再び寄せられた<財団法人 大日本性心理研究会>の権田孫兵衛氏による批判の全文 はなはなだしく遺憾な表現行為であると言わなければならない。 いや、でたらめもいい加減にしてもらいたいと言いたいところであるが、そのように言ってしまっては、身もふたもない。 文句は言い出していったらきりがないので、当方からの正当な批判は、根本的な事柄に押し留める次第である。 まず、この作者は、いったいどのような思想に基づいて表現を展開させておられるというのであろうか。 私の知るかぎり、田中優子氏が以下において触れておられる「連」の発想に近い気がするが。 問題は二つある。一つは、近世には渦のように動きまわり流動し続ける「連」の発想がある、ということだ。 これは人間や事柄や言葉の中の「関係の方法」の問題だ。 この「関係の方法」は今の我々から見れば、まるで体系がなく、論理がなく、収斂してゆくところがなく、 すべてを列挙し羅列しているように見える。 しかし、これが第二の問題なのだが、その関係の方法は単に羅列の方法なのではなく、 「俳諧化」とでもいうべき方法であった。 俳諧化とは、絶え間ない相対化のくり返し運動に似ている。 たとえば相対化というのは、一つの理念(たとえばB)が別の理念(たとえばA)を否定する、ということではない。 否定と排除の関係の中では、もしBのパラダイムにおいてBがAを否定・排除するならば、 もはや、Aには何の存在理由もなくなる。 しかし、相対化の方法というのは、否定の方法ではない。もしBがAを否定したとしても、 次の瞬間にはCがBを否定してしまうので、Bには否定の根拠がなくなる、ということなのだ。 これが次々と続いてゆくならば、そこには否定も肯定もない。 あるいは否定することは同時に肯定することになってしまう。 俳諧化とは、このような相対化のくり返し運動の側面をもちつつ、相手を徹底的にほぐし、その顎(おとがい)を解き、 あるいは滑稽化することによって批評する方法なのである。 つまりは、笑うことによって動き続ける方法なのだ。 だから、俳諧化の動きの中では、どんなに確かだと思えるものの見方も、またたく間に不確かになってしまう。 俳諧化を生きる人間に安住はない。 がそのかわり、彼らはあるひとつの視野や領域に釘づけにされる、ということから、常にまぬがれている。 また彼らには、あるひとつの価値観に収斂してゆくために他のものを切り捨てる、という行動をとる必要がない。 彼らに要求されるのは、いかにして相いれないものの存在を認めるか、ということであって、 いかにして否定するか、ではないからだ。 近世という時代は、このような俳諧化の方法をもっていた時代であった。 近代化するとは、これらの発想法をすべて切り捨ててゆくことでもあった。 そのこちら側に、私たちの現在がある。 田中優子 『江戸の想像力』 筑摩書房 1986年刊 しかしながら、この作者の取り扱っている題材は、描写があからさまにされた性的行為の表現である、 言うならば、エロ、淫猥、破廉恥、猥褻、よく言っても、ポルノグラフィにすぎないものである。 「連」の発想に似てはいても、エロやポルノグラフィの発想は発情的なものであって―― ひとの性的衝動が時と場所と相手を選ばないという蓋然性を示す意味では――特有の論理性にさえ欠けるものがある。 従って、学術として研究されているありようとは、根本的に異なるものがある。 現在の学術が採用している科学的方法というのは、たとえ、始まりが霊感と呼ばれるような発想であっても、 整合性を目的とした秩序ある全体性を形成しようとするやり方において、その存在理由を明瞭なものとしているのである。 たとえば、人間の活動の根源には性がある、これは否定できない事柄である。 活動の根源に性がなければ、生殖行為はありえないわけであるから、人間の種の維持と存続もまたありえない。 だが、性が人間の活動に及ぼす影響については、発情させられることが簡単な現象であるほどには明らかにされていない。 それをこの作者が行っているような発情的な発想で概念を相対化させ矛盾化させ非論理化させるような方法で表現すれば、 簡単な現象でさえも、ただ複雑な様相を帯びるということになるだけで、解明される方向とは別のありようしかあらわさない。 「連」もそうなれば、「擬似連」であるにすぎないことであろう。 現象は、性の影響のあらわれるデータ集積を行うことによって、事例の状況として把握されなければならないことである。 可能な限りの事例は、現象の共通性によって意義付けが成され、分類・整理されることによって理論体系の肉付けとなる。 骨格としての理論は、それらの意義付けが相互に相反・矛盾のないものとして解明されることにある。 この作者が――身のほど知らずに――そのような学術として尊厳のあるサディズムやマゾヒズムに挑んだとしても、 それらの語源となったマルキ・ド・サドやザッヘル・マゾッホの優れた文学をさえも否定するということになるわけであるから、 でたらめな醜態の赤っ恥をたださらけ出しているということにすぎないのである。 第一、わが国において、性理論を確立させる語源となるような優れた文学が存在するものだろうか。 わが国の性科学が西洋の追従をしているだけのものだと見なす程度の浅薄な眼識であることは、 わが国にはたまたま優れた性文学が存在しなかったが、優れた西洋の性文学であっても、 それが人間の事象に関する偉大な眼識の表現であれば、グローバル・スタンダードとしてあるということである。 グローバル・スタンダードにならうことを追従だと言うならば、わが国の学術を明治時代以前へ戻せということと同じである。 そのような荒唐無稽! あり得るはずがない。 現代の学術は、人間存在の整合性的意味解明を目的とした科学としてのありようとして、 どのようにしてあるかということの不分明な点については、その避けられない理論的相反と矛盾を、 後に、同じく整合性を目的とした理論のありようから批判され修正されることによって進化させられるものだからである。 科学的方法とは、この批判と修正を綿密に繰り返すことによって、厳密と確実を獲得していくことである。 批判や修正による厳密と確実が相反や矛盾を明らかとさせた場合は、 当然、起こりえた相反や矛盾の前まで戻って、それが起こりえない道を模索することを行うものである。 なぜなら、道は約束された目的地にたどり着くものであり、最初に成された約束事は果たされるものだからである。 この整合性がなくては、科学的方法としての存在理由はない。 科学的方法の存在理由は、宇宙と自然と人間の全体を整合性のあるものとして描き出すことにある。 整合性の証明されるものがグローバル・スタンダードとなって全体化するということである。 