第7章 超克される<近代的自我> 借金返済で弁護士に相談




第7章  超克される<近代的自我>




冴内谷津雄は、『小夜子の赤裸々な自縛手記』を読み終わるのと同時に、
ふと、前に立つひとの気配を感じて、思わず顔を上げていた。
驚いたことに、先程の古書店の店主である、女性が立っているのであった。
「私の決心がつかず、遅れてしまい、お捜しするのに手間取りました、
お忘れ物になったので、お持ちしました、
お買い求めになった雑誌に付いていたものです」
女性は、澄んだ綺麗な声音でそのように言うと、
衣装箱と思われるものを差し出すのであった。
冴内は、それを受け取ると開いて、中身を見た。
そこには、灰色に脱色した、使い古された麻縄の束が入っているのであった。
おもむろに顔を上げた、冴内は、波打つ艶やかな黒髪に縁取られた、
相手の美しい顔立ちをまじまじと見つめ返すばかりであった。
縄を差し出されて、それに従わないということは考えられなかった。
由香と名乗った、その女性は、こちらの思惑を重々承知しているということだ。
それから、冴内は、しっかりとうなずくと、衣装箱の蓋を閉じて、ベンチから立ち上がった、
相手が歩き始めるのに従って、箱を片腕に抱えて、
もう片方の手には、『SMクイーン 十月号』を携えて、付き従うように公園から出て行くのであった。
公園の他のベンチには、銀縁の眼鏡を掛けた、
自分と同年くらいのスーツ姿の男がひとり座っている姿が目に入った、
こちらを見つめているような気もしたが、そのようなことはどうでもよかった、
由香という女性が漂わせる、かぐわしい香りに誘われて、
波打つ艶やかな黒髪の美しい顔立ちと優美でしなやかな姿態がかもし出せる蠱惑には、
ただ、どきどきと胸を高鳴らせるものがあったのだ。


ここで、由香という名の女性が所持してきた、
縦55センチ・横36センチ・深さ8センチという大きさの紙製の衣装箱の問題に言及する。
それは、例えば、<近代的自我の超克>などという問題と比較したら、
実に取るに足りない事柄かもしれない、
しかしながら、その中身が<麻縄>にあるということは、重要である。
<麻縄>を用いた、男女の性愛行為を一般に<緊縛>と称していることにあるならば、
男性と女性が<麻縄>を媒体として出会うことは、<緊縛>行為が促されるということにある。
この算数のような展開を考えられるとしたら、それは、それだけ、
<縄による緊縛>がその者に常識化していることが示唆されていることにある。
実は、紙製の衣装箱などに入れずに、堂々と剥き出して見せ付けるものにあってもよい、
そのような考えに及ぶくらい、<縄による緊縛>は、ありきたりな事象にあるということである。
いや、実際は、そうはいかない、<縄による緊縛>は、内密に行われる限りにおいては、
真摯で愛情に満ちた芸術性さえ滲ませる行為にあるが、
人目に晒されることにおいては、残酷で恥辱に満ちた猥褻性を見せ付ける場合もある、
個人としては、人目をはばかる、他人に内緒にしておきたい、秘密の性癖と言えることにある。
この<縄による緊縛>の<秘密の性癖>という特殊性は、人口比率にして、
どれくらいの人々が所有していることにあるか、世論調査の結果がないのでわからないが、
少なくとも、インターネットの発達は、その情報公開の際限のなさにおいて、
それまで、隠されていることに存在理由のあった事象までも明白にするということにあっては、
政治的、経済的、社会的、文化的、歴史的、民族的、芸術的、他諸々の事柄に関して、
人間探求の手掛かりを提供するということでは、かつてない、貢献にある、
<縄による緊縛>というキイワードで検索すれば、小学生でも見ることができることでは、
検索サイトにある、アクセス・データが公開されれば、その数値を知ることは容易であろう。
同様のことは、日本における、<近代的自我>という問題についての意識の度合いである、
それがどのくらいの数値にあることなのか、
<縄による緊縛>と比較して、いずれが優る数値にあることなのか、興味深い事柄である。
従って、その双方が一緒に取り扱われることは、意識を倍にするものにあることなのか、
大変興味深い事柄にある以上、そうなってくると、
縦55センチ・横36センチ・深さ8センチのがさばる衣装箱へ、
容易に隠せるというようなものではないのかもしれない、その紙製の衣装箱にしても、
紙と木と漆喰から造られることが<日本の家>を連想させることにあるならば、
日本的な構造的外観から、鋭く注意が向けられた場合、
ひょっとしたら、紙製の衣装箱とは、<日本国家>を比喩していることにある、
と見抜かれることにあるかもしれない、
いや、それは、冗談にしても、
「<縄による日本の緊縛>があらわす、<認識の表現方法>は、
異なるふたつ以上の事柄を並置させて、それを知覚することによって、
異なる事柄を認識させる、ということを<縄>が導くという方法にある」
とされていることにあれば、
<日本国家>の中に、灰色に脱色した、使い古された麻縄の束が入っている、
という心象が浮かび上がってくることは、なかなか意味深げなものがかもし出される、
つまり、<日本国家>の<秘密の性癖>が匂わされる、
<近代的自我>の問題が<日本>の固有の事情をあらわすことにあるのは、人目をはばかり、
他人には内緒にしておきたい事柄にあるからだと勘ぐらせることにあると言える。
真摯で愛情に満ちた芸術性をひけらかすことは、共感をもらたすことにあるが、
残酷で恥辱に満ちた猥褻性を見せ付けることは、顰蹙や非難を買うことにあれば、
<日本>における、<近代的自我>というのは、この両面を持っているとすることは、
思いの丈のあまり、真摯で愛情に満ちた芸術性を見い出そうとすればするだけ、
残酷で恥辱に満ちた猥褻性が露骨になるという認識へ導かれることは、
さして、不思議なことではない。
従って、<縄による緊縛>の<秘密の性癖>を持つ者がそれを研究対象とすることは、
当然のありようにある、という必然性が生まれ、
算数のような展開として、<近代的自我の超克>という問題が導き出される。


