第1章 戦争で片足を失ったじいさんが営む古本屋の話 |
それは、偶然であったかもしれないが、起こったことを考えてみれば、必然的とも言えることであった。 それは、小夜子の手掛かりと言えば、そうとも言えたし、無関係であると言われれば、そうでもあった。 思いを寄せる相手に対しての事柄というものは、思いを寄せる当人の考え方次第では、 どのようにでも見なすことができることでは、恋愛に多種多様があり得る所以と言えることだった。 多種多様と言っているのは、恋愛の心模様ということばかりではない、 恋愛の対象は、男性は女性に限らず、女性は男性に限らず、或いは、人間でさえないということでは、 対象とする年齢においても、生まれたばかりの赤子は言うに及ばず、 死に瀕する老人までと人間における生の一大露呈が行われるということである。 つまり、簡単に言えば、恋愛というのは、思いを寄せる当人にあっては、 実に思い入れの産物でしかないことであるのだが、その思い入れが引き金となって、 人間の生の幻想、推理、恐怖、失笑、そして、官能が現出することであれば、 古来より、恋愛を主題にした芸術表現が絶えないことも、 いや、人間の将来が地球温暖化などという、もはや、人間の手には負えない事態を前にしては、 ますます、愛が地球を救う、と喧伝されて、恋愛の幸福が繁盛することになるであろう。 <人間のすべての事象は愛によって救済される>という<愛の万有引力>は、 アイザック・ニュートンの物理学的発見よりも遥か以前から認識されていることであるから、 物理学的地球の問題など、<愛の万有引力>の前には、もぎ落ちないリンゴのようなものなのだ、 とこのような覚めた殺伐とした見方しかできないことは、 大体、その者が恋愛の渦中にいないことをあらわしている、ということも確かなことである。 恋愛の心情というのは、その思い入れの限りにおいては、ひとそれぞれに固有なものであるから、 ダウンロードしたファイル交換のように、恋愛の共有ということはあり得ないことである以上、 恋愛を共有し得るとする者は、恋愛の渦中にいないことをあらわしているだけなのである。 人間は、何故、動物を好きになるのか―― 恋愛の対象が人間に限らないという前提であれば、このような表現になる―― ということの回答は、人間が動物であるから、ということが最も簡単な定義になるが、 <人間は畜生同然>と見なすには、人間としての自尊心がやり切れないことだとされれば、 人間の生の幻想、推理、恐怖、失笑、そして、官能の現出するという謎が示されるのである。 恋愛の謎…… これは、永遠の謎として答えを出さない方が娯楽産業の活性化にとっては好都合であろうが、 猥褻を身上とするポルノグラフィは、<赤裸々に>ということが謳い文句である以上―― これは、音楽に喩えると、アーティキュレーション(各音各語を明瞭に発音すること)であるが―― どのような人間的問題に対しても対処しなければならないことにその存在理由がある。 それは、女性を全裸に剥いて縛り上げ、ありとあらゆる責めで羞恥と官能を表現して、 SM文学を普遍化させた大家と呼ばれるひとの七十六歳の発言にあっても、 いまだに女というものがわからない、とされることであるから、三十歳や四十歳、五十歳や六十歳、 ましてや、二十歳台の若造が答えを控えるのは、常識のある節度をあらわす当然の態度で、 しきたりとして、人間は、何故、動物を好きになるのか、 ということの回答を<愛ゆえに>とすることが芸術的品格とされることになるのである。 しかしながら、現代のポルノグラフィに求められるのは、芸術的品格でないことは当然のことで、 常識のある節度を失ってまでも、一般の芸術ジャンルの表現ではおざなりにされている、 人間の全体性的探求を行わなければならない実情があることも事実である。 一般の芸術ジャンルが時代と共に進展しているように、 ポルノグラフィだけが旧態然として澄まし込んだ状態にあるわけにはいかないということである。 