< 庭園の片隅にある土蔵 > 冴え冴えとした月明かりの美しい晩であった。 蒼白い光に照らし出されて、緑の植え込みも、銀を散らしたようにきらめいていた。 大きな池の穏やかな水面も、鏡のようになって、嬌艶の月を映し出させていた。 植物の緑が放つ自然の芳香は、そこに立つだけで、 ひとを安堵の思いにさせる力のあるものだった。 隆行と綾子は、評判と言われた天然湯へふたりして入り、 確かに、効能があると実証されたように、疲れから開放され、 それから、手の込んだ料理と旨い酒の並んだ夕食を部屋で満喫すると、 ふくよかな色っぽい仲居に勧められるままに、 宿の主人が自慢の日本庭園を散策に出かけたのであった。 緑と池があるに過ぎないと言えば、それだけの日本庭園であったが、 そこにいるだけで、自然の奥深さというものが意識されるのは、不思議なことだった。 隆行は、浴衣姿も瀟洒な綾子が酒を少したしなんだ顔立ちを桜色に染めて、 銀色の月明かりに浮かび上がらせている姿態を、これまでになく、美しいと感じるのだった。 彼は、思わず、ほっそりとした白い手を取ったのだが、 それは、身体から立ち昇らせるふくよかで芳しい温かみに比べると、 氷のように冷たく、どきっとさせられるものだった。 隆行は、彼女の手を握り締めて、引き寄せるようにした。 綾子は、微笑みを浮かべると、綺麗なまなざしで隆行を見つめ返したが、 それに応じて笑う、隆行の顔付きは、酒の酔いのかなりまわった赤ら顔で、 美形の顔付きには違いなかったが、どこか赤鬼を連想させる、下卑た感じが漂っていた。 綾子は、肩を抱かれるままに、相手へ身を寄せると、 ふたりは、庭園の散策道をどこへ向かうともなく歩き続けていったが、 やがて、行き止まりとなる場所へ出遭うのだった。 そこには、緑の樹木に囲まれて、建物が立っていた。 外観の造りは、瓦屋根があって、漆喰の壁で固められた、 昔風の土蔵と言ってよいものであったが、 明り取りや換気のための窓らしいものがひとつもなく、平屋であった。 廊下からこの存在に気がついたとき、異様な印象を感じたのは、 土蔵であれば、普通は上に高いものであるが、これは、低かったのだ、 と隆行は、合点がいった気になると、 今度は、ますます、そのなかが気になりだしたのは、 土蔵の存在を尋ねたときの美少女の反応があったからだった。 彼女は、明らかに、返答に困るような秘密を知っているに違いない、と感じさせたのだ。 では、その秘密とは。 隆行は、綾子の手を引っ張るようにして、その土蔵をまわり始めたが、 普通の扉というものはなかったが、すぐに、地下へ降りる短い階段を見つけた。 「これは、おもしろいぞ、ゲーム真っ青だ」 隆行は、階段の下をのぞき込みながら、言うのだった。 階段の奥には、頑丈な鋼鉄製の扉があって、 その扉が開かれていたことは、内部の明かりがもれていることでわかった。 「なかをのぞいてみようか」 隆行の好奇心が大きく頭をもたげ、酔った勢いが言わせた。 「よしましょうよ、個人のものよ」 綾子は、彼の手を引っ張るようにして、たしなめたが、 「いいじゃないか。 廊下から見えたときから、気になっていたんだ。 もし、失礼なことをしたら、謝ればいいだけのことだ」 隆行は、持ち前の性格が酒の酔いと綾子といられる幸せな気分でふくらまされ、 握った女の手を強引に引っ張るようにして、階段を降りようとした。 「隆行さん、やめましょうよ、私、恐いわ」 綾子は、その手を引っ張って止めようとしたが、か弱い女の力では、 彼女は、引きずり降ろされるように、従わされるばかりだった。 「大丈夫さ、なかが明るければ、 化け物が出たって、恐ろしくはないさ!」 隆行は、鋼鉄製の扉をさらに押し開いて、綾子と共に地下室へ入っていくのだった。 入るやいなや、ふたりは、内部の光景に驚愕させられて、 茫然となって立ち尽くしたままになってしまった。 