第2章 『終焉なき悪夢』の原物 借金返済で弁護士に相談








第2章  『終焉なき悪夢』の原物







          ぐいぐいと食いこむ 女芯に食いこむ淫縄に嗚咽がもれる
          鋭利なハサミが無言の脅迫を示す
          逃れる術を封じられた獲物は 抗いをあきらめ 時が過ぎることだけを願う
          だが 過ぎゆく時が与えたものは
          屈辱に歓びを見い出すさかしまな世界だった………

          ひきしぼられた快楽地帯からあふれる果汁を 貪欲に吸いつくす責め縄!
          甘い敗北に酔いはじめた女体があやしく揺れ始める………
          切り裂かれた布地の最後のひと切れが 畳に落ちる
          と同時に 女の誇りも無残に抹殺される
          呪縛された女体は 蹂躙を待ち望み始めた………

          恥辱が愉悦を呼び 愉悦がさらなる恥辱を呼ぶ
          加虐者は征服の証しを女体に残す
          やるせないすすり泣きと荒い吐息が ひと剃りごとにふるえる
          生唾を燕下する加虐者の喉に つめたい汗がひとしずくつたう
          惨劇はクライマックスをむかえたのだ

          いく度 剃毛の儀式をおこなえば 解き放たれるのであろうか
          だが、屈辱の痕跡はもういやすことができない
          隷属が歓びとなる日まで 加虐者はあくことなき責め苦を加える
          弛緩しようとする肉体をはげましながら
          さめることのない悪夢に 女はたえる………



これは、『終焉なき悪夢』と題された、
十六ページ三十七枚からなるモノクロームの組写真に添えられた、作者不詳の象徴詩である。
この象徴詩が日本の現実を厳粛に表現したものにある、ということをこれから明らかとさせていくが、
読み方によっては、ただのエロな添え書きとしか見えない、という見解もあることなので、
詩作表現における象徴の取り扱い方について、若干の説明が必要と思われる。
一般に、或る語が或る事柄を象徴しているという用法にあるとき、
或る語は或る事柄を意味するものとして、文脈は整合性的に解釈可能なものとさせる。
しかしながら、詩作表現においては、特に、<現代詩>と称されるような表現にあっては、
例えば、或る語が或る事柄を比喩しているという用法にあって、象徴と見なされるということが成される。
この場合、或る語は或る事柄を意味するものであるとは限らないということが起こり得るのは、
象徴は、抽象的な事柄を具体的な事物によって表現することに対して、
比喩は、或る事柄を類似や関係する他の事柄を借りて表現することの相違があって、
その比喩表現を象徴と考えていることが成されることは、
文脈の整合性が倒錯にさえ置かれることがあり得ることからである。
この非整合性を想像力に依る表現として、現実の事象には見い出されない<隠された現実>として、
読者に提示する方法には、美学と称する方法論にまで至ることが提言されることにさえある。
従って、表現という見栄えにおいて、文章は、解釈を難解なものとさせずにはおかない。
整合性を求める概念的思考の活動は、整合性的でない文章を整合性的には解釈できない、
そこで、ないものをあるとする、想像力をもってして、内実をあるものとして考えることをすることになる。
これによって、あるかないかわからない、その内実が読者の身勝手な解釈となることの可能性が生じても、
作者に義理を欠いたということにはならないことは当然であるばかりか、
作者の独りよがりの表現という批判が生まれることも避けられない事情へ導かれることでもある。
一般に、詩文や批評文、或いは、小説の描写などに見られる難解な表現とは、
多くの場合、作者が象徴であると考えている事柄を比喩として用いることにあって、
その比喩も、比喩を比喩するという用法において、
更には、作者の造語という、個人的な事情が絡み合っての複雑さに依ることにあれば、
それこそは文学芸術であるということに至れば、難解は決定的な事柄となることが示されることにある。
文脈は、言語が本来有する整合的なありようから、ひたすら離れていくことこそが芸術であり、
高度で優れた芸術ゆえに、解釈不可能なものにあるということは、
解釈不可能な表現ほど、奥深い芸術性があると見なされるように強要されるということにもなることにある。
このありようは、言語における美とは何か、芸術性とは何か、という設問が必要不可欠とされることにおいて、
それが文脈の整合性の倒錯を本筋として行われていることにあれば、
難解な表現を難解な表現で解説するということさえ起こり得ることであるから、
その見栄えに眼を奪われてしまうことが内実よりも重要な事柄となることは、致し方のないことでもある。
上記の作者不詳の象徴詩は、読み方によっては、ただのエロな添え書きとしか見えないものにある、
また、それが添付されている映像も、見方によっては、エロな写真であるとしか見なせないものとしてある、
という普遍的解釈の成立するものである前提において、
そのような表現が少なくとも象徴をもってすれば、
以下の実例となることは、このように示されるものとしてある。