矛盾や相反が許されない整合性、ひとつの完全な全体があり、各部分はすべて従属する秩序を示すというありようである。 現代のわれわれは、その恩恵を受けて生活しているのであり、未来はさらに希望の前途と言えることなのである。 われわれの所属する大日本性心理研究会は、取り扱う対象はこの作者と同様の女体緊縛であることは事実であるが、 上記に述べた方法に従うことにより科学としてのありようがある。 女性を全裸にして縄で縛り上げオーガズムに到達させるというだけでは、ただの淫猥な緊縛行為にすぎない。 緊縛行為の技術的熟達者である縄師が整合性のある縄掛けを行うことによってこそ、現象が科学的となるのである。 この作者が展開させている発情的な霊感に頼っているありようとは、根本的に異なるものがあるのである。 技術的熟達者である縄師が行う科学的緊縛は、人間存在の性の解明に欠くことのできない論理過程と言えることである。 この論理過程から集積される事例のデータがあってこそ、現象の科学的解明は成立するものである。 先に述べたように、緊縛の未経験者である十六歳から六十五歳にわたる女性を被験者として得た五百件の事例によれば、 たとえば、縄になじむ心理の速度は、首縄、胸縄、腰縄、股縄などの縄掛けの形態に依存して大きく異なることがわかるが、 女性がいずれを嗜好するものであるかは、性のオーガズムへ到達させる心理の変化要因の多様性において、 少なくとも、女性は生まれながらにして被虐性・マゾヒズムの心理をもった存在であることを裏付けている、 <女性は縄で縛り上げれば、女らしさをあらわす>という俗説は、科学的にも論証できることなのである。 但し、言うまでもなく、人間にはサディズムとマゾヒズムの相対が属性としてあるものであるから、 女性があらわすこのマゾヒズムは、サディズムの存在意義があってその整合性が表出されていることである。 従って、この作者が表現する女体緊縛が民族の予定調和の表象であり、縛って繋ぐ力がその実現であるとすることは、 データ集積による解明のまるでない非科学的ありよう、「擬似連」でさえない、いや、古代の民間信仰にさえ及ぶことのない、 荒唐無稽の発情的発想にすぎないことである、よくて、せいぜい、猥褻なエンターテイメントというところであろう。 最後に、余談ではあるが、八十歳余の老人の登場人物名が私の名前と同一であるのは、悪意であるとしか受け取れない。 私は、権田孫兵衛という名であるが、父親から授けられた立派な名前であることを誇りに思っている。 名前からすると年配者のように思われがちであるが、現在、三十七歳、八十歳余には遠く及ばない年齢である。 また、私自身の客観的な立場からは言い添える必要のないことであるが、念のために申し上げる。 私は、孫兵衛という名であっても、れっきとした女性である、孫兵衛は「まごえ」と読むまでのことである。 無意味な意味混同をなされる無意味さに対し、整合性はかくも単純で美しいものであると付記する次第である。 小説も既成概念を価値転倒させようなどという試みが行われなければ、斬新であると言っても、 新鮮だという程度の意味にしかならない、つまり、賞味期限までの時間がどれだけ長いかにすぎない。 賞味期限というのは、発表されてから廃れるまで、どのくらいの期間、それが金銭を生む話題になるかという時間のことである。 現行の小説に賞味期限の表示が義務付けられていないのは、情報の価値という認識がまだ低い段階にあるだけのことである。 いずれ時間の問題で、そのような体裁のものへ成り代わることは、エントロピーの必然的経過において避けられないことである。 表現された内容の価値は、歴史が示しているように、ものの言いようでどのようにも定めることができるものだからである。 賞味期限という内容の品質保証は、複雑化されていく事態において、わかりやすく価値を選択させる整合性的方法なのである。 さて、物語の進行を妨げる<財団法人 大日本性心理研究会>の権田孫兵衛氏の批判は公正を期するための挿入であるが、 作者としても、権田氏の見解に同感の立場であることを付記しておく必要がある。 権田氏は、客観性を立証するためと氏の肖像写真を添付されてきたが、公正を期するために申し上げると、 客観的に申し上げて、美人です、主観的には、ゾクゾクさせられるような色香ただよう好みの美貌の女性です、 個人情報保護の点から、発表することがかなわないことは誠に遺憾であるほかありません。 そのような美しい方のおっしゃられる筋道の通った批判です、どうして反発する所以があると言えることでしょう。 女に言いくるめられて男を下げるなんて、何とだらしのないことだと言われるかもしれません、だが、下がっても構いません、 心底から男をもたげて上げられることなら、おっしゃられる科学的整合性の足元へひざまずき、踏みつけられしても構いません、 それほどに清楚で美しいと感じさせるあなた様であれば、何が<縛って繋ぐ力>の民族表象ですか、そんないんちき……。 再三にわたって述べてきたように、これは、女主人公小夜子が勝手気ままに思い描いている空想物語である。 彼女の描く空想のなかに権田孫兵衛という実在の人物名があらわれたとしても、すでに作者の手の及ぶところではない。 どのような艶麗な美しさであっても、空想はあくまで空想であって、実在の美には到底かなわないことである。 どのような淫猥な性行為であっても、空想はあくまで空想であって、実感の挿入と射精にはかなわないことである。 実在の美しい女性の迫真力は、たとえその発言が荒唐無稽な見解であったとしても、官能は論理以上の説得力を失わせない。 ましてや、サディズム・マゾヒズムの学術に対して、全裸の緊縛姿に股縄という破廉恥な格好で正面対決しようなどという、 思い上がりなのか、世間知らずなのか、或いは、時代錯誤なのか、あきれてものが言えないありさまの空想女のとんちき……。 権田孫兵衛氏のおっしゃられていることがまったくの正当性をあらわしていることは、だれの眼にも明らかなことなのである。 思い上がった女は、せいぜい、むせび泣いて、すすり泣いて、泣きじゃくって、啼泣する以外に成す術のないことなのである。 日本間の様式に造られた部屋の落ち着いたたたずまいの床の間に、 縄文土器の模造品が古色蒼然とした風情で置かれ、 そのとなりには、髪留め、指輪、ネックレス、或いは、ピアスのような装飾品で飾られることがないばかりか、 柔肌を覆い隠す布切れひとつ許されない全裸、股間を覆い隠す恥ずかしい陰毛さえ奪い去られていることでは、 生まれたままの裸姿の女が使い古されて灰色に褪せた麻縄でほっそりとした手首を後手にがっちりと縛られ、 ピンク色をした可憐な乳首ときれいに膨らんだ乳房を突き出させられるように上下からの胸縄を掛けられ、 優美な曲線をあらわす腰のくびれを一層引き立たせられるように腰縄をぎゅっと締め上げられ、 その正面から縦へ下ろされふっくらと柔らかな白い小丘を.