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緑豊かな自然に囲まれ、人里離れた閑静な庵とは言っても、 樹木と漆喰から造られた住居としては、四畳半の部屋がひとつだけあるという、実に簡素なものであった。 ひとりで黙想にふけり、文をしたためるというのであれば、少しは快適な空間であったかもしれないが、 大の大人がふたりあって、道具の類も置かれ、加虐・被虐の男女行為が行われるには、少々手狭な感じがした。 しかし、狭いの広いのと言うだけの余裕は、それをまかなえる財力のある者が持つことで、 似非新興宗教と間違えられて当然といったありさまの<民族の予定調和>の<導師様>にあっては、 日課として、近隣の子供たちに綾取り遊びを教えて、ただ同然で借りられる場所としては精一杯であった。 屋上と地下を備えた三階建ての立派な建築物である<上昇と下降の館>の地下室に居所があれば、 殊更、そのような辺鄙で通信事情の悪い場所へ、一時的であろうと転居するということには、 それなりの深い理由というものがなくてはならなかったのである。 それは、わが日本<民族の予定調和>へ至る、 <縛って繋ぐ力による色の道>の黙示を行わねばならないことであり、 その壮絶極まる認識をあらわすには、相応の場所が必要とされたということであった。 認識というのは、そこへ到達したときには、もはや元へ戻せない思考のありようのことである。 元へ戻すことが可能であるとすれば、それは、子供だましか、ままごとのようなものでしかない。 子供だましやままごとにしても、その<見せ掛け>はなくてはならないことであるから、 どれだけ見事に見せ掛けられるかを案出することは、 喜怒哀楽という感情移入が人間らしさの本質と考えられている傾向にあっては、 思想や物品が売れるか売れないかに関係する重大要件であるから、 おざなりにしたり、おろそかにしたり、ないがしろにしたりは、できないものとしてある。 人間は、表現というありようをもって、みずからを他者へ向けて意思伝達する存在である以上、 人間の表現にとっては、<見せ掛け>ということは本質以上に重要であり、必要不可欠なものということである。 <本質>というのは、大方、無味・殺伐としているありさまがあるから、 <本質>を剥き出しであらわすことは、おちんちんやおまんこをあからさまとさせることに似て、 最初の衝撃力はあるが、良く良く見てみれば、それほど大したものではないと感じさせるものがある。 むしろ、あからさまとなったおちんちんやおまんこに、そこはかとない愛らしさを感じることさえあれば、 それこそが<本質>は無くてはならないものであることを実感させることをあらわしている。 事物の<本質>ということは、そのように、知ってしまったら身も蓋も後味もない、ということが本質であるが、 あからさまとなった愛らしいおちんちんやおまんこも、 そこから展開される<見せ掛け>、つまり、両者の<結ばれ方>が重要であるということである。 これから示される<縛って繋ぐ力による色の道>ということにしても、 その<見せ掛け>が奇態な様相をあらわしていると感じられることだとしたら、 われわれの認識が未だそこへ到達していないというだけで、 子供だましやままごとである、という当然の批判があることだとしたら、 本質以上に劣る表現力の<見せ掛け>がある、という常道を行っていることに過ぎない。 <本質>以上に劣る<見せ掛け>であるから<見せ掛け>である、と言えることであるが、 常道は行われなければならないことで、権田孫兵衛老人がそうした庵を選んだことも、 ひとつは、偉大な鴨長明も庵を結んで、万物の生滅流転の不変という<無常>の認識へ到達したこと、 ひとつは、<奥州安達ケ原の鬼婆>が実の娘へ行った惨事も、同様なたたずまいがあったことであった。 そして、いま、そこへ、ひとりの女人が連れて来られていた。 拉致されてきたとか、かどわかされてきたと言った方が正確である連行のされ方であったが、 <導師様>とまで呼ばれる人物がか弱い女性をてごめにするための所業であると、 最初から勘違いされては困るので、 ここは、女人の意思に関わらず庵へ招待されたものである、と述べておくことにしたい。 女人は、連れて来られたときの姿のまま、部屋の中央へ座していた。 鮮やかな木目の板敷きの床へ、座布団のひとつもなく、正座させた身体を崩さずに、 身に着けていた瀟洒な柄の着物に彩られながら、若々しい輝きをそこはかとなく漂わせているのだった。 目鼻立ちの端正である、艶麗な美人と言い切ることに躊躇を感じさせない存在感があったが、 麗しい顔立ちのまなざしは、庵の開き戸からのぞいている、緑が織り成す生垣の方へ向けられていて、 落ち着かない思いの様子は、膝の上へ重ね合わされて置かれた、ほっそりとした白い指先の震えに伺えた。 