静寂に満ちた地下室であったが、空調の設備だけがかすかな唸りを響かせていた。 三十畳ほどある部屋だったが、人気は、まったくなく、 あるものは、いわく言いがたい、異様な雰囲気をかもし出させる情景だった。 「何だ、これは、いったい」 ようやく、口を開いたのは、隆行であったが、 その答えを求めるように、まなざしは、部屋の隅から隅へ至るまで、さまよっていた。 地下室は、高い天井を持っていた、それが平屋の瓦屋根までの距離であった。 天井近くには、太い梁が渡され、その中央には、滑車が取り付けられていた。 滑車からは、掛けられた麻縄が垂れて、床まで伸びていて、とぐろを巻いていた。 右手には、等間隔に三本、白木の太柱が立てられていて、 その各々に、繫ぎ留めるための麻縄が巻き付けられていた。 その奥には、白木を組み合わせて格子とした、小さな牢舎があって、 それが牢屋だとわかるのは、出入り口には、大きな錠が付いていたからだった。 中央の奥は、ひとが横になれるくらいの長さの木製の台が置かれていて、 その上部に、壁に隠されるようにして、空調の設備があるようだった。 さらに、左手の奥には、麻縄の束がごっそりと整頓よく掛けられ、 その下の床には、高い木製の踏み台がふたつとたらいや桶が数個、 それから、数本の長く太い竿が立て掛けられてあったが、 それらがよくわかるほど、地下室の照明は、明るかった。 だが、その明るさは、うっすらと緑色をおびたもので、 それは、ほかの何よりも、中央へ置かれた物体の異様を際立たせているのだった。 手の込んだ照明は、床の中央へ置かれたものがいっそう浮かび上がるように、 四隅の上方から、強烈な白光を浴びせられていた。 綾子の方は、その異様な物体に眼を釘付けとされたように、 茫然となったまま、立ち尽くしているだけだった。 隆行も、しげしげとそれを見つめていた。 太い木製の胴体に、同じく木製の長い脚が4本付いただけのものであった。 黒い色艶の光沢を放つ簡素な造形物であったが、 その不気味さは、形状が顕示するおぞましさから由来していることは、明らかだった。 このような異常な地下室に置かれていなかったとしても、 その形状のあらわす存在感は、充分に、その意図を伝えるものだ、と言えるものだった。 四本の堅固な脚が胴体を支えている姿は、馬を擬似していた、 だが、その馬は、頭も、首も、尾もないという不具の異形に加えて、 胴体が丸くなく、三角柱の形をしていた。 木馬というものがひとの跨る目的のものであれば、 その跨る背中は、乗り心地の良いことに越したことはない、 だが、この木馬の背は、三角柱の鋭角をなす部分が跨る背中になっているのだった。 それは、跨ったときの姿を想像するだけで、 一気に、苦痛という残虐のおぞましさと悩める官能を掻き立てるものがあった、 それが拷問道具として、古い時代に使われた、三角木馬であった。 隆行にも、知識のあったことだった。 拷問部屋と呼ぶことさえできる、異様で異常な雰囲気に呑み込まれて、 綾子は、震え出していた。 「たっ、隆行さん、出ましょう、早く、早く出ましょう。 このようなところ、いやっ、とっても、嫌っ」 彼女は、隆行に声をかけたが、彼は、相手の手を振り解くと、 左側の隅に置かれた大きな机へ向かって、ずんずんと進んでいくのだった。 それから、きちんと立て掛けられている、三冊の分厚いアルバムのひとつを取って、 おもむろに開こうとしていた。 「早く、隆行さん、お願い、早く出ましょう」 綾子は、隆行の背中へ訴えたが、 身じろぎもしない相手に抑えきれず、近づくとその袖を引っ張るのだった。 そのとき、彼女にも、見ようと思わずとも見えてしまった、写真であった。 隆行が熱心に眺め続けているアルバムの中身が眼に入った瞬間、 綾子は、あっ、と驚きの声音を上げて、後ずさりすると、 浴衣に包まれた身体を小刻みに震わせ始めた。 