淫らなくらいに盛り上げて股間を通された縄においては、 女の割れめの奥深くへと埋没し官能の芯をじかにとらえて、直立させられた姿態を悩めるように悶えさせるものとしてあった、 優れた学術の見解に比べて、そのありさまは、ただ、ただ、卑猥であるとしか言いようのないものであったのだ、 女にとって、どのくらいの時間、そのような卑猥な姿のまま放置されていたのかは、すでにわからなくなっていたことであったが、 疼かされ、掻き立てられ、煽り立てられる官能は、ただ、緊縛されているというだけで、たどり着く場所の約束がないために、 ただ、ただ、耐えるということをする以外はその被虐の状況を観念して、 女は縄で縛り上げられれば、ただ、ただ、ただ、女らしさをあらわすしかないものであったのだ。 権田孫兵衛老人が言ったように、 「女は美しい生きものだ、特に若い女性は輝ける生きものだ、少女に至っては天女の神々しささえある…… その美しい女が自然の生育させた植物の繊維で撚られた縄で縛り上げられている姿…… 妖しくも、華々しくも、麗しくも、優美で、艶麗で、荘厳な姿、この世で、これ以上の美しさはないという至上の美……」 女は女らしさとして、それをあらわしているだけのものでしかなかったと言ってよいものだったのである。 少なくとも、日本間の様式に造られたその部屋を取り仕切っていたのは、権田孫兵衛老人に違いなかった。 小夜子がどのように思おうと、作者でさえどのように考えようと、そこは、権田孫兵衛老人の調教部屋だったのである。 従って、その老人が姿を消してこもってしまった次の間の襖がおもむろに両開きとなり、 新たな三人の美しい生きものがあらわれたことは、<色の道>の教授者の采配によることだったと言えるのである。 あらわわれた三人が女性であることは間違いなかった。 おやじ臭い言いまわしで厳格な批判を成されるあの権田孫兵衛氏でさえ美しく尊敬すべき女性であったのだから、 一概な思い込みは避けたいことであるが、三人の人物がその外観から女性を感じさせるものである以上、 女性であると言い切ってしまいたいことだった。 何をそれほどに男性・女性とこだわる必要があるのかと言うならば、作者は男性であって、おちんちんがあるというにすぎない。 おちんちんのある男性が描く物語とおちんちんのない女性が描く物語とでは、表現におのずと差異があることを言いたいのだ。 何をもって差異とするかは文学批評の歴史が示すように壮大で深遠な人類の問題である、ここではわずかしか触れないが、 要するに、おちんちんがあるのに、まるでないような表現だと見なされることは、男として立つ瀬のないことだと言いたいのだ。 本当に立つ瀬のないことだ、不能、インポテンツということだ、あるべきものなら立つ瀬は絶対に必要なことであるからだ。 あらわれた三人の人物には、大小の如何に関わらず、そのおちんちんが付いていなかった。 むしろ、女性をあからさまにさらけ出すかのように、一糸もつけない、生まれたままの全裸の姿であったのだ。 美しい三様の髪型、魅力的な顔の輪郭、艶めかしい首筋、優しいなで肩、綺麗な乳房、優美な腰付き、愛らしい臍、 夢幻の漆黒に覆われた神秘の割れめ、悩ましい太腿、壮麗な尻、華麗な両脚、美麗な両足。 否が応でも見せつけられる美しい生きものに違いなかったが、言い切ることへの躊躇が生じたのは、 三人が揃いも揃って、恐ろしい般若の面で顔を覆い隠し、割れめへ深々と麻の股縄を締め込まされた姿をしていたからだった。 何の序奏もなく、前口上もなく、事前通達などさらになく、突然あらわれた般若面の三人組は、 床柱へ繋がれて晒しものにされていた小夜子を驚かすのに充分なものがあったが、 読者の方によっては、<全裸に般若面の三人組>と聞かされて、或いは、連想させられるものがあるかもしれない。 私の<じゅずつなぎ>は、一糸もつけない三人の女性が後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、 正座した姿で並んでいるお互いを縄で繋がれているというものだった、あの<じゅずつなぎ>と同じである。 ただ、私のものは、女性たちは俯いていなかった、堂々ともたげた顔には般若の面が着いていたのである。 自尊心に満ちた美しい光景だった。 私は礼子、節子、法子をじゅずつなぎに繋いだ麻縄をしっかりと握りしめて、縄から伝わってくるものを感じ取った。 礼、節、法の三位一体、それが意味するものは何なのか、そこから探りたかった。 しかし、それ以上を望みたくても、残念ながら、私の身体は急速に言うことをきかなくなっていた。 そして、私は倒れた。 今、病室で空ろな状態で死を待っている。 …………… それにしても、生れたままの全裸でいる女性が縄で縛られた姿、何と美しいものだろう。 縄による緊縛で悟りを開いた女、般若の女、何と気高いものであろう。 私と彼女たちとを繋いだ縄。 私の縄を彼女たちの御手に委ね、時を終わりにしよう。 あとは、彼女たちが作り出すことだ…… ☆鵜里基秀 『般若の思想』 <縄の導きに従って>より この鵜里基秀なる作者が男性か女性か、『般若の思想』の語り手が男性か女性か、それはともかくとして、 その物語にあらわれた三人の女性がいまここに登場したとしても、何ら不思議のないことである。 <礼、節、法の三位一体>について、その物語の語り手は、思い及ぶに至らずに死に至ったことであったが、 老いさらばえていても、権田孫兵衛老人は、そのありようを認識していたということにすぎなかったからである。 礼とは、社会の秩序を保ち、他人との交際をまっとうするために、人として行うべき作法のことである。 節とは、言行などが度を超さず、適度としてあるふるまいのことである。 法とは、物事に秩序を与えているもの、法則、真理、根本的な規範のことである。 つまり、この三位は、群棲している人間を文明化させるために欠くことのできない一体を意味していることであり、 欠くことのできないこの一体においては、人知を超越する神の存在というものを必要としないで、 同種も異種も関わりなく性行為を行う人間存在にある荒唐無稽を囲い込むことができるものだとするのである。 <色の道>であろうと、人間へ教育を行おうとする<道>においては、不可欠のありようということなのである。 権田孫兵衛老人には、<じゅずつなぎ>などという<人の和>を縄で繋ぐような望郷的で感傷的な感情移入などなかった、 愛と平和と非戦を願望する縄による全裸の女体緊縛の美、 目的が万人のためならば、猥褻でも芸術と称し得るというようなおためごかしはなかった。 