明治維新という大股開きにある、開国は、苛烈な世界にあって、峻烈なアジアにおいて、
日本民族という類稀なる絶世の美女が日本国家という源氏名において、
半玉から芸妓へ成長する、自主・独立・固有の知覚を示すありようを必須とする状況にあった。
近代という勢力旺盛な時代の先進国である、帝国主義の勃起も露わな植民地政策を行う、
西洋思想の列強国の産物を手本とし導入することで、
そのなよやかな肩を厳つい肩へ並べることが必須の事態としてあることであった。
このなくてはならない陰部のように必須にある、国内意識と対外意識が相対し対立するところに、
矛盾・相克・軋轢が生じるということは、横恋慕するように避けられない恋愛としてあったことで、
日本の止むに止まれぬ近代的自我の誕生とは、
生まれることを望まれた子供ではなく、あざとい浮気から生まれる胎児のようにあることであった。
従って、西洋思想対日本思想の対立を超克することは、不倫の苦悩の問題として引き摺る、
矛盾・相克・軋轢の解決を意義するものとしてあったことであった。
日本髪を結った、絶世の美女は、勃起も露わな異国の男性たちに取り囲まれ、
身に着けた、瀟洒な和服のひとつひとつを興味深そうに剥ぎ取られていき
美しい顔立ちも、ふたつの綺麗な乳房も、股間の悩ましげな陰毛もさらけ出されて、
生まれたままの優美な全裸の姿態を四つん這いにさせられた、
そのほっそりとした首へ、皮製の首輪をはめられ、首輪の環には、銀色に輝く鎖を繋がれて、
植民地の隷属をあらわすために、いつでも、帝国主義の勃起を迎え入れられるように、
艶かしい白い尻の間から、妖艶な割れめをのぞかせる姿勢を取らされるのであった、
という状況へ陥ることを断固拒絶する、矜持を抱く、芸妓にあったことだった。
艶麗な歌舞や興趣のある音曲を見事な芸とする、芸妓は、
それを表現する日本思想をしっかりと抱いていたのである、
ものという客観的対象をあはれという主観的感動で捉えて認識し、
調和のとれた優美繊細な情趣をあらわす、もののあはれという芸術意識にあることであった。
しかし、その情緒による芸術意識は、ものという客観的対象を同質のものと見ることにあった、
森羅万象にある、ものは、各々に異なったものにありながら、あはれという感動で同質にあった、
異なったものにありながら、同質と感動する、情緒性の知覚にあることであった、
個々の異質が問題とされず、個の全体が問題とされる、雰囲気が重要な意識としてあることだった。
この芸妓の芸術意識に対して、西洋思想の芸術意識は、、
異なったものにあることは、異質を明確にされることで感動する、合理性の知覚にあった、
個々の異質の問題は、その集合である全体の問題として、分析が重要な意識としてあった。
状況に対して、雰囲気で把握するか、分析で把握するかの両者の相違である。
従って、人間という観点から見れば、この情緒性の知覚と合理性の知覚の相対は、
共に備わっていることにあれば、いずれが主潮にあるかということでしかないものである。
西洋思想にある列強国の産物を手本とし導入することが不足を補うことにあれば、
合理性の知覚の発達を促すという教育も真剣に考えられるべきことにあったが、
手本とし導入することが模倣・追従に留まることならば、情緒性の知覚は主潮のままにある、
むしろ、その情緒性の知覚にあることが自主・独立・固有の知覚をあらわしていることにあれば、
手本とすることは、情緒性の知覚によって導入されるというありようを示す以外にない、
芸妓の艶麗で興趣のある振舞いは、絶世の美女の所以を自負させるものとなる。
本居宣長に依って提唱された、このもののあはれという学説は、
知覚のあらわれとして示されて、日本人の感性が固有に存在することを宣言したものにある、
更に、大和心と漢心という相対として、自我が主張されていることにおいては、
日本思想史上、二つとない、日本人の画期的な存在理由が明示されたものにある。
その学説の根拠としては、『古事記』と『源氏物語』が置かれている、
それによって、天皇の予定調和と文学の芸術性が指し示されていることでは、
文学・歴史学・心理学・哲学・神学を含んだ、総体としての国学が示されていることにある。
従って、自我を主張する、大和心が国家の自主・独立・固有の知覚を意義するものとして、
政治的に利用されることが行われたことは、必然的な成り行きであり、
それは、 もののあはれにある、芸妓が人情知らずの女衒の女将に変貌したように、
植民地の隷属を獲得するために、列強国に倣って、帝国主義的勃起を露わとさせていくことは、
女にあれば、その勃起は、木製の張形を設えた、
西洋思想の模倣・追従にある、擬似陰茎のまがいものでしかあり得なかったことは、当然であった。
大日本帝国陸海軍の軍律・戦略・戦術において明白とされた、
状況に対しての調査や情報の分析の希薄があらわす、雰囲気で現実を把握するというありよう、
個々の異質が問題とされず、個の全体が問題とされるという作戦の絶対遂行は、
戦場に非現実的な夢想を見て人命を軽視する、全体性の精神主義にあって、
餓死者が全戦没者の六割以上あったという荒唐無稽をひけらかしたことであった。
明治維新から大東亜戦争敗戦に至るまでの日本国家の戦争の意義を問うとすれば、
情緒性の知覚で行われる行動が何処まで有効なことにあるかを試されたことにあった、
答えとしては、国土を焦土と化され、無条件降伏による、惨敗の敗戦でしかなかったことは、
西洋思想の合理性の知覚が優っていたことは、
勝つことができなかったという自我の萎縮とさせたことであった、
率直に、自然に、屹立させることができないという、インポテンツの萎縮となることであった。
この脳にはびこるインポテンツは、芸妓においては、濡れそぼつという状態が萎縮することにある、
艶麗な歌舞や興趣のある音曲を表現する芸が粋や艶という湿り気を失い、
もののあはれの認識のない、殺伐たる女をあらわすことになる。
女衒の女将に変貌していた、芸妓は、敗戦に依って、化けの皮を剥がされたということであるが、
戦後批判というものが西洋思想の産物の影響に依る合理性に倣って、
戦争の是非や善悪を糾弾する作法は、
当然、勝利することのできなかった、日本思想という事実に基づいていた。
従って、敗戦の事実は、歴史的に消すことができない以上、
戦後批判は、永続的に行われる様相を帯びるものとなる、
何故ならば、その日本思想とは、自主・独立・固有の知覚を示すありようにあって、
それが果たされなかったことが批判されるわけであるから、
自主・独立・固有の知覚を示すことがあり得ない限りは、終わりがないということにある。
西洋思想対日本思想の対立を超克するという過激で露骨な羞恥の問題から眼を逸らさせて、
西洋思想をひたすら模倣・追従することの正当性は、
国家が悲惨な戦争の結果から、戦後復興へ邁進し成長を成し遂げるためには、
先進国の位置付けを必須のものとする目的において、
その産物を手本とし導入するありようを必然的とする自我にあることが理由になることであった。
金がなければ食うに困るということであれば、外貨を必死に稼ぐしかない、
化けの皮を剥がされた、芸妓は、艶麗な歌舞や興趣のある音曲の芸で稼ぐことができなければ、
さびれた温泉町のヌード・ショーでも、
猥雑な場末のストリップ・ショーでもやらざるを得ないということでは、
類稀なる絶世の美女は、品性という矜持をかなぐり切り捨てて、
高度成長へ邁進するしかなかったことであった。
明治維新以来、行われてきた、欧化主義に依る方策と同様にあることは変わらなかったが、
西洋思想へ隷属するように置かれたことは、大いなる変容であった。
戦争に負けた日本の産物は、西洋思想の産物の前にあっては、劣等であり、
西洋思想の産物を手本とし導入して作られた日本の産物は、優れたものにあっても、
それは、優越する勝者に追従していることにある以上、自主・独立のものにはないことにある、
この隷属意識による葛藤は、近代的自我の矛盾・相克・軋轢が如実に示されていることにあったが、
その近代的自我を超克しようなどという者があらわれなかったのは、
戦後復興と高度経済成長へ向かう、生産する活気にあっては、
雰囲気で現実を把握するという情緒性の知覚が主潮にあれば、
状況に対しての調査や情報の分析は希薄となり、全体性の精神主義が優先されることになる。
戦前の軍隊の名残と言ってしまえば、それだけのことにあるが、
一丸となる国民の必要をその精神主義に依存しているのでは、本質と言えることにある、
軍隊の名残が集団における教育のための体罰の必要としてあることなどは、実質でさえある、
情緒性の知覚を主潮とすることは、依然として、変わりようがなかったということにある。
西洋思想の影響による左翼的思想、及び、日本思想の影響による右翼的思想、
両者の対立のあらわす事柄が近代的自我の矛盾・相克・軋轢を如実とさせることにあっても、
両者の見解は、漢意と大和心の対立のように見なされている限りにおいて、
共に相容れないことをあらわすことによって、存在理由を示すというありようでしかない。
近代的自我の矛盾・相克・軋轢を引き摺り、更には、隷属にもあるという身上では、
外貨を多分に稼げるようになっても、自主・独立・固有の知覚を示すありようは生まれない。
場当たりの際物の刹那の自己満足的な享楽が固陋な現実を覆い隠すということが奨励されて、
脳にはびこるインポテンツも、治癒する対象にさえならない状況へ向かわされるばかりとなる。
やがて、経済的成長が頂点へ至り、生産の活気が衰退へ向かい始めるようになると、
矛盾・相克・軋轢は、異様と言えるような社会的現象となって、浮かび上がり始める。
典型的な現象は、若年層における、引きこもり・いじめ・自殺の増加である、
若者は、将来を夢想し、現実を変革しようという反抗心があるからこそ、時代は、常に、
年長の保守と若年の革新の闘争にあって、より良い未来の礎を構築することができる、
若者が隷属に甘んじて、仕方なく、引きこもり・いじめ・自殺へ向かうとしたならば、
未来に対する、生産性の思考は断絶され、希望を減退させる傾向の加速を招くことでしかない。
隷属していれば、少なくとも、食ってはいける、という奴隷根性は、
その身上に反抗をあらわさない限り、自主・独立・固有の知覚を示すありようへ導かれることはない。
日本における、近代的自我は、超克されなければならないありようである、
いつまでも、引き摺り続けていても、碌なことは生み出さない。
夏目漱石や岡倉天心が憂いた日本が現在も相変わらずにあることだとしたら、
類稀なる絶世の美女にある、芸妓は、再び、生まれ変わらなければならないという話にある。


