< 展 > 縄でひとを縛る行為を<緊縛>と表現していた時代には、それにも増して、 その<緊縛>を人間にあるサディズム・マゾヒズムのあらわれであるとさえ考えていた時代には、 およそ想像のつかなかったようなことでも、 <民族の予定調和>へ向けられた持続する想像が実現されたときには、 実に何と言うことではなかった、ということでしかない。 人類史は、そのようにして、人間が想像できることであれば、 いずれはそれを実現できるという歴史過程を示して来ている。 歴史的解釈というのは、その時代に生きる者に適合した都合のよい形態として、 幾らでも改変の可能な事柄としてあるのである。 すでに起こってしまったことは、確かに、取り返しのつかない事実であるには違いないが、 事実の解釈は、どのようにでも有為転変としていくことができるということである。 できないことは、宇宙がそのありようを示して以来、 <人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンが実現されること> として定められている、 わが日本民族における<民族の予定調和>のような事柄についてだけなのである。 定められた<民族の予定調和>の前にあっては、どのような思想や事象の有為転変があらわされようと、 すべては、そこへ至るための歴史過程ということに過ぎないことだからである。 現在は、その歴史過程にあるのである。 しかしながら、<民族の予定調和>は、宗教性のある思想ではあっても、宗教ではない。 <わが国における唯一の正統性ある猥褻論理思想>であると称することではあっても、 それがわが日本民族にとっての唯一の答えをあらわすものではない。 ただ、われわれには、定められた<民族の予定調和>というものがある、というだけのことである。 幸福や愛や平和が祈願されるといったところで、 人間を唯一の思想のもとに結集させようとするありようからは、 それが相反や矛盾を引き起こすことは敵対を生み、敵対を解消するための整合性を求めては、 幸福や愛や平和をそっちのけにしての戦争や殺戮が答えとされるのは、 すでに歴史が明らかとさせていることである。 人間が整合性を求める言語による概念的思考を行っている限りは、変わり得ないことである。 もっとも、人間にとっては、むしろ、変わり得ないということの方が恩恵のあることなのかもしれない。 幸福や愛や平和が満たされた円満具足とした世の中が実現したとしたら、 現在までに行われてきた文学、美術、音楽、演劇、映画、コミックス、他諸々の表現は、 ことごとく存在理由を失ってしまう、<ないから、あり得る>という想像力が発揮されて作られたものは、 <あり得るから、いらない>ということが自明であるからである。 失ってしまった存在理由に取って代わる表現でも新たに生まれるなら、救いのあることかもしれないが、 そもそも、幸福や愛や平和をないがしろにする戦争や殺戮が実際に行われた事実があるからこそ、 人間が立たされる土壇場の劇的表現で、感動という整合性を作り出すことができたことである。 人間が立たされる土壇場の劇的表現は、戦争や殺戮の状況こそがあらわし得るということであったのである。 それはまた、多数が共感し、共感することでそこに多額の金銭が動き、社会経済が活性化することでもあった。 その経済効果を間単に放棄してしまうほど、取って代わる経済力のある表現が他にあると言えるだろうか。 ポルノグラフィ――残る大層な表現と言えば、それしかないわけであるが、感動をもたらすポルノグラフィという表現も、 ちまちまと行っている作者、例えば、鵜里基秀あたりがあったことだとしても、 その存在理由は、言うまでもなく、幸福や愛や平和の整合性的な感動ではなく、荒唐無稽の露呈にある以上、 少なくとも、これまでの猥褻な表現の程度では、取って代わることはできないものである。 ましてや、時代の趨勢は、情報の大半を金銭の多大に動くエンターテインメントが占めている状況にある。 たとえ、戦争や殺戮で一億の人間が死んだところで、生存し続ける数十億の人間の活性化の要因となることなら、 天国に召されたか、成仏していった、と思われて有効利用されることがあったとしても、不思議のないことなのである。 