従って、三位を縄で繋ぐ代わりに、それぞれにみずからの存在理由を知らしめる股縄を締め込ませることをする。 三位は股縄によって<道>に繋がれているからこそ、予定調和の実現に果たし得る役割をまっとうできるというのである。 「このように、一字一句誤りなく読者の方々へ伝えよ」 と権田孫兵衛老人は、作者に対して脅迫とも言うような声音で提言してきたのである。 「物語という文学表現があらわす可能性は、作者が何もかもわかっているような神のごときふるまいを止めるところから始まる。 整合性を目的としたロマンやノヴェルが生み出された西洋においてさえ、いまや、表現の没落へと向かっているというのに、 そのようなものへ今更色目を使って、もとより意識として希薄な辻褄を明確にしようだなどと、 おまえさんも本気で考えていないだろう…… 科学的整合性の前では、文学が表現する辻褄合わせなど、もはや無力だと感じていれば、 立たないおちんちんを立ったように見せるだけの立つ瀬、 一般大衆が文学の表現様式へ無関心であるからこそ提示できる、<新しい時代様式>ということにすぎないのではないか。 それが証拠に、そのような表現から何が生まれる、出産など及びもつかず、妊娠にも至らず、 それもそのはず、オーガズムをもって放出できないどころか、そもそも、男性としておっ立たないのだから…… いや、おちんちんさえないのに、あるが如きに表現する修辞学というところか。 おまえさんも、ほどよい作品として最終まで行き着きたいのであれば、おとなしく、わしの言うことを聞くんだな。 読者の皆様方あってのおまえさんであるように、わしあってのおまえさんであることは明らかなのだから…… 出版社や文芸批評家諸氏へ魅力のない色目を使ったところで、 彼らの気に入るおちんちんでなければ、しゃぶってはもらえないことは、はっきりとしていることじゃないのか」 と言ったのである。 いったい、いったい、何なんだ、何なんだ、このジジイは!! 被虐に晒される小夜子ではない、脅迫を受けている作者が今度は言いたい台詞だ! ばっかじゃないの、もうろくジジイ!! 作者を上回る支配力を持つ登場人物、そのような者があらわれる文学など、これまでにあったのだろうか! 荒唐無稽もはなはだしい!! しかし、もうろくジジイは、舌なめずりしながらの嫌らしい声音で、 「おまえさんを素っ裸にして、麻縄で縛り上げて、床柱へ晒しものにすることだって、できるんだよ」 と付け加えたのである。 いったい、いったい、何を言っているんだ! このもうろくエロジジイは!! 日本間の様式に造られた部屋を取り仕切っていたのは、確かに、権田孫兵衛老人に違いないことだった。 だが、状況の何もかもに、もうろくした猥褻老人の勝手気ままが許されるというのか。 「けれど、おまえさんに、民族の予定調和としてのヴィジョンが示せるというのかね。 それに匹敵するような思想を表現することが可能なのかね。 ましてや、そこへ行き着くための<色の道>をわかりやすく教授することができるとでも言うのか。 できないことだったら、おまえさんは黙って隷属する以外にないことだろう、縄の縛めに従うほかないことだろう。 『サディズム・マゾヒズムの学術に対して、全裸の緊縛姿に股縄という破廉恥な格好で正面対決しようなどという、 思い上がりなのか、世間知らずなのか、或いは、時代錯誤なのか、 あきれてものが言えないありさまの空想女のとんちき……』などとは、よく書いたものだ。 民族の予定調和の表象のひとつであろうとする小夜子をないがしろにするような表現は許されないよ。 わが民族固有の<縛って繋ぐ力>を甘く見たらいけないよ。 それは、おまえさんのなかにも、因習としてしっかりと継承されていることではないか。 自分は何もしないくせに、できもしないくせに、ひとの行いをあれこれあげつらって、 さも自分が正義であるような面をひけらかすことは、おためごかしと言うんだよ。 おまえさんのおためごかしを読者の方々は望んではいないということさ。 わかったか……わかったら、さっさとその場で裸になれ、全裸になって縄の縛めに従え!」 三人の般若の面を着けた全裸の女性の登場にびっくりさせられた小夜子だった。 だが、今度の闖入者は、小夜子ばかりでなく、般若の女性たちまでをも驚愕させるに充分の人物であった。 黒いスーツ姿の男性の登場だった。 物語の始まりより「全裸になって縄の縛めに従え!」という権田老人の怒号に至るまでを描写し続けてきた作者であった。 作者は、へたり込んだ横座りの姿勢になりながら畳へ片手をつき、茫然となったまなざしを一点へ落とし続けているのだった。 小夜子は、<女の芳香>と呼ばれたいきさつで、縄で縛り上げられそうになった相手であることをすぐに気づいたが、 顔馴染とは言っても、愛想よく挨拶を交わしてという雰囲気の感じられる状況にいるわけでは当然なかった。 般若の女性たちにしてみれば、初対面であったのだから、対処の方法もわからず、 これはもう立ち尽くして見守るばかりのことだったのである。 「この物語の作者だよ、これからはおまえさん方の同朋になるのだから、仲良くしてやってくれ」 次の間から姿をあらわした権田孫兵衛老人は、手にしていた麻縄の束をこれ見よがしに振りまわしながら言うのだった。 「おい、どうした……わしは、おまえさんに生まれたままのすっぽんぽんになれと言ったはずだぞ。 さっさとなったらどうだ」 老人は相手の前へしゃがみ込むと、その顔を覗き込むようにして、しわがれた気味の悪い怒声を放つのだった。 思いつめたようにへたり込んでいた作者は、険しい老いをあらわにした非情な顔付きをきっとなって見返すと、 言われたことを始める以外に手立てはなかったのだった。 年齢は三十七・八くらいであったが、もたげた作者の顔立ちは、 短い男性的な髪型によく映えた、なかなかの端正さをあらわしていた。 その端正さは、男性的な外観とは裏腹に、まるで肌を見せることの躊躇といった恥じらいが滲み出すような脱衣の様子から、 愛らしい感じにさえ映るように見えたのは、ひとり、すけべえな老人ばかりであったのか。 いや、実際はだれの眼にも明らかなことだったのである。 スーツの上着を脱ぎ去り、ネクタイを取り、前をはだけたワイシャツの下には、 清楚な刺繍のついたブルーのブラジャーがのぞいているのだった。 ずりおろされたズボンの下からは、薄くて小さなブルーのショーツが艶めかしくあらわれたのであった。 作者は、女性であったのか。 この疑問に正しく答えるには、生まれたままの全裸をさらけ出さねばならなかったが、さすがにそれはためらわれるように、 作者は、両腕で胸をしっかりと掻き抱くと俯いて、ブラジャーとショーツ姿のまま、その場へ縮こまってしまった。 