初めに、この詩文は、<女>を主人公として、
相対する<加虐者>との間に展開される<物語>として、読むことのできる体裁をあらわしている。
文脈に沿って見ていくと、このようである。
<ぐいぐいと食いこむ 女芯に食いこむ淫縄に嗚咽がもれる>とあることは、
<女芯>とは、女性の陰部を指すことであるから、
<女芯に食いこむ>とは、女性の陰部をあらわす<割れめ>に食い込むということであり、
<淫縄>とは、縄が<割れめ>へ掛けられている状態である、<股縄>があらわされていることになる。
<女>は、<股縄>を掛けられて被虐に晒されているありさまにあることが、
当然、後ろ手に縛られ、胸縄をも施されていると想起させることにあるのは、
<嗚咽がもれる>には、身動きの自由を奪われ、
あられもない格好に緊縛された<女>の悲哀に満ちた情感が漂っている点からである。
その<女>のか弱さの情緒に対置させて、<鋭利なハサミが無言の脅迫を示す>とある。
この<女>に見せ付けられた<鋭利なハサミ>があらわす<無言の脅迫>というのは、
強引な男性の存在、陰茎の硬直から、女を我が物とする強姦の意思があらわされている。
そこから、その反り上がる意思のままに、<鋭利なハサミ>によって行われることは、
後段の<切り裂かれた布地の最後のひと切れが 畳に落ちる>において示される、
<女>が身に着けて、身を守らせている下着を切り裂かされていくことの通奏低音となる。
強引に下着が切り裂かれ、取り除かれていっても、
<女>は、その晒されている身上を激しく嫌悪することはできるが、あらがいようもなく、
むせび泣く以外に抵抗をあらわす手段のないところまで追い詰められていることは、
<逃れる術を封じられた獲物は 抗いをあきらめ 時が過ぎることだけを願う>へ導かれるのである。
抵抗することを諦めて、我慢して耐え続けることをすれば解決が生まれる、
と考える<女>であったのである、
<だが 過ぎゆく時が与えたものは 屈辱に歓びを見い出すさかしまな世界だった………>
という展開が更に待ち受けていることになる。
ここで、<サディズム・マゾヒズム>という異常性愛の原理に従えば、
<屈辱>の被虐に晒される<女>は、その嫌悪する身上に<歓びを見い出す>ということは、
<マゾヒズム>に目覚めて、<さかしまな世界>を認識するということになる。
しかしながら、それは、あくまで、
人間には<サディズム・マゾヒズム>というものが属性としてあるという前提があってのことである。
その前提に基づいて<表現>を展開させる、ということが行われていることが、
所謂、<SM>文学、美術、音楽、映画、アニメーション、コミックス、見世物ということにあれば、
そのような属性は人間にはない、という立場からでは、次のように解釈できることになる。
<ひきしぼられた快楽地帯からあふれる果汁を 貪欲に吸いつくす責め縄!>、
<快楽地帯からあふれる果汁>とは、<快楽地帯>は<膣>、
<果汁>は<膣の入口の左右にあるバルトリン腺から分泌される粘液>をあらわしていることから、
<責め縄>とは、<女>の<割れめ>へ掛けられている<股縄>を示しているので、
<割れめ>へ激しく食い込まされるように引き絞られた縄は、必然的に、鋭敏な性感帯である、
陰核や肛門までも刺激して、<女>は、しとど濡れるほどの反応をあらわとさせたということになる。
その置かれている身上や状況がどのようなものであれ、尋常であろう異常であろうと、
鋭敏な性感帯を刺激されて、高ぶらされる性的官能で興奮しない女性というのは、
<不感症>というものに当たると言える可能性のあることであるから、まことに自然な経過である。
ましてや、この場合、女性は、縄で緊縛されているという、
肉体の触覚を刺激され続けている状態にあり、肉体の触覚は、刺激の程度によっては、
性感帯となり得ることであれば、すでに、縄で縛られていることで興奮させられている状態にあるのである。
縄で緊縛されて、性的官能の興奮を覚えることを<マゾヒズムに目覚める>と定義して、
それは、<学術>によることであるとされれば、
<被虐>の様相をあらわす行為にあって、被虐者が性的官能の興奮を覚えれば、
すべて、マゾヒズムを知覚しているということになる。
同様に、対象とされる年齢に関わらず、<異性>という存在に対して行う<暴力行為>において、
それがその<異性>に対する、一般的な性的官能による興奮であったとしても、
<加虐>の様相をあらわす行為にあっては、すべてがサディズムを知覚しているということになる。
まことに理解しやすい認識のようではあるが、
それらが破損や殺傷に及ぶ、<過度の行為の状況>に対して定義されることにあっては、
<人間の男女の相対性><異性間の心理と行為>ということで見なされる認識は、
<過度の行為の状況>の程度も、当事者の年齢制限も、まったく意義をあらわさないことにある。
その概念の提唱者である、クラフト=エビングがその認識を持つことになった時代(1886年)では、
社会的倫理が男性・女性の存在理由を差別を明確にするほどにあらわされていた時期にあり、
<サディズム・マゾヒズム>に相当する行為は、社会的に隠蔽されていたことにあることで、
尋常な状況にはない事柄であるからこそ、男女間の<異常性愛>と見なすことができた事象にある。
通信と表現の普及が全世界的に、<隠蔽されるものを暴露している>という状況に向かう時代にあっては、
<サディズム・マゾヒズム>は<異常性愛>と呼ぶことのできないほど、成人男女の秘め事に収まらずに、
<ありふれた現象>として見なされていくことでは、老若男女の平等性をあらわして、
<異常性愛>から離脱させていくことでしかない。
このことは、<人間の男女の相対性><異性間の心理と行為>、
という事柄そのものが問われる傾向へと向かわされていることにあっては、
<ホモ・セクシュアル(男性同性愛者)><レズビアン(女性同性愛者)>というありようが、
同様に<ありふれた現象>となることで、<異常性愛>から離脱していく状況と平行関係をあらわしている。
<サディズム・マゾヒズム>が人間の属性としてある、という定義に、
果たして、有効性があるものかどうかは、<性科学者>の権威に依る判断を待つことでしかないが、
<サディズム・マゾヒズム>という<加虐・被虐>の行為に、
イエス・キリストの受難の意義を認める、という固有の宗教性から認識されていることにあっては、
その立場からは、<西洋思想>においては、保持されることには違いないことであっても、
宗教性を異にする立場からは、認識の離脱が行われることは、必然的なありようでしかないことにある。
それを明治時代以来の<欧化主義>にあっての<西洋思想>への<模倣・追従・隷属>したありようで、
<日本表現>の根拠として継続させるという状況にあり続けることだとしたら、
<表現>における自主・自立・独立の意識が希薄なものとしてあることも、
必然的な事柄となると言えることでしかない。
『終焉なき悪夢』と題された作者不詳の象徴詩に示されている内実は、
<日本女性>を主人公としたものにあれば、
<日本固有>の表現と方法になることは、当然の事柄として展開される。
<甘い敗北に酔いはじめた女体があやしく揺れ始める………>、
下着姿を縄で後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、股縄を施された身上へ置かれた<女>は、
ハサミで下着を切り裂かれながら、股縄を引き絞られたりされて、
裸にさせられていくという<羞恥>に晒されることは、<甘い敗北に酔いはじめた>とあるのは、
<甘い>とは、<甘美で気持ちの良い性的官能>であるから、
それに酔わされることを<敗北>としていることは、
高ぶらされる性的官能のままにある、ということをその心理も同調していくということになる、
それは、悩ましさの身悶えをあらわさせるほどに感覚させられている状況にある。
人間の性的官能は、常時活動している状態にあって、状況と対象の<変化>によって、
火がつけられ、燃え立たせられ、燃え盛り、燃え尽きる、
という<起・承・転・結>の整合性をあらわそうとするものであるから、
<女体があやしく揺れ始める>は、<絶頂感>へと向かわざるを得ない<自然過程>でしかない。
<切り裂かれた布地の最後のひと切れが 畳に落ちる>とは、
<布地>は、<女>の身を守る意識である、<自尊心>があらわされていることであるから、
その切り裂かれた<最後のひと切れ>が奪われたことは、
<自尊心>が隠す覆いをすべてを取り去られ、<女>は、生まれたままの全裸にさせられたことが、
<畳に落ちる>という表現によって、踏みにじられたありさまにあるばかりか、
<女>が地べたを這いつきまわる動物状態に置かれたことを想起させることは、
<と同時に 女の誇りも無残に抹殺される>と導かれて、
人間としてある<女の誇り>を否定された、<動物の牝>をあらわすことを決定づけられる。
<呪縛された女体は 蹂躙を待ち望み始めた………>、
<動物の牝>というありようからすれば、<呪縛>は、ふたつの意義があらわされている、
ひとつは、全裸とは、生まれたままに、本能に縛られてあるだけの姿にあることであり、もうひとつは、
その全裸が縛られた緊縛姿とは、本能の動物が縄に繋がれた、畜生の姿にあるということである。
<女体は 蹂躙を待ち望み始めた>というのは、
<女体>という<女性の肉体>そのものに意思があるわけではないから、<本能>と読むことはできるが、
それであっても、<女性の肉体>の<本能>が待ち望むという<意思>を持つことではない。
