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宇宙に数多ある星のなかの星のひとつ

地球

その星に棲息する数多ある動物のなかの動物のひとつ

人類

人類の数多ある民族のなかの民族のひとつ

日本民族

日本民族の数多ある人間のなかのひとり

みずから

ひとりのみずから

人間のひとりである

みずから

日本民族である

みずから

人類である

みずから

地球である

みずから

宇宙である

みずから

みずからという宇宙があることならば 

宇宙もまた数多あることである

数多あることがひとつとしてあるということではなく

ひとつは

数多あることにおいてのひとつとしてあることである

ひとつしかないものから始まる


数多という全体への道

縛って繋ぐ力による色の道

権田孫兵衛老人の黙示



この黙示は、すぐにも起こるべきことを<民族の予定調和>を求める人々へ示すために、

権田孫兵衛老人が伝え、文学部出身の岩手伊作が記述したものである



時が近づいているからである









































人間は、地球上に数多棲息するなかのひとつの動物である。
動物には、食欲・知欲・性欲・殺戮欲という生存のための四つの欲求が備わっている。
食欲とは、その誕生から死に至るまで、物質としての身体が維持されるために摂取する欲求である。
知欲とは、物質としての身体が維持される上で、知ることの必要を満たすために考える欲求である。
性欲とは、物質としての身体が種族として保存・維持されるために、生殖を行う欲求である。
殺戮欲とは、物質としての身体が維持されるために、他者を殺傷する欲求である。
頭部、胴体、手、足、陰部に相当する部分を備えた動物であれば、
すべての動物が所有している生存のための欲である。
生まれてきて、生存のための欲求を働かせて、死ぬ、ということでは、
すべての動物は同様にあるということである
生存のための四つの欲求は、それが不可欠なものであることで、動物の存在理由としてあることである。
人間の起源と言うことも、動物として、
この四つの欲求を備えていることがその後に展開されるすべての根源である。
人間が動物としてある限り、四つの欲求の活動も不変のものとしてあることでは、
過去、現在、未来における、すべてのありようの根源と言えることである。
従って、この生存のための四つの欲求の存在をおざなりにしたところで、ないがしろにしたところで、
ほうっておいたところで、知られざる支配下に置かれているということでは、
超越する絶対的存在としてあることである。
人間において、人間を超越する絶対的存在とは、
その欲求のひとつである知欲から作り出される神という存在以前に、
生存のための四つの欲求の存在があるということである。
生存のために活動する四つの欲求である。
いずれの人間にあっても、
生まれてくることで、四つの欲求の活動を満たすことを求めて、死ぬ、というありようである。
生まれてきた人間である以上、生存への欲求にあるということである。
生なくしては、何事も始まらない、
これがすべての起源であり、すべての根源としてあることである。
従って、<民族の予定調和>もまた、生を起源とし、根源とすることを免れない。