作者であると改めて紹介されれば、主人公の小夜子にとっては、生みの親にあたるものである。 そのように育ての親としては失墜した姿をさらけ出してはいても、親は親であることに違いはなかった。 床柱へくくり付けられ縄の緊縛による被虐の全裸をさらけ出されていた小夜子であったが、 自分の親が眼の前で、被虐に晒されようとしているのを見せられては、気が気でない思いでいっぱいだった。 三人の般若の面を着けた全裸の女性たちも、教授者の有無を言わせぬ怒声から、 被虐の共感を感じないでいられないことであった。 作者の所作は、共感をもって見つめることのできるものだったのである。 できなかったのは、言うまでもなく、権田孫兵衛老人であった。 ところで、作者が描写を放棄して登場人物と化してしまった現在の描写は、いったい、誰が行っているものであるのか、 という当然の疑問があるわけですが、そこで、改めて自己紹介させて頂くことになりますが、私は、冴内谷津雄です。 『☆平成墨東奇談』という物語に登場したことがあるので、或いは、ご存知の方もおいでかと思います、作家のはしくれです。 文学表現に行き詰まった挙句に体験した<奥州安達ケ原の鬼婆>を書き出しに創作したのが本編ということになりますが、 思っていた以上に、<鬼婆>の問題は複雑な事柄として考えられることになりまして、結果はこのようになりました。 結果と言っても、まだ最終まで行き着いたわけではありませんので、ひとまずここでは、ご挨拶だけにしておく次第です。 「作者の取って付けたような辻褄合わせの弁明など、 もとより荒唐無稽である物語を<正しい荒唐無稽なポルノグラフィ>とするようなことにはならない。 ポルノグラフィであるから荒唐無稽なのではない、荒唐無稽な人間存在であるからポルノグラフィが生まれるのだ。 取って付けた辻褄合わせが意味を成す説得力を見せるようにするためには、荒唐無稽を避けて表現するほかないことだ。 これまでの人類史で、それが常套手段となるように、神話やおとぎばなしの時代より言語発展しようと試みられてきた方法だ。 まったく性を排除するか、せいぜい、性はことさらではなく表現したいとするような具合に留めておくということだ。 性とまともに向き合ってしまったら、放埓な荒唐無稽が一挙に言語表現を台無しにしてしまう。 だから、性を取り扱った文学と言ったところで、 作者は、礼・節・法の三位のいずれかの般若面をかぶって、書きあらわしていることでしかありえないのだ。 人間が概念的に思考し、それは言語で形成されるという現段階の進化過程では、 人間の属性としてある性は、性的官能の対象と定めたもの以外は概念的思考をしないというだけで、 性的官能として四六時中働いていることにおいては、 概念的思考全般へ参与している実態を避けることができないものとしてあるということだ。 このありようをエロスと言うならば、エロスは器官としての性とは別物であり、 エロスのエネルギーは、人間として生まれた時から死に至るまで発動することが事実となる。 簡単に言えば、おちんちんはおっ立たなくても、性的官能を知覚することは可能であるということだ。 これが<色の道>の出発点ということになる。 エロスのエネルギーが言語による概念的思考あってのものであれば、 文学という言語表現が、ことさらであろうとなかろうと、性を滲ませないでいることのありようは、ありえないということになる。 エロスを言語でもって統制・抑制しようとしてきた先人は当然のことを行ってきたわけだが、 エロスのエネルギーの活動自体をエロスを認識する概念的思考の言語で行うわけであるから、 相反や矛盾が起こり得るということも最初から避けられないありようとしてあったわけだ。 性が人間の荒唐無稽を最もよくあらわすものとして認識されることが決定付けられるための歴史過程であったということだ。 荒唐無稽は荒唐無稽である、その存在理由は人間と言い換えることができる認識としてあるということだ。 人間には、種族保存と個体維持の合目的性から、四つの欲望というものが備わっている。 食欲、知欲、性欲、殺戮欲だ。 この四つの欲は、種族保存と個体維持という同一の目的を持ってはいても、欲望としては各々が独立している。 すべては人間の脳において統御・機能化されることであるから、脳においてすべてがあるという見方もあるが、 それは、整合性的な概念的思考によって、すべては秩序化された全体性であるという美学としては快いものだが、 四つの欲は脳において統御・機能化されるものではない。 欲望のひとつの知欲が行う概念的思考は、全体化を願望しても、四つのなかのひとつの独立した欲であるにすぎないのだ。 四つの欲は、同じ目的を持っていながら、各々が相反・矛盾したありようを示していると認識できるほど、独立しているのだ。 どうして、このようなありようが生まれるのか。 これは、人類誕生の謎だ。 これまでに、この謎に解答が示されたことはないし、人類の行く末も、解答が示されることはない。 四つの欲が相反・矛盾したありようを示すことから生み出される荒唐無稽、これは、人類の解決できない謎であるのだ。 人類に殺戮欲があるということを認めるか否かという疑問を呈したところで、大した意味はない、 人類は同種・異種に対して殺戮を行い、みずからでさえ殺すことの属性は、人類誕生以来のことに変わりがないのだ。 反戦だ、非戦だ、平和だ、と叫ばれるのは当然ことで、そうとでも希望・願望・唱和でもしなければ、破廉恥としか言えまい。 だが、この人類の謎である荒唐無稽があるからこそ、人類の進化ということも行われてきたのだ。 だから、人類の謎に比べたら、民族の予定調和など、可愛らしいものだ。 しかし、どのように可愛らしくあろうとも、ひとつの民族にとっての必然的な歴史過程であれば、大切なことに違いないのだ。 大切なわけは、それが人類の謎である荒唐無稽に対し、ひとつの民族として、ひとつの解答を出すということだからだ。 人類の数多ある民族は、それぞれに民族の固有の解答を出すために歴史過程を種族保存・個体維持しているということだ。 だから、わが民族には、わが民族固有の解答のありようがあるということだ。 それは、民族の誕生以来、行うことを必然とされている歴史過程ということだ。 わが民族の歴史過程は、民族誕生以来の<縛って繋ぐ力>に貫かれているということだ。 現在、それは、生まれたままの全裸の女体緊縛に表象されていることだ。 全裸の女体緊縛のありよう、これはどう見ても、現段階では、エロ、淫猥、破廉恥、猥褻にすぎないものだ。 エロ、淫猥、破廉恥、猥褻にすぎないものを、そこに隠された高尚や尊厳があるなどと称揚したとしても、大した意味はない。 