由香に付き従う、冴内谷津雄は、一方通行の道路を挟んで、
左右に伸びる商店街の歩道を歩いていた、
やがて、<ブックス パフューム>の店舗まで戻ると、
白い絹のブラウスと紺地のタイト・スカート姿の店主は、扉に鍵を掛けて、
水色のカーテンをきっちりと引いて、<本日休業>をはっきりと示すのであった。
店の奥へと案内された、冴内は、土間を上がって畳敷きの部屋へ通された。
由香は、冴内の抱えている紙製の衣装箱を寄越すようにと両手を差し出した、
彼は、それを渡しながら、相手の美しい顔立ちの澄んだ両眼を見つめた、
真剣なまなざしは、決心を実行させるのに充分なものがあった。
彼女は、衣装箱を持って、隣の間へ通じる襖を大きく開くと、なかへ入っていった、
畳の上には、整然と夜具が敷かれてあった。
由香は、真っ白な敷布の上へきちんと正座をすると、美しい顔立ちを上げ、
虚空の一点へまなざしを投げて、待機しているという様子をあらわした。
冴内は、片方の手にしていた、『SMクイーン 十月号』を畳の上に置くと、
躊躇することなく、ネクタイを首から引き抜いていた、
それから、スーツの上着を脱いで、ズボンを取り去った、
下着の上と靴下を脱ぎ去ると、トランクスひとつの裸姿になった、
それから、肉体を隠す最後の覆いを取り去って、全裸となるのだった。
全裸となった<自我>であったが、その羞恥から、陰茎をもたげさせることはなかった、
<脳にはびこるインポテンツ>にある者は、情けない姿をあらわすしかなかった、
冴内は、ぶらぶらとさせながら、おずおずとした様子で、隣の間へ入っていくばかりにあった。
ブラウスにタイト・スカート姿の女性は、生まれたままの全裸の姿にある男性が入ってくると、
その姿をしげしげと見つめながら、傍らにある、紙製の衣装箱を開けていた、
そこには、使い古して灰色に脱色した麻縄の束がごっそりと入っているのであった、
女性のほっそりとした白い指先は、その縄束のひとつを掴んでいた……
ここで、感の良い読者は、その縄束の用途には、最低二種類の選択肢があることを考える、
ひとつは、由香という女性を縛る縄であり、もうひとつは、冴内という男性を縛る縄である。
冴内は、『SMクイーン 十月号』を畳の上へ置き残してしまったので知ることはできなかったが、
その掲載の中に<女性及び男性を縛る縄>について書かれた論考があるので、
読者の参考のために、以下に引用するものとする。