先達の方々が色々とご苦労をなさって、誠に有用な表現方法を作り上げてくれた媒体であるから、 後に続く者がそれを発展させないことには、ご先達様方々に申し訳がないことになる。 では、何故、人間は動物を好きになるのか、 その答えは、その相手を考えることが幸福感に満たされる思いになるか、 或いは、満たされる思いへと向かわせることにあるからである、 この幸福感というのは、快・不快ということにおいての快の知覚である、 従って、知覚する幸福感には程度があり、当然、そこには個人差が存在する。 さらに、快の知覚は、思考で把握されるためには、言語によって概念化されなければならず、 そのとき、その知覚に善し悪しの相対的な価値を付与することがされるのであるが、 この場合、男性が女性を思うという既成にある常識であれば、それは善しの価値である、 しかし、男性が男性を思ったり、女性が女性を思うことで幸福感を知覚するような場合は、 その知覚に付与する価値は、既成にある常識に反しているから、悪しの概念が生まれる。 人間の恋愛対象の本筋は男性と女性の関係にある、とされる常識であればそういうことになるが、 幸福感に満たされることへ向かう衝動は、人間に備わる<生存のための四つの欲求>である、 食欲、知欲、性欲、殺戮欲の活動に依るものであり、 概念を作り出す知欲の属性である思考において、幸福感の知覚をその最上のものとして、 性欲の属性である性的官能のオーガズムとして把握していることであれば、 幸福感に満たされる対象が同性であろうと、少年や少女、老人や他の動物であっても不思議はない。 群棲する人間が集団として社会を営むためには、共有する概念が不可欠のことであり、 この場合、共有する常識は、種族の保存という社会的人間としての倫理が掲げられているのである。 実際は、先に述べたように、ダウンロードしたファイル交換のようには、 恋愛の概念の共有ということはあり得ないことである以上、 人間が恋愛感情を抱くということに、すでに矛盾と相反の可能性が孕まれていることになる、 正常な恋愛と異常な恋愛という相対的価値にあることである。 この常識とされる相対的価値は、社会を構成している政治・経済・宗教・学術が意味を与えて、 正常と異常の牽引関係を作り出していることである。 恋愛の衝動の根拠である、人間に備わる<生存のための四つの欲求>は、 生存を目的として活動しているというだけのものであって、 その活動の背景には何があるかと問えば、荒唐無稽があるだけでしかない、 この荒唐無稽は、これまで、混沌や無と考えられてきたことである。 <生存のための四つの欲求>が生存のためにはおのずから治癒するものとしてあり、 それは、言わば<健全への意志>ということをあらわしているものであり、 言語による概念的思考が整合性を求めるように活動する<整合性(健全)への意志>となる。 言語による概念的思考は、その活動を<整合性を結ぶ>という喜びへ向けて、 <整合性への意志>をあらわすのであるが、 果たされた整合性の喜びの頂点は、性的官能のオーガズムとして知覚される快感である、 突き刺すような比類のない快さの至福である、 人間の性的官能は、四六時中働いているものであるから、思考と性的官能は常に結び付くのである。 人間が動物として存在する、というこの一連の活動を<人間は畜生同然>ではないとすれば、 それぞれの過程を分離させて考察するという思考方法の範疇化が行われることであるから、 動物学、生科学、進化学、心理学、哲学、宗教学、性科学、等々として、 <整合性への意志>のままに、人間の学問的探求が行われるということになる。 言うまでもなく、<一連の活動として人間を考える>というありようも、 思考方法のひとつに過ぎないことであるから、将来の学術となる可能性はある、 ただ、これまでの概念的思考の方法では、 性的官能は、同時に、おちんちんやおまんこを意味することであるから、 学術的権威や品格からすれば、おちんちんやおまんこが剥き出しとなることは避けたい事態である、 学術で飯を食っている者が女子学生や男子学生、少年や少女に猥褻行為を働くことは、 その学術の権威や品格を自覚していない、というだけのことであって、 人間の性的官能は、四六時中働いているものであるから、 思考と性的官能は常に結び付くことを時と場所と相手構わずに証明していることは、正鵠である。 