権田孫兵衛老人は、人間の想像力からつかわされた人物であった。
生まれながらにして老いさらばえていたから、権田孫兵衛老人と呼ばれていた。
風貌という外観から人間を判断することにおいては、
権田孫兵衛老人は、禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、
どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわとさせていた。
偉大な月岡芳年の描いた『奥州安達ケ原ひとつ家の図』にある鬼婆と瓜ふたつであったことは、偶然ではなかった。
権田孫兵衛老人は、宿業を背負った人物として、この世にあらわれたのであった。
実際は、過去もなければ未来もない、という現在の想像の産物であるに過ぎない人物であったにもかかわらず、
前世で行なった善悪の行為が現世に現れる報いである宿業のために、あらわれざるを得なかったのである。
謎めいた人物が胡散臭い風貌をしていれば、何だ、あのじじいは、と謎に対する答えが求められる。
その謎解きは、月岡芳年は、どのような意図から、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画を描いたものであるか、
そのことを問うのと一緒のことである、何故ならば、権田孫兵衛老人は、
『奥州安達ケ原ひとつ家の図』に啓発された想像力から生まれたものであったからである。
従って、権田孫兵衛老人は、特別な存在でも、特殊な存在でもない、
傑作絵画から啓発を受けることのできる者ならば、誰でも想像力を働かせることは可能であり、
ここにあらわれる権田孫兵衛老人のほかに、権田孫兵衛老人が数多に存在しても、まったく不思議のないことである。
人間の思考が働かせる想像力は、人間であれば、誰にでも備わっている当然としてある能力であるからである。
ただ、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』という絵画は、少々どぎつい表現があらわされているものであるから、
それを見る者と見ない者、知る者と知らない者があるというだけである。
その絵画に描かれていることは、
湯文字ひとつの臨月にある半裸の妊婦が後ろ手に縛り上げられて天井から逆さ吊りにされ、
その腹を切り裂いて胎児の生き胆を取り出すために包丁を研いで待ち構える、
非情な形相の老婆があるというものである。
岩手という名の老婆と妊婦は実の母娘であるという真相が切り裂かれた娘の死に際の言葉より明らかとされるが、
事実を知った岩手は、余りの驚愕に気が狂い、残虐非道の鬼婆と化してしまうということが画題である。
この題材の由来は、奥州に伝わる鬼婆伝説というものであり、それに基づいた浄瑠璃も作られている。
どのような意図からこのような絵画が描かれたのであるかと言えば、
月岡芳年は、人間のあるがままの姿を描いて見せたということが答えである。
人間には、人間を活動させる四つの欲求、食欲、知欲、性欲、殺戮欲というものがあり、この四つの欲求は、
人類の誕生以来、人類の滅亡まで不変に在り続けるものであれば、永遠の事柄と言えることである。
その絵画へまなざしをじっと向けると、浮かび上がってくることである。
赤い湯文字ひとつの半裸の女が白い柔肌をさらけ出せている。
噛まされた手拭いの猿轡からは、その顔立ちをはっきりと見ることはできないが、
長々と垂らされた艶やかな黒髪や豊かな乳房のつんと立った愛らしい乳首は、瑞々しい若さを漂わせている。
それにも増して、大きく突き出された孕み腹の白さは、初々しさの輝きをあらわしている。
その女に縄が掛けられているのである、後ろ手に縛られ、畜生扱いされるような首縄を施され、
ほっそりとした両腕にも巻き付けられているばかりでなく、孕み腹が飛び出すように下腹さえも締め上げられている。
そして、合わされた両膝を固定され、華奢な足首をまとめられて、天井から逆さ吊りとされているのである。
若い女の晒されている姿態が漂わせるものは、人間にある性欲の如実以外にないものである。
対照的に、同じように着物をはだけて半裸姿をさらけ出させた老婆は、
骨と皮という老いさらばえた姿を黒ずんだ肌であらわとさせ、
しぼんだ乳首の皮だけという醜さのふたつの乳房をだらしなく垂れ下がらせ,
禿げ上がった真っ白な頭髪、歯のないくぼんだ口もと、どぎつい目つきと鋭い鷲鼻があいまって、