『 女性を縛る縄 及び 男性を縛る縄 その常識について 』


1. 女性を縛る縄の常識


<女性を縛る縄の常識>、そのようなものが世の中に存在するのか、
という疑問を抱くのは、当然のことである。
従って、この後に、<男性を縛る縄の常識>についても述べられているので、
女性・男性の双方に適用がある<常識>という意義で考えて戴きたい。
まず、<女性を縛る縄の常識>とは、女性が縄で縛られるのは常識であると言っていることなのか、
或いは、女性を縛る場合においての縄についての常識と言っていることなのかという点であるが、
女性を縄で縛り上げるなど<虐待>でしかないと見なすことにあれば、
<常識>もへったくれもなく、<女性を縛る縄の常識>は、無意味でしかない。
つまり、<女性を縛る縄の常識>の論が成立するためには、
<縄で縛る行為>が<虐待>にあるばかりではない、という<常識>の前提がなくてはならない。
それには、その<常識>が作られた歴史について、考えて見なくてはならない。
<女性を縄で縛る>ということは、<女性を縄で拘束する>ということであるから、
<女性>と<縄>と<縛る者>が存在すれば成立することにあるから、
縄の発祥がいつ頃のことなのかを分かれば、それが起源となることにある。
日本の場合、縄の使用は、縄文土器の意匠に見ることができる、
縄文時代と称される時代は、今から、約一万六千五百年前とされているから、
それが始まりと言えることになる。
縛る理由の如何はともかくとして、<女性>と<縄>と<縛る者>が存在したことは、
<女性を縄で縛る>という事象があり得たことが考えられるということである。
つまり、<女性を縛る縄の常識>は、一万六千五百年以来、培われてきたことにあると言える。
<常識>とは、一般の社会人が共通に持つ、
また、持つべき普通の知識・意見や判断力とされていることにあれば、
その立証は、一般的に共有されている概念としてあることが証明されれば、成立することにある。
日本民族にあっては、<縄>は、固有の意義をあらわすものとしてある、という<常識>がある。
この<常識>を端的に表象しているのは、神社や家庭における、注連縄の存在である。
この注連縄という<縄>の<常識>を持たない者は、神社や家庭で掲げられる対象に対して、
拝礼するという行為をあらわさないということでは、宗教性の概念にあることが示されている。
注連縄に固有の意義を見い出す、<常識>は、ただの日常性の慣習に過ぎないとされたとしても、
その慣習は、宗教性を抜きにしたとしても、日常性にあるとすれば、
因習と呼ぶことを可能とさせることにある、つまり、
因習として培われてきた、<常識>が<縄>の存在を固有なものとしているということにある。
注連縄が<神道>という宗教に属する事柄にあるという規定があれば、<縄>の<常識>は、
<神道>という<宗教>を<因習>として受け継いでいるものにあると言うことができる。
<神道>など信じてはいないと考える者にあっても、
神社や家庭において、注連縄へ拝礼を捧げる行為を行うことのできる<自然>は、
それが<宗教>という意識にはなく、<因習>の意識にあることから可能なことになると言える。
従って、この<因習>に置かれている限り、<女性>と<縄>と<縛る者>が存在すれば、
<女性を縄で縛る>というありようの<自然>は、特別の意義を必要とするものにはない。
<因習>は、人間の生存の原動力である、食欲・性欲・知欲・殺傷欲に従った、
生活の必要から考え出されて生まれたものであるから、
集団の生活を維持・継承するための目的で働くものとして、<因習>は<常識>をあらわす、
<女性を縛る縄の常識>は、注連縄の存在が不滅である限り、
成立する<因習>にあるということになる、或いは、注連縄の存在が消滅したとしても、
日本民族にある者は、この<因習>に置かれていることにおいて、
<女性を縛る縄の常識>を持つということにある、<因習>という<常識>からすれば、
<神道>という宗教があることが<女性を縛る縄の常識>をあらわす、
と言っていることにはならないという認識が生まれる。
従って、<女性を縛る縄の常識>を<神道>という宗教に置けば、
次のように考えることは、誠に容易である、
<宗教>と<因習>の相互作用における、人間のありようとして、
何故、女性を縄で縛るのかということを説明する所以が<自然に>生み出されることになる。
縄が注連縄と同義にあることにおいて、
注連縄の存在理由は、神を祭る神聖な場所を他の場所と区別するために張る縄、
また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの、
ということから、女性の存在が<穢れ・悪・罪>といった不浄をあらわす場合において、
女性を縄で縛ることによって、縄の拘束がその存在を浄化させ神聖にするという意義が成立する。
<穢れ・悪・罪>に対して、<禊(みそぎ)・仕置き・罰>としての縄の拘束という外観は、
<宗教と因習の相互作用>として、
<残虐・悲惨・非情>という感情を超えたものとして知覚する対象と成り得ることを可能とさせる。
この<宗教と因習の相互作用>は、女性の肉体として外観がその全裸に晒された姿態にあって、
<自然>を縛るという比喩としてあることは、
髪、顔立ち、首筋、両肩、乳房、乳首、腰付き、小丘、尻、太腿、両脚、両足にあらわされる、
優美な曲線が山・川・湖・海の豊饒を髣髴とさせ、その転変と流動にある動性の感覚は、
風・雨・雪・雷における色彩の変容をほのめかす、<自然にあることの優美>と見なされることにある。
<自然にあることの優美>を知覚できることは、<自然観照の情緒的表現>ということにおいて、
日本民族にある者に備わっているとされる、<花鳥風月>といったことの感性と呼ばれることでもある。
このありようを本居宣長によって<もののあはれ>という知覚として提唱された学説へ従うことをすれば、
<女性を縛る縄の常識>は、<もののあはれ>に基づいているということにもなる。
<女性を縛る縄の常識>は、<宗教と因習の相互作用>として、
神道という大和心にある、もののあはれの知覚として、倫理と美意識を作り出すことができるものとしてある、
<もののあはれ>の由来が『古事記』と『源氏物語』に依ることにあれば、
<女性を縛る縄の常識>は、その両者の歴史的証明に基づくものにあると言えることにある。
宣長と同じ江戸時代に成立した、<江戸四十八手>として伝えられる、性愛の表現技法において、
女性を縛る縄の事例が幾多もあるという<自然>があらわされていることは、
<女性を縛る縄の常識>が示されていることの証左としてあると確認できることにある。
<穢れ・悪・罪>と<禊(みそぎ)・仕置き・罰>の関係にある、<女性を縛る縄の常識>は、
社会的表象としては、<捕縛・刑罰・拷問>の<縄>にあることがあらわされるが、これも、
室町後期に発祥し江戸期に大成を見た、被疑者・罪人に対する<捕縄術>が同様の証左としてあることは、
<捕縄術>の場合、破邪顕正として、明確にその宗教性があらわされた使用方法にさえあることにある。
<私的な意義>での<江戸四十八手>と<公的な意義>での<捕縄術>は、
<女性を縛る縄の常識>に基づいたありようとして同一にあることは、
<宗教と因習の相互作用>として、日本人に働いている意識にあることが事実として示されている。
<縄>は、使用用途の広い、人間の<道具>にあるが、
この場合は、人間が使用する<縄>が人体へ用いられる、
特定のありようが<女性を縛る縄>ということになる。
<縄>が人体に用いられる場合、つまり、縄による人体の緊縛が行われる場合、
あらわされる事柄には、どのようなものがあるかを見てみると、
それは、<公的な意義>と<私的な意義>の二つの形態として考えられることにある。
<公的な意義>とは、法律・社会的道徳・倫理・宗教的理念に関係して用いられる場合であり、
<私的な意義>とは、個人的主観・感情・性的欲求・美意識に関係して用いられる場合である。
江戸時代に大成された、<捕縄術>という存在は、
この<公的な意義>の示されたものとしては傑出したありようが示されたが、
明治維新を契機に、警察機構が<捕縄術>の採用から離れていったことが衰退の結果をもたらしている。
それは、<捕縄術>があらわした、<実用性・宗教性・美術性>という三点の要因において、
<実用性>のみを重要視したことに依ることは、<捕縄術>の<実用性>は特別の技術を必要とするが、
<西洋思想>の手錠等の拘束具は用いるための特別の技術を必要としない、という相違にある。
俗に、<職人技>と称される、特別の技術の必要が<女性を縛る縄>には求められるということにある。
従って、<私的な意義>において、個人的主観・感情・性的欲求・美意識によって行われる、
<女性を縛る縄>という行為は、<職人技>を持たない者が<縛る者>となることはあり得ないことにある、
言い方を変えれば、<女性を縛る縄>における<縛る者>というのは、<職人技>を持つ者であって、
持たない者が行う、<縛る縄>は、家庭内暴力や幼児虐待等があらわされる、縄の使用ということになる。
前者は<思想・性的欲求・美術>が表現されることの可能にあるが、
後者は<残虐・悲惨・非情>が表現されることにしかないという相違になる、
従って、<女性を縛る縄の常識>は、<思想・性的欲求・美術>を表現することの可能という問題がある。
<思想・性的欲求・美術>ということは、高められた存在としては、<芸術>というものに成り得るが、
低められた存在にあっては、<異常・猥褻・歪曲>をあらわす、
<女性を縛る縄の常識>は、この双方を表現するものとしてあることは、
その時代における、<思想・性的欲求・美術>に関する価値認識に依存することにある。
そこで、日本人がこの<女性を縛る縄の常識>を持っているという前提があるとした場合、
この<常識>を転換させようとすれば、<曲折>が起こるということも必然的になると言える。
明治維新の転換期に始まるとされる、<曲折>については、
「少なくとも鎖港排外の空気で二百年も麻酔したあげく
突然西洋文化の刺戟ね上ったぐらい強烈な影響は
有史以来まだ受けていなかったと云うのが適当でしょう。
日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。
また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります」(『現代日本の開化』 明治44年)
という夏目漱石の適切な言葉があるので、それに従えば、明治27年(1894年)に、
西洋思想である、<サディズム・マゾヒズムの概念>の導入されたことが<曲折>をもたらしたことは、
日本に固有の事情を作り出させたことにあったと見ることができる。
それは、<女性を縛る縄の常識>などは存在せずに、
<女性を縛る縄>は、<サディズム・マゾヒズムの概念>に依るものであると見なしたことにある。
<宗教と因習の相互作用>として、日本人の意識に働き続けているという実際があるにも関わらず、
それを<サディズム・マゾヒズムの概念>で理解せよと強要されることにあれば、
<曲折>とならざるを得ないということである。
従って、<曲折>にある以上、それは、<本然としての表現>が見失われていくことにある、
<相反・矛盾・軋轢>を生み出させる経過をもたらすことにさえあると言える。
<本然としての表現>へ立ち返らなければならないという必然の要請があっても、
それを成し得る方法がなければ、状況へ隷属する以外にないという道筋になる。
この状況が大東亜戦争の敗戦という大きな契機を持ってしても変わらずにあるとしたら、
この問題の持続は、日本人の<本然としての表現>を抑圧し続けていることでしかない。
しかしながら、まるで敗北者にあり続けるように、<曲折>をいつまでも継続させることができるほど、
安泰に、安穏に、穏便に、あり続けることが可能であるというほど、人間は、受身でもなければ脆弱でもない。
人間には、整合性を求めさせる、健全への意思というものがある、
可能な限り、健全な状態を生活環境としようとする、生存への意志がある、
この生存への意志においては、日本人も、同様にある。
従って、<女性を縛る縄の常識>において、<曲折>を解消することが求められる。
<女性を縛る縄の常識>が日本人の意識に依然として働き続けているということが事実にあれば、
その自主・独立・固有の知覚にあることから、<本然としての表現>を導き出すことは可能にあるが、
<サディズム・マゾヒズムの概念>に縛られている事実から抜け出せないという状況は変わらない。
この状況は、日本思想と西洋思想の相対から生じた、
<近代的自我の超克>と呼ばれている問題と重複していることにある、
従来の方法では、成し得ないことの明白にあることも確かである。