隆行の両眼は、激しい好奇心をあらわとさせたぎらついた光をおびて、 アルバムに貼られた写真に釘付けになっているばかりであった。 見開きにある一葉の大判の写真には、 朱色の湯文字ひとつの裸姿を縄で縛り上げられた女が映し出されていた。 右手に三本ある白木の太柱のひとつへ、 後ろ手に縛られ、豊満な隆起をあらわした乳房の上下へ胸縄を施され、 立たせられた姿態の晒しものといったありさまにあった。 女の顔立ちは、そむけられていた上に、豆絞りの手拭いで猿轡を噛まされ、 艶やかな乱れ黒髪が覆っていたために、判然としなかったが、 腰付きへ巻き付けられた麻縄を臍から縦へ下ろされて、 股間をもぐらされて、締め上げられている様子は、 のぞかせた太腿の艶かしさをふくよかな色っぽさであらわとさせたものだった。 それが仲居の須磨子に間違いない、という写真がもう一葉だった。 女の猿轡は取り去られ、朱色の湯文字も剥ぎ取られて、 生まれたままの全裸をさらけ出されていた、 掛けられた麻縄の後ろ手も、胸縄も、がっちりと女の自由を奪い、 女は、腰付きから縦へ下ろされた縄へ集中するほかないというように、 漆黒の恥毛を分け入って、深々と埋没させられている股縄が煽り立てる官能の快感、 はっきりと見て取れる顔立ちは、その甘美に追い立てられているという、 さまよわせるまなざざし、半開きとさせた唇にあった。 その悩ましく情感あふれる緊縛姿は、 隆行の思いの丈を一気にもたげさせるのに充分だった。 彼は、さらなる一冊と、別の分厚いアルバムへ手を伸ばした。 見開いたページには、仲居の多貴子が映し出されていた。 それは、隆行に、いっそう食い入るように見つめさせる、表現があった。 細面の端正な顔立ちをした美貌の多貴子は、痩身ではあったが、 ふたつの乳房のふくらみや、優美な曲線をあらわす腰付き、 すらりと伸ばさせたしなやかな両脚の綺麗なことは、 むしろ程がよい、という四十女の艶麗を滲ませたものがあった。 白木の太柱へ、後ろ手に縛られただけの全裸で繋がれて、 その晒し物となった姿を、品性は、それに見合った羞恥を意識させるというように、 こらえている美しい顔立ちの表情は、太腿を閉じ合わせて隠そうとする、 慎ましやかに茂った漆黒の繊毛をのぞかせしまうことで、見事にあらわされていた。 その女が、ふたつの乳房をあられもなく突き出させられる、胸縄を施された全裸で、 漆黒の三角木馬へ跨がされた姿態が映し出された、もう一葉は、衝撃的であった。 隆行は、のぼせ上がって、無我夢中になって、写真を見続けていたが、 慎ましやかな恥毛が割れめの形をあらわとさせて、 深々と鋭角な三角へ優美な腰付きを落とさせた姿は、 しなやかな白い両脚をだらりと垂らさせ、緊縛された上半身をよじらせて、 激しいばかりの苦悶の状態にあったことは、 悲愴に歪められた、端正な顔立ちが明らかとさせていることだった。 だが、隆行にとって、それであってさえも、不思議に感じられたことは、 女は、その苦痛に舞い上げられていながら、甘美な悩ましさを滲ませていたことだった。 その甘美な官能に掻き立てられては、是非とも確かめたい、もうひとりの存在があった、 彼は、多貴子のアルバムを閉じていた。 綾子は、ほっそりとした両腕で掻き抱いた、身体を震わせているだけで、 声もかけることができないというありさまにあった、 それというのも、彼女は、地下室の扉口へ立った者の存在に気づいていたのだ。 両眼をぎらぎらとさせながら、思いの丈をいきり立たせている、隆行は、 三冊目の愛くるしいアルバムを開けば、 何よりも知りたいことがそこにある、としか考えられないことだった。 彼が手を伸ばしかけた、そのときだった、 「お客様も、そのようなことに、 興味がおありですか」 低くしわがれた男の声が発情の好奇心を抑えた。 隆行は、どきっ、となって、思わず、背後を振り返るのだった。 