これは、旧来の<倫理観>や<社会道徳>を敷衍した<文学表現>にあっては、
人間のありようを<精神>と<肉体>、
という相対する<二元論>へ依拠させることが行われている方法によることであって、
それに依れば、<精神>と<肉体>とは、互いに分離独立してあることに意義があらわされる。
当人の<精神>の意思に関係なく、<肉体>が発情すれば、<肉体>みずからの意思によって、
性愛や性交が行われるとされることであるから、
<肉体>が勝手に行っていることであれば、当人の<精神>に<罪>はないということであるし、
<罪>を認めれば、人間であるがゆえに、<意思>ではその分離をどうしようもないことだとされて、
喜怒哀楽の情感を惹き起こす、という成り行きを表現させるものとなる。
この<呪縛された女体は 蹂躙を待ち望み始めた………>という一行からは、
<不詳の作者>が位置する、<倫理観>や<社会道徳>を窺い知ることができる。
従って、次の<恥辱が愉悦を呼び 愉悦がさらなる恥辱を呼ぶ>は、
解釈の上で重要な点となってくる。
これは、<サディズム・マゾヒズム>の原理に従えば、
<恥辱>という<被虐の状態>が<愉悦>という<性的官能の快感>を生み、
その<性的官能の快感>は、<絶頂感>へと向かわせるものである以上、
その<愉悦>を更に求めるには、<被虐の状態>にあることを更に望ませるということになる、
<被虐の状態>に<性的官能の快感>を覚える<マゾヒズム>ということである。
<恥辱>は、<体面・名誉などを傷つけること>であれば、<精神>における認識の事柄である、
全裸とされ畜生同然の縄を掛けられて、<性的官能の快感>を高ぶらされるのは、<肉体>の事柄である、
この相反する二元としてある、<精神>と<肉体>が<マゾヒズム>で結ばれるということである。
人間であるがゆえに、<意思>ではその分離をどうしようもないことだとされる、
<精神>と<肉体>は、<マゾヒズム>によってひとつに止揚されると見なす、弁証法ができるのである。
ここから、性の<神学>を始めることが可能であるという点でもある、
相反する二元の<精神>と<肉体>、神へ至ろうとする<善>と動物へ至ろうとする<悪>は、
<マゾヒズム>という<被虐の状態>を通して、<神的合一>へと至ることができる、
それは、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』などに典型としてあらわされる、激しい<鞭打ち>に晒されて、
泣き叫ぼうが喚き悲しもうが、<精神>と<肉体>の激烈な苦痛による擾乱が渾然一体となって、
<絶頂感>という<歓喜>へ至らせられるありさまにあっては、奴隷のように生まれ変わり、
望まれる男性の誰にでもかしずき、精神も肉体も捧げる、という普遍の愛の認識ということにまで至らせる、
剥奪される人間性は、神化への扉を開くということになる。
普遍の愛の認識に至れば、鞭打ち、拡張される膣、割れめへ付けられる鉄環、焼き鏝の刻印、
体毛の脱毛といった肉体改造は、<十字架の磔刑>という自然な肉体への過度の損傷と同様で、
イエス・キリストを<模倣・追従・隷属>する信仰にあっての同体験としてあれば、
激烈な苦痛を通しての<神の認知>ということにほかならず、そのありようを神と化する、ということになる。
この前提は、あくまで、<精神>と<肉体>は相反する、という<二元論>においてのことであって、
<サディズム・マゾヒズム>を始め、<相反と止揚>の<正・反・合の弁証法>として理解できるものは、
キリスト教思想の西洋概念として、明治時代以降に導入されたもの、すべてに言えることにある。
それはまた、<キリスト教思想の西洋概念>を根拠として、意識であろうとそうでなかろうと、
近代化に始まり、先進国へ追いつくために、<模倣・追従・隷属>を行わざるを得ないところに、
明治時代から現在に至るまでの<日本>のありようがあらわされていることでもある。
日本民族にあっても、<西洋風の思考の仕方>が可能であることをあらわした振舞いであり、
そうした先達の振舞いをそれを手本や模範として、それに続く者が振舞い、
その振舞いを見つめる更なる世代が手本や模範としていく、世襲の連鎖としてあることである、
その<振舞い>が<規範>ともなれば、<伝統>の形成でしかない、そして、
その<伝統>が民族の<自主・自立・独立心>を脆弱とさせることにあるとしたら、それは、問題になる。
そこで、<加虐者は征服の証しを女体に残す>である。
<加虐者>は、<女>を我が物とするために、<征服の証し>を<女>の肉体へ刻むというのである、
この<征服の証し>とは、後段の<剃毛の儀式>のことであるが、
<剃毛>とは、この場合、<征服>と称されるほどのことであるから、
<女>にとって羞恥の割れめを覆い隠す陰毛は、羞恥の自尊心としてあれば、
その陰毛が剃り上げられることが想起される。
それは、もはや、羞恥と屈辱に極まって泣く以外にないことにあるが、
すでに、性的官能の気持ち良さに舞い上げられている肉体の触覚には、
鋭利な刃物の感触は、そこが性感帯であれば、尚更に快感となることにあり、
剃り上げられる度に、荒い吐息を震わせて応えさせることになることが、
<やるせないすすり泣きと荒い吐息が ひと剃りごとにふるえる>である。
これに対して、<生唾を燕下する加虐者の喉に つめたい汗がひとしずくつたう>は、
極度に興奮して顔面を紅潮させている、<加虐者>にあっては、
陰毛を剃り上げる所作に緊張することは、生唾を呑ませ、汗のしずくを冷たくさえ感じさせるものとなる。
そして、<惨劇はクライマックスをむかえたのだ>ということになるが、
<惨劇>とは、これまで行われてきたことで、その成り行きをまとめると、
縄で縛り上げられて囚われた<女>は、<加虐者>から、
身に着けた下着一切をハサミで切り落とされながら、股間へ掛けられた縄の縛めを引き絞られたりされて、
その自意識は、羞恥と嫌悪からすすり泣かせるが、性的官能を燃え立たせられていくことをされて、
全裸にされた緊縛姿のまま、陰毛を剃り上げられた身上にされる、という<結末>となることである。
そして、これが<結末>でないことが<終焉なき悪夢>とされる、最終の表現となる。
まず、<いく度 剃毛の儀式をおこなえば 解き放たれるのであろうか
だが、屈辱の痕跡はもういやすことができない
隷属が歓びとなる日まで 加虐者はあくことなき責め苦を加える>である。
<いく度 剃毛の儀式をおこなえば 解き放たれるのであろうか>ということは、
剃毛するためには、陰毛が生え揃っていなければできないことであるから、
<いく度>と表現されることは、<儀式>の繰り返される期間は、相当に長い期間となることにある、
それであっても、解き放たれるかどうかはわからない、という身上であるとされているから、
<結末>がないことが暗示されている。
仮に解き放たれたとしても、<だが、屈辱の痕跡はもういやすことができない>とある、
<屈辱の痕跡>は、陰毛が剃り上げられて剥き出しとされた、
<女>の割れめの箇所そのものと見るよりは、
<剃毛の行為>という屈辱の心境を癒せないと言っていることは、
陰毛なら、時間の問題で生え揃うことにある、
つまり、何度、陰毛を剃り上げられても、屈辱の心境を癒せないということになる。
従って、<隷属が歓びとなる日まで 加虐者はあくことなき責め苦を加える>というのは、
<屈辱の心境>を<嫌悪>ではなく、<歓び>とすることのできる<隷属>があらわされるまで、
つまり、<女>が<マゾヒスト>の自覚に至るまで、
<加虐者>は、<結末>のない<責め苦>、<被虐の状態>に晒し続けるということである、
すなわち、<拷問>の状態に置かれるということである。
これが、<マゾヒスト>であることの自白を強要する<拷問>であることは、
<弛緩しようとする肉体をはげましながら
さめることのない悪夢に 女はたえる………>と締め括られることにある。
<弛緩しようとする肉体をはげましながら>とあるのは、
<責め苦>に晒されながら、燃え盛って<絶頂感>へ至ることのできない<女体>である、
高ぶらされても、責められれば、<弛緩しようとする肉体>を励ます以外にないことは、
<女>は、<マゾヒスト>であることの自覚に目覚めないことがあらわされているからこそ、
<さめることのない悪夢に 女はたえる………>となることである。
この文脈の展開において、実に、<悪夢>は、ふたつの意義で理解可能なものとさせている。
ひとつは、<女>を主人公として、<女>が見る<悪夢>ということで、
この場合、<女>は、<マゾヒズム>に目覚めることがないので、
それは、性的官能を高ぶらせるばかりの奇怪な<終焉なき悪夢>ということなる。
もうひとつは、作者が<サディズム・マゾヒズム>の論理に従っていれば、
<マゾヒズム>に目覚めることのない<女>を描くことは<矛盾>しているということがあり、
その<矛盾>は、この詩文自体の不自然さこそが<悪夢>を象徴していて、
それが<終焉>がないことだとしたら、何かが<比喩>されていることだと思わせることである。
そもそも、<女>と<加虐者>の人間関係はどのようにあるかという設定が明示されていないことは、
両者の表現する行為の抽象性をかもし出させていることにある。
ここに、この詩文が単なる<エロな添え書き>ではない、
という<謎>が秘められていることだとしたら、
<エロな添え書き>は、その<見栄え>である<猥褻>表現を通して、
<内実>の重要な<事柄>を伝達しようとしているということがある、と考えられるのである。
以下は、その観点から詩文が解釈されたものである。