2. 男性を縛る縄の常識


男性においても、女性があらわすような<縛る縄の常識>が存在するという見方は、
<女性を縛る縄の常識>において示されたように、縄文土器の意匠に見ることができる<縄>に依れば、
<男性>と<縄>と<縛る者>が存在すれば成立することにあるから、
一万六千五百年より由来すると考えられることは、<宗教と因習の相互作用>として示され、
意識の問題として、明白な事柄にあると言える。
しかしながら、<公的な意義>としての<捕縛・刑罰・拷問>の<縄>における表現を見ることはできても、
<私的な意義>としての<江戸四十八手>に示されるような明確な証左が存在しないことは、
<常識>と成り得るかという疑問が呈されることでもある。
それは、女性の肉体の外観が全裸に晒された姿態にあって、<自然>を縛るという比喩としてあるように、
男性の肉体も、また、<自然にある優美>と見なすことができるかということについて、
同様の回答を断定できない事柄にあることが示唆される。
審美の対象としての女性と男性の肉体的差異は、主観に依存する見解に過ぎないことにあれば、
<常識>とは成り得ないことは、<女性を縛る縄の常識>も<常識>を逸脱せざるを得ないことにある。
この問題提起に対して、小妻容子の『姦の紋章』という作品は、啓発的な表現をあらわしている。