やがて、老人の体質から尿意が近い事情を解消し終えた、 権田孫兵衛老人がひょっこりと部屋へ顔をのぞかせた。 老人が席を外している間に、女人が逃亡を企てたとしても不思議はなかったが、そうはしなかった。 そうしない代わりに、女人は、あらわれた権田孫兵衛老人の姿をまじまじと見据えたのである。 禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、 どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわとさせている姿は、 一瞥しただけで、ぞっとさせられるものが感じられる風情があった。 日本民族の栄光ある文芸の伝統からすると、善悪の相対としては、悪役や敵役の風貌と言えた。 二十一世紀の現代の傾向であれば、美男子や美女が悪役や敵役を張るということは絶妙でさえあるが、 怪奇小説や恐怖映画にあらわれるようなおぞましい風貌の老人が善の守護人というのは、まだ珍妙であった。 日本民族の総人口における、老人の比率は増加の傾向にあることであるから、 いずれは、珍妙も絶妙となることには違いないが、そこから先となると、飽きられるということでもある。 絶妙も、繰り返し行われることであれば、いつしか飽きられるということで、 新手の趣向に努力のない表現は、どのようなものであっても、同じことが言えることである。 将来の老人問題へ触れたついでと言っては何であるが、ここに表現されている言語が文芸のひとつであれば、 いつしか飽きられるかもしれない、という文芸の将来という問題にも、少し触れておきたい。 文芸の全般に及んで触れることになると、この文芸表現の最終章まで占有してしまうことであろうから、 それでは、<文学部出身の岩手伊作の記述>ということは果たされるものの、 どこが<権田孫兵衛老人の黙示>であるのかが曖昧となってしまうので、 この場合は、この文芸表現と同様の<物語>について、触れることにする。 小粒ながら優れた物語作品は沢山作られるが、日本民族の文芸の指標となる傑作がなかなか生まれない、 と日本の文芸の将来を嘆くような方がもしも仮にいらっしゃったとしたら、 <物語>が成立するための要素ということに注目して頂きたい。 <物語>は、幻想、恐怖、推理、官能、という四つの要素が見事に結び合わされたとき、 その文芸としての表現力を最大限に発揮するものとなるのであるが、 このことをあらわしているのが、現在にまで生き残り続ける神話やおとぎばなしと言えるものである。 現在、傑作<物語>と呼ばれているものが遥かな未来に生き残り続けるものとしてあるならば、 それは、同様に、神話やおとぎばなしのありようを示すことになる、ということである。 <小説>と呼ばれていることは、ひとつの表現様式の<傾向>をあらわしていることに過ぎないものであるから、 表現の要求に従えば、様式は次々と展開せざるを得ないことが存在理由である以上、 <物語>はあり得ることであっても、<小説>の様式が生き残り続けることではない。 現在から展開せざる得ない<小説>ということは自明のことであって、 <本質>ということが問われる限り、様式という<見せ掛け>には、<唯一・絶対・最終>がない。 その<物語>には、幻想、恐怖、推理、官能、という組成要素がある。 幻想というのは、自然と超自然を対照させて、人間における現実と非現実に想像を羽ばたかせることである、 恐怖というのは、人間の不可知という実態を肉体という感覚で境界があることを意識させることである、 推理というのは、謎は答えを求め、答えは謎を孕む、という人間の概念的思考の整合性を行わせることである、 官能というのは、性欲を掻き立てる扇情と性的オーガズムを求める想像を働かせるということである。 登場人物と筋立てと環境状況において、人間という存在をこの四つの要素が浮き彫りとさせ、 笑いという逸脱が加われば、男女の不倫から神の問題に至るまで、表現が可能となるということである。 ところが、お気付きの通り、この四つの組成要素というのは、 実は、文芸を売らんがためにジャンル化された現在のありようをあらわしていることでもある。 消費者が物語へ手を取りやすくするために、そのジャンルの出来の良い作品は生まれることはあったとしても、 四つの要素の全体性を如実とさせた物語作品が生まれにくいのは当然の傾向、と言えることなのである。 日本の文芸の将来が増大する読者の離脱にあることを嘆くものであるか、 日本民族の文芸の指標となる傑作が誕生しないことを嘆くものであるかは、 どこから考えるという立場の相違に過ぎないことであるが、 いずれにしても、<物語>という文芸表現の体裁の<見せ掛け>をしていても、 <民族の予定調和>という事柄を取り扱う本編とは、大きく関わりのある問題ではないことは事実である。 