まず、<女>を<日本>、<加虐者>を<西洋>と見ることであるが、
この<象徴>が可能であるのは、すでに、<物語>の体裁として解釈したときに、
詩文が<サディズム・マゾヒズム>による、
<加虐・被虐の状態>を表現していると読めることにある。
<サディズム・マゾヒズム>は<西洋思想>であるから、
それが行使され具現化される性的行為となれば、
主人公の<女>が日本女性であれば、<日本思想>となり、
対する<加虐者>は、<西洋思想>という<比喩>にあることは考えられる。
では、<日本思想>が<西洋思想>の加虐にあって被虐に晒される、とはどういうことなのだろうか。
最も容易に想起されるのは、大東亜戦争の敗戦によって、被占領下へ置かれた状況ということであるが、
この場合は、最初の<ぐいぐいと食いこむ 女芯に食いこむ淫縄に嗚咽がもれる>とあることにおいて、
<女芯>は日本の本体である<民族意識>へ、ぐいぐいと食い込まされるほど、
次から次へと導入される<西洋思想>の学術は、嗚咽をもらさせるほど容赦のないものであったが、
<淫縄>とあるように、それは、先端の科学思想と新しい技術の導入という、
みだらがましくも快いことでもあったと見れば、<文明開化期の明治時代>の状況と見ることができる。
これは、<鋭利なハサミが無言の脅迫を示す>という文脈へ受け継がれて明瞭となることは、
<鋭利なハサミ>が<先鋭な先端の西洋思想>であれば、当時の状況を考えると、
<無言の脅迫>とは、展開されて大きな利潤を上げていた、<西洋の植民地政策>と読めることにある。
そこで、<逃れる術を封じられた獲物は 抗いをあきらめ 時が過ぎることだけを願う>とあるのは、
<日本思想>が<西洋思想>へ並ぶ<近代化>を成し遂げることができなければ、
<西洋思想>の植民地とされるだけにある、
という<逃れる術を封じられた獲物>状態にある以上、抵抗することは諦めて、
<時が過ぎることだけを願う>ように、<西洋思想>の導入に遮二無二なる以外になかったとなる、
国家の<脱亜入欧><富国強兵>の政策の実施があったことである。
ここから、<西洋思想>に対する<模倣・追従>が始まることであるが、
この<姿勢>が遮二無二なるあまりに、<女>を晒させた状況は、
<だが 過ぎゆく時が与えたものは 屈辱に歓びを見い出すさかしまな世界だった>とあるように、
<西洋思想>が生んだ<学術>を導入すれば導入するだけ、
<模倣・追従>へ無我夢中になるということは、
<日本思想>が生んだ思想と技術が排除されていくという<屈辱>にあることであった、
しかし、先端の科学思想と技術は、<脱亜入欧><富国強兵>の実現へ向かわせた、<歓び>だった。
これを<さかしまな世界>としていることは、<倒錯>している価値観は、
尋常で自然なありようではない以上、その異常と不自然がもらたす、危険が暗示されていることになる。
<ひきしぼられた快楽地帯からあふれる果汁を 貪欲に吸いつくす責め縄!>とは、
<西洋思想>の重圧に、責められようにして邁進している、<脱亜入欧><富国強兵>は、
<歓び>が生み出す所産、<快楽地帯からあふれる果汁>、つまり、<日本の幸福>さえも、
相手へ<模倣・追従>することで、相手によって貪欲に吸いつくされしまうというほど、
いまや、<日本思想>は、政治・経済・軍事・教育・医学・建築・芸術・風俗の何から何まで、
<表現・主義・運動・思潮>において、<西洋思想>を根拠としないものはない、
とさえ見なせるような状況にまで至ったことが示される。
こうして、<甘い敗北に酔いはじめた女体があやしく揺れ始める………>のであるが、
<甘い敗北>とは、<西洋思想>へ<模倣・追従>し尽くすことは、
本来の<日本思想>を屈服させられた、<敗北>には違いないことではあるが、
それによって、<大東亜共栄圏>という、
新たな<甘い>快感に酔い始めることを可能とさせたことである状況が示唆される。
<女体>、すなわち、<日本の国体>は、
<模倣・追従>する相手を<敵国>とした、大胆な戦争状態へ向かわせたことであった、
それは、<あやしく揺れ始める>という、甘美な愉悦の自己陶酔へ置かれることだった。
従って、<切り裂かれた布地の最後のひと切れが 畳に落ちる
と同時に 女の誇りも無残に抹殺される>とあることは、
<布地>とは、<模倣・追従>してきた<西洋思想>と読めることは、
日本が敵国となった西洋と戦争する経過は、局地的に敗戦していく度に、
それまでに身にまとってきた<西洋思想>を切り裂かれていくことであることは、
自前のものとしたつもりの<西洋思想>が戦略・戦術・戦闘で勝利を導かなかったのであるから、
<布地の最後のひと切れが 畳に落ちる>とは、<全裸>にさせられたということで、
つまり、<民族本来のありよう>を眼前とさせられた、ということになる。
しかも、<女の誇りも無残に抹殺される>とあるのは、
<模倣・追従>してきた<西洋思想>が<日本思想>よりも、優越にあったことは、
国土は、主要都市への空襲に晒されて、多数の民間人が殺傷されたばかりでなく、
広島と長崎に、先端科学思想と技術の粋である、原子爆弾を二種類も投下されて、
凄惨極まりない状態にされた国体は、
<女の誇り>、<日本民族の自尊心>をも、<無残に抹殺される>のであった、
無条件降伏による戦争の終結、西洋の支配下になる、被占領国家となる状況である。
次にくる、<呪縛された女体は 蹂躙を待ち望み始めた………>とは、
<呪縛された女体>は、占領国のひとつである、アメリカ合衆国の統治下へ置かれたありさまで、
アメリカ合衆国が中心となって行われた<GHQ 連合国最高司令官総司令部>の統治は、
日本が今後戦争をもたらす脅威となることのないように、平和を目的とした民主主義を推進させたが、
そこには、<戦争を罪悪とする認識><大東亜戦争をもたらした日本民族思想の否定>という条件があり、
<アメリカによって形作られた政治・経済・文化>を模範として、
<西洋思想>へ<模倣・追従>することが奨励されることにあった。
このようにして隷属させられるように取り扱われる、<日本思想>としてあれば、
日本がいずれは復興を遂げて、敵国並みとなるためには、
相手へ<模倣・追従>するだけでは不充分であり、真の<隷属>をあらわすように、
<蹂躙を待ち望み始める>ことが必要不可欠とされたと解釈できることに至れば、
<蹂躙>とは、<GHQ>による<占領政策>があらわされていることになる。
この<西洋思想>によって支配されるありように、<恥辱>を感じさせられることだとしても、
<恥辱が愉悦を呼び 愉悦がさらなる恥辱を呼ぶ>ということがあらわす事柄は、
<恥辱>のありようがあってこそ、<愉悦>という<経済復興>がもたらされ、
<愉悦>が<高度経済成長>へと向かうことにあれば、尚更、<自立ができない>という<恥辱>である。
この<日本思想>として<自立ができない>という意識は、
<文明開化期の明治時代>に始まった<意識>であるが、
大東亜戦争後、決定的とされる、<日本思想>の世襲としてあらわされるものであることは、
<和製・何々表現・主義・運動・思潮>と称されることの隆盛を見れば、
充分に理解のできることにある。
学術は、同位に意識することはなく、<西洋思想>を上位として、
常に下位に位置して、上位に規範と評価を仰いで、模倣・追従・隷属をあらわすものとなり、
<日本思想>を掲げる者を<右翼>、<西洋思想>を掲げる者を<左翼>と位置付けて、
誠にわかりやすい<二元論>の相反・対立・拮抗を<民族意識>の代替として、
<戦後教育>されるありようとなった。
従って、<加虐者は征服の証しを女体に残す>は、
そうした<GHQ>の<占領政策>が効果を上げたものであることがあらわされていると読める。
だが、<被虐>に晒され続ける<日本思想>が当然に消滅したわけではないことは、
<日本思想>の<本来のありよう>は、まさに、
縄で縛り上げられて囚われた<女>は、<加虐者>から、
身に着けた下着一切をハサミで切り落とされながら、股間へ掛けられた縄の縛めを引き絞られたりされて、
その自意識は、嫌悪からすすり泣かせるが、性的官能を燃え立たせられていくことをされて、
全裸にされた緊縛姿のまま、陰毛を剃り上げられた身上にされる、<状況>へ置かれたことこそが、
<本来のありよう>である、<民族の因習>を如実にさせる、ということを導き出すからである、
それが予兆されていることが、次の文脈から始まる事柄に読むことができる。
<西洋思想>は、<日本思想>の<陰部=恥部>をさらけ出させるまでにあることは、
<やるせないすすり泣きと荒い吐息が ひと剃りごとにふるえる>とされるが、
<日本思想>の<陰部=恥部>とは、
<他の民族の思想へ模倣・追従・隷属をあらわすことを身上とする>というもので、
<日本思想>は、これまでの歴史において、
<西洋思想>の前には、<中国思想>にあったことも、想起される事柄としてある。
<自立ができない><日本思想>、
それは、現代の日本の若者が<自立ができない>と非難したところで、
説得力をまるで持たない言い分となるのは、
<内実>は<見栄え>によって隠されるから<内実>である以上、
歴史的に<自立ができない>世襲にあるという<内実>は、
みずからも、暗に知るところがあるからである。
従って、<日本思想>が自立することができるか否か、という問題は、
重大かつ重要な事柄ではあるが、<内実>に自立していようといまいと、
<見栄え>となる<経済成長>が外貨を稼ぐことであれば、優先される事柄は、
国体が<貧困>にある以上、<富国>となることであるのは、火急に必要とされる状況としてあった。
<やるせないすすり泣き>とは、<致し方なく行っていること>から生ずる、<悲哀>であり、
<荒い吐息>には、<高度経済成長>へ邁進する<意気込み>があらわされている。
<ひと剃りごとに>は、<悲哀>や<意気込み>がどうのようなものであったとしても、
時間の経過は、<日本思想>が<自立ができない>ことを<ふるえる>として、
<陰部=恥部>があらわとされていくことが示唆される。
隷属的となる<日本の女>がさらけだす<陰部=恥部>であれば、
<加虐者>も生唾を呑むくらいに興奮しながら興味を抱くところで、
<生唾を燕下する加虐者の喉に つめたい汗がひとしずくつたう>は、
さらけだされた<陰部=恥部>が陵辱されるのを待つばかりにあるとされるのは、
<惨劇はクライマックスをむかえたのだ>と結論されるところにある。
<つめたい汗がひとしずくつたう>は、我が物としようとする、興奮の極みにあっては、
<つたい汗>の<ひとしずく>という<冷徹な強姦の意思>があらわされていることは、
<日本思想>が<模倣・追従・隷属>にある、
<西洋思想>の<マゾヒスト>そのものに生まれ変わって、
こうして行われた<惨劇>の<クライマックス>は、
<強姦>という、<日本思想>は<西洋思想>の<属性>となる宿命を物語るのである。
だが、作者にある、<一縷の希望>は、この状況が<致し方なく行っていること>であれば、
それは<悪夢>、せめて、<終焉なき悪夢>であって欲しいということである、
それが、最後の文脈にあらわされていることである、
<いく度 剃毛の儀式をおこなえば 解き放たれるのであろうか
だが、屈辱の痕跡はもういやすことができない
隷属が歓びとなる日まで 加虐者はあくことなき責め苦を加える
弛緩しようとする肉体をはげましながら
さめることのない悪夢に 女はたえる………>。
作者不詳の象徴詩、『終焉なき悪夢』は、このような解釈を可能とさせるものである、
言い換えれば、<文明開化期の明治時代>以降の日本にあって、
<サディズム・マゾヒズム>、所謂、<SM>と称されてあらわされた<エロな表現>、
文学・絵画・写真・漫画・映画・アニメーション・見世物等々のすべての表現は、
<西洋思想>へ<日本思想>が<模倣・追従・隷属>するありようの<比喩>として、
解釈が可能である、ということが示唆されるということである。
ただの<エロな添え書き>に過ぎないものに対して、そのような解釈は、
ただの深読みだ、ただの穿ち過ぎだ、ただのこじつけだ、まったくの詭弁に過ぎない、
とお感じになられる方もいらっしゃるはずである。
実は、私も同様にあったが、<某私立大学の英文科の先生>とお会いしてからは、
異なった見方もあるということを教えられた、<先生>は、次のように言われた、
<難解な言語表現の解釈について、多義が生ずるということがあるとしたら、
猥褻な言語表現においても、同様なことがあり得ても、不思議は、当然にない。
猥褻という性的官能を焚き付けられる状態にあって、
性的官能の方が<生殖>という優先する意識として、火急に知覚されることにある以上、
言語による概念的思考が整合性のある論理を結びにくい、という状況は生まれる。
言語は、可能な限り、多義・多様性を表現できることにあることが存在理由であるから、
猥褻な言語表現において、多義性のあることは、むしろ、知覚を広げることにさえある。
世界に数多ある、ポルノグラフィの多義・多様な文学表現は、その精華と言えることだ>。
今回の三十七枚からなるモノクロームの組写真は、映像という表現においても、
言語表現と同様の多義が生ずることをあらわせるかもしれない、という意図から、
<先生>が夫人と共に表現された実演を我々が写真撮影したものである、
従って、夫人の顔立ちができるだけ明確とならないように、撮影の配慮が成されている。
『終焉なき悪夢』という象徴詩も、<先生>が用意されたもので、
この<シナリオ>で組写真を製作して欲しい、という要望によるものである。
以下に掲載する手記も、同様に、<先生>から提出を受けたもので、原文のままにある。