現象としての<人体を縛る縄>ということにおいて、
それが<虐待の様態>をあらわすものにあるという見方ができることは、<常識>としてある、
この<常識>にあっては、女性・男性の差異は存在しない、
男女は平等の存在として表現されるものにある、
『姦の紋章』という表題から、不倫を犯した男女が罰せられるために縄で緊縛されている状況にあるが、
陰茎と膣の結び付きにあっては、男女は平等にあり、全裸を晒されることも平等にあり、
施される縄掛けの羞恥の姿態も平等であることは、
<穢れ・悪・罪>を<禊(みそぎ)・仕置き・罰>する<縄>も、また、平等に働くことが示されている、
その上において、小妻容子のこの絵画は、審美の対象として、
女性も男性も、平等に、美しいと断定できるか否かを問うものとしてある。
何故ならば、<虐待の様態>をあらわすものにあるという見方は<常識>としてあったとしても、
女性にある外観と男性にある外観は、明確に区別されるものにあるという事実は、社会制度の反映として、
男性と女性は、平等の存在をあらわすものにはないということが示されているからである。
一般に、<男尊女卑>として考えられているありよう、女性は、社会的に虐げられた存在にあって、
例えば、<縄>で縛られるという<虐待>に晒されることは、当然の意義にあって、
虐げる<縛る者>が男性にあることは、<江戸四十八手>においても、明瞭に示されていることにある。
虐げる<縛る者>は男性であり、虐げられる<縛られる者>は女性でなくてはならないという意義であり、
この場合、<女性を縛る縄の常識>とは、社会制度の反映として、
女性が虐げられた存在にあることの象徴があらわされているとされることになる。
この<男尊女卑>の立場からは、男性と女性の外観の差異をあらわす、男性の陰茎と女性の膣、
主体となる男性の陰茎が被主体の女性の膣へ挿入されるというありよう、
この相対にあって、価値観が形成されて、見なされるありようは、
能動的な思考にある男性と受動的な思考にある女性、
攻勢的な性向にある男性と守勢的な性向にある女性、
加虐の性的志向にある男性と被虐の性的志向にある女性、
このような相関関係が成立するということが示されることへ導かれる。
この背景にあることを考慮すると、<サディズム・マゾヒズムの概念>が提唱されたことは、
異性間における、虐待の行動は、その性衝動に依存するという見方からは、
人間社会が男性と女性という二元の相対関係から成り立っているものであるから、妥当であった、
しかも、、それは、老若を問わずに、男女は、各々の性を有していることにあるから、
男性と女性が異性にある限り、異性に対する<嗜虐行動>を理解することを容易とさせる、
更に、男性が男性に対して、女性が女性に対して、<嗜虐行動>を行う場合に際しても、
人間にある<性衝動>として理解することにあれば、その概念は、充分に妥当なものとなる。
<嗜虐行動>とは、虐待に悦楽を見い出すということであるから、
それを<加虐>から見るか、<被虐>から見るかの相違にあるだけで、
同性愛者にあってさえも、適応できる概念としては、万能で画期的なものにあると言える。
<縛る縄の常識>についても、女性の場合であっても、男性の場合であっても、
<サディズム・マゾヒズムの概念>に準じれば、その妥当性を明らかとさせることは充分に可能である。
<虐待の様態>をあらわすものは、すべて、それを行為する人間が各自の性を所有している事実にある以上、
<サディズム・マゾヒズム>とすることを提言することさえできる、
人間が性を所有し、虐待の行為を成し、それに悦楽を感覚する限りは、
未来永劫、<サディズム・マゾヒズムの概念>以上のものはあり得ないということになる、
虐待と悦楽の程度・頻度に関わらず、その類似・擬似に関わらず、
虐待の行為に適応する、<絶対の概念>としてあるということになる。
このありようは、はい、そうですか、と安易に首肯ができることにあるものだろうか。
<絶対の概念>の様相は、人間の自由の可能性を阻害する状況を作り出すことが示唆されることにある、
<サディズム・マゾヒズムの概念>が<性の加虐・被虐>から<性の加虐者・被虐者>となり、
そこから、<性の支配者・隷属者>の構造となることは、
<性>は、人間が所有しているものにある以上、<性>を当然視することにあれば、
<支配者・隷属者>の構造を絶対化していることが明確化されていることにしかならない、
人間の相互関係は、性を有する限り、支配者と隷属者の関係にあると示されていることにある。
このような概念が蔓延とすることを容認できない理由は、
人類史が人間の自由表現の歴史であることは、人類の存在理由としてあることからである、
<サディズム>の語源となった、マルキ・ド・サドがあらわした文学表現も、
神という<絶対の概念>から自由になる、人間の放埓・放蕩の行為が示されたものにあった、
人間にとって、<絶対の概念>はあり得ない、それは、自由の意思に依って、
常に改革され、変革されることをその存在理由としているものにあることである。
従って、<サディズム・マゾヒズム>は<概念>にある以上、
その<概念>を成立させる道筋とは異なる道筋があることが必然としてある。
<サディズム・マゾヒズムの概念>は、<性衝動に依る加虐・被虐>の二元論として示されている、
人間が虐待の行為にあるとき、<性衝動に依る加虐・被虐>の心理が働くものとされている、
人間の性的官能は、常時活動しているものにあるから、性衝動のあらわれも同様にあると見れば、
<サディズム・マゾヒズム>のありようは、男性・女性の性に関係なく、
虐待の心理が生まれたとき、<性衝動に依る加虐・被虐>に結び付いて、
官能と心理の相乗作用に依って、虐待の行動が表現されるということになる、
性的官能は、快感を目的として活動しているものにあるから、虐待の行動に快感を覚えるということになり、
その知覚は、虐待の行動に対して、精神的にも、肉体的にも、悦楽を見い出せるということで成立する。
<サディズム・マゾヒズム>が異性に対する嗜虐行為に悦楽を感覚するものにあると定義する限りは、
性的外観の相違に依って理解することができるが、異性・同性に関わらず、
人間の精神的・肉体的事柄とすることにあれば、<嗜虐>ということは、更に明確にされなければならない。
<嗜虐>とは、苦痛を与えることや残虐な行為を好むことである、
他者に虐待の苦痛を与えて悦楽を感じる、他者から虐待の苦痛を与えられて悦楽を感じる、
いずれにあっても、残虐な行為であることは、<嗜虐>を働かせるということにある。
残虐な行為というのは、人間が<人間性>として作り出した認識において、
人間は他の動物一般と相違するという前提から判断される、動物があらわす<動物性>の行為にある、
動物一般は、その行動にあって、本能的と称される規則的な表現を持つが、
人間における<動物性>は、恣意的な不規則性の表現を持つことを可能とさせている、
そうあることが<人間性>としての自由と言い得る、独自なありようをあらわす存在にある。
即ち、<嗜虐>というのは、人間にあるまじき残虐な行為を好むという意義であり、
人間が善の<人間性>にあるのではなく、悪の<動物性>にあることを意義することにある、
つまり、<嗜虐>というのは、人間の倫理の問題であって、<性>そのものとは、関係がないことである、
性的官能は、常時活動しているものであり、快感を目的として活動している感覚に過ぎないものであるから、
<嗜虐>の心理にあるときも、活動していることがあるということでしかない、
<性衝動に依る加虐・被虐>という理解は、
<人間の倫理の問題>を<性欲と性的官能>に結び付けただけに過ぎないと見ることができるのである。
従って、<性欲と性的官能>が<人間の心理>に関与していることが問題であるならば、
それが常時活動していることにおいて、<性衝動に依る加虐・被虐>ということがあり得るとすれば、
人間があらわす、すべての行動について、<性欲と性的官能>の関与を求めるという見解も可能となる。
人間があらわす、<学術>と称される、すべての分野において、
<性欲と性的官能>に関与を置く学問として、改革・変革することの要請が生まれるということになる、
<サディズム・マゾヒズムの概念>だけが例外にあるということはあり得ないからである、
従来の認識に対しては、新しい人間観を作り出す、<学術>へ展開するということである。
これは、<近代的自我の超克>という問題である。
日本の場合には、<近代的自我の超克>という問題は、二つの意義をあらわしているものにある、
ひとつは、明治維新を契機として、日本思想と西洋思想の相対から生じた問題、
いまひとつは、人間存在としての問題である、
従って、超克とは、この双方に対して行われることでなければならない。
もう一度、小妻容子の『姦の紋章』という作品へ戻ってみよう、
覆い隠す布切れ一枚なく、生まれたままの全裸をさらけ出されて、
陰茎と膣が結び付かないように背中合わせに置かれたありさま、
首縄、胸縄、腰縄、股縄を掛けられて緊縛された、人間にあるまじき醜態にある、
男性と女性の姿態が示されている、
そこにあらわされる、男性と女性の平等にある表現、
それが意義するものが人間存在としての問題であることは、
縄による緊縛があるからこそ、表現できることにあるということが示唆されている。
男性と女性が置かれている状況を<嗜虐>にある心理として見ることをすれば、
人間にあるまじき残虐な行為に晒されている、男と女ということになる、
<縄>が<拘束の道具>ということに過ぎなければ、それ以上のことはない、
だが、<縄>は、<穢れ・悪・罪>を<禊(みそぎ)・仕置き・罰>する存在にあって、
<女性を縛る縄の常識>は、<宗教と因習の相互作用>から、
<自然観照の情緒的表現>ということを導くことにあれば、
全裸を縄で縛り上げられた女性は、<自然にあることの優美>をあらわすものにあるのである、
では、全裸を縄で縛り上げられた男性は、如何なる事柄をあらわすことにあるのか。
この絵画鑑賞の過程が人間の知覚における問題を提示していることであれば、
全裸を縄で縛り上げられた男性は、
<自然観照の合理的表現>をあらわしていると見ることができることにある。
<自然観照の情緒的表現と合理的表現>、この双方の知覚を活動させている状況があることで、
この絵画は、人間にあるまじき残虐な行為と映らせるよりも、
<愛>という<縄>で結ばれた男と女の美しさがかもし出されることを感覚させるということがあり、
表題の『姦(=愛)の紋章(=縄)』という意義が表現されるものとしてあるのである。
平等という意義は、知覚作用としての<自然観照の情緒的表現と合理的表現>という問題である。
知覚作用においてのことであるから、男性・女性の性別に依存することはない、
むしろ、<女性を縛る縄の常識>で見たように、
<自然観照の情緒的表現>にあることを<女性の縄>とするならば、
<自然観照の合理的表現>とは、<男性の縄>にあると言うことができるものにある。
このありようを考察可能とさせる背景には、
精神と肉体の同一性という問題が如実となってきていることがある。
外観は男性でありながら、女性の心理と性向を持つ者、
或いは、外観は女性でありながら、男性の心理と性向を持つ者というありようである。
<人間の心的働きは男女両性の性質をもっている、それは肉体の性的性質に依存しない>
ということが示されている事実である。
この<性の同一性>という問題は、精神と肉体は、相互に依存し合うという同一の意義にありながら、
相互に分離し合うという相違の意義にあることをあらわす、という人間のありようが示されている。
<自然観照の情緒的表現>という<女性の縄>、
<自然観照の合理的表現>という<男性の縄>、
この双方の働きが導く認識へ向かうということを要請させるものとしてあるのである。