従って、恋愛の事象も、 人間を超越する神的存在が人間へ授けた<愛の万有引力>の法則に依るという発想にあれば、 性欲と愛は、分離して考えられてこそ、人間としての尊厳が備わるものになるということになる、 愛は、愛それ自体としてあり得る、という品格があらわされることである、 そこから、神の愛、人間の愛、動物の愛、という品格と尊厳の等級が形作られるのである。 どのように品格や尊厳の備わった概念としてあったとしても、 人間の実際は、動物として誕生し、動物として死滅していくことは変わらないことであるから、 <生存のための四つの欲求>の背景には<荒唐無稽>しか存在しないということを、 <赤裸々に>というポルノグラフィの表現ほど、明確にあらわしてきたものはないことである。 愛は、愛それ自体としてあり得る、ということの以前に、 人間が時と場所と相手に左右されずに性的行為を成し遂げることができるということが、 各音各語が明瞭に発音されるように、絵画や映像で描写され、言語であからさまとされている。 もっとも、この<赤裸々に>というポルノグラフィであっても、 社会にあって金銭的な有用が認められれば、社会へ取り込まれるために <赤裸々に>へは下着が着せられて、<愛の万有引力>が適用されるという程度のものである。 SM(サディズム・マゾヒズム)も究極のひとつの愛の表現である、といった仕方であるが、 それは、本質を語っているということよりは、宣伝文句に過ぎないことであるから、 サディズム・マゾヒズムの表現が金銭的に有用でなくなれば、廃れていくものでしかない、 その表現がまだ金銭を招くものであれば、別の宣伝文句が案出されるというだけのことだからである。 人間の社会は、群棲する個人を集団化させるために、金銭の整合性を必然としていることは、 知れ渡る表現や方法や概念というのは、金銭を招くものにしかあり得ないことで示されている。 言わば、真実そのものが問題なのではなく、その真実がどのように金銭を招くかが問題なのである。 金銭を招かない真実は人間の真実にあらず、とさえ言えることである。 これは、真実と表現する概念は、あくまで作り出された概念でしかないからである。 真実はひとつ、という表現は、真実はひとつしかない、ということを言っているのではなく、 ひとつの真実の前には、幾つもの真実が存在し得るから、ひとつであると言っていることである。 従って、恋愛の真実も、これまでに数多の表現がなされてきたことであれば、 むしろ、恋愛の謎としておくことの方が社会には金銭的に有用なことになるのである。 恋愛に一般論が成立しない理由は、恋愛は謎だから、ということになるが、 実際は、知覚する快の対象として、どのような相手を志向するかは、 各個人において、固有に異なるものがあるだけのことである。 恋愛対象として、異性同性、少年少女、父親母親、兄弟姉妹、叔父叔母、赤子老人、他の動物…… どうして、人間は、このように多種多様に恋愛の対象を志向できるのかということは、 人間は、その進化のために、可能な限り、<生存のための四つの欲求>を柔軟にさせたことにある、 食欲、知欲、性欲、殺戮欲において、野放図・無際限・荒唐無稽なまでの欲求をあらわすことである。 食することの可能なものであれば、動物、植物、鉱物、菌や人間までも食らい、 知ることの可能なことであれば、存在しようがしまいが、あらゆる対象へ向けて思考を求める、 殺すとなれば、食する対象は言うに及ばず、他人、近親者、同民族、異民族、みずからさえも殺す、 性欲も、時と場所と相手に左右されずに性的行為を成し遂げることができるということであり、 人間は、万能とも言える進化を果たした、地球上、唯一の動物であるということである。 