そこには、六十歳くらいの白髪頭の男が立っていた。 顔付きは、歳相応の皺に、鼻が大きく唇が薄く、銀縁の眼鏡を掛けていたが、 その奥からのぞかせる両眼は小さかったが、鋭いものがあった。 「この宿の主人の大島です」 宿の主人を名乗った男は、軽い会釈をして見せたものの、 その漂わせる雰囲気は、歓迎をあらわしている感じにはなかった。 白髪男の鋭いまなざしは、素性を見極めるように、隆行へじっと注がれていたが、 それから、離れて立ち尽くしている綾子の方へと向けられた。 そこで、宿の主人は、はっとなったように、まじまじと彼女を見つめたのだった。 その憑かれたような長い凝視に、綾子は、思わず、まなざしをそらさせたが、 隆行は、ふたりの様子にどぎまぎしながらも、割って入るしかなかった。 「かっ、勝手に、はっ、入り込んで、しっ、失礼を致しました、 どうか、ご無礼をお許しください……」 大島は、詫びの言葉に、はっと我に返らされたように、 隆行の方を眺めやると、相手へ近づいて言った。 「いいえ、お客様に詫びて戴くようなことでは、ございません。 辺鄙な山奥にある、若い方に喜ばれるような遊興施設ひとつない宿です、 このような部屋でも…… お客様の遊び心を少しでも満たすことに役立つのであれば、 わざわざ、<みどり旅館>まで来て良かった、 良い思い出ができたと感じて戴けることであれば、 それは、宿を営む者にとって、名誉なことです」 宿の主人は、さらに、隆行の間近にまで歩み寄って、話を続けるのだった。 「お客様が熱心に見られていたアルバムは、 すべて、私の製作になるものです。 私は、官能の芸術を表現するために、このような舞台装置を造り、 容姿端麗のモデルを使い、創作にいそしんでいます。 もっとも、私も、若い頃は、ごく普通の芸術に憧れを抱く青年でした、 散文詩を書いたり、抽象絵を描いたり、文学や哲学や音楽を学んで、 みずからの内なるところから湧き出でる発想を表現することが喜びでした。 そう、そう、その机に、その当時に、 <おらんぴあ>という同人雑誌で掲載された詩があります……」 そのように言うと、宿の主人は、大机へ近づき、最下段の引き出しを開くのだった。 白髪男は、まるで、古くからの知人に接するような態度になり、 その一転した様子は、隆行と綾子を大きく戸惑わせるものがあったが、 私用の地下室への侵入は、ふたりをおとなしく聞き手にまわらせていた。 「そう、これです、 <おらんぴあ 9号 1976年8月10日発行>、 奥様…… まことに不躾な申し出ですが、この雑誌をお受け取りになってください」 宿の主人は、綾子の前へ、古びた大判の小冊子を掲げると、 白髪頭を丁寧に下げるのだった。 戸惑うだけの綾子だった、美しい顔立ちの大きな瞳をさらに見開いて、 当惑の思いを隆行へまなざしで送るばかりだった。 隆行は、うなずいていた。 綾子は、彼に促された通りに、受け取った。 顔付きを上げた大島は、恥ずかしそうに、真顔に微かな微笑を浮かべていた。 「ありがとうございます、 その雑誌の最初のページにある、<自然との交接>という表題の詩が私のです。 お時間でもございましたら、どうか、お読みになってください、 これで、念願が果たせました、本望です……」 大島は、綾子をじっと見つめていたが、 その思いの込められた様子は、どのように見ても、 恋する男が片思いの女を前にしているという、真剣さと羞恥が感じられるものだった。 隆行は、男の脈絡のない振る舞いに、唖然とさせられていたが、 綾子を特別なものと感じて接する態度には、嫉妬を意識させられた。 綾子は、異様な部屋の持ち主が十代の少年のようなはにかみを見せたことに、 驚きと当惑はあったものの、その変化が自分に関係していることだとしたら、 それが何かを知りたいという思いにさせていた。 