エロ、淫猥、破廉恥、猥褻も社会的に容認されれば芸術であり、反戦だ、非戦だ、平和だ、と叫ぶのと一緒のことにすぎない。 隠された意味など、探るだけ意味がないことだ、ない意味であれば、作り出すことはいとも容易なことであるからだ。 見えるものを縛って繋ぐこと、そのありようだけが<色の道>を歩ませることだ。 おまえさんは、整合性に基づいたお定まりの物語展開に甘んじられなかった、 秩序と調和が美であるという一般論に反発して、勝手気ままな主人公を作り出して、それで何とかなると思っていたわけだ。 まあ、そんな簡単なものではないということだな。 人類の荒唐無稽……人類史というのは、言い方を換えれば、このありようを否定し続けているだけのものだ…… 秩序とか調和が美であり真理であるとするための労苦の歴史が文明であり文化であるということにすぎないことだ。 荒唐無稽のあるかぎり、不変の人間存在、不滅の人間存在、 宇宙の彼方まで、善行・愚行を繰り返し続ける愛すべき人間存在ということだ。 だから、皆様方が行っているように、人類の荒唐無稽に眼をつむって、たとえ簡素な衣類であろうと身にまとわないと、 人前へ素っ裸をさらけ出すようなことは、ただの恥さらしなことにしかならないというわけだ。 わしは言っただろう、作者にさえわからないことをあえて表現するなどというのは、荒唐無稽の気違い沙汰だ。 美しいものは、ことさらではなく、まわりくどく、どっちつかずの、さりげない、秘めやかなあらわれにこそ、あるものなのだ。 わかっているが、わざと書かない、これが有史以来の日本文学の矜持と言える伝統であるのだ。 なぜ、それができるか。 わが民族には、わが民族固有の<縛って繋ぐ力>があるからだ。 おまえさんは、手に余る表現を行って至らなかったというだけの作者として、失墜しただけのことだ。 もっとも、失墜した作者も、荒唐無稽に眼をつむった仲間内にあれば、ひとつの文学表現であるとされるのだから、 おめでたいと言えば、おめでたい話に違いない。 だが、おまえさんは、民族の女だ、そのようなおめでたい男性のおちんちんをこねりまわす論理など及ばない。 おまえさんにはおちんちんがない、おまんこがあるだけだ。 だから、失墜に落胆し絶望する所以などありはしない、 <色の道>に従って、おまえさんが女らしさをあらわすことを思い直せば、おまえさんはありのままになる、 おまえさんはもとより民族の女であり、民族の女は予定調和の実現の表象であるからだ。 生まれたままの全裸を縄で緊縛された民族の女は民族の予定調和の表象である、 と言われているとおりのことになるだけだからだ。 だから、生まれたままのすっぽんぽんになるしかないんだよ!!」 <『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の鬼婆>に瓜ふたつの権田孫兵衛老人は、 へたり込んで縮こまってしまっている作者の背後へまわりながら、激しい口調で言い渡すのであった。 その骨ばって干からびた手には、使い古されて灰色に色褪せた麻縄がしっかりと握られているのだった。 「ひとりで脱ぐことができないのなら、衣類を剥奪されて裸になる以外、ないことだな……」 老人は、老人と思えない腕力で、作者の両腕を無理やり背中へまわさせると、 重ね合わさせたほっそりとした両手首へ縄をしっかりと巻きつけていくのであった。 「ああっ、いやっ……」 後ろ手に縛られて自由を奪われた作者は、老人の醜い手が間髪入れずにブラジャーの肩紐へかかってくるのを、 思わず身をよじって逃れようとした、しかし、取り去られることが容易とでも言うように作られたブラジャーの柔和な素材は、 覆い隠しているさらに柔和なものを見事にあらわとさせるのだった。 「いやっ、いやです……」 ショーツに至っては、相手によって引き裂かれるために考え出されたとでも言うように、 絹の優しい悲鳴を上げながら難なく取り去られ、生々しい裂けめがむしろあらわされることになるのであった。 作者の懸命になって抵抗をあらわす言葉も泣き声のようになり、 いまや、かつての文章表現と同じくらいに説得力を失ったものとなっていた。 ああ〜ん、ああ〜ん、いや、いや、いや…… 意味を結ぶ言葉としては、権田孫兵衛老人のしわがれた声音が部屋の隅々にまで行き渡っているのだった。 「ほう、隠しておいたのが勿体ないくらいの見事な裸身だな…… 文学表現をする作者と言えば、頭でっかちというのは、まったく古い偏見だな…… いまや、見栄えなくしてはだめということか…… だが、その優美さも行われる縄掛けがあってこそ、光り輝くものとなるのだ……」 老人の縄掛けは巧みだった。 羞恥から艶めかしい太腿をぴったりと閉ざし、両脚を折り曲げて下腹部を隠そうとしていた作者へ、 重ね合わせた枝へくるくると絡みついていた縄は、今度は、ふっくらとした乳房を膨らませた幹の方へと巻きつけられていった。 「ああっ、縛られるなんて……縛られるなんて、いやです……いやです」 作者は、いやっ、いやっとかぶりを振って、揺らすことさえできない短い髪で情けなさをむしろ強調していたが、 施された胸縄の締め付けを意識させられると、急に寡黙な様子となっていくのであった。 「さあ、立ち上がれ……立って、おまえさんも美しい女であることを皆に認めてもらえ……」 老人は、作者を縛って繋いだ縄尻を取って、強引に畳の上へ立ち上がらせると、その場へ見せしめるのだった。 さらけ出された作者の全裸姿は美しいものだった、般若の女たちと比べても、主人公の小夜子と比較してさえも、 決してひけを取らない女らしさの優美さを漂わせた生まれたままの姿であった。 掛けられた縄の緊縛が女らしさの優美さを際立たせるための見事な化粧である、と感じさせずにはおかないものだった。 生まれたままの全裸の姿を縄で縛られた女性はさらに美しい、権田孫兵衛老人はそう実証しているのだった。 顔立ちを火照らせているばかりではなかった、直立させた雪白の裸身もかすかな震えをおびて火照っていた。 泣き出さんばかりの悲痛な表情を浮かべていたが、辛うじてくず折れるのを支えていたのは、いったい何なのか。 人間の自尊心なのか、それとも、女の自尊心なのか、或いは、それほど大したものではなく、作者だった自尊心なのか。 「ああっ、いやっ……それは、いやっ」 女の身体の前面へまわった老人は、骨ばってささくれだった指先が操る新たな麻縄を艶めかしくくびれた腰へ巻きつけて、 可愛らしい臍のあたりできゅっと締め込むと、成されることを予期してか、作者は、思わず拒絶の声音をもらすのであった。 「嘘をつけ! おまえさんの念入りな描写から、この縄をおまえさんが一番欲しがっていたことは、読者の方々だって重々承知のことだ。 