ただ、そうした意図があからさまには口にされない、ということがあるだけである。 おためごかしというありようは、人間が集まって社会を営んでいく上では、不可欠の処世の方法であるから、 批判したところで意義は生まれない、むしろ、事物の本質がわかっていない、とされるだけのことである。 どれだけ巧妙におためごかしを行うことができるかは、それがおためごかしであるとわからせないことにある、 馬脚をあらわすことがなければ、裁判で無罪であることを巧妙に立証するようなあり方と同様である。 従って、そのような複雑奇怪とした社会事情とは出来るだけ離れたありようで、 大人しく、ささやかに、秘めやかに、<民族の予定調和>へ真摯に思いを抱く男女が出会い、 生まれたままの全裸となった女性へ、男性が思いを込めた緊縛の縄の意匠を施し、 <信奉者の流儀>に従って縄の掛けられた陰茎を膣へ挿入して、ふたりが共に官能の絶頂を極めること、 その<色の道>の修行を通して、絶頂を極めた喜びの最中に生み出される想像力を切磋琢磨すること、 この縄による緊縛行為を実践し続けて行きたいことであるが、<民族の予定調和>は秘儀ではないのである。 ひとつの民族がいずれは実現する事柄であるから、公然とされることに誇りさえ抱けることなのである。 しかしながら、そこへ至るための歴史過程という現在にあっては、 その修行の行為がただの縄による緊縛の性愛行為にしか見えないとされても、これまた致し方のないことである。 残念ながら、われわれの想像力は、未だ未熟な段階にある現状をあらわとさせていることでしかない。 相似を同一と見なす誤謬を犯すこともあり、或いは、<導師様>である権田孫兵衛老人の第二の認識にあるように、 眼に見えるものが必ずしもその本質をあらわすものではない、 それらが外観を互いに似たものとさせていたとしても、本質は同一とは限らない、ということである。 そこで、この想像力ということに少し触れて、結びの言葉としたい、<結び>と言っても、 <結び>こそは、縄による緊縛の始まりであるから、終わりを意味することではない。 性的官能のオーガズムが開く想像力は、すべての人類に分け隔てなく与えられているものである。 性的官能のオーガズムがあらわすありようは、世界を円満具足とした思いにまで至らせる快感であり、 その余りにも刹那な時間は、男子でも、女子でも、思い至ることがあれば、 独りで簡単に求めることができる、という安易さの代償のようでさえある。 円満具足とした世界と一体感になるその快感は、永遠に続いて欲しいと思わせるほどの比類のないものであるが、 自慰行為という概念にあっては、みずからを慰めるとあらわすように、 陰湿で、情けない、浅ましい、罪悪行為とさえ思わせるようなものがあり、手淫とかオナニーと言い換えることをしても、 羞恥を意味する行為には違いないことから、心理的な抑制の掛けられたものとなる傾向に置かれる。 ましてや、相手があっての協調する行為で、性的官能のオーガズムが求められることであれば、 オーガズムを実感できない、或いは、実感できても、世界を円満具足とした思いにまで至らせる快感がない、 このように感じられることでしかない、と考えられるようなことであったとしても、仕方のないことであった。 長い間、閨房の秘め事という程度の重要性しか見出すことのできなかったことである、 或いは、性が開放された時代になったと言っても、男性や女性における、快感の特質といった程度のことであった。 男女は如何にして性交するか、という考えは、如何にして性的官能のオーガズムを求めるか、ということであって、 オーガズムの刹那な時間を高めるために、前戯と称される行為が様々に案出されてきたことではあったが、 オーガズムそのものがあらわす意義が着目されることはなかった。 ウィルヘルム・ライヒは、心理的抑圧だけでなく、肉体的硬直をも解放するには、 性的官能のオーガズムを体験する充分な能力が不可欠であり、 その能力は、個人と社会の中心に位置する重要性がある、という卓見を示した極めて少ないひとりであったが、 オーガズムを確実で容易に得られることの必要から集積装置というものを製作し、 空気中に浮遊するオルゴン・エネルギーという神秘へ答えを求めようとしたことは、 中世の錬金術師のありようと変わらない、宗教的思考の領域に留まることをあらわすものでしかなかった。 