「この雑誌には、何か、特別の理由でもあるのですか」 ふたつの手で、雑誌を丁寧につかみ直して見せながら、 彼女は、問いかけた。 大島は、はにかみも失せて、真剣な表情で答えるのだった。 「奥様に読んで戴けることがあれば、 亡くなったみどりも、喜ぶことでしょう。 それは、私がみどりを思い描いて書き上げ、彼女に捧げた詩でした。 その詩が雑誌に掲載される直前、彼女は、二十四歳で亡くなったのでした、 ちょうど、奥様のような年齢に、読むことなく、亡くなったのでした。 私は、みどりと結婚して、この旅館の跡を継ぐということも、 定められていたふたりの将来でした。 そのために、芸術家気取りの放蕩三昧の生活を打ち切る、最後の詩だったのです。 私にとって、みどりは、掛け替えのない女性でした。 私は、旅館を継ぎましたが、妻は必要がありません、 失礼を申し上げれば……まことに、失礼を申し上げれば、 奥様は、みどりに瓜二つと言ってよいくらいに、似ていらっしゃる、美しい方だ。 私は、死んだ者が生まれ変わる、ということを信じてはいません、 しかし、死んだ者に瓜二つの者が生きて存在することは、 生きている者が抱き続けられる愛こそは、まことのものだ、と納得できることです、 今日、私は、奥様から、そのことを教えられました」 連れ合いがいなければ、綾子の手を取っているのではないかとさえ思わせる、 大島の愛の告白だった。 綾子の方も、蒼白いとも映る真剣な表情で、相手を見つめ返し、 理解しました、とうなずいているのだった。 その男が再び反転したように、 今度は、隆行の方へ向き直ったときは、 彼も、綾子をめぐっての対決を迫られているように、意識せざるを得なかった。 「あれほどご熱心に、アルバムをご覧になられていたようであれば、 ご主人には、私の表現する<興趣>をご理解戴ける器量がお有りになる、 そのように思っても、よろしいのでしょうか」 大島は、真顔はそのままの低くしわがれた声音で、尋ねていた。 隆行には、何とも返答のしようのない、問いかけだった。 「私は、みどりを失ってから、このような辺鄙な山奥で暮らすうちに、 人間というものについて、真剣に考えるようになりました。 この山々と緑の自然に囲まれた、まるで、中世の隠者が住むような環境にあって、 ひとつの決定的な結論へ到達したのでした。 それは、人間の性的官能は四六時中活動しているものだ、という認識です。 この当然としてある事柄が、何故、人間の認識に関係して取り沙汰されないか、 それは、大いなる疑問を生んだということでありました」 語り始めた大島の様子には、付け入るすきのまったくないことは、 隆行も、不承不承ながら、聞き手とさせる以外になかった。 「人間の性的官能が取り沙汰される場合は、 嫌悪感を感じる、下品である、下卑ているから始まって、 淫らである、卑猥だ、猥褻だとされて、 それが公然として取り沙汰されれば、法律の適応下に置かれることさえある、 善悪で言えば、たいていは、悪の場合でしか取り沙汰されないことは、 人間の性的官能は四六時中活動しているものだ、 という認識と大きく矛盾することでした。 しかし、それが人間の倫理としてあることであれば、仕方のないことです。 人間の世の中の規則が人間が生活しやすいように定めていることだからです。 それで、人間は、今日まで、それなりにやって来れた、ということだからです。 人間の性的官能は四六時中活動しているものだ、 ということが事実であって、既知の事柄であったことだとしても、 これまでに、人間を考察するとしながら、ほとんど人々が、 その事実を根源に据えた認識をあらわそうとしなかったことには、 私などには、到底及ぶことのできない、深遠な真理があるのだと、 むしろ、そう思わざるを得ないことでした」 大島は、話の本筋はこれからだ、と言わんばかりに、 隆行へ熱いまなざしを投げかけると、ひとり語りを続けた。 