老いた険しい形相を剥き出しとしている姿は、死を間近にしていながらの強靭な生の執念が漂っている。
何に対してのみずからが生き延びようとする執念であるかと言えば、
男のように立て膝をして、皺だらけの手で持った出刃包丁を砥石で研いでいる姿があらわしている。
老婆が如実とさせている人間にある殺戮欲は、みずからを生存させ、他者を殺害するというものである。
その研ぎ澄まされた出刃包丁の存在が結ばれる先にあるものは、若い妊婦の突き出した孕み腹であり、
膨らんだ腹が切り開かれて胎児の生き胆が取り出されるのは、食されるための人間の食欲の如実である。
絵画にある表現を見つめながら、それらを結び付けて、因習という全体として把握させることは、
人間にある知欲の如実が示されてあるということである。
因習としてある人間、永遠の人間の姿、人類の不滅のありようが表現されているということである。
このような傑作絵画がそこから展開される想像力を刺激しないということは、あり得ないことである。
その絵画作品を模倣するに留まる想像力では到底抑え切れない奔出を促すものがあるのである。
岩手という鬼婆の双子の弟として、権田孫兵衛老人を誕生させたのである。
人間における光と闇ということが問われるならば、闇は光を招き、光は闇を呼び寄せる、
光は闇のなかに輝くものであれば、闇は光のなかに瞬いているのである。
光と闇は、双子の姉と弟のように、互いに結ばれることを禁忌とされているが、
互いのなかに相似をあらわしていながら相反を示し、矛盾を示していながらも同一をあらわすものであった。
光と闇とは、互いの闘争において、互いの姿をあらわすものでしかなかったからである。
光と闇とを区別するのは、人間の言語による概念的思考によるものである。
人間の言語による概念的思考が整合性を求めて行われることによる。
矛盾とは、物事の道理が一貫しないことであり、ふたつの事柄が互いに対立し、闘争し合うということである。
整合性とは、矛盾のないことである。
<民族の予定調和>と称されることの<調和>は、整合性が示されることである。
岩手という鬼婆が迫真的な存在であればあるほど、
その双子の姉弟である権田孫兵衛老人は、あかしのためにあらわれねばならなかった。
人間の光と闇についてのあかしを行い、彼によって、想像力を求める人間が言語の命を考えるためである。
彼は光でも闇でもなく、ただ、光と闇について、あかしをするためにあらわれたのである。
もっとも、あかしをするためにあらわれた以外に、何ができたであろう。
『奥州安達ケ原ひとつ家の図』に表現されている妊婦と鬼婆の構図を模倣したところで、
そこに、人間のあるがままの姿を読み取れない想像力からは、
人間にある四つの欲求のうちで、勢いに任せてあらわすことの可能な性欲と殺戮欲の露骨な表現しか生まれない。
四つの全体性からすれば、性欲と殺戮欲という部分が強調された表現しか展開されない。
若い女性が全裸に剥かれて縄で縛り上げられ、男衆や老婆からありとあらゆる折檻や拷問を受け、
さらけ出された陰部を刃物や道具で陵辱された上は、四肢を切断されて晒しものとされる、
残虐非道の悲愴美と呼んでいるようなものでしかあり得ないことである。
それを人間のあるがままの姿としていることだとしたら、強調された部分が拡大解釈されていることでしかない。
人間の性欲と殺戮欲が刺激されることであるから、
それは、ひとつの扇情される表現であると思えることには違いないが、
それが人間のあるがままの姿であると言うには、不充分なことである。
人間にある、食欲、知欲、性欲、殺戮欲という四つの欲求は、その全体性において、
人間のあるがままの姿、荒唐無稽、ということを如実とさせていることだからである。
残虐非道の悲愴美と呼んでいることも、
人間にあるでたらめさ加減という荒唐無稽をあらわすものとして見ることが可能であれば、
性欲と殺戮欲の強調された部分を拡大解釈して表現されるポルノグラフィという表現にあっても、
人間の認識へと至らせるものがあるのである。
未だ途上にあるということにおいては、来るべきものがあらわされるための表現の過程に過ぎないことである。
古びた概念をばらばらにしていても、展開は生まれない、
古びた概念であっても、縛って繋いで結び合わせることで、新しい概念として生まれ変わるものがあるのである。
権田孫兵衛老人の黙示が現出せざるを得なかった所以である。