わしも念入りにはめ込んでやるから、しっかりと味わうのだな!」 骨ばった指先は、黒ずんだもやのように柔和な陰毛を掻き分けると割れめの奥の奥まで差し入れられて、 滲ませている欲望の所在をまず確かめられることをされるのだった。 「ああっ、ああっ、いや、いや……痛いっ……お願い、許してください……いやっ!」 老人の指先にべっとりと付着している女の蜜を見せつけられて、作者は、顔立ちを真っ赤にさせてかぶりを振るのだった。 「エロスのエネルギーは正直なものだ…… その純粋さは、まやかしの言語、猥雑な概念的思考の比ではないな……」 教授者は、そのきらめく指先を掲げて、まわりにいる女性たちにも確認させるのだった。 直立した姿勢で床柱へ繋がれたままでいた小夜子だったが、眼の前で行われている縄掛けの陵辱を見せつけられて、 生みの親への同情をますます募らされるのであったが、どうにかしようにも、どうしようもないことだった。 むしろ、長時間の緊縛による疲労で弛緩させられていた官能がふたたび煽り立てられる思いに戸惑いを感じさせられていた。 臍のあたりから縦へ下ろされたふた筋の麻縄がしっかりと埋没するように整えられながら割れめへもぐらされていくありさまは、 まるで、自分のことのように思える現実感を伝えてくるものであったのだ。 これは、作者と作者によって作られた主人公は一心同体であることをあらわしているものなのか。 「……ああ、お母様……」 思わずもらしていた小夜子だったが、縄の縛めに無我夢中にさせられている作者には耳に入らないことだった。 ましてや、老人のぼけた遠い耳には、まるで聞こえない様子であった。 見物人となっていた三人の般若たちも、いまや、ただ突っ立って眺めているだけではもどかしいとでもいうように、 麻縄を割れめへ深々と埋没させられている腰付きを悩ましそうに悶えさせ始めていることだった。 「どうだ……民族の女、これにありという、そこはかとない風情であろう……」 教授者は、そこにいた女性のなかで、最もしっかりとはめ込まれた股縄であることを見せしめるように、 作者の背後へ立って、その艶めかしい腰付きをせり出させるようにさせて、縄掛けの見事さを自慢気にするのだった。 短い髪型に端正な顔立ちの作者であったが、その短い髪は一挙に伸びることはなかったにしても、 羞恥と屈辱から泣き出さんばかりになった顔立ちは、一気に女性らしいか弱さと悲哀をあらわしたものへと変貌していた。 「さあ、おまえさん方、小夜子のとなりへ、横一列になって並ぶんだ…… 処罰を終えた明美も間もなくここへ来るだろう……」 教授者の言葉も終わらないうちに日本間の入口が静かに開いて、明美夫人が姿をあらわした。 その美しい顔立ちも相変わらずであったが、生まれたままの全裸を後手に縛られ胸縄を掛けられ、 優美な腰付きを強調するような腰縄から縦に下ろされた股縄は、ふっくらと艶やかなつつましい陰毛へもぐり込んで、 しっとりとした女らしさの色香を漂わせていたのは、丸太の木馬責めに目覚めさせられた自覚にでもよることなのだろうか。 老人に命じられるまでもなく、小夜子の方へ気を遣うことさえなく、まなざしを落としたまま、 明美夫人は、床柱の小夜子、礼子、節子、法子、作者と並んだそのとなりへそっと立つのであった。 「これで、七人の女が揃ったわけだ…… <色の道>の本格的教授ということになるな……」 生まれたままの女らしさの優美な全裸をこれ見よがしの縄の緊縛で化粧をされ、 美しさをさらに際立たせられたと称せられる六人の女性たちを端から順繰りと眺めながら、 権田孫兵衛老人は、納得するようにうなずきながら言うのだった。 七人の女? いくら整合性が問題となっている物語とは言え、算数くらいはまともに行ってもらいたいものだが、 それとも、老人はもうろくしているから老人である、という辻褄合わせを立証するための言辞であるのだろうか。 どのように指を折って数えても、その場に女性は、小夜子、礼子、節子、法子、作者、明美夫人の六人しか見受けられない。 もっとも、権田孫兵衛がすっぽんぽんになるまでは、である。 権田孫兵衛が全裸になれば、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の鬼婆>に瓜ふたつの老人は、鬼婆そのものとなるのである。 小夜子をこの<上昇と下降の館>まで案内した鬼婆は、その後、姿をくらましていたが、実は変装していたことになる。 いや、わかりやすい謎解きと言える。 そうなると、これまで辻褄の合わなかったことも、それらしい意味が生まれてくるのか。 ひとつひとつを調べ直して、この珍妙な物語がいったい何を表現したいものであるかを理解することができるのか。 何だ、荒唐無稽を荒唐無稽に表現すると言ったって、荒唐無稽も整合性的にしか言いあらわせないことでしかないのか。 作者には重々承知の謎の答えがあれば、恐らく、そのような物語となるのであろう、 或いは、作者にはわからなくても、わかった振りをする謎を作り出すことでも、実際は同じことであろう。 物語としての整合性は、権田孫兵衛が裸になることによって明らかになるのである。 だが、人間存在の謎を解き明かそうとすることが目的であれば、権田孫兵衛は安っぽくは脱がなかった、 大して値打ちのあるとは思えない着物姿のままであった。 エンターテインメント、娯楽は、真理探求が目的ではない、 真理探求に似た楽しさや喜びを味わうことができるから、娯楽としての存在理由がある、 美しい女優やタレント、アナウンサーにコメディアン、学校の先生に公務員、一般のお嬢様に奥様、 千差万別、貧富や社会的地位に関わりなく、安っぽく脱いでも楽しさや喜びを生み出すことであれば、 生まれたままの全裸のすっぽんぽんは、エロ、淫猥、破廉恥、猥褻でさえないのである。 女性の裸体は神が創造された至上の芸術作品でさえあるのである。 ありようの事実、真理は、喜怒哀楽の感情移入されたもの、感動とは別物である、とわかっているからこそ、 それは、見たくない、知りたくない、考えたくないということとは、別物としてあることがわかっているからこそ、 エンターテインメントの価値観が国境を越えたグローバル・スタンダードとなるのである。 だから、老人の老いさらばえた見苦しい生まれたままの全裸を見たいという願望とは別物である。 萎びたおちんちんやおまんこに真理が見出せるかということである。 いや、ついでに明かしてしまえば、<財団法人 大日本性心理研究会>の権田孫兵衛氏というのは、 私、冴内谷津雄のもとを去っていった実在の女房である。 私は、彼女の科学的整合性の考え方には反発していたが、いまも愛し続けている女であることには変わりがない。 