3. 洞窟の男と女


 男と女は寝床で濃密な夜を過ごした。
ふたりは互いの手をしっかりと握り合い、その全裸を仰向けにして横たわっていた。
静かな吐息をもらす寝顔には、精神的満足と肉体的疲労にひたされた穏やかな表情が浮かんでいた。
ふたりは互いを夢見あっている……男は女を思い、女は男を思っている……
男は女を夢見ることで、より男性的なものに成り切ろうとし、
女は男を夢見ることで、より女性的なものに成り切ろうとしていた。
なぜなら、ふたりがひとつになったとき、その性はあまりにも曖昧なものとなり、
互いの存在だけが不可分にあるというだけで、相手の存在は消滅しているかに思えたからだった。
恍惚とした喜びの瞬間ではあったが、自分が何者であるかを失ったときでもあったのだ。
いま、ふたたび互いの肉体を離れ、並んで横たわっていることは、性としての孤独でもあったのである。
そこで、ふたりは互いを夢見ることで求め合ったのである……
はじめて、ふたりが生まれたままの姿になって向かい合ったとき、
男には、女の美しい顔立ちやふっくらとした乳房、くびれた艶めかしい腰付きや漆黒の神秘な小丘が、
女には、男の凛々しい顔立ちや逞しい身体つき、堂々とそり上がらせた輝かしい一物が、
互いの存在を意識し合えば、それだけ、互いの思いはひとつになろうと強く求め合うのであった。
どちらからともなく、唇を寄せ合うと重ねた、重ねあう唇はおのずと開き合い、互いの舌先を誘った。
唾液のしずくが長い糸を引いて口端から落ちるまで、柔らかく粘っこくからみ合わされた。
男の片方の手が女の豊かな乳房をつかみ、もう片方の手で尻のふくらみを愛撫しはじめると、
女は片方の手で固くいきり立った男の一物を握りしめ、もう片方の手を背中へ這わせてなで上げた。
ふたりは唇を吸い付き合わせ抱擁し合ったまま、くず折れるように寝床へ横になっていった。
互いの求め合う唇は互いの舌だけでは満たされず、思いの真実をあらわす口へと向けられていった。
男は女の股間へ顔を埋め、女もまた男の股間が口もとへくるように互いの姿勢をとっていくのであった。
女の思いの真実をあらわす口は、すでに唇を開き加減にして甘美な蜜をにじませていた、
男はそれを舌先で拭うように舐めまわし、その奥へと濃密な襞をかき分けてもぐり込ませるのだった。
いきり立つ先端にある男の思いの真実をあらわす口にも、蜜のきらめく糸筋が長く尾を引いていた、
女はそれを舌先ですくって受けとめると、すすり上げるようにして怒張した輝きを頬張っていくのだった。
それだけで、ふたりは離れがたく、互いの舌先の愛撫は互いを高めるだけ強いものになっていった。
男の舌先が女の思いの真実の口を愛撫という言葉で開くよう説き伏せているように、
女の舌先は男の思いの真実の口を愛撫という言葉で吐き出すよう誘引していた。
男の舌先がつんと立ち上がっている女の敏感な小突起へ向けられたとき、
女のほっそりとした指先は男の尻のすぼみへ差し入れられていくのだった。
女の小突起が思いを込めて噛まれると、すぼみへもぐらされた指も優しくぐるぐると回転させられた。
そうして、ふたりが結ばれる最初のときがやってきた。
男は仰向けになった女のしなやかな両脚を双方の腕で抱え、互いの真実の口と口とを触れ合わさせると、
挿入という言葉でもって奥へと突き進み、女は受容という言葉でもって内奥まで招き入れるのであった。
しっかりと含み込まれてからは、突き立てる思いの激しさは受けとめる抱擁の思いの強さと拮抗し、
昇りつめていこうとすれば、それだけ、ひとつになっていることに分け隔てがなくなっていた。
男は女性になろうと懸命になっているようであった、
深く挿入された男性は女性があってこそ、恍惚とした喜びへ向かわされるものであり、
女性と一体になることは、男性が女性そのものとなることにほかならなかった。
女もまた男性になろうと懸命になっているようであった、
深く受容する女性は男性があってこそ、恍惚とした喜びへ向かわされるものであり、
男性と一体になることは、女性が男性そのものとなることにほかならなかった。
互いの性の存在は一体となったとき、ほとんど区別のつかないものとしてあったのだ。
それが確かであると思われた瞬間は、ともに恍惚とした喜びへ昇りつめたときだった。
だが、男の放出が終わり、女の痙攣が収まると、性の孤独がよみがえってくるのだった。
男も女もふたたび互いを求め合った。
互いを求め合い、互いを高め合い、ともに昇りつめて、互いに性の孤独を思い知らされた。
それが飽くことなく繰り返された、男にはもはや放出できるものが失われても行なわれた。
精神的満足と肉体的疲労の限界まで、求め合う思いは挿入と受容を繰り返させたのである。
男と女は寝床で濃密な夜を過ごした。
ついには、ふたりは互いの手をしっかりと握り合い、その全裸を仰向けにして横たわっていた。
静かな吐息をもらすふたりの寝顔には穏やかな表情が浮かんでいた。
だが、そのふたりの姿を許すことのできない者がいたのである。
人間がそれまであった動物から進化して、人間の道を歩き始めたときに誕生した理性である。
理性は人間が秩序化されて行動する目的のために存在するものである。
男と女の求め合うだけの性に秩序化された意義を与えるものである。
理性が許せなかったのは、そこに寝ている男と女が兄と妹、或いは姉と弟の関係であったことよりも、
ふたりが挿入と受容をとおして結ばれあうことで、昇りつめて恍惚とした喜びを果てしなく極め、
男が男性を乗り越え、女が女性を乗り越えて、分離することのできない混沌の一体となることにあった。
ふたつの性が双子の兄妹、姉弟の関係であることは、置換されることの可能性を意味していたが、
ふたつを分離する道徳的な人格形成よりも、求め合うエネルギーが実現化させる自由の方が問題だった。
理性は野放しになることを自由とは認めていなかった、自由とは秩序化された野放図であるべきだった。
男と女は拘束と懲罰をもって秩序化され、その性になるように飼育されなければならなかった。
人間の進化における手の使用と火の発見は、人間に技術と発想の展開をうながした。
理性は、その手を人間がみずから自然の植物繊維を撚って作り上げた縄で拘束し、
暗闇の洞窟に希望の光をもたらす火を閉ざすことによって、
男と女の性は、理性の光によってしか導かれないものであることを教え込ませようとした。
それを学ぼうとしない男と女には打擲の懲罰が待っているだけであった。
理性によって、互いを夢見る眠りからたたき起こされた男と女は、
それぞれがみずからの性を思い知るための縄掛けを藁から作られた荒縄でされた。
男は後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ、すでにそり立っていた一物にも自覚のための縄が巻きつけられた。
女も後ろ手に縛られ胸縄を掛けられ、自覚のための縄が腰から女のわれめへ締めこまれて食い込まされた。
ふたりは暗くじめじめとした洞窟へ連れていかれた。
そこで、ふたり並んで立たされると天井からの縄に繋がれて、ともに尻を理性の方へ向けさせられた。
    理性の光明は打擲の棒となって、男と女の柔らかな尻へ悲鳴の上がるまで振りおろされるのだった。
 男は全裸のまま荒縄で縛り上げられた不自由な身体へ加えられる打擲が苦痛だった、
みずからの性を自覚させられるために一物へ巻きつけられた縄が、
打擲の呼び起こす苦痛につれてますます怒張するそれに苦悶さえ生じさせていた、
男性に成り切ろうという思いははじめからあった、いまはもっと強くそうあることを感じさせられている、
しかし、女と切り離されて、その孤独な性に閉じこもらされていると、
次第に縄の拘束の苦悶や打擲の苦痛が痺れてくるような無感覚を引き起こし、
そうあることが恍惚とした喜びさえ意識させることに気づくのであった、
女がいなくても、男性であることだけで、昇りつめる恍惚とした喜びを求められることが感じられるのだった、
縄の抱擁による一物の高揚は、挿入など行なわれなくても、見事に放出を実現させたのであった。
女も全裸のまま荒縄で縛り上げられた不自由な身体へ加えられる打擲が苦痛だった、
みずからの性を自覚させられるために女のわれめ深くへもぐり込まされた縄が、
打擲の呼び起こす苦痛につれてますます立ち上がっていく女の小突起に苦悶さえ生じさせていた、
女性に成り切ろうという思いははじめからあった、いまはもっと強くそうあることを感じさせられている、
しかし、男と切り離されて、その孤独な性に閉じこもらされていると、
次第に縄の拘束の苦悶や打擲の苦痛が痺れてくるような無感覚を引き起こし、
そうあることが恍惚とした喜びさえ意識させることに気づくのだった、
男がいなくても、女性であることだけで、昇りつめる恍惚とした喜びを求められることが感じられるのだった、
縄の締め込みによる女の小突起の高揚は、受容など行なわれなくても、見事に痙攣を実現させたのであった。
生まれたままの姿を荒縄で縛り上げられた男と女は、
それぞれにみずからの性を自覚することで、おのおのが恍惚とした喜びにひたることができたのであった。
これが理性の求めた人間の内部にある男女両性のありようであった。
この秩序化された男女両性を道徳倫理の規律で社会化すれば、
男性は男性らしく、女性は女性らしくという、互いを分離させるための意義概念が発達していくことになる。
その男女両性の分離をより明確化しようとしてあらわれたものが男による女の虐待であった。
本来は、人間の内部にある男性と女性は、ひとつに結ばれようと求め合っているものである。
理性はその自由に発展していく性を秩序化するために両性を拘束し懲罰を与えたが、
今度はその拘束と懲罰を、片方の性によってもう片方の性を律するということで行なわせたのである。
性がみずからを自覚することで、相手の存在をまったく必要とせずに恍惚とした喜びに目覚めることが、
結局は野放しの方向へ向かっていくことにほかならなかったからである。