「<性>には、学術が取り扱う高級な<性>、 猥褻表現が取り扱う低級な<性>があって、 両者とも、人間の性的官能は、四六時中活動している、 という出所は一緒でありながら、善悪の両極とさえされる、 その考え方から、表現における<性>も、 芸術的な高尚な<性>表現、 反芸術的な通俗な<性>表現とに分けられる、 <美>においては、隠された<性>が優秀で、露骨な<性>は劣等となる、 <性>を考えるというのは、 この両極化された二元論に従うことでしかないわけです。 私の考えることは、 辺鄙な山奥で暮らす隠者の考える荒唐無稽なこと、 そのように見なされても、仕方のないことかもしれませんが、 取り巻かれた自然と世界に対する<興趣>から、 花鳥風月、侘びやさびといって、生み出されてきた日本独自の思想は、 隠者のような存在が歴史を通して継承してきたことであることも、事実です」 大島は、真顔の表情を崩すことはなかったが、 低くしわがれた声音をはずませていた。 「あなたがそのアルバムの写真に<興趣>を抱かれたことは、 自然であるほかないありよう、ということです。 あなたが日本民族の<興趣>の継承者であるあかし、ということです」 その言葉には、隆行も、さすがに、 このような変人と同類にされてたまるものか、という反発を感じた。 「いや、ぼくは、ただ、興味を感じただけで、 そのような日本民族だとか、隠者だとか、何とかは。 SM趣味を持っている方の撮られた生の写真も、 その現場も、初めて知ったことでしたから…… ぼくに、SMの趣味なんてありませんから」 そのように吐き出された言葉を、大島は、聞こえていないという様子であった。 「あなたが意識された、伝統ある日本思想の<興趣>は、 そこにある、三角木馬を独自の眼で見させることをするものです。 三角木馬は、三角の木材を胴として、四本の脚がある、単純な木の枠の造形物です、 武家屋敷にあった、馬具の鞍鎧一切を装着しておく木馬に由来するもので、 起源としては、室町時代末期の頃にまで遡ることができるとされています。 これに、婦人を裸体にして、後ろ手に縛り跨がせることは、股が裂けるほどの苦しみで、 さらに、両足首へ重石を結び付けて、苦しみを増させたりしたとのことで、 京都町奉行所支配の京都六角の牢獄では、木馬責と称された、とあることです。 罪を自白させるために、被疑者を跨がせた拷問道具ということですが、 時代が変われば、被疑者を縛る縄も、手錠へと変わったように、 尋問の方法も変わるということであれば、 現在の警察機構で、この道具は使用されていません。 しかし、四百年以上も昔からある道具が、現在でも同様の使用ができるという事実、 この三角木馬がそれをあらわしていることは、否定できないことです」 いったい、何が言いたいんだ、このおやじは。 隆行は、呆れるばかりで、返す言葉も見つからなかった。 いつの間にか、綾子が近づいていて、 彼の手をしっかりと取って、寄り添うように立っていたが、 彼女の方は、憑かれたように、風変わりな男の話を聞き続けていた。 その奇態な男は、漆黒の輝きをあらわす、三角木馬の間近まで行くと、 まるで、愛馬を愛でる馬主のような仕草で、優しく撫でながら、言うのだった。 「しかし、あなたがご覧になられた写真を思い起こしてください、 あなたが魅入られたように、熱心に見続けたのは、 三角木馬に跨がされた女性があらわす、官能に舞い上げられた悩ましい姿 それではありませんでしたか。 つまり、これは、使用の仕方次第では、<興趣>から見ることをすれば、 単なる拷問道具としてあるばかりではないということです、 そうは思われませんでしたか」 大島のまなざしは鋭くなり、相手を見据えて、同意を求めていた。 何を血迷ったことをほざいるのだ、この変態おやじは。 隆行は、大島の凝視が綾子にも注がれているのを思うと、 じっとしていられない焦燥と抑えられない嫉妬を感じさせられて、 酒の酔いなど、とっくに失せてしまっていた。 