人間にあっては、発情期が訪れなければ恋愛を知覚することができない、ということはない、 恋愛感情や恋愛の心模様と呼ばれることの根拠は、 時と場所と相手に左右されずに性的行為を成し遂げることができる、という出発点であり、 それは、老若男女、等しい状態に置かれてあることである。 どのような対象が志向されるかは、個人差にしか過ぎないことであるから、 恋愛の対象として、女性を志向していた男性が少年を志向することへ転じることもあれば、 同時に異なった複数の対象を志向することがあったとしても、何ら不思議のないことである。 存在する人間の数だけ、固有のものとして、恋愛はあり得るということであり、 固有の人生においては、年齢によって対象の変化があることでは、法則も存在しない、 人間が社会的に成長する赤子から老人までの過程にあらわれる性的傾向を法則化することは、 可能なことには違いないというだけで、それが恋愛の事象を明らかとさせないことだとすれば、 傾向としてあらわれると見なす概念化そのものへ眼が向けられるべき問題である。 何故なら、思考における概念化は、人生が誕生から死滅へと直列してあるようにはないからである、 人間の心理は、一面に並列された概念によって組み立てられているありようであって、 そのすべてを主体者が全知と把握を行えないことに、 結ばれない<整合性の意志>は、謎や疑問を生じさせていることだからである。 従って、深層心理という直列の思考方法がひとつあることである、また、 並列の心理という思考方法もひとつあって、他にも、<ひとつの思考方法>が数多あることは、 言語による概念的思考という活動から作り出されるそれは<概念>でしかないからである。 どのような思考方法が時代の潮流となるかは、政治・経済・宗教に依存して、 <金銭の整合性>を表現するものが獲得する盛衰がある、というだけのことである。 それをおためごかしに表現しても、それも<概念>でしかないのである。 恋愛も、その相手を考えることが幸福感に満たされる思いになるか、 或いは、満たされる思いへと向かわせることでしかないから、 知覚に付与する価値が作り出す概念を個人が置かれている状況に依存して、 固有に異なる環境があることを反映させる、ということがあるだけである。 幸福感に満たされる行為として性的交接が行われることは、 男性対女性、男性対男性、女性対女性、人間対他の動物において同様であることは、 幸福感を感じさせる相手とは結ばれたい、ということが恋愛でしかないからである。 性欲は、膣と陰茎が結ばれることを求める欲求であり、 求められる実際がそれでなければ、口、肛門、張形などの人工物で代替が行われることである。 社会生活のなかで、これらの行為を容易に柔軟に果たせないという状況にあれば、 恋愛感情や恋愛の心模様と呼ばれる、思考における概念化の多種多様が生まれることである。 政治・経済・宗教の規律に従って、容認されていない恋愛は禁制、というだけである。 禁制を破れば、罪とされ罰を科されることが社会に棲息するということであるから、 社会のなかにある以上、その境界を越えることはできない。 思考における概念化の多種多様に傾向を見つけて範疇化したところで、 範疇が多種多様に展開していくというだけのことにしかならない所以である。 ましてや、その多種多様に範疇化した概念を法則のように押しはめて、 恋愛の多種多様を心理の障害や病気であると見なすことをしていたら、概念化の誤謬となる。 概念化の誤謬は、人間の心理には病理がある、と最初に見なすことしたら、 そこから展開される思考は、何らかの病理の定義に属する範疇の体系化へと向けられることで、 心理のありようをすべて病理で概念的思考することが謳い文句とする健全は、 治療の過程にしかあり得ないことをあらわすだけのことになる、 病理の根本概念は、それ以前にある<健全への意志>を抑圧するものでしかないからである、 また、心理の病理の範疇体系において、 医者だけがその埒外にあるということはあり得ない、という背理を免れないこととしてある。 