イギリスの偉大な詩人にして画家のウィリアム・ブレイクは、住まいにおいて、
妻のキャサリンと共に、アダムとイブさながらに全裸であった、と伝えられている、
私も、住まいにおいて、妻の典子と全裸でいることもあるが、そうでない場合も、
欠くことのできないのは、日本古来の伝統である、縄による緊縛がある、ということである、
私にも、子供のないことが夫婦関係をいっそう緊密にさせていることかもしれない。
私は、妻を縄で縛ることをするのである、それも、妻は、たいていは、
一糸もつけない、ネックレスやイヤリングさえ付けない、生まれたままの全裸にある。
しかし、女性が男性から縄で緊縛されるということがあるからといって、
私が暴君であり、妻は奴隷であるという関係でもないし、
私がサディストであり、妻はマゾヒストであるという関係でもない、
人間が人間を縄で縛り上げるということをすれば、加虐・被虐の様相があらわされることにあるが、
私と妻は、私たちのありようをサディズム・マゾヒズムとは考えていない、
それが学術としてあることだとしても、私も、学術の徒であることを否定はできないが、
私も妻も、生まれたままの全裸となれば、ましてや、縄による緊縛行為にあることであれば、
その学説の無意味を認識するところにあるからである。
サディズム・マゾヒズムという学説へ依拠することによって、
歪曲・倒錯させられている状況へ導かれていることが日本の矛盾としてあることは、
現代の文学表現において、先端の西洋思想へ依拠・敷衍しなければ表現できないでいる、
自立できない精神性ということによくあらわれている。
それは、西洋思想へ模倣・追従し続けているという<欧化主義>といって差し支えない、
明治時代以来の根深さのあることであれば、世襲と言えるように身に着いてしまったことであるから、
気づくことさえ容易でないことにあれば、変革するなど不可能とさえ言えることなのかもしれない。
だが、そうではないこともあり得ることを誰かが表現しなければ、闇雲に突き進むだけのことにある、
その先に待ち構えていることは、他者への隷属の意識なくして、
みずからの意思をあらわして行動できない日本人の大多数になることだとしたら、
子供のない私たちにあっても、
矛盾・軋轢が社会の異常をあらわすばかりのことになる状況へ至ることを危惧するばかりである。
今回、雑誌社から機会を与えられて、その編集長が教え子であったことも重なり、
私の表現が掲載される幸運を得ることになったが、妻に、この企画を話したところ、
新しい試みであれば、誰かがやらなければなりませんわね、と承知してくれたことである。
私たち夫婦のつたない表現にあるが、新しい試みとして、公然とさせる所以である。
表題は、『終焉なき悪夢』とある、
終焉なき悪夢とは、 ここに掲載される私たちの表現がサディズム・マゾヒズムとして映り続けているかぎりは、
自立できない精神にある日本の意識は、悪夢を見続けているという意味である。
たいそうな意図をあらわしているように聞こえるが、私たちも、
夫婦の秘めごとをさらけ出すのであるから、そのぐらいの覚悟にあるということである。
象徴詩として書かれた文章については、編集長の解説があるので、
意義の多義については、そちらを参照して戴くとして、
ここでは、緊縛の行為について記すことにする。
私が緊縛の行為に興味を持ったのは、十五歳のときに古本屋で見た、
『裏窓』という雑誌が始めてであった、それから、実際にひとを縛ってみようと思い立ったのは、
遥かに後のことで、妻の典子が生徒であった女子高で教えていた、二十八歳の頃であった、
実は、不謹慎にも、典子を初めて見たとき、このような美少女であれば、
美しい全裸に晒して、心のこもった縄で縛り上げてみたい、と感じさせられたことだった。
それまでに、私は、緊縛の行為に関する知識を受験生並みに猛勉強して、
縛り方についても独善的に習得していたが、緊縛の行為というのは、知れば知るだけ、
奥の深いことがわかるばかりで、なまじの素人では、実際の無理が多分にあることだった。
だが、言わば、研究に十年以上を費やしたとでも言うように、典子が決心を固めさせた。
しかし、小説や映画ではないから、高校教師が女生徒と猥褻関係を持ったとなれば、社会事件である、
それ以上に、当人から直裁に承諾の得られるようなことでは、まったくなかった。
何故ならば、緊縛の行為というのは、SMでしかなかったからである、
サディズム・マゾヒズムは、異常性愛の世界であり、良識のある人間の世界ではなかった。
私が緊縛の行為を研究して見い出した、縄による日本の緊縛は、SMではない、
ということがあっても、SMを常識的に説明することさえ困難な状況にあるというのに、
どうして、ひとを縄で縛るという加虐・被虐の残酷さをそのSMではないと説明できるのか。
だが、その答えも、典子が出してくれたことであったのだ。
典子は、私が助教授の職を得た、大学へ入学してきたのである、
私が彼女とキャンパスで出会ったとき、すでに二十一歳になっていたが、
美少女は、いや増しの美しさへ成長して、全身が総毛立つ感動で、
魂が天上へ昇っていってしまう、虚脱さえ感じられたことだった、
しかも、彼女は私のことを覚えていてくれて、お久しぶりです、と言って微笑んだのである、
これ以上の幸福感はあり得ない、というのぼせ上がった思いは、
彼女をお茶へ誘うという大胆な振舞いとさせたことが交際の始まりであった。
だが、交際中、私は、彼女を縛ることはなかった、
ただ、専門の英米文学の話題以外に、縄による緊縛についての話を付け足しただけだった、
彼女には、嫌悪されるかもしれないと思ったことであったが、
いずれは、話すことになるというほど、私には、真剣な事柄であり、真剣な相手であった。
私は、縄による緊縛は、愛による行為であるなどとは、ひと言も語らなかったが、
典子に示す嫌悪はなかった、真剣さを感じて、私を信頼してくれたことだった。
そして、結婚して、初夜に、初縄を打ったのであったが、
生まれたばかりの全裸になって、されるがままになるだけの彼女だったが、
縛り、結び、繋ぎ、拘束する、縄掛けが官能の絶頂まで導いたことは、確かだった。
それから、今日に至るまで、縄による緊縛は、夫婦の絆としてあったことだった。
縄による日本の緊縛には、当然のことながら、日本人男性、日本人女性、
それから、緊縛の場となる、日本様式の部屋が必要である。
この日本様式の部屋というのは、日本家屋であれば申し分ないが、
柱があって欄間のある造りは最低条件で、
床の間が付いていれば、更に良しとすることであった。
昨今、都会では、日本家屋の住宅がまとめて取り潰されて、
大きなビル建築のマンションへ建て替えられている傾向にあるが、
西洋様式では、被縛者を晒して、縛り、結び、繋ぐ箇所というものが大してないから、
日本家屋が消滅していけば、それだけ、縄による緊縛も、容易ではなくなるだろう。
紙と木と漆喰の日本家屋が時代遅れとされるならば、
縄文時代より連綿と継承される縄は、古臭い因習的ものと見なされるしかない、
縄による緊縛が縄掛けという、思想・様式・技術を必要不可欠なものとしてある以上、
近代的な機械による技術に比べれば、前近代的な手による技術にあるからである。
編集部が用意してくれたのは、東京の湯島にある、連れ込み旅館であった。
その旅館は、写真撮影のために、頻繁に利用している場所であると聞かされたが、
しっかりとした日本間であったことは、成り行きに期待を持たせることであった。
撮影スタッフは、編集長とカメラマンの男性だけであったが、
典子は、さすがに、緊縛のモデルになることなど、初めての経験であったので、
立ち尽くしたまま、余りの緊張から、顔立ちを蒼ざめたくらいにさせていた。
それもそのはずで、私から行われることを聞かされたとき、
そこまですべきことなのですか、と強い反論が出たことだった。
私の考えと行動に反対するということをまずしない妻だったが、
シュミーズとパンティだけの下着姿を麻縄で縛り上げられて、鴨居から吊るされたまま、
全裸姿になるまで、その下着をハサミで切り刻まれて取り去られていく、
さらに、あらわとされた陰毛を剃り上げられて、剥き晒しとされる、
という普通の女性であれば、気絶しかねない、嫌悪と羞恥と屈辱の見世物であった。
だが、そこまでして行うことの私の意図には、次のような見解があった。
<女>は、日本女性であり、
その<女>は、シュミーズとパンティ、という<西洋思想>の下着をまとい、
みずからの羞恥を隠すようにしてある、
<女>には、因習をあらわす、日本古来の縄が掛けられていて、身動きはままならない、
<西洋思想>の下着は、西洋に生まれた西洋バサミによって切り裂かれていく、
一糸も着けない全裸にまで晒されて、隠しようのない肉体をさらけ出させたとき、
のぞかせる、<女>の羞恥の箇所を覆い隠す、自然な密生をあらわす恥毛は、
西洋剃刀によって剃り上げられるに及んで、ありのままに剥き晒された肉体として示される、
その比喩があらわす、<日本>とは、剥ぎ取られた<西洋思想>の姿態にあっては、
<女>の肉体へ掛けられたままにある<因習>こそが、
知欲と官能の結び付き、という本来のありようとしてある、
自然であることの人間の喜悦が示される、
縄による日本の緊縛は、そのように、自然認識を作り出すものとしてある、<性表現>である。
それこそは、君がこよなく理解していることであるから、
君がこよなくあらわすことができることにある、と典子に説明したことだった。
彼女は、顔立ちを火照らせて、一大事ですわね、とはにかみながら答えるばかりだった、
もとより、尋常ではない夫婦関係にあったことであれば、否定のしようなどなかったのだ。
典子は、用意された下着を手渡され、着替えのために、浴室へ消えていった。
編集長とカメラマンは、撮影の準備のために余念がなかったが、
彼女がおずおずと姿をあらわしたとき、顔立ちを俯き加減にさせた、その下着姿を見るや、
思わず深い溜め息をもらして、立ち尽くしながら見つめ続けるのだった。
艶やかな黒髪を柔らかく両肩へ波打たせ、大きな両眼の綺麗な顔立ちを真顔にさせて、
純白の絹地のシュミーズにパンティだけという悩ましい下着姿、
のぞかせる雪白の柔肌は、艶かしい首筋に胸元、ほっそりとした両腕に両手、
しなやかに伸びた両脚は、艶やかな太腿と華奢な両足首を際立たせて、
子供を生んだ経験のない、二十八歳になる人妻の優美な姿態を匂い立たせているのだった。
だが、私の意識には、もはや、麗しい<女>としか映らない存在となっていたことだった。
私が麻縄を見せると、<女>は、ほっそりとした両腕をそろそろと背後へまわさせて、
双方の華奢な手首を重ね合わさせていくのであったが、
顔立ちは、俯かせたままで、垂れ掛かる、波打つ艶やかな黒髪にのぞかせて、
白い両頬を紅潮させているのが窺い知れた。
交錯させた両手首へ、ふた筋とさせた縄頭を当てたとき、
<女>の温かな身体は、震えを帯びていることも、察知できたことだった。
それでも、<女>は、後ろ手に縛られ始めると、健気にも、
美しい顔立ちをしっかりと上げて、胸を張って見せようとさえするのであった、
その思いがわかると、応えるように、私も集中し始めた。
被虐に晒される<女>、縄掛けする男、見守りながら撮影を準備するスタッフ、
四人の男女が集う日本間には、張り詰めた緊張が漂い始めていた。