性的官能のオーガズムというものが、火をつけられ、燃え立たせられ、煽り立てられ、絶頂の快感へと至らせられる、 世界を円満具足とさせるその思いは、人間を超越する神に抱かれる宗教的法悦に匹敵するものであったとしても、 これほど見事にあらわされる起承転結が整合性の実感である、という意義を見ることはできなかったのである。 性の心理学は精神病理学と称されて、性は抑圧されたものである、ということが前提であって、 その抑圧は、オナニーを宗教的罪悪として考えることを因習としてきたありようにおいては、、 性的官能は日常茶飯事・四六時中働いているものである、ということも重要視されることではなかった。 抑圧された性ということが考察されるだけで、 その考察を行う思考の仕組みを研究はしても、その本質は、ほとんど問われることはなかったのである。 性の心理学の開拓者たちを見れば、 みずからのありように病的な悩みを抱いて、それを解決するための研究ということが同様な出発点であり、、 その性の病理学研究は、人間は最初から抑圧された性にある、という一般論を整合性のあるものとするために、 明瞭にあらわす患者を集めて、顕著であることを症例としてまとめ、解釈を付け加えていったというようなことである。 みずからの信仰するキリスト教やユダヤ教の所以から、その性的抑圧が生じていることが理解されていたとしても、 宗教の否定に繋がるような科学性をあらわせないものであれば、科学的ということに留まることであろう。 その学問の成果を成熟へ向かわせるために、開拓者の切り開いた原野を修正・追加していくだけの方法では、 原野の問題として、キリスト教・ユダヤ教の信仰者でなければ、適応しない学問と処方、 言い換えれば、精神病理学という神学をあらわしているに過ぎないことになる。 キリスト教・ユダヤ教の信仰者であれば、その学問と処方を信じて救済される、という心理学である。 しかしながら、キリスト教・ユダヤ教を信仰しない者には不適合である、と考えられることがあったとしても、 それが科学であり、自然科学と称される、物理学・化学・生物学・地学などにおいてあらわされる成果と同様だとされれば、 他に取って代わる心理学があり得ないことであれば、追従せざるを得ないことなのかもしれない。 だが、このことは、はっきりとしている。 キリスト教・ユダヤ教において、その固有の<民族の予定調和>というものがあるならば、 わが日本民族においても、固有の<民族の予定調和>というものがあり、 性の心理学というありようにあっても、われわれに特有の学問があり得るということである。 宗教性の問題が思考することにおいて、根本的な問題であることは、次のように考えられることである。 人間にあっては、その支配から逃れられないふたつの大きな力が作用している、神と重力という存在である。 神は精神と称される領域を支配し、重力は肉体と称される領域を支配して、人間の生存を持続させている。 肉体は、そのありようにおいて、地球上に棲息する動物のひとつの種類であることから始まり、 現在、自然科学と称される学問において、重力の支配から考え出され創り出された成果が示されている。 もうひとつの神の支配は、精神の発展として、人文科学と称される、哲学・文学・史学・語学、 及び、社会科学と称される、経済学・政治学・法律学・社会学・歴史学において、創り出された成果が示されている。 常に現在という時間を生きる人間にとっては、これらの創り出された成果が生存を持続させるものとしてあることは、 当然の結果であると思えるように、人類の誕生以来の神と重力の支配ということも、当然の事柄として考えている。 この当然としてある神は、人間が行う思考の活動そのものに依存していることだからである。 これらの学術がその目的として示しているように、人間とそれを取り巻く事象はどのようにあるものか、 ということがあらわされる前提には、その事象を人間の思考はどのようにして考えるか、ということがある。 この<どのようにして考えるか>ということは、極めて卑近で、必然的であって、問題として考えにくいことである。 