「これがただの拷問道具ということであれば、この鋭角な背に跨がされるのは、 全裸にされて後ろ手に縛られる女性だけに限られる、ということではありません、 全裸を緊縛された男性も、当然に、あり得るということです、 それは、拷問だからです、 拷問には、男女に対する不平等など存在しません。 しかし、日本思想である<興趣>から思念されることであれば、 あのように、女性たちは、悩ましいかぎりの官能の法悦にあることでしかない、 彼女たちは、みずから求め、進んで跨ることで、 自然に抱かれる人間の官能の喜びに、舞い上がることができるということです」 隆行にも、ついに、我慢の限度が来ていた、 強い語調で、言い返したのだった。 「それは、ただ、その女性がマゾだということに過ぎないことでしょう、 マゾだから、被虐に晒されて、性的官能の喜びに舞い上がるということだ」 大島は、表情ひとつ変えずに、静かに答えるのだった。 「サディズム・マゾヒズムが人間にある性の属性で、 等しく、男性にも、女性にも、あることだとしたら、 被虐に晒されることがあれば、男性でも、女性でも、マゾヒズムに目覚める、 加虐の行為にあれば、男性でも、女性でも、サディズムに目覚める、 あなたが言われる、サド・マゾがそういうことであるとしたら、 そのようなありようが正しいということ、 この場で、あなたみずから、示されてみませんか、 生まれたままの全裸の姿となって戴けるのであれば、 この大島、真剣な思いで、あなたを後ろ手に縛り、 三角木馬へ跨らせることを行います、 あなたが官能の法悦から、噴出し続けて果てるまで、加虐いたします、 如何ですか」 荒唐無稽の異常な変態男の問いに、答える道理などなかった、 隆行は、相手をにらみつけるばかりだったが、 ふたりの激しいやり取りから、綾子は、思いを翻弄されてしまったように、 足元の覚束ないありさまとなっていることに、気づかされた。 「どうして、ぼくが裸になって、縄で縛られて、 木馬に跨がされる必要があるのですか、 ぼくは、マゾなんかではない、そのようなことをされる理由はない。 宿のご主人、もう、お仕舞いにしてくれませんか、 綾子が気分が悪くなってきているみたいだ、 ご主人の大事な私用の部屋へ勝手に入り込んだ、お腹立ちは、充分にわかりました、 心から謝ります、どうか部屋へ戻らせてください、 お願いします」 隆行は、綾子の肩を掻き抱きながら、深々と頭を下げるのだった。 大島は、相変わらずの真顔の表情のままであったが、 低いしわがれた声音は、和らいでいた。 「先ほども申し上げましたように、謝って戴くようなことではございません。 むしろ、私の方こそ、お客様に対して、無礼な放言の数々、お許しください、 私には、あなた様であれば、ご理解戴けることだと勝手に思い込んだことでした、 これも、辺鄙な山奥に暮らす隠者の偏屈とお感じになって、ご容赦ください。 私は、おふたりとめぐり逢えて、本当に嬉しかったのです、 どうか、これからも、末永くお幸せに。 私は、これから、組合の総会出席のために、長野市まで出かけます、 何も遊興施設のない宿ですから、 おふたりに、この部屋が利用できるものであれば、 私の留守中、自由に出入りできるように、鍵は掛けずにおきます、 おふたりに対する、私のせめてもの好意と受け取ってください」 宿の主人の申し出に、隆行は、首を振りながら、答えていた。 「いや、せっかくですが、 ぼくたちには、そのような趣味はないので。 ご主人の大事な場所へ勝手に入ったこと、本当に、失礼なことをしました、 それでは、ぼくたちは、部屋へ戻ります」 そのように言いながら、立ち去っていくふたりの後姿を、 大島は、じっと見つめ続けているのだった。 ☆NEXT ☆BACK ☆九つの回廊*牝鹿のたわむれ |