手首へ巻き付けられていく麻縄は、まるで生き物の蛇のように、するすると動いて、
<女>にとっては、縛られるということがまったく自然なことのように、思われたことであった。
その感覚へ集中するように、両眼を静かに閉じ合わせると、
そうなのだ、縄は、ただの道具に過ぎないが、道具というのは、
使う者と使われる対象によっては、生き物と変わらない動きや働きをするものなのだ、
その命ある道具の息吹をどきどきするような蠱惑として、おまえが意識できることであれば、
おまえと縄とは、相性が良いということだ、と語り掛けられるように感じられることにあった。
道具は、人間のために有用な働きをする目的で、創出されたものである、
縄は、ふたつ以上に分かれるものを結ぶ、縛る、繋ぐということをさせる。
華奢な双方の手首がひとつに束ねられて、後ろ手になった状態に置かれると、
身動きのままならないありさまは、自由の封じ込められた思いをしっかりと伝えてくる、
しかし、縄の縛めがあらわす自然の認識は、官能があらわさせる自然の認識であればこそ、
縄で縛られることが初めての経験でなくても、常習者にあってさえも、
縄が囁き掛ける、どきどきとさせる蠱惑は、常に初々しく、新鮮な感覚を生じさせる、
それは、女としてあることの官能を強く意識させられる、という始まりでもある。
残った縄が身体の前へまわされて、ふたつの乳房の上部へ掛けられていくと、
両腕を左右からしっかりと引き締められることは、
柔肌に圧迫が始まり、布地を通してさえ胸へ伝わってくる麻縄の感触が如実となり、
応ずるように、波立つ官能が心臓を高鳴らせる。
縛者のほかに、みずからへ熱いまなざしを向けている人たちがいる、
<女>は、そのことを強く意識させられと、恥ずかしい下着姿を見つめられているだけでなく、
ままにならない身上にさせられていくありさまを見られることに、たまらぬ羞恥を覚えさせられる。
火照り上がるその思いは、二本目の麻縄が背後へ結ばれたことで、更に煽り立てられる。
身体の前へまわされ縄は、ふたつの乳房の下部へ巻き付けられて締め込まれると、
上下から挟まれた縄で、布地が張り詰めて、胸の豊かさが強調されたのである。
日本の緊縛の妙は、被縛者に必要以上の肉体的苦痛を与えない、という縄掛けにある、
それは、無慈悲な拘束や不条理な拷問を目的としたありようにはないからで、それだけ、
思想・様式・技術が要求され、美と興趣と官能の開放があらわされるものとしてある。
サディズム・マゾヒズムというのは、加虐・被虐の行われる、
虐待という性的官能による西洋精神の表現である。
縄による緊縛というのは、縄で縛るという加虐・被虐の様相が示されることであっても、
美と興趣を現出させる、性的官能による日本精神の表現である。
この相違をサディズム・マゾヒズムへ準じることで混然とさせてしまうこと、
単なる性欲による表現であると曖昧にさせてしまうこと、
ましてや、まったくあらわされることのない宗教性にも関わらず、
江戸時代に隆盛を見た捕縄術の伝統の継承であると倒錯させてしまうことなどは、
縄掛けの思想・様式・技術が小手先でしか見られていないことによるものである。
縄掛けは、縛者の認識が示されるものでしかない、
それに応える被縛者のありようは、被縛の認識が示されるものでしかない。
縄で縛られていくことが<女>にとって、
甘美な不安にざわめく戸惑いを覚えさせるものにあるとしたら、
それは、日常生活では通常にありえない、
身体と向き合わされた意識にあることから始まることである。
後ろ手にされた両手が思うままにならない、という不自由な身上にあって、
その自由は、奪った相手に委ねられて取り扱われる、という自意識を生ませる。
羞恥は、他者を意識して形作られる自尊心である、
他者の存在という意識の距離感覚が羞恥の度合いとなることにある、
羞恥心が希薄であるということは、他者と自己との区分が曖昧であるということである。
従って、その自尊心は、他者の侵入がなく、守られ続けてあるという意識において、
みずからというものが成立するようにしてある、
このみずからの意識とは、存在する他者の意識ということにもなる。
縄による緊縛は、他者の意識が剥ぎ取られたみずからが存在することを導くものである、
それは、官能の所在が意識されることにある。
人間の生存において、七つの官能―視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・第六感・性的官能―は、
対象を得ることによって、それが明確に意識されることであるが、
常時、活動しているものである。
この常時活動している七つの官能が思考活動に及ぼす影響、
そのありようを表現するための言語の組成と概念の形成に関わる問題については、
まだ始まったばかりの考察・研究の段階にあることであるが、
そこから展開される認識が人間進化の次なる段階を示すことは、
まだ、夢想のようなものでしかないが、いずれは至る、認識に違いないことにある。
旧来にある、言語による概念的思考のみを取り出して学問するという方法だけでは、
世界認識の限度があらわとされるという、現代の切迫した、人間事情によることである。
人間が生存活動とする四つの欲求―食欲、知欲、性欲、殺傷欲―は、
人類種の保存と維持にあっては、
際限のないほどに、荒唐無稽なほどに、貪欲にある、というあらわれの問題である。
縄による緊縛は、日本民族という一種族の発想表現であるに過ぎないことにあるが、
その発揮される独自性は、
世界に数多ある民族へ向けての普遍化の嚆矢となるべき存在理由を持っている。
<女>が苦痛ばかりでない縄掛けにあればこそ、知覚できる官能の所在である、
縄の緊縛は、柔肌を圧迫する触覚にあって、性的官能を意識させる、
高ぶらされていく興奮がどのような事態をもたらすものであるか、
その事態に、自尊心は向き合えるのか、という戸惑いを生じさせることにあるのは、
拘束され自由を奪われた意識に置かれているという前提にあるからである、
そこから、性的官能の高ぶりは、快感の絶頂という甘美な幸福の予感を孕んで、
他者のないみずからを如実に意識させることが生まれていく。
縄による緊縛が、不自由と自由、拘束と開放、苦痛と歓喜、他者と自己といった、
相反と矛盾の同一性をもって表現されるものであることは、特徴的なことである。
<女>が思わず落としたまなざしに、ふたつの乳房の膨らみが、
見た目以上に大きく感じられたことがあったとしても、不思議ではなかった。
シュミーズとパンティだけという下着姿を後ろ手に縛られて、
胸縄を掛けられた姿態があらわとさせていることは、厳然とした、拘束された身上であり、
それを他人から見つめられ続けることは、気が気ではないと思わせることにあれば、
縛者に縄尻を取られ、囚人のように、引き立てられるようにされたことは、
向き合う相手は、結局はみずからしかない、という思いを固めさせられる振舞いともなることだった。
欄間のある鴨居の下まで来させられると、敷居の上へ立ち尽くしたままにされた。
その姿態が浮かび上がるように、まばゆい照明が向けられて、
羞恥に俯き加減とさせている顔立ちへ垂れ掛かる、艶やかに波打つ黒髪から、
しなやかに伸ばさせた綺麗な両脚の足先に至るまでをじっくりと眺めまわされるのだった。
晒しものにされているのだという思いが湧き上がると、柔肌を圧迫してくる、
あらゆる箇所の麻縄の拘束感が胸を激しく高鳴らせて熱いものへと変わらせていく。
その高鳴りがやるせなく疼くものまでを股間に感じさせられては、
その羞恥は、狼狽さえ覚えさせるものとなるのであった。
<女>のまなざしは、思わず縛者の方へ投げ掛けられていた、
その心もとない表情に対して、縛者は、しっかりとうなずいてみせるだけだった。
<女>は、意を決しなければならないみずから、というものを意識する以外になかった、
悩ましい下着姿を麻縄で緊縛された<女>は、
その美しい顔立ちをしっかりと見せ付けるようにもたげさせたのだった。
それから、縛者は、新たな麻縄を手にすると<女>へ近寄った。
ほっそりとした首筋へ縄頭が掛けられると左右へ振り分けられて、首元で結ばれた。
だらりと前へ垂らされた麻縄は、上下の胸縄へ絡められながら結ばれていくと、
ふたつの乳房は、布地をせり出させるような具合にまでなった。
縛者の手先は、ためらいもなく、残りの縄を腹部を伝わせ下ろさせていったが、
<女>は、本能的に、しなやかな両脚を閉じ合わせて、艶やかな太腿を締めるのだった。
だが、縛者の両手が優しく押し開くようにすれば、
されるがままに、ずるずると綺麗な両脚を左右へ割り裂いていく。
股間へもぐらされた縄は、背後へとたくし上げられ、背中で結ばれた縄へ通されると、
一気に欄間へ掛けられて、縄留めがされていった。
こうして施された股縄であった。
股縄は、<女>が身体へ掛けられる、多種多様にある縄掛けのなかで、
嫌らしさとおぞましさのありようを最も鋭敏に意識させられるものとしてあったが、
そのありさまが最も喜びへ導かれるものとなって、感じさせられることでもあった。
縄による日本の緊縛にある、相対矛盾する事柄をひとつにさせるという両義性、
この両義性は、縄の形状があらわす螺旋のごとくに、
ふたつのものをねじり合わせて昇華させる、という同一性の実現であって、
<相反と止揚>の<正・反・合の弁証法>とは異なるものとしてある、
存在することの自然過程としての成果と言うべきものとしてある、
同じような縄掛けが施され、同じように官能が高ぶらされることだとしても、
向かわせられる被縛者の認識は相違するものとなる。
頭上の欄間へ掛けられた麻縄は、ぴんと張り詰められたことで、
パンティを着けてはいたものの、たくし上がったシュミーズの薄い布地程度では、
女の割れめという敏感な箇所を責め立てられる、刺激の防壁とはならなかったことは、
<女>を一気に寡黙へ落とさせたことであらわされた。
それと言うのは、立ち尽くす<女>が緊縛された姿態の踵を付くことをすれば、
股縄は、恥丘を盛り上げて、割れめへ埋没するほどに食い込むという、
仕掛けにされていたことからであった。
両脚を動かすことはおろか、身悶えすることさえも封じられた<女>にとっては、
晒された緊縛のあられもない姿をまわりから見つめ続けられて、
羞恥を煽り立てられるばかりでは、みずからへ閉じこもるほかなかったことだった。
日本の<女>が日本民族の創始以来より継承されている、
縄と縄の結びという思想の具現化である縄掛けによって、
後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、通された股縄で欄間から繋がれて、
自由を奪われた拘束にある、縄による日本の緊縛というありさまがそこに出来上がった。
日本の<女>は、艶やかな黒髪を波打たせる西洋風の髪型に整え、
顔立ちに西洋風の化粧を施し、純白の絹のシュミーズとパンティという、
麗しい西洋風の下着で自尊心の箇所を隠させている姿態にあるのだった。
明治の文明開化より現在に至るまで、西洋思想へ模倣・追従・隷属を続ける、
日本民族のありようの典型があらわされていると言えることにある。
しかし、実際は、<典型>と言うほどの説得力があることではないことは、
<女>を被虐に晒す<男>も、
髷を結って、羽織袴をはいて、脇差をさしているという姿にあるわけではなく、
西洋風の髪型をして、西洋風の下着とシャツをズボンを身に着けていることにある、
また、それを見守るスタッフ、引いては、日本の読者に至っても同様にある、
つまり、<見栄え>は<見栄え>に過ぎなくて、<内実>が問題となることは、言うまでもない。
<内実>とは、因習として継承されて来ている、民族としてあることの自意識である。
西洋風の下着姿を縄で緊縛された日本の<女>は、
その民族の自意識を被虐に晒されるという切迫した<状況>の具現としてあるのだ。
鋭い光を反射させる西洋ハサミを手にして、
縛者は、<女>の姿態の間近へ立った。
<女>は、一瞥するまなざしを投げ掛けただけで、美しい顔立ちをそむけるのだった。
縛者の手は、片方のシュミーズの肩紐をつまみ、ハサミを入れようとしていた、
焚かれるまばゆいフラッシュ、切られるシャッターの金属音、
これがグラビアの表紙を飾った写真であり、撮影の始まりであった。
切り落とされた右の肩紐の次は、左の胸の布地をつままれていた、
<女>は、鋭利な切っ先を知ると、身動きしまいと懸命になる以外になかったが、