思考する活動のありようを思考する活動のありようで考える、ということだからである。 人間というのは、このようにして、言語によって概念的に思考を行って、生み出した謎に答えを求めようとする。 生み出した謎には答えを出そうとする、という整合性を求めるのである。 では、どうして、人間は、謎を感じて答えを求めようとするのであろうか。 謎であるのだから、答えを求めることは、自明のことである、と当然のことのように考えられるが、 答えの出ない謎をそのままにしておいて、謎だけが独り歩きするようなことは、 どうしても、もどかしい感じがしてならないばかりか、欲求不満の焦燥さえ感じさせるようなことになる。 まるで、自慰行為をすれば容易に解消できる性的官能の高ぶりを抑制されているような欲求不満の感じである、 或いは、相手があれば、言い寄って思いを遂げたい、それどころか、挑んで強姦したいくらいのもどかしさである。 生み出される謎には必ず答えがある、という思考の整合性的活動は、必然的なことなのである。 何故、人間の行う言語による概念的思考は整合性を求めて活動するものなのだろうか、 この謎に答えが出されるものでなければ、 人間はどうして存在するのか、という謎が生まれれば、私は考える、ゆえに私はある、というように答えても、 整合性に支配された思考活動が超越されていることではない、ということがあからさまとなるばかりのことである。 それが最終の答えであるとされたとしても、そこから謎が生まれ、謎は答えを求め、答えは再び謎を生むことになる。 終わりのない繰り返しをあらわすことでは、世界の全体を意味するウロボロスという絵柄があるくらいである。 行われてきた学術の成果は、謎と答えの永劫回帰を矛盾なく超脱できることが最終の整合性であるかのように、 <展開される思想には終わりがない>ことを歴史的に明らかとさせてきたことだとも言える。 こうした思考のありようにあることが<神を当然のものとしてある>ことを考え出せるのである。 言語が未発達である段階の人間においては、神というものは存在しない。 整合性を求める言語による思考活動が行われることがあって、始めて、神は不可欠なものとなるのである。 人間とそれを取り巻く事象から生み出される謎に答えを求めようとしても、必ず、謎が残ることがわかるようになれば、 人間は、人間とそれを取り巻く事象のすべてを知ることはできない、と思い至ることができて、 不可知の謎は、その答えを人間を超越する存在があることで、全知の整合性とすることができる。 この思考の過程は、誕生した赤子が成長を遂げて言語を使用していくありようも、 人類の最初の言語獲得の経過における状況も、同様のことがあらわされている。 人間は、神を考え出したことで、答えのない謎が残り、それが独り歩きしていくようなもどかしさは避けられたが、 人間の行う言語による概念的思考が整合性を求めて活動することに答えが出たわけではないことは、 言語を組成した最初の人類も、現在の人類も、まったく変わらないままにある状態である。 人間を超越する全知の神を考え出した思考を展開させることへ散々に夢中になった挙句は、 神の不信、神の不在、不条理、といった思考へ至ることになったとしても、自然の成り行きということなのである。 そもそも、神は、思考の整合性を成立させるために、考え出されたものに過ぎないからであるが、 それに取って代わるものを人間を支配するもうひとつの力である重力に置き換えたところで、 つまり、自然科学の思考に求めたところで、人間の言語による概念的思考そのものが変わることではないから、 今度は、神の不信、神の不在、不条理に加わって、科学の不信、科学の不在、不摂理、となるだけのことである、 或いは、楽園にある男女を夢見て、動物としての肉体へ重きを置いて、自然へ帰れ、と叫んでみたところで、 言語による概念的思考を完全に放棄することなしには、ヌーディストの願望に過ぎないようなことである。 つまるところは、人間というのは荒唐無稽をあらわすものでしかない、と考えるに至るばかりのことになるのである。 人間の悲劇とも喜劇ともつかないありようであるが、このありようがあるからこそ、 劇的表現というものが成立することでもある。 