整合性的解決を求めるのは、人間の言語による概念的思考の活動なのである、 心理における問題は、その心理がどのように思考の整合性を結ばせるか、という問題であって、 結ばれない整合性の思考が<悩む>という状態を作り出していることである以上、 <悩む>という状態を解決するには、 整合性を求める思考が整合性のある思考を行う<健全への意志>にあることでしかない。 <健全への意志>は<生存のための四つの欲求>にあるのである。 人間が不健全化しようとする状態があれば、必ず健全をあらわす反発勢力が生まれる、 それは、<生存のための四つの欲求>が<健全への意志>を持っていることにある。 何が正しいことであるか、善悪とは何か、その倫理的な問い掛け以前に、 人間は、<健全への意志>を持つ<生存のための四つの欲求>を活動させているのであり、 言語による概念的思考は、整合性を求めて活動することで、<健全への意志>をあらわすのである、 この一連化してある状態から考察される人間の全体性へ向けて、 <言語による概念的思考の心理>は、 現在の人類が新たに展開する所在として至ったひとつの状況である、 人類の未発達な言語による概念的思考の状態では、 群棲を集団化させた<社会>ですべての人間が健全に生活するということには、 依然として無理があるということである、その無理を克服するには、 <人間は畜生同然>と言うよりは、まず、<人間は畜生である>と思考することである、 畜生であるから、<人間>が行うとされる<社会>生活が上手にできないのである、 上手に行うとしたら、どうすればよいか、 みずからが整合性的に納得する<人間>であろうとする以外にない、 与えられた<人間>の概念に納得しなければ、みずから創り出す<人間>しかない、 生きてある人間の数だけある、みずからが創り出す<人間>である、 そこで始めて思考される<愛>がある、ということになる、 そこで、戦争で片足を失ったじいさんが営む古本屋の話である。 その古本屋は、東京、台東区の北上野界隈の住宅地域にぽつねんと存在していた、 店名を<桜花堂>と言ったが、家屋が古すぎて、台風でもげ落ちた看板はすでに失われていた、 出入口は木製の桟のガラス戸で、そこにかすれた文字で読むことができたものであった。 軋むガラス戸を開けてなかへ入ると、古本が古本らしさを放つ紙とインクの腐食した臭いが、 カビと埃と体臭の干からびたような臭いと入り混じって漂っている、 十畳程度の店内の狭さでは、当たり前のように空調設備はなかったから、 まるで、嫌なら入るな、と無言に言われているような威圧感のある雰囲気があった。 書棚に並べられている書籍の背文字を判別できるくらいの明るさでは、 おどろおどろしいというだけで、客を寄せないばかりか、店自体が無視されていたことであろう。 確かに、暗鬱で陰惨で異様で淫靡な雰囲気があったのは、 書棚に並べられている書籍を眺めると、それらが<SM雑誌>と呼ばれているようなものしかなく、 店の奥にある小部屋に座り込んでいる店主には、尋常でない風情が感じられることだった。 店主の異様な風情が片脚の膝から下が義足によることは、 そのときはまだ知らずにいたことであったが、入って来た客へ投げ掛けたまなざしには、 敵意が込められているような鋭いものが感じられるのであった。 目的は、このじいさんに<財団法人 大日本性心理研究会>の件を尋ねることにあった。 或る知人から、戦後の性風俗に詳しいじいさんが北上野で古本屋をやっているらしいと教えられて、 ただ、小夜子の手掛かり欲しさに、正確な住所も店名もわからずに探し当てたことだった。 それは、偶然であったかもしれないが、起こったことを考えてみれば、必然的とも言えることであった。 しかし、すぐにじいさんに尋ね掛けるというには、躊躇を感じさせるものがあった。 仕方なく、客を装って、書棚の端から順繰りと探し物をしているように見始めていた。 そこで驚かされたのは、置かれている雑誌の種類であった。 