正視はできないと逸らさせる顔立ちへ、艶やかに波打つ黒髪が掛かかった。
ジョキッ、という切り裂かれる音と一緒に、
乳首が飛び出させられるように剥き出しとされたことは、感触で理解できることだった。
縛者の所作のひとつひとつに、
待ち構えるフラッシュとシャッター音は、応えるように繰り返されていく、
それは、興奮を掻き立てずにはおかない、光と音の律動を伝えるものであった。
あられもなく、縄で緊縛された姿態を更にあらわとされて、写真に撮られていく、
<女>にとって、縛者の所作のひとつひとつは、羞恥に顔立ちを火照り上らせ、
高まる緊張は、すくむ思いへ向かわせるばかりにあったが、
後ろ手の姿態を硬直とさせて、両足の裏まで付けて踏ん張れば、
欄間から降りて股間へもぐり込まされた麻縄が深く食い込んでいき、
身動きすることは、股間の刺激を増させることだ、と思い知らされることでもあった。
それが分かっていても、同じようにして、ジョキッ、ともうひとつの乳首を覆う布地も、
剥き出させるように切り取られると、思わず、踏ん張ってしまうのであった。
その繰り返しから、股間より突き上ってくる、切ない疼きを意識させられると、
堪え切れない思いは、ああっ、ああっ、とか弱い声音をもらさせ、首をのけぞらせるのだった。
身悶えせずにはいられず、艶やかな黒髪を打ち振ることをさせるが、少しの甲斐もない。
<女は縄で縛り上げられて、初めて女になる>という表現は、陳腐であるかもしれないが、
女であるからこそ知覚できるということでは、その優美な曲線に包まれた姿態、
ほっそりとした首筋、ふっくらと隆起する乳房、くびれた腰付きと尻の豊かな膨らみ、
女をあらわす深い亀裂のある股間、それらが弾力のある柔らかな肌であらわとさせていることは、
身体のどの箇所においても、縄が掛けやすく馴染むという性質の示されていることにあれば、
<女は、みずからが女であることを知らなくては、女にはならない>ということは、
<女は、女でなくては、成し遂げることができない>、
という性的官能の知覚の可能があることを示唆されている。
もう、どうしてよいか分からないと言うように、
身悶えを始めた<女>は、その扉を開き始めたということにあった。
<男>は、みずからへ夢中になり始めている<女>へ、はっきりとした言葉で促した、
むやみに身体を動かすと、切らなくてもいいところまで切ってしまうぞ。
その言葉に、<女>は、はっとなって、身悶えしまいと懸命になるのであったが、
鋭利な刃物にすくまされる恐怖、剥き出しとされていく不安、
周囲から熱いまなざしで見つめられながら、フラッシュとシャッター音で煽り立てられる羞恥、
それらが撚り合わされて、柔肌を圧迫する縄の拘束感となって股間へ集中してくる、
そのやるせなくも甘い疼きの快感に火照り上がる思い、
まぜこぜにさせられている擾乱を理解するというには、あまりにか弱い意思にあるのだった。
お願いです、もうやめにしてください、と言えれば言いたかった、
だが、一度官能に火が付けば、それは、燃え立ち、煽られ、燃え盛り、
行くところまで行かなければ、収拾をあらわさないという整合性の実現でしかない。
せめて、顔立ちをそらさせて、精一杯の抵抗をあらわすほかなかった、
抵抗、それは、淫らにされて高ぶらされる官能に、たやすく破れてしまうみずからの浅ましさ、
せめて、そうはありたくはない、という<女>の自意識のあらわれであった。
臍のあたりにも穴が開けられ始めると、 懸命に耐える表情の顔立ちは、
みずから、言葉を制して、綺麗な形の唇を真一文字に結ばせる。
だが、わき腹の布地へ入れられたハサミは、穴を開けられる程度のことではなかった、
むしり取られていくことは、絹を引き裂く悲鳴を、いやっ、と鳴り響かせたことだった。
その箇所から、ジョキッ、ジョキッ、と切り裂かれるに及んでは、
<女>に、思わず、やめて、やめて、と懇願させる言葉をもらさせたが、
返答は、まばゆいフラッシュと無慈悲なシャッター音であった。
これは、撮影を目的とした、あくまで真似ごと、あくまで演技ということに違いなかったが、
容赦のない縛者の態度には、<女>も真剣に対応するほかないことであった、
高ぶらされる実直な官能は、真剣さを煽り立てられるばかりのことにあったのだ。
腹部のあたりへまで、ハサミが入れられると、
<女>は、顔立ちを精一杯のけぞらせて拒絶を示したが、
込み上げさせられる官能の疼きとは向かい合わされる以外になかった。
首をのけぞらせたり、身悶えをしたりを繰り返せば繰り返すだけ、
股間へもぐり込まされた麻縄がぐいぐいと食い込んでくるのを意識させられ、
後ろ手に縛られ、上半身をがっちりと固定された緊縛の姿では、それはどうしようもなく、
ただ、突き上げられて興奮させられるままにあることをやるせなく甘美な意識と感じると、
<女>は、されるがままとなることが自然で、あらがうことを不自然だと思うまでになるのだった。
腹部のシュミーズの布地が強引に破り取られると、純白のパンティをのぞかされた、
股間へ通されている、淫らをあらわす縄も、あからさまとされたことだった。
それから、布を切り裂くハサミの音が繰り返され、シュミーズは、散々に切り裂かれて、
緊縛された姿態のあらゆる柔肌が露出され始めた、
柔和な両肩、可愛らしいお臍の腹部、くびれた優美な腰付き、
可憐な乳首をつけた片方の乳房も、上下の縄で突き出させられた隆起をあらわとさせていた。
一度に終われば、或いは、諦めて思いも固まったことかもしれなかった、
だが、まるで楽しむように、執拗になぶられるように、そろそろと柔肌を這いまわられるように、
ズタズタになった布地をじっくりと、少しずつ、じわじわと剥ぎ取られていくことは、
秘めた思いさえもが、次第に次第に、あらわとされていく感じにあったのだ。
<男>の所作が緩慢であれば、それだけ、後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、
股間へ通された縄で吊るされている身体は、
高ぶらされる官能をじわじわと、少しずつ、じっくりと煽り立てられていくことにあって、
みずからの思いではどうにならずに、次第に次第に、変化させられていく身上そのものにあり、、
それを思い知らされるように、次はこれだと言うように、
股間へしっかりと食い込んでいる、麻縄もあらわなパンティを引っ張られると、
唐突に、その縄へ、縛者の指先が掛けられ、
恥丘の肉が恥ずかしく盛り上がるほど、引き絞られるのであった。
どうしてそのようなことまでも、という疑念はすぐさま吹き飛ばされて、
<女>は、ああっ、ああっ、と切ない声音を上げて、首をのけぞらせずにはいられないほど、
股間の苦しさが募ったが、それはまた、滲み出てくるような甘美な疼きをもたらし、
もつれ合うように込み上がってきた快感は、爪先立ちとさせて、耐えさせることでしかないのであった。
優美な腰付きを覆う、純白のパンティの片方へハサミが入れられて、
ジョキッという音とともに切り落とされると、
フラッシュの閃光とシャッターの金属音も執拗に応じた。
<女>は、気を紛らわせることなど、矛盾極まりないありようでしかないというほど、
戸惑うくらいの熱く甘美な疼きが埋没させられている股縄に始まっていることを感じていた、
それは、我知らずに、うごめき、うねり、くねりさせる、
身悶えする姿態で腰付きを振らせることが股間の箇所を麻縄で擦らせることを求めさせたほどのことだった。
敏感な女芽、穴を閉ざす花びら、すぼまる菊門は、女であることの反応をあらわとさせているのだった。
<男>のハサミによって、パンティのもう片方の布地がジョキッと切り裂かれた音は、
女の割れめの柔らかい箇所まで、振動が伝わるくらいに敏感とさせられることに至っていたのだった。
<女>は、熱く甘美に疼く感触を悩ましいくらいに意識させられると、もはや、
爪先立ちになって縄を避けようとするどころか、淫らで浅ましいことだと思いつつも、
両足を畳へ踏ん張らせて、みずから食い込ませることをさせていた。
縄で後ろ手に縛られ、股間へ食い込まれされた股縄で欄間から吊るされて、
縛者の勝手放題に、身に着けている下着を散々に切り裂かれ、
あられもない姿に柔肌を露出されるという、そのような情けない境遇に晒されることが、
高ぶらされる快感の自然な官能であれば、それに従うことこそ、自然にあることだと思えたことだった。
今、下腹部には、食い込まされた縄が辛うじて支えている、パンティの切れ端をのぞくことができたが、
それが残された偽り、みずからを隠させている、単なる見栄えにあるとさえ思えることにあった。
そうした様子をじっと見つめていた、<男>は、、<女>の背後へまわると、
欄間から下りて、尻の亀裂へもぐり込んでいる股縄を引きつかみ、力まかせに引っ張り上げた、
<女>がそうされることを望んでいることを確かとさせるように、
ぐりぐり、ぐりぐり、と割れめへ埋没させるように、力を加えていくのであった。
突き上ってくる、熱く悩ましい甘美な疼きは、ああ〜ん、ああ〜ん、と声を出さずにはおかず、
後ろ手に縛った縄、両腕を締め付けている縄、乳房を突き出すように上下から緊縛している縄、
縄の柔肌を圧迫する拘束感は、ひねられ、ねじられ、よじられて、一体となり、
女の割れめへ埋没させられている、ふた筋の麻縄へ集中させられていくのであった。
縄で縛られて、嬲りものにされて、感じてしまっていることは、事実にあった。
柔肌を覆い隠していたシュミーズは、ズタズタに引き裂かれて剥ぎ取られ、
パンティの切れ端が辛うじて最も恥ずかしい箇所を覆い隠しているばかりになっていた、
しかも、それさえも、淫らがましく深々と食い込まされた縄が支えているありさまであった、
このような浅ましくも情けない姿にさせられて、高ぶる快感の甘美な疼きを感じているのであった、
緊縛された身体に残った最後の布切……
女の自尊心の残滓とも言えるような股間のささやかな覆い……
それを<男>の手が取り去り始めていたが、もう、何をされようとも、
高ぶらされた官能に導かれるところに、羞恥も、屈辱も、後悔もない気がするほどになっているのだった、
この悩ましく高ぶる甘美な快感の疼きに浸されて、行くところまで行きたいと感じさせられているだけだった。
みっともない格好にされているから、甘く痺れるような疼きが女の芯から突き上がり、
縄にがっちりと封じ込められた身体全体へ広がっていくのであって、
縄のがっちりとした厳格な拘束感は、それをしっかりと確かな現実感として伝えているのであった。
取り去られる布切れひとつひとつが喜びへの階段をひとつひとつ昇らせていくように、
一糸も着けない、生まれたままの全裸の姿に晒されることは、
求める喜びは、ありのままになってこそあるように思えることにあった。
これまでに、それこそ、幾百度と縄で縛り上げられたことであったが、
それこそ、幾百度、生まれたままの全裸になって、喜悦を感じさせられたことであったが、
今日の今、まるで、拉致されてきた女が強姦者から取り扱われるように乱暴にされて、
<男>のされるがままに、<女>を剥き出しにされているありさまに、
新たな感覚を呼び覚ます、新鮮な思いを呼び覚ます、不可思議な感覚が感じられることにあった。
それは、当たり前のことだわ、乱暴な加虐者である<男>は、私の信頼する旦那様、
被虐に晒されるか弱い<女>は、その方が思い遣る妻にあることですもの、
<女>が刹那にそう思いをよぎらせたのと同時に、
フラッシュの閃光とシャッターの金属音が浴びせられ、
羞恥を覆う最後の布切れは、これ見よがしに取り去られていったのである。
あらわされた、女の優美な曲線に縁取られた、乳白色の柔肌もまぶしい全裸の姿であった、
艶やかに波打つ黒髪が俯き加減の清楚で美しい顔立ちを覆っていたが、
麻縄の化粧を施された、生まれたままの姿態は、妖しい美しさを匂い立つように発散させていた。
胸縄は、綺麗に隆起するふたつの乳房を上下から挟み、
掛けられた首縄から、縦に下ろされた縄で締め上げられて、可憐な乳首は突き出すようにされ、
その縦縄は、腹部をつたい、ふっくらと密生している漆黒の色艶をあらわす恥毛を掻き分けて、
女の割れめ深くへ埋没させられている、優美な尻の艶かしい亀裂から這い出ては、
真上の欄間へ掛けられて、囚われの女体をまざまざとあらわさせている姿にあるのだった。
<女>は、もはや、縄の虜となったように、身悶えひとつ示さずに寡黙に、
みずからに閉じこもってしまったようにあったが、