芸術における劇的表現は、思考の整合性があって、感動の生じさせられることである。 謎が示され、その答えがどのように結び付いて示されるか、という表現の可能の探求成果ということである。 このことは、もちろん、文学ばかりではなく、美術や音楽、舞踏や演劇、映画やコミックス諸々も、同様のことである。 整合性的に答えを求められないありように悩む人間が芸術を慰めや励みとすることができる所以である。 しかしながら、芸術が神や重力に取って代わり、思考の整合性を超脱することを可能にさせるということではない。 ただ、そこに示される表現の可能の探求成果は、人間にある想像力の存在を明瞭とさせるのである。 想像力とは、ないものをある、と考えることのできる能力である。 この能力をもってして、全知できないという不可知の思考にある人間は、<当然にある神>を考え出したのである。 言語による概念的思考の整合性的活動から、少しだけ飛翔できる能力として、想像力はあるということである。 整合性から逸脱したものであり得ることが想像力の醍醐味と言えることなのである。 この想像力の使われ方が民族によって異なることが民族固有の思想や芸術を生み出させている。 わが日本民族には、日本民族に固有の想像力の使われ方があるということである。 わが日本民族における<民族の予定調和>が、 <人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンが実現されること> とされているのは、想像力が日本民族固有の使われ方で成し遂げられることをあらわしているのである。 <民族の予定調和>が宗教ではなく、宗教性のある思想に過ぎないものであると言っているのは、 言語による概念的思考の整合性で考え出された<当然にある神>から持続した思考で形成された宗教に対して、 <当然にある神>からの飛翔を想像力をもって行われることには、相違があることだからである。 概念的思考の整合性にある<当然の神>は、<想像力の神>に成り代わるものである、という相違である。 そのための<色の道>として、<民族の予定調和>へ真摯に思いを抱く男女が出会い、 生まれたままの全裸となった女性へ、男性が思いを込めた緊縛の縄の意匠を施し、 <信奉者の流儀>に従って縄の掛けられた陰茎を膣へ挿入して、ふたりが共に官能の絶頂を極めること、 絶頂を極めた喜びの最中に生み出される想像力を切磋琢磨すること、という修行があるのだが、 この行為における、官能の絶頂を極めること、つまり、性的官能のオーガズムを得るということは、 言語による概念的思考がどうして整合性を求める活動を行うものであるのか、という謎へ結ばれることである。 人間は、言語を組成させ発達させる以前の状態において、 その動物としてのありようで、他の動物が得ているのと同様に、性的官能のオーガズムを生殖の基としていた。 火をつけられ、燃え立たせられ、煽り立てられ、絶頂の快感へと至らせられる、 という性的官能のオーガズムが実感させる整合性を体得させられ、思考活動へ影響を及ぼされていた。 人間と他の動物は、オーガズムを知覚することは同様であっても、その後の進化を異なったものとさせたのは、 言語を組成させ使用する思考の働きにあるが、整合性を求めることから行われる思考の活動は、 整合性が果たされる性的快感を意識させられることで、 概念は謎に対する答えであるから、概念を創り出すことに喜びを覚えるということで発達していき、 概念は概念を整合性的に生むということで思想として発展していったものである。 言語による概念的思考が不可知と出会えば、謎となり、答えを求めさす、という永劫回帰の運動となったのである。 人間が他の動物に対して、発情期という周期性から超脱していくことが可能であったことも、 整合性を求める言語による概念的思考にあっては、いつ性的官能のオーガズムの整合性が求められても それは互いに交感する整合性であって、相反も矛盾もあり得なかったからである。 人間は、性的官能は日常茶飯事・四六時中働いているものである、ということを明瞭に意識化できたということである。 人間が行う言語による概念的思考の整合性を求める活動は、性的官能のオーガズムに依る、ということである。 