「奇譚クラブ」(1946年創刊)から始まり、「獵奇」(1947年)「人間探求」(1950年) 「あまとりあ」(1951年)「風俗草紙」(1953年)「風俗科学」(1953年) 「風俗クラブ」(1954年)「白表紙」(1956年)「裏窓」(1957年)「風俗奇譚」(1960年) 「サスペンス・マガジン」(1965年)「えろちか」(1969年) 「SMマガジン・サスペンス&ミステリー」(1969年)「あぶめんと」(1970年) 「問題SM小説」(1970年)「SMセレクト」(1971年)「SMファン」(1971年) 「SMキング」(1972年)「SMコレクター」(1972年)「SMアブハンター」(1974年) 「SMフロンティア」(1974年)「SM奇譚」(1975年)「SMファンタジア」(1975年) 「SMクラブ」(1978年)「S&Mスナイパー」(1979年)「POCKET・SM奇談」(1979年) 「SMフェニックス」(1981年)「SMマニア」(1982年)「SM秘小説」(1983年) 「SMスピリッツ」(1984年)「SMソドム」(1986年)へ至り、 「サン&ムーン」「えすとえむ」「緊美研レポート」を含めては、すべてとは言えないまでも、 日本の<SM雑誌>と呼ばれる出版物がほとんどあると言っても過言ではなかった。 一冊を取り上げてなかを覗けば、その表現されているSMの多種多様のありさまには、 思わず見入らされてしまう執着と欲求がかもし出させる淫猥があるのだった。 百花繚乱の<SM雑誌>の盛衰…… かつては存在したが、いまはノスタルジアさえ呼び覚ます古びた土蔵にある淫猥の書庫…… その十畳の閉塞とした狭さと埋没していくような暗さの空間は、そのように想起させるのであった。 そのなかにあって、ひとつの雑誌に注意を惹かれた。 その雑誌名としては一冊しかなかったから、文字通り、ひとつの雑誌であった。 『SMクイーン 十月号』 一九七三年刊行 この雑誌名を知る者は、 恐らく、鵜里基秀という作者が書いた☆『終焉なき悪夢』という写真付きの短編からであろう。 その点では、私も同様であったが、 『SMクイーン 十月号』とは作者の単なる想像の産物に過ぎないものであると思っていたことが、 いま、ここで、その実物に接することができたことは、驚きと同時に強い興味をそそられることだった。 これは、何としても手に入れなければならないと思いつつ裏表紙を見ると、 売値は一万円となっていた。 この売値が高いのか安いのかと疑問を感じながら、書棚の雑誌を無作為に取って見ると、 それらの古雑誌の売値は、雑誌名に関わらず、一万円であることを知ったのだ。 これは、信奉者が情熱を傾けて価値評価する対象は、相違に関わらず平等の価値を有する、 というありようをあらわしていることだと感じたとき、 じっとしているままの偏屈そうな店主のじいさんが急に身近な人物に思われたのだった。 早速、『SMクイーン 十月号』を手にして店の奥へと向かっていった。 じいさんは、身体を不恰好に曲げた姿勢でそっぽを向いたままだった。 「これをください」 そう言って、一万円札を添えて差し出したが、そっぽを向いたじいさんはそのままだった。 横顔からしても、八十歳は優に越えていた形相であったから、大きな声で繰り返した。 すると、じいさんは、先ほど見せた敵意の込められた鋭いまなざしだけをこちらへ向けて、 「耳は遠くないよ、それは売り物ではないから、答えなかったまでのことだ」と言ったのである。 それには驚いた、思わず、裏表紙を相手に見せ付けるようにして言い返していた。 「だって、誰が見たって、<売価一万円>と貼ってあるじゃないですか、ここに!」 言い返す語調がまるで耄碌した相手が眼までよく見えないのだというように、 きつい感じになっていたのは、じいさんが鋭いまなざしでこちらを睨んだままでいたからだった。 ふたりが睨み合う沈黙がしばらく続いていた。 口を切ったのは店主だった。 「それは、売り物ではないと言ったはずだ、 それに、ここは本屋ではない、<桜花堂>の看板はすでに取り外されている。 おまえさんは、他人の家へ断りもなく入って来たんだ、 失礼しますの一言もなく、ずけずけと入ってきて、他人の収集品を勝手に手にして眺めまわして、 挙句の果てに、これをくださいって金を差し出す無礼を働いたということだ。 