よりをもどしたいとは思っても、思想の相反は官能に優るのだ、残念ながら、そういうことになる。 だから、未練がましく、逃げた女房のことを書くふがいなさを実感している。 ありようの事実、真理は、喜怒哀楽の感情移入されたもの、感動とは別物であるのだ、 それは、見たくない、知りたくない、考えたくないということとは、別物としてあるということだ。 真理を求めるというのであれば、全体と相反・矛盾しても、表現されなければならないということである。 全裸になるつもりのない権田老人に七人の女がいると言われれば、七人目は私の女房である。 或いは、みずからを七人目の女性としてあてはめる想像力をお持ちの女性読者の方がおられれば、あなたである。 そればかりか、みずからを女性と仮想できる男性の読者がおられれば、七人目こそは、あなたということになる。 女性の存在、それは、このように認識の擾乱を招くほど、強烈であるということだ。 この強烈な認識なくしては、<女性による人類の救済>などという思想も生まれるはずはないのだ。 「小夜子、おまえさんは、これほどの時間を費やしても、まだ、思いひとつ遂げられないでいるのか!」 着物姿の老人は、全裸の小夜子が繋がれている床柱の前まで来ると、叱咤するような口調で言い放つのだった。 「もどかしいことだろう、だが、おまえさんに与えられた行いだ…… しっかりと食い込ませた股縄へ思いを集中させたのか…… <縛って繋ぐ力>へ思いをひとつに集中させたのか…… させれば、誰でもやり遂げられることなんだぞ…… きっと、つまらない雑念に振りまわされているのであろう…… 老人のもうろくしたたわけごとに、どうして付き合わなければならないのだろう、そんなことでも考えているのだろう…… だが、つまらない雑念など、男性の作者にまかせておけばよいことだ、 立つ瀬のないおちんちんをこねくりまわすような概念的思考をすっきりと射精させてやるためにも、 おまえさんは民族の女としての本領を発揮せねばならないのだ…… おまえさんは、そのありようでオーガズムへ達しないかぎり、いつまでもそのままでしかいられない…… もとより、整合性のない物語なのだから、いつまで経っても終わらないというのは、むしろ、整合性的でさえあることだ…… だが、おまえさんのあらわすことは、民族の予定調和についてのことだ…… 荒唐無稽に対するひとつの解答についてのことだ…… しかし、幸いしたな…… おまえさんのやるせない思いをだれよりも望んで遂げてくれる者があらわれたのだからな…… おまえさんを生み出してくれた作者だ……」 小夜子は、老人の最後の言葉に、逸らせていたまなざしを見開いて、まじまじと相手へ向けるのだった。 美しい唇は噛み締められて、相手の次の言葉へまじまじとした反抗があらわれているのだった。 失墜してしまった作者――自分の母に取って代わってこの状況を取り仕切るエロジジイは、いったい何をしようと言うのだろう。 母が自分の成長の試練のためとさまざまな虐待を課したとしても、それは、主人公である子の立場から許せることである。 物語の最終において、主人公は主人公としての輝きをあらわすことになるのだから、 たとえ、整合性的な物語ではなくても、どのような荒唐無稽ではちゃめちゃないきさつの物語であろうと、 読者を納得させるには、最低限の成長の論理は不可欠の事柄であるのだから、それは果たされるはずである、 けれど、民族の予定調和などという世迷言を実行しようとするエロジジイに、 果たして、そのような一般論が通用するものなのだろうか―― 生まれたままの全裸を縄で緊縛され床柱へ繋がれたままでいる女は、言い知れぬ不安が募ってくるのを感じるのだった。 「さあ、こっちへ来い…… 作者が作る名場面というものを、これから演じさせてやる……」 権田孫兵衛は、全裸の作者を縛り上げている縄尻を引きつかむと、強引にこちらへとたぐり寄せるのだった。 作者は、身悶えすることもできずに俯いたまま、ずるずると床柱の方へ歩み寄らされていくばかりであった。 「さあ、お互いに相手を確かめ合うんだな…… どうした、顔をしっかりと上げて、相手を見なきゃわからないだろうが、恥ずかしがっていて、どうする…… 作者と主人公がご対面する機会など、そう滅多にある幸運ではないんだぞ…… そんなことをしたら、社会に認知されようと誕生以来作り上げてきた小説の物語性が台無しになってしまう…… ロマンやノヴェルといった小説の創造というのは、 社会における個人の存在理由を確立するために行われてきたことであるのだから、 どのような建前であっても、小説というのは作者という個人が作り出すものでなければならないのだ…… 小説と作者、公表される長者番付に名前があらわれても不思議のないくらいの社会性が確立されていることだ…… 作者が作り出した小説という物語における魅力的な主人公たちの織り成す人生の反映、 読者が感情移入できるように魅力的に作られた主人公であればこそ、その人生表現もまことしやかとなるものだ…… だが、小説の果たせる個人の確立など、そのようなロマン主義的願望に支えられているだけでは砂上の楼閣であろう…… 文学小説の衰退などと言っているが、小説の表現を個人の確立と同義としているだけの自家撞着にすぎないことだ…… まあ、ほかに取って代わるものがないのだから、それに甘んじてやり続けなければならないことに違いないだろうが…… おまえさん方は、そうはいかないよ…… おまえさん方は民族の女だ、民族の予定調和実現の表象だ…… 小説の物語性が台無しになろうと、何であろうと、おまえさん方のオーガズムへの到達は絶対不可欠なことなのだ…… 人類にとっての認識の原初である性のオーガズム、これが表現できなくて、あとは何だと言うのだ…… おちんちんやおまんこをひとりこねくりまわしているだけで、オーガズムへ至らないことを個人の確立とするのと同じことだ…… 人間における整合性の基本原理の認識、性のオーガズムを作者と主人公の共同作業で成し遂げる…… これから、ふたりにそれを示してもらおうということだ……」 権田孫兵衛老人は、薄笑いを浮かべながらそのように言い放ったのかもしれなかったが、 不気味な険しい老いをあらわす以外に想像力を拒絶される顔付きは、デスマスクとでも言った方がよいものだった。 いずれにしても、生まれたままの全裸を麻縄で緊縛された母と娘を震え上がらせたことだけは確かだった。 礼子、節子、法子、明美夫人と七人目の女性も、思わず股縄を施された緊縛の裸身を震わせながら、 ただ、行われることを眺めるしかないことだったのである。 これが<女の饗宴>と呼ばれたいきさつであった。 |
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