縛者も、そばに立つ編集長とカメラマンも、しばし茫然となった魅せられた表情で、
いつまで眺めていても見飽きないといった、緊縛の全裸の蠱惑な姿態を見続けているのであった。
まじまじと鑑賞される<女>は、膨らみ切った羞恥と疼き上がった官能の快感にのぼせ上がり、
みずからのありようは、見守る相手にすっかり委ねられたように、陶然となった様子にあったが、
<女>が我に返らされたのは、<男>の次のひと言が言い放たれたときだった。
それでは、奴隷となったあかしを見せてもらおうとするか。
<男>は、<女>の緊縛の裸身へ近付くと、美しい顔立ちを無理やり上げさせて、
奥さんは、本当に、絶品の身体をしているね、女らしい優美な曲線もさることながら、
乳色の光沢を放つ絹のようになめらかさは、日本女性のもち肌と言うにぴったりの柔肌をしている、
美貌であって、これだけの身体付きをしていれば、日本女性、ここにありとさえ言えるだろうね、
身にまとった、日本民族の因習表現の縄が実によく似合う、まさに妖美とは、これだ……
けれど、そんなふうに賞賛されたからといって、思い上がってはいけないよ、
見栄えだけじゃ駄目だ、心情の素晴らしさとあそこの出来具合という内実がなければ、
単なる日本人形に過ぎない、あそことは、もちろん、ここのことだよ、と言うなり、
その手は、腹部のあたりの股縄をぐいとつかむと、力いっぱいに引き絞り上げた。
<女>は、思わず、ああっと声を上げたが、抵抗をあらわす素振りはなく、されるがままになるだけで、
熱く悩ましく突き上げられる、とろけるような甘美な疼きに屈服を示すだけにあった。
それでは、まず、奥さんが奴隷となった、というあかしを刻印させてもらおうか。
<男>は、そう言うと、カメラマンに緊縛の裸身を支えるように手伝わせて、
欄間に掛けられた縄を外し、首縄と股縄を解いていったが、
<女>は、やるせなさそうに身体を預けたままだった。
<男>は、股縄の女の花びらへ食い込ませた箇所に、しとど濡らさせた女の蜜を確認すると、
相手の背中へその縄を結び付けて、再び、欄間へ掛け直し、姿態を引き立たせるようにさせるのだった。
その間に、浴室へ行っていた編集長が戻ってきた、
その手には、石鹸水を溶かした小鉢が握られていた。
<女>は、疼かされた股間の責めから解放されたことに、束の間の安堵を感じて、
大きな溜息をついていたが、小鉢を眼にすると、気が気ではない緊張が美しい顔立ちに走った、
それが一時醒めた官能を再び胸高鳴らせる思いにさせていく動揺に戸惑わせるのであった。
<男>は、しなやかで綺麗な両脚を直立させて立ち尽くしている、<女>の身体の前へ陣取ると、
手渡された小鉢の液体を刷毛で泡立て始めた。
<女>は、剥き晒しの恥ずかしい毛に注目されて、男性三人からまじまじと見られているのかと思うと、
抑え切れないくらいのたまらない思いにあったが、
その羞恥は、全裸を縄で緊縛されているという拘束感にあって、
胸高鳴らせる当惑の思いを浮遊させるように押し上げるばかりにあった。
突然、ふさふさとした漆黒のふくらみへ、真っ白い泡を塗りたくられたことは、
驚かされる感触と同時に、甘美な快感の浮遊へ誘われる以外に行き場のないものとさせることにあった、
刷毛でじっくりと撫でられる感触は、思っていた以上に、
くすぐったくて気持ちの良い感触として伝わってくるものでしかなかったのだ。
たっぷりと掬われた刷毛は、真っ白い泡を漆黒の色艶を放つ恥毛の隅々にまで塗りつけていったが、
<男>の指先は、それを丁寧に伸ばし、また塗りつけては丁寧に伸ばすことが繰り返されていた。
伝わってくるのは、ふっくらとした丘の恥ずかしい亀裂を中心に、
優しげに執拗に愛撫されているのと変わらない感触であり、
後ろ手に縛られ、胸縄を掛けられ、欄間から吊るされる、という緊縛の全裸姿を晒している<女>には、
じわっ、じわっと女の蜜が滲み出すのを感じさせられることでもあった。
さあ、これでよし、奥さんには、奴隷になったあかしとして、ここの毛を剃ってもらうからね、
<男>は、<女>の顔立ちを見上げるようにしながら、そのように宣告するのだった。
<女>も、思わず相手を見たが、
<男>の表情には、言葉つきとは比べ物にならないくらいの真剣さが窺われるのだった、
内実を問われているのだという意識が込み上がり、決心を固める以外にないと思わせるのだった。
<男>は、ポケットから取り出した西洋剃刀の刃を開きながら、
奥さんには、奴隷になってもらう、西洋思想の奴隷という身分だ、
そのように、生まれたままの全裸で恥ずかしく、畜生同然に縄で縛り上げられて晒されるという惨めで、
それでいながら、甘美な官能の快感を感じでしまうという浅ましいありさまにあることを、
マゾヒズムを認識するという西洋思想にあることを、
この西洋剃刀は、奥さんの日本女性として自然に生育する陰毛を剃り上げることで、
見事な奴隷の刻印を晒させるということになることだ!
<男>の言葉の調子が脅迫するような鋭さを帯びていることに、典子は、ふいに現実を意識させられていた、
みずからが置かれている異常なありさまが性的官能を高ぶらされているというだけで、
まるで夢見心地になっているだけのことに過ぎず、
恐怖と不安が背筋を貫いて一気に湧き上がってきたのだ。
<男>の手に握られた西洋剃刀の刃が照明を鋭く浴びて、ギラギラと光っているのが見えた。
いやっ、いやっ、いやです、そんなこと、やめてくださいっ!
柔らかで艶やかな黒髪を揺らせながら、右に左にかぶりを振って、
典子は、か細いながらも、やっとの思いで、拒絶の言葉を口にしたのであった。
だが、<男>の反応は、まるで刑を執行するような冷酷さであった、
動くんじゃない! 余計なところまで切ってしまうぞ! この剃刀は、おもちゃじゃないんだからな!
<男>は、鋭いまなざしを上げて、そのように怒鳴ると、刃を下腹部へあてがっていくのだった。
典子は、緊縛の裸身を硬直とさせて、生きた心地もせず、必死に耐えるしかなかった。
フラッシュの閃光とシャッターの金属音を浴びせられると、
ズキンズキンと込み上ってくる恐ろしさがやるせなくも悩ましく火照っていた身体を再び煽り立ててきた。
剃刀は、どこから剃り込もうかと位置を決めかねているように、あてがわれる箇所をさまよっていた。
その実行を長引かされるもどかしさには、じっとしていらずに、
上気させられた顔立ちを置き所もなく、波打つ髪を揺らせて、右に左に傾けるしかなかった。
だが、いつになっても、最初のひと剃りは、行われなかった。
フラッシュが焚かれて、シャッターが切り下ろされるだけであった。
それが三十七枚目、グラビアの最後の写真となったものだった。
官能に追い詰められた<女>の迫真の姿態と表情は、
写真の表現に見事な現実感を与えたことだった。
社会へ公開される写真において、剥き晒された<女>の割れめを見ることはできない、
現在の我が国家の法律では、<恥部>は隠蔽されるべきものである。
従って、以下の成り行きは、写真表現で示すことの出来なかった場面となる。
よし、終了だ、典子、ご苦労さん、
と言いながら立ち上がった、<男>の顔付きには、にこやかな夫の笑みが浮かんでいた。
ありがとうございました、素晴らしい演技でした、
編集長は、微笑みながら弾んだ声で賞賛し、
カメラマンもしきりに頷きながら、最高の写真の出来だ、と叫んでいた。
撮影の終了だった、カメラマンも、レンズを向けることは、もはや、していなかった。
下腹部の剃毛は、あくまで真似ごと、あくまで演技に過ぎなかったことだった。
某有名大学の教授が全裸を縛り上げた妻の陰毛を剃り上げるさまを他人に鑑賞させる、
そのような破廉恥が実際に行われれば、噂だけでは済まない事件となる可能性にさえある、
読者を喜ばすための創造・企画が見せられる範囲を限定する表現を娯楽表現としている実情にあった。
だが、典子にとっては、そうした常識ある男性たちの態度が白々しいばかりのことに感じられていた、
煽り立てられた官能は、もはや、やり場のないほど、やるせなく、切なく、もどかしいばかりで、
何とかして欲しいという満たされない思いばかりを募らせて、
いっそう身体を燃え上がらせている状態にあったのだ。
夫が縛り上げていた縄を解こうと近付いたときだった。
あなたの主張というのは、こんな程度のことだったの?
あなたが私に説いて聞かせたシナリオはこうだったはず、<女>は、日本女性であり、
その<女>は、シュミーズとパンティ、という<西洋思想>の下着をまとい、
みずからの羞恥を隠すようにしてある、
<女>には、因習をあらわす、日本古来の縄が掛けられていて、身動きはままならない、
<西洋思想>の下着は、西洋に生まれた西洋バサミによって切り裂かれていく、
一糸も着けない全裸にまで晒されて、隠しようのない肉体をさらけ出させたとき、
のぞかせる、<女>の羞恥の箇所を覆い隠す、自然な密生をあらわす恥毛は、
西洋剃刀によって剃り上げられるに及んで、ありのままに剥き晒された肉体として示される、
その比喩があらわす、<日本>とは、剥ぎ取られた<西洋思想>の姿態にあっては、
<女>の肉体へ掛けられたままにある<因習>こそが、
知欲と官能の結び付き、という本来のありようとしてある、
自然であることの人間の喜悦が示される、
縄による日本の緊縛は、そのように、自然認識を作り出すものとしてある、<性表現>である、
それこそは、君がこよなく理解していることであるから、
君がこよなくあらわすことができることにある、そう言ったはずです、
それならば、私をそのようにしてください、
私が西洋思想の奴隷であることの刻印を晒して見せてください、
私が日本民族の女としてあるならば、そのような姿を晒されても、
あなたが言ったとおり、 知欲と官能の結び付き、という本来のありようとしてある、
自然であることの人間の喜悦が示される、という内実を示すことができるはずです、
さあ、やってください!
典子は、決心を固めたように、官能に火照った美しい顔立ちを毅然と上げて見せるのだった。
驚いたのは、その夫ばかりではなかった、編集長もカメラマンも口を開けて、
唖然となって、欄間から繋がれた全裸の女の緊縛の姿態を見続けるばかりになっていた。
君の言うとおりだ、典子、真剣な君に対して、ぼくが甘かった。
<男>は、そのようにきっぱりと言うと、
しなやかで綺麗な両脚を直立させて立ち尽くしている、<女>の身体の前へ陣取り、
照明に光を放つ西洋剃刀を白い泡立ちに覆われた箇所へあてがっていくのであった。
それから、ひと剃りひと剃りを丁寧にさばくように刃を動かしていった。
ひと剃りごとに、白い泡立ちが拭われて、無垢の柔肌があらわになっていく。
触れられるたびに感じられる剃刀の冷たく鋭利な感触は、
<女>の火照り上がっていた官能をぞくぞくと掻き立てるものにしていたが、
陰毛を剃られることがこれほどに気持ちのよいことだとは思ってもみなかった、
すっかりむき出しとされた深い亀裂をあらわす肉の合わせめを晒され、
それをじっと見やる男性たちの様子を意識させられても、
羞恥を感じないみずからに不思議を覚えるばかりか、
太腿の付根が光るほどあふれ出させている女の蜜さえも見られていることにあれば、
もはや、頂上にまで昇り詰めることに、何らの躊躇も感じないことにあるのだった。
火がつけられ、燃え立たせられ、燃え盛り、燃え尽きるという整合性の実現にあっては、
自然であることの人間の官能の喜悦は、人間があらわされるということでしかない、
日本民族の女にあることを堂々とさらけ出す、みずからの矜持を意識できることにしかない、
生まれたままの全裸を縄で縛り上げられて、欄間から繋がれた恰好にされている<女>は、
ふっくらとした白い丘に深々とした亀裂をあらわす、剥き晒された女の割れめへ、
<男>を呼び求めたのだった。
あなたの手でいかせてください!
妻のはっきりとした声音は、自信を持って、夫の指先を亀裂の奥へとくり込ませるのであった、
とがった女芽がまさぐられて愛撫されると、艶やかな乳白色の双方の太腿を痙攣させながら、
<女>は、恍惚とした美しい顔立ちをあらわして、昇り詰めていくのだった。



☆ 『終焉なき悪夢』の現物  参考画像





次回へ続く


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<章>の関係図


上昇と下降の館


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