金銭で何でも片を付けられると思っていたら、それは単なる無知だろう、 <売値一万円>の札は、<収集品をあらわす標章>ということだってあるのだ。 わけがわかったら、さっさと出て行くことだな、礼儀を知らない若造。 わしは、いま忙しいんだ」 落ち着いた調子の低い声音で語られたその内容は、 驚愕させられたことは言うまでもなく、怒鳴られたよりも恐ろしい感じが漂っているのだった。 すぐに動くことができなかったのは、恐ろしさに足がすくんだこともあったが、 そのままおめおめと帰ってしまったのでは、ようやく見つけたこの場所の意味がなかった、 小夜子の手掛かりを見出す意味がなかった。 じいさんは、身体を不恰好に曲げた姿勢のまま、そっぽを向いていた、 部屋の向こうにある音声を消したテレビでも見ているのか、まなざしが凝らされていた。 「だっ、黙って入り込んで、勝手に大事な収集品に手をつけて、 不躾なことまで言って、本当にすみません、謝ります、申し訳ありません…… 本当は、あなたにお会いしたくて、この場所をようやく探し当ててきたのです…… 少しお話をさせて頂けませんでしょうか……」 どもりながら、恐る恐る相手へ問い掛けたのであった。 昼を少し過ぎて、戸外は太陽の輝きがまばゆいくらいにあったが、 その場所は、薄暗く、紙とインクの腐食した臭いが、 カビと埃と体臭の干からびたような臭いと入り混じって漂いながら、不思議とした静寂があった。 そして、不思議な静寂は…… そのとき、初めて第三者のいるかすかな息遣いと気配を知らせたのだった。 じいさんの凝らされたまなざしは、その相手を見据えてのものだと想像できることだった。 よく見れば、じいさんの皺だらけの片手には、古びた麻縄がきちっりと握られ、 縄の続く方角からは、ああっ、ああっ、ああっ、 と女性のやるせなさそうによがる甘い息遣いが伝わってくるのであった。 とんでもない場所にいるのではないかという思いが急激に込み上げてきて、 心臓がどきどきと高鳴り、その場を立ち去ろうと思い立ったときだった。 「わしに会いに来たって…… それならそうと、最初から言えばいいことだ。 しかし、あいにく仕事の最中で取り込んでいる、 一時間くらいして、もう一度来てくれれば、暇ができる、そうしてくれ」 八十歳は優に越えている家主は、まなざしを向けもせずにそう答えたのであった。 「承知しました、ありがとうございます、では、改めさせて頂きます」 と応じるのが精一杯だった。 邪魔をしないように足音を忍ばせ、立て付けの悪いガラス戸を静かに開閉して外へ出た。 『SMクイーン 十月号』を手にしたままでいることに気づいたのは、大分歩いてからだった。 返すために戻るに戻れない思いは、こわれ物でも扱う丁重さでその雑誌をつかませていたが、 通りすがるひとに出会う度に感じる後ろめたさは、それを上着の下へ隠させるのだった。 雑誌を見られることは、じいさんと女性の現場を見られているような気がしたのである。 じいさんが女性を縄で縛っていたことは確かだった、 しかも、相手の女性は、生まれたままの全裸の姿にあったことは間違いなかった、 どうしても、そのように思えたことであったし、 それがあの淫靡な雰囲気のなかでは、最も自然なありように思えたことだった。 その女性も、恐らくは、しなやかな姿態の若い娘などではなく、 声音の感じから脂肪のだぶついた、隣近所にいるような普通の中年の主婦…… そのようなことをぼんやりと考えていると、公園に出くわしたので、ベンチへ座って待つことにした。 こじんまりとした公園には、他に人影は見受けられなかった。 上着の下から取り出した『SMクイーン 十月号』を白昼の陽の下で、まじまじと見ることができた。 そこで知らされた事柄は、最初に開いた『終焉なき悪夢』の原物は、 このようなものであったということから始まったことだった。 |
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