フランツ・カフカがその日記で、作品の仕上がった整合感の喜びを射精の快感があると喩えたようなことは、 他の芸術家や思想家にあっても、あからさまに言われることが少なかったというだけで、 性的官能のオーガズムと言語による概念的思考の結び合わされる、整合性の快感は感じられていることで、 人間は、このようにしてある、ということである。 このありように意義を見出すことができなかったとしたら、それは、その民族固有の想像力にあるからである。 言語による概念的思考における<当然にある神>から持続させて形成された唯一神の宗教にあっては、 人間を超越する絶対性の唯一神が創造した整合性的世界が条理とされているから、 不条理ということが意義を持つ事柄としてある。 条理と不条理、善と悪、神と悪魔、こうした相反する概念は、人間と神という相対から出発していることで、 神を思考できる精神と他の動物と同様である肉体を分離させて考えることに至らせたのである。 精神の事象は、肉体の事象と切り離されて、ひとり歩きできることが成長を意味することに考えられたのである、 肉体が女性的であれば、精神は男性的に、母から産まれた子が自立するというような具合にである。 女性が男性に比べて劣る存在と見なされる傾向は、肉体の重要性をあからさまとさせる動物性をあらわすからで、 男性の陰茎は性交で用いられる以外に遊んでいるのに対し、 女性の膣や子宮は、それ以外に、新しい生命の誕生・養育・出産の大事を行うことが如実とされていることにある。 精神に属する事柄は、肉体に属する事柄と切り離されてこそ、その存在理由がある、と考えられたことであった。 唯一神信仰によれば、救世主を産んだ聖母が性交なしの無原罪の受胎であるということは極めて重要なことであり、 性が動物性を意味することであれば、オナニーで快感を求めることは罪悪である、という因習も作り出されたのである。 人間は動物であるには違いないが、他の動物に比べて遥かに高い存在にある、という自負、 人間であるからこそ、尊厳のある崇高な存在となることができるという、この地球上における第一人者という矜持である。 その矜持を裏付けるものは、人間にあってこそ、超越する絶対性の唯一神という存在を思考できるということだった。 その信仰にある者だけが人類の終末である最後の審判によって救済される<予定調和>があるということだった。 それは、民族の想像力から生まれた、ひとつの<予定調和>なのである。 その民族が実現を目指して歩まなければならない道なのである。 従って、人間を超越する絶対性の唯一神が開放された健康的なものとしてあり得るから、 人間は抑圧され病的にあることが唯一神によって創造された人間という不完全さのあかしとなることなのである。 その抑圧され病的にあることの理由を人間関係、社会関係、文明や文化との関係に求めたところで、 その思考は、神の完全性という整合性に基づいていることである以上、 不完全であるという整合性しか示せないことであるのは仕方のないことなのである。。 人間が生み出した人間関係、社会関係、文明や文化は、概念的思考の暫定的な結果でしかないからである。 人間の精神がその肉体と同様に健康な状態が病的な状態になる、と考えることは一見自然なことのように見える。 しかしながら、その見方は、精神の事象と肉体の事象を切り離してきたことから考え出されたことであれば、 精神の事象にある謎の答えが求められないとき、それが肉体に属する性にあると考え出したとしても、 それは、相反や矛盾に出会い、その答えを超越する絶対性の神の整合性で解決しようとしていることでしかない。 不可知の性が心理の事象にどのように照応するものであるかということを探求するという神学でしかない。 完全である健全な神のもとにあっては、不完全な人間は必然として病的となる、という前提が始まりだからである。 人間には原罪がある、ということが始まりだからである。 精神の事象と肉体の事象を切り離すことによって、精神の崇高と尊厳である唯一神の威信において、 無原罪の受胎といった想像力から、オナニーを罪悪と見なす因習を継承し続けた歴史が明らかとさせていることである。 人間が行う言語による概念的思考の整合性を求める活動は、性的官能のオーガズムに依るということであれば、 概念的思考の整合性の活動をみずから罪悪と定めたところから出発する思考なのである。 