涙を浮かび上がらせていたのである。 ところが、帯締めをもてあそび始めてからは、考えるところを得たように、瞳はきらきらと輝き出したのであった。 何を思ってのことか――そのようなことは、脱衣してから注意を向けても遅くはないことであるから、いまは置こう―― ようやく、帯締めは解かれていくのだった。 それから、桃色の帯揚げが外し始められた。 彼女の顔立ちは、毅然としているくらいにもたげられ、正面の虚空がきっとなったまなざしで凝視されている。 華奢な白い指先は、豪奢な笹地の帯へとかかっていた。 手際よくするすると解かれていく帯は、まるで、華厳の滝の落下を見るような華麗な感じを漂わせていた。 白黒のパンダの大きく描かれた艶麗な着物の裾元には、海原を思わせるように豪奢な帯がうねりを見せていたが、 艶めかしい色香を匂わせる帯締めや帯揚げの色とりどりに加え、訪問着を支えている伊達巻や腰紐が解かれていくと、 小夜子は、百花繚乱の花々に足もとを埋められて立つ天女のような風情をかもし出せるのであった。 天女――ああ、この表現を持ってして、あの方と交わる資格を得ていると勘違いさせるくらい、 小夜子は、きれいで、愛らしく、艶やかで、艶めかしく、匂やかで、麗しく、美しさそのものの外観があったのだった。 その天女は、支えるものを失って裾前が左右に割られた着物を双方の手で掻き合わせるような仕草をしている。 そして、幾分か上目遣いになったまなざしで、うっすらと微笑みさえ浮かべている表情を示しているのだった。 それは、これ以上に見たいとお望みなら、はっきりとそうおっしゃってみたら、と言っているかのようであった。 いったい、彼女は誰に向かって、そのように言っているのだ――あの方か、読者か、作者か、それとも、鬼婆なのか。 その疑問へみずから答えるかのように、小夜子は、身体をさも悩ましそうにくねらせて斜めにすると、 艶麗で豪奢な着物を肩からそろそろとすべり落としていくのであった。 あらわれたのは、純白の長襦袢姿の艶めかしい小夜子であった―― 匂い立つような色っぽさが漂うのは、やはり、家庭の主婦であり、夫を持つ妻であるという身の上のことからなのか。 蒼ざめていた顔立ちも、いまは、羞恥を意識してか、桜色にほんのりと上気していたが、 それがますます、人妻であるという憂愁と喜悦と艶美をかもし出せていることは否定できないことであった。 いつまでもその姿で眺め続けていることに飽きがこないほど、醇美、優美、秀美が漂っていた。 小夜子自身も、見せつけるように直立した姿勢を微動だにさせず、顔立ちを前方へ華麗に向けていた。 しかし、そのとき、澄んだまなざしをほんのわずか落した仕草は、 これから行うことの恥じらいの思いをにじませたようで、愛くるしくさえ映るものだったのである。 いいから、早く見せろ――<このような表現>のように見守る観客の多数でもあれば、 恐らく、官能が掻き立てるはやらせられる気持ちから、そのような野次のひとつでも飛んだに違いない。 だが、小夜子が立っていたその部屋には、静寂と沈黙があるのみだった―― 彼女の<女の脱衣>を見つめている者は、すでに書いたように存在したが、固唾を飲んで見守っていたのだろう。 その点では、小夜子は、見守ってもらえる者があるだけ、幸せな存在であると言えたかもしれなかった、 何しろ、最低、あの方と読者と作者と鬼婆の四人は確実であったのだから。 従って、そのように考えれば、どのように真摯に自分というものをあらわそうと無視され続ける屈辱的なことよりは、 相手の思惑がどこにあるかは別として、熱心に見守ってもらえる者が実際にいるということは、 その方たちの前へ、みずからの生まれたままの全裸姿をさらけだしても構わないという思いにさせるのだろうか。 小夜子は、純白の長襦袢を支えている草色の伊達巻へ細い指先をかけていた。 思いさえ固まっていれば、そのような結びや紐は難なく解かれていくのだった。 第一、結ばれているものを解くということは、それほど難解なことではないのだ。 どのように結ぶことができるのか、ということの方が遥かに厄介なことなのである。 解くのが面倒なことだと思われるならば、ちょん切ってしまえば事足りるのは、歴史的にも行われてきたことである。 もちろん、小夜子の脱衣が歴史的な事柄であると言ってるのではない。 彼女の脱衣はひとりの人妻の脱衣にしか過ぎない。 だが、ひとりの人妻の脱衣も、人類の衣服の発明以来行われてきていることであれば、歴史的な事柄である。 では、歴史的なストリップ・ティーズであるのか、それは、小夜子のあらわし方に依存することである。 伊達巻がはらりと落下すれば、純白の長襦袢の裾前はおのずと左右へ割れていく。 