人間の心的働きは男女両性の性質をもっている、それは肉体の性的性質に依存しない。





ブラウスにタイト・スカート姿の女性は、生まれたままの全裸の姿にある男性が入ってくると、
その姿をしげしげと見つめながら、傍らにある、紙製の衣装箱を開けていた、
そこには、使い古して灰色に脱色した麻縄の束がごっそりと入っているのであった、
女性のほっそりとした白い指先は、その縄束のひとつを掴んでいた。
「冴内様のようなお方とは、いつの日かめぐり合えるものと思っていました。
それが今日、このとき、かなえられることになったことは、私の心からの喜びです、
私が叔父に育てられ経験させられてきたことは、この日のためにあったことだからです」
由香は、正座するみずからの前に立ち尽くしている、相手を見上げながらそのように言うのであった。
冴内は、波打つ艶やかな黒髪に縁取られた、美しい顔立ちをまじまじと見つめながら、
「縄を差し出されて、ぼくは、それを導きと理解しない者ではありません、
あなたの縄がぼくを導いていくありようをぼくは心から受け入れます」
と答えるのであった。
由香は、その言葉に対して、しっかりと頷くと、
手にした一本の麻縄に縄頭を作ってふた筋とし、小さな環を拵えた、
それから、しなだれた男性の陰茎をつまんで、その環を掛けるようにした。
「股を開いてください」
睾丸を左右からから挟んで、その縄尻を股間へ通そうとする仕草に、
冴内は、顔付きを正面に向けたまま、大人しく従うように、言われるがままになっていた。
股間へもぐらされた麻縄は、環を作った結びの部分を肛門へあてがわれるようにされて、
畳から立ち上がっていた由香の慣れた手付きで、尻の亀裂からたくし上げられた、
それから、その縄尻は、男性の背中を伝うように持ってこられると、
ふた筋の縄は、首筋で左右へ振り分けられて、身体の正面へ下ろされたが、
陰茎へ掛けられた環の張力が増すことにあっても、もたげさせるに及ばなかったことは明白だった。
身体の正面でまとめられた、ふた筋の縄は、首元、胸、鳩尾、腹の上部、腹の下部の五箇所へ、
等間隔の結び目が拵えられた、その縄尻は、腰付きを一度巻いて仮留めされた。
新しい縄がふた筋とされて、その縄頭が首元の裏側にあたる背中の縦縄へ結ばれた、
右側の腋の下を通されて、首元と胸の結び目の間になる縄へ掛けられて引かれた、その縄尻は、
背中へ戻されて、左側の腋の下を通されて、首元と胸の結び目の間になる縄へ掛けられて引かれると、
菱形の紋様が浮かび上がった、そのようにして、胸、鳩尾、腹の上部、腹の下部の結び目の間になる縄へ、
左右から引かれる縄が掛けられていくと、合わせて四つの菱形が身体の正面に出来上がった。
それは、菱形の紋様が浮かび上がる度に、陰茎に掛けられた環の張力を増させることにあったが、
背後で縄留めがされても、しなだれたありさまに変わりはなかった。
だが、男性は、柔肌へ密着する麻縄が増えれば増えるだけ、
高ぶらされる官能を感じ始めていたことは確かだった、こらえる羞恥のせいもあったが、
交感神経を刺激する、縄の圧迫は、我知らずに、興奮する思いへと駆り立てられていくことにあったのだ。
両頬を火照らせる、その高ぶる官能の心地よさは、全裸の姿態へ掛けられた縄へ従わされるように、
縛めが露わとなればなるだけ、広がっていくものにあるのであった。
思いを集中させられるように一点を凝視したまなざしの顔付きは、
その巧みな縄掛けを施した相手を見つめる恥ずかしさを漂わせていることにあった。
縄による緊縛へ閉じ込められた思いが逃れられないものあることを思い知らされるために、
腰付きを一度巻いて仮留めされていた縦縄の縄尻が正面へ戻されると、
そのふた筋は、睾丸を左右から挟むようにして股間へ通されて、
尻の亀裂からたくし上げられると、腰付きの辺りにある縄をまとめるようにして結ばれるのだった、
その残りの縄を使って、縛者は、被縛者に対して、両手を背後へまわすように促すと、
言われるままになる、重ね合わされた両手首を自由を奪われた証として、縛り上げていくのであった、
それから、二の腕を固定するようにそれぞれへ巻き付けると背後へ戻して、縄留めの仕上げが行われた。
波打つ艶やかな黒髪の美しい顔立ちと優美でしなやかな姿態がかもし出せる、
ブラウスにタイト・スカート姿の女性のほっそりとした白い手に縄尻を取られた男性は、
剥き出された陰茎も露わな生まれたままの全裸の姿態に四つの菱形を浮かび上がらせた、
綾なす亀甲縛りの緊縛姿にあって、その羞恥からは、俯かずにはいられない素振りにあるのだった。
「さあ、行きましょう、進んでください」
縛り上げた縄尻を手にした、由香は、そのように言うと、冴内を店のある方へ引き立てた。


二人が去った、部屋の畳の上には、脱ぎ捨てられた男性の衣服、
『SMクイーン 十月号』、縦55センチ・横36センチ・深さ8センチの衣装箱が残された。


店の陳列棚からは、古本が古本らしさを放つ紙とインクの腐食した臭いが、
カビと埃と体臭の干からびたような臭いと入り混じって漂っていた、
十畳程度の店内の狭さでは、当たり前のように空調設備はなかったから、
まるで、嫌なら入るな、と無言に言われているような威圧感のある雰囲気があった。
書棚に並べられている書籍の背文字を判別できるくらいの明るさでは、
おどろおどろしいというだけで、客を寄せないばかりか、店自体が無視されていたことであろう。
確かに、暗鬱で陰惨で異様で淫靡な雰囲気があったのは、
書棚に並べられている書籍を眺めると……
「奇譚クラブ」、「獵奇」、「人間探求」、「あまとりあ」、「風俗草紙」、「風俗科学」、「風俗クラブ」、「白表紙」、
「裏窓」、「風俗奇譚」、「サスペンス・マガジン」、「えろちか」、「SMマガジン・サスペンス&ミステリー」、
「あぶめんと」、「問題SM小説」、「SMセレクト」、「SMファン」、「SMキング」、「SMコレクター」、
「SMアブハンター」、「SMフロンティア」、「SM奇譚」、「SMファンタジア」、「SMクラブ」、
「S&Mスナイパー」、「POCKET・SM奇談」、「SMフェニックス」、「SMマニア」、「SM秘小説」、
「SMスピリッツ」、「SMソドム」、「サン&ムーン」、「えすとえむ」、「緊美研レポート」……
それらが<SM雑誌>と呼ばれているようなものしかなかったからであった。
全裸を緊縛された、男性にあっては、思いに耽らされる余裕もなく、
縄尻を取られて、女性に引き立てられていくばかりにあった、
木製の桟のガラス戸が軋みながら開けられると、屋外へ送り出されたのであった。




次回へ続く


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<章>の関係図


上昇と下降の館



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