こうした歪曲された思考から生み出される心理というものが病的をあらわすものと見えたとしても不思議はない。 心理における相反と矛盾の病気を神の力だけでは救済することができないことから生み出された、 精神病理という心理学ということである。 そのありようが間違っていると言っていることではない、そのような身のほど知らずなことを言えるはずがない。 それは、その民族において、正義なのである。 精神病理の心理学は、人間が病者であり、健康となることを目的として考え出された方法である、 人間が心理の病者でなければ、適応しない方法であるということである。 これこれの心理の状況が人間にはあると綿密な症例からの精神分析が思想として示されていたとしても、 その心理学を信仰することによって救われるかどうか、というありようであるか、 ひとつの心理する方法としての見事な文学表現でしかないものである、ということがあるだけである。 人間の.思考の状態が、尋常であるか、異常であるか、健康的であるか、病的であるか、という相違の判断は、 思考が筋道を立てて、折り合いを付ける、辻褄を合わせる、収拾を付ける、整合性を成す、ということを示すかにある。 ひとつの事柄に執着しても、そこにおける謎と答えの問答を行おうとしない、 ただ、心象として浮かび上がる像を言語にするか、絵として描くかするような心理のありようには、 思考の整合性が明確に示されていないことから、尋常でない、病的である、と見なすことがされるのである。 夢についての心象の像においても、奇妙奇天烈な夢が見られるということは、 その夢を概念的に思考する際の言語表現が適合するだけの整合性を示せないということがあるのだが、 夢が神の託宣をあらわすかのように、その表現された像の象徴性を意味付けて、 それは、個人としての誕生より始まり、幼児を経て、成人となり、老年に至るまでに留まらず、 民族にある集合性から、ついには、人類全体に共通することにまで及ぶと概念化される。 世界にある民族が人類という呼称のもとにひとつになる、素晴らしい想像であるが、 そこへ至るには、各々の民族は、まだ、固有の想像力においてしか、みずからを表現できないでいる、夢の事柄である。 夢というのは、夢を見ているそのこと自体にあっては、 どのように奇妙奇天烈であっても、奇妙奇天烈を感じることはない。 言語による概念的思考が始められることによって、整合性へと向かわされるからである。 夢をあらわす言語表現が適合するだけの整合性を示せないというありようを、 それが尋常ではなく、異質で、病的にさえ思える事柄にあることで、何らかの象徴を意味するものだとすれば、 もとより、言語の組成が対象を比喩としてしか取り扱うことのできないものである以上、 その比喩としての言語概念と別の眼に見える事象とを象徴関係として関連付ける方法は、創り出した用語に、 病者の症例がどれだけ相似としてあるかの数量を合わせるだけの整合性を示していることでしかない。 潜在意識や集合的無意識があるという深層心理という考え方は、 心理を直列に重層のものとして見なすか、或いは、並列に一層のものとして見なすか、 唯一の超越する絶対神を信仰する一神教にあるか、数多の神が自然として偏在する多神教の信仰にあるか、 という相違から出発する違いでしかないことなのである。 われわれは、当然、わが日本民族のありようとして、心理は意識が並列に一層としてある、と見なしている。 人間の脳にある記憶の蓄積が重層を持っているとされていることからすると、 心理する方法も重層であることの方が自然であることのように思えるが、 記憶を用いて心理する方法において、保管されている記憶の場所の構造は、それほど問題ではない。 保管されている場所から取り出してくる想像力のありようにこそ、問題があるからである。 想像力というありようにおいて、異なることがあらわされるということである。 人間には深層心理というものがあって、潜在意識の働きが人間の思考や行動へ作用しているという考え方は、 人間は、人間を超越する絶対性の神の力によって、その思考や行動が見守られ制御されていると考えることである。 