裾の長く引かれた姿になった小夜子は、その割れた内奥にある肌襦袢の結びを解いている。 それから、腰をかがめ横座りの姿勢になって、双方の足袋を脱いでいる。 ふたたび立ち上がったときには、長襦袢と肌襦袢の裾前は大きくはだけて、 身に着けている衣類よりもさらに白い胸のあたりがのぞいている。 ふたつの乳房を見ることは、まだできなかったが、そのような懸念など無意味であるとでもいうように、 小夜子は、水色地の湯文字の帯紐を解き終わると、長襦袢と肌襦袢を一気に肩からすべり落したのだった。 豪奢な帯が落ちたのが華厳の滝ならば、壮麗かつ豪快なナイアガラ瀑布だった、 とわけのわからない喩えが水飛沫の煙幕となって立ち昇るのも、束の間―― 一糸もまとわない生まれたままの全裸という女性の姿があらわれたのだった。 すでに、自宅において、その半裸を眺めている者にとっては、 同じような女体描写が繰り返されるというのは、何ともかったるい感じがするが、 それを繰り返してもよいと思うほど、小夜子の姿態は、眼を見張らせるものがあったのだ。 つまり――瞳の大きな美しい顔立ちにウェーブのかかった柔らかな黒髪は、はっとさせられるほどの魅力があったが、 ほっそりとした首筋から両肩へ撫で下りた優しい線、大きくもなく小さくもなくふっくらと隆起したふたつの白い乳房は、 ピンク色をした可憐な感じの乳首を光らせ、それにまなざしを奪われていても飽きがこないほどの優美さであったが、 その下にのぞく綺麗な形をした臍のくぼみが悩ましい色気を放つ腰付きの方へと否応なく注意を向けさせるのであった ――ということである。 しかし、音楽にも、バロックやロマン派や十二音音楽や和楽といった表現の形態があり、 それは、現在も映画やテレビ・ドラマで堂々と鳴り響いているものであるから、 言語形態も、反時代的、或いは、時代錯誤、もしくは、陳腐をものともせずに、 この地球上で最も美しいのは日本女性であるという思い入れから成立する、日本特有の抒情的表現が求められる。 それに筆力が及ばないとしたら、それは、表現力がないというよりも、思い入れが浅いということでしかないだろう。 すなわち――みずからの手でみずからの裸身をあらわにさせてしまった小夜子……。 身に着けているものすべて、艶麗な着物から豪奢な帯、純白の長襦袢や肌襦袢、色とりどりの伊達巻や腰紐、 女性の最も恥ずかしい箇所を隠す艶めかしい湯文字や足袋に至るまで、取り払ってしまったのだった。 ひとまえに生まれたままの全裸をさらすというその恥ずかしさは、 そのような大胆な振るまいを行わせたみずからというものを恐れさせ、 そのような姿になってしまったみずからはこれからどうなるのだろう、という不安を一気に募らせていた。 あらわになったふたつの乳房は情感をたたえた美しい隆起をあらわしていたが、 桃色に息づいている乳首の愛くるしいほどの可憐さは、まるで乙女のそれのようにさえ感じさせる趣きがあった。 その乳房を乳白色に色づくほっそりとした両腕で覆い隠すようにして掻き抱くと、 小夜子は、立っていることはもうままならないとでもいうように、くず折れるように床へ片膝をつくのであった。 そして、最も恥ずかしい箇所は絶対にひとめにはさらすまいと、 艶めかしい量感をあらわす左右の太腿をぴったりと閉ざすようにするのだった。 さらに、なめらかと言えば、まるで、純白の磁器のような麗しさをかもし出させている裸身を小さく縮み込ませると、 見られることを恐れるかのように顔立ちをそむけ、しくしくと泣き始めるのであった。 澄んだ瞳の大きな両眼に涙があふれ、それが銀のしずくとなって膝へ落ちるたびに、 春のなよやか海を忍ばせるような波打つ豊かで艶やかな黒髪がそっと揺れ、 すすり泣く女の声音を、いっそう消え入るような切なさ、やるせなさ、哀しさをあらわしたものとさせていくのだった。 それは、処女でもあるかのような健気ないじらしさを漂わせているのであったが、 腰付きから尻へかけての優美な曲線へおのずと眼を運ばれると、 神秘を感じさせるほどに妖しい美しさを漂わせた深い亀裂に割られて、 悩ましいふくらみをあらわした尻が官能を匂わせる貪欲な量感を示しながら、 熟れた美の顕現者である人妻であることを思い起こさせるのであった――。 部屋には、生まれたままの素っ裸をさらした女が床へ小さく縮こまって嗚咽し続けているありさまがあるほかは、 静寂と沈黙は依然として変ることのない光景があるのみだったのである。 これが<女の脱衣>と呼ばれたいきさつであった。 |
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