言語による概念的思考を行い続ける人間である限り、
人類が動物としての根絶を迎えない限り、
あらわされる思想に最終のものはあり得ない。
人間として存在することの整合性を満たす最終のものは、人間の言語による概念的思考では考えられないのである。
ただ、それはあり得るかもしれないという思いに火がつけられ、想像力が掻き立てられ、
その向かうところへ煽り立てられて、ついには、喜びの快感の頂上へ至る、という整合性があるだけなのである。
性的官能のオーガズムが果たされれば、再び、求められるということがあるだけなのである。
この整合性の認識による思想が<民族の予定調和>へ向けて進行している……
このように述べられている<民族の予定調和>である。
人間として存在することの整合性を満たす最終のものは、人間の言語による概念的思考では考えられない、
ということであれば、<調和>は、矛盾のないという整合性をあらわすものであるから、
<民族の予定調和>とされることは、<調和>が目的とされることである以上、あり得ないことになる。
それは、ただ、<民族の予定調和>はあり得るかもしれないという思いに火がつけられ、想像力が掻き立てられ、
その向かうところへ煽り立てられて、ついには、考え至る喜びの快感の絶頂へ達する、
という整合性があるだけのことになる。
その性的官能のオーガズムに匹敵する快感が果たされれば、再び、求められるということがあるだけのことになる。
考え至る喜びの快感の絶頂に、最終の答は見いだされないのである。
あったように思えるものは、その折々の四季の移り変わりのようなものでしかなくなるのである。
鴨長明という偉大な文人が書きあらわしたように、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」
ということがあるだけのことである。
鴨長明は、人間の言語による概念思考の永劫回帰を見事に表現し、
そこに、「万物は生滅流転し、永遠に変わらないものは一つもないということ」である<無常>を認識した。
その反対とされる<常住>は、「生滅変化せず、永遠に存在すること」であるから、
<無常>ということが<常住>という認識としてあることならば、
永遠に変わらないものであれば、変わるものを嘆くことはないということになり、
その時の思いは、更に答えを見つけ出そうとすることにはない、ということへ至るのは当然のことであった。
言語による概念的思考が<かつ結びて>としてあれば成し得るとことであっても、
人間を超越する神という存在はこのようにした、とでも言うような初めから答えの示されること以外は、
人間の生み出す謎から生まれる答えは、謎を孕むことで答えとしてあり得ること以外にないことだからである。
人間は、その存在を全知することがあり得ない概念的思考の機構によって組み立てられているのであり、
その組み立てられた迷宮にさ迷い始めることを生、さ迷い終わることを死としているのである。
このような人間の言語による概念的思考の永劫回帰であれば、
そこから超脱する、人間を超える人間の存在という考え方も、
人間を超越する神の概念を置き換えたものとしてあるだけのことに過ぎない。
<言語による概念思考の永劫回帰>という<無常>にあって、
わが日本民族の文人のことごとくは、最終的には、死をもって神仏に成り代わることを祈願し、
神仏へその言語を返上したように晩年を終わる。
人間は、言語による概念的思考を行っている限りは、人間を超えることはできない、ということである。
にもかかわらず、わが日本<民族の予定調和>として、
<人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現すること>であれば、
所詮は、子供だましか、ままごとのようなものにしかならない。
子供だましか、ままごとのようなものにしかならないから、
これまでに叡智ある先人の誰ひとりとして、わが日本民族に<予定調和>があるなどと口にしたものはいない。
仮にあったとしても、荒唐無稽のたわごとであるとして、誰にも省みられなかったことである。
人間の本質を追求していると言って行われている表現は、すべて一歩手前のところで行われてこそ、
万人を納得させる上で、子供だましやままごとのようなものにならない、ということである。
一歩手前のところと言っているのは、
われわれ人間存在の前には、人間の本質として立ちはだかる<荒唐無稽>というものがあるからで、
それを言ったらお仕舞いよ、という暗黙の是認、相互理解なくしては、文芸は成り立たないということである。
かくして、初めに、言語があったのである。
言語は、人間と共にあった。
言語は、人間であった。
示される言語が理解されることにおいて、言語は、初めて、人間と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、ひとつとして、これによらないものはなかった。
言語による概念的思考から作られた世界であった。
その言語には、命があった。
命は、人間の光と闇をあらわしていた、
光は闇のなかに輝いていた、
闇は光のなかに瞬いていた。
権田孫兵衛老人の光と闇についての黙示は、
子供だましかままごとのようにたわいのないものである。
人里離れた閑静な庵において、ひとりの女人を相手として行われたことであれば、
それがあかしである。
緑豊かな自然に囲まれ、自然の草木から造られた庵にて、自然の植物繊維を撚った縄で、
権田孫兵衛老人は、
女人を<かつ結びて>ということをしたことであった。






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☆上昇と下降の館



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