ただ、心理学は宗教ではないから、心理学としての概念の呼称が別に作られるというだけである。 その概念の呼称に相反や矛盾が起こらないように、整合性的に体系化しようと考え出されていったものである。 従って、そこに働く想像力は、絶対性の唯一神へ依存しているものであるから、 すべての心理現象は、完全性を前にして、相反する概念から解釈されるものとなっているのである。 ユダヤ・キリスト教信仰にある者にとっては、馴染みのある想像力の使い方であるから、 そこへ性が導入されることには、最初は抵抗があっても、それさえ認められれば、宗教信仰と同様のことである。 わが日本民族は、それに追従できるのだろうか。 どうして、みずからの民族の想像力で心理の思想を起こそうとしないのだろうか。 わが日本民族が抱えている問題は、わが日本民族の想像力によって解決することの方が自然ではないのだろうか。 しかしながら、心配は要らない。 およそ想像のつかなかったようなことでも、 <民族の予定調和>へ向けられた持続する想像が実現されたときには、 実に何と言うことではなかった、ということでしかないのである。 縄文土器に表象されるように、わが日本民族の想像力は、独創をもってあることなのである。 わが日本民族においては、数多の神が自然として偏在するということにおいては、 そこへ異教の神が付け加えられたとしても、許容できるだけの想像力があるのである。 自然として偏在する数多の神は、どのような宗教が混在しても、 並列として考えられるという思考の可変性をあらわすのである。 互いに相反・矛盾する場合の事象でさえ、結ぶ・縛る・繋ぐことを可能とさせるのである。 この自然繊維の縄を操るように自在なありようをひとつの頑迷な鎖のような思想のもとへ隷属させようとすれば、 わが日本民族は、荒唐無稽を大きく孕まされたものとなり、破綻の整合性を示す以外にないのである。 わが日本民族をひとつに取りまとめる、ひとつの思想やひとつの宗教など、あり得ないということである。 唯一神信仰の民族から見れば、それは、整合性的ではない、矛盾だらけの奇妙さであるかもしれない。 しかしながら、わが日本民族は、そのありように矛盾を感じてはいない、 相反と矛盾が並置される、このありようにおいてこそしかあり得ないということが言語による概念的思考において、 わが日本民族の想像力を整合性から飛翔へと向かわせる独創を生ませることだからである。 生まれたままの全裸となった女性へ、男性が思いを込めた緊縛の縄の意匠を施し、 <信奉者の流儀>に従って縄の掛けられた陰茎を膣へ挿入して、ふたりが共に官能の絶頂を極めること、 絶頂を極めた喜びの最中に生み出される想像力を切磋琢磨すること、 縄による緊縛行為が加虐・被虐のサディズム・マゾヒズムと称される人間の心理の属性である意味はない、 サディズム・マゾヒズムが救世主の十字架磔刑の受難へ重ねられる想像力は、 われわれの想像力の使われ方ではない。 縄による緊縛行為は、男性と女性を結び合わせる人間の愛によるものである、それは言うまでもないことである、 だが、究極の愛、至上の愛、そのようなものではない、普通の男女の相手を思い遣る気持ちで充分なことである。 <民族の予定調和>実現への真摯な思いがあることこそが男性と女性を未来へと結ばせるからである。 言語による概念的思考を行い続ける人間である限り、 人類が動物としての根絶を迎えない限り、 あらわされる思想に最終のものはあり得ない。 人間として存在することの整合性を満たす最終のものは、人間の言語による概念的思考では考えられないのである。 ただ、それはあり得るかもしれないという思いに火がつけられ、想像力が掻き立てられ、 その向かうところへ煽り立てられて、ついには、喜びの快感の頂上へ至る、という整合性があるだけなのである。 性的官能のオーガズムが果たされれば、再び、求められるということがあるだけなのである。 この整合性の認識による思想が<民族の予定調和>へ向けて進行している。 人類は、ここまで到達したのである。 少なくとも、わが日本民族は、ここまで到達している。 |
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