日本民族の文芸の指標がどのような方向へ向っていこうが、 いずれは、<民族の予定調和>という事柄へ向っていくことは、すでに定められた歴史としてあるからで、 ひとつの民族が生まれ変わるという事柄の前には、 すべては、その起こることのための過程に過ぎないことを必然とさせていることだからである。 成就される過程にあっては、どのような事柄があり得たとしても、大差がないということである。 権田孫兵衛老人も告げられている、 これまで示されてきたように、身内の争いこそが国を興すということであるならば、 たとえ、姉と弟、という近親内輪の争いに過ぎないことであっても、 光と闇とをあらわとさせるためには、光と闇との闘争はなくてはならないものである。 庵の部屋へ座している、光り輝くように若々しく美しい女人があるとすれば 権田孫兵衛老人は、老いさらばえた醜悪な容姿をあらわとさせた得体の知れない闇であった。 しかも、その老人のささくれ立った手には、使い古された麻縄の束が携えられていた。 開き戸から覗くような人物でもいれば、醜い老人が綺麗な娘をてごめにするのだろう、と思わせるものがあった。 女人は、ふてくされた思いをあらわすように、 見つめやっていた相手から顔立ちをぷいとそらせ、態度を硬直させるばかりになっていた。 権田孫兵衛老人は、その相手の眼前へ、縄の束を見せしめるようにして掲げるのであったが、 それはどう見ても、女人は、老人によって縄による緊縛で陵辱されることを思わせた。 美しい女、醜悪な男、おぞましい縄、という三つの物的対象があり、 それらを結び付ける概念が緊縛であるということは、 人間のなかにある加虐と被虐の性的欲望があることによる、とするのは旧態の心理学によるものである。 新しい心理学においては、心理は表現という外在化をもって表象されることであるから、 美しい女、醜悪な男、おぞましい縄、という三者を結び付ける概念が緊縛ということであっても、 その緊縛が表現の目的として行うことに依存して、加虐・被虐の意味付けが行われることになる。 加虐・被虐の意味付けということは、人間のなかに既存としてある性的欲望があってのものではなく、 加虐・被虐という行為があらわされることの目的である、抱かれる概念そのものに依るということである。 従って、加虐・被虐という行為があらわす残虐さの程度は、その目的とされる概念に依存している。 昆虫の首をそぐことも、幼児の首を切り取ることも、殺戮欲の表現としては同一である、 それが当人の抱く概念との同一をあらわしているものであるかどうかは、常習化しているかどうかにある。 常習化している行為であれば、概念の結び付きは、昆虫の首と幼児の首を同一としているから、 昆虫の首をそぐことが楽しいと感じていることであれば、幼児の首も同様となる。 ここに、想像力の関与があれば、同一に楽しいと感じていることであっても、 昆虫の首と幼児の首は異質のものであり、その異質は、殺戮の表現は殺人を意味することを理解させる。 殺戮欲を満たすことは快いことであると感じれば、殺人の概念はただの殺戮の表現に過ぎなくなる。 倫理という概念を想像力の関与から行うことができれば、抑制や禁制が生まれることになるが、 概念相互の異質を想像力によって理解できない状態にあれば、 殺戮欲の表現は、それがただ楽しいことであるから行う、 という概念的思考の未発達をあらわすものでしかなくなる。 概念的思考の未発達というのは、成人ではなく幼児へ退行した段階にある、という見方よりは、 つまり、人間の身体的成長過程という直列した流れに心理のありようを見るということではなく、 言語による概念的思考においては、その場合の並列に置かれた概念の結び付きにおいて、 身体の成長年齢に関わりなく、概念を結び付かせる発達の程度が存在する、と見るべきことである。 それは、言語の発達に依存していることであるから、幼児よりも成人の程度には緊密なものがあるのである。 人間の行う思考活動は、それが古い記憶であったとしても、いまそこにあるものだとしても、 概念という単位において、概念と概念との結び付きから行われることである。 言語によって形作られたすべての概念は、一面の並列の状態に置かれていて、 無意識と呼ばれる領域は、概念と概念が結び合わされて認識されない場所をあらわしていることである。 概念と概念の結び付きというのは、概念を形作る言語の組成と同一のありようを示していることであるから、 われわれは、文脈を形作るように、概念と概念との結び付きを行っているということであり、 文脈をうまく形作れないで、名詞、動詞、形容詞、副詞などをばらばらにしたままで、 表現の目的となる意味を結ばせることが困難な状況にあっては、 概念的思考の未発達は、表現としてあらわれるありようを尋常とはさせないものとするのである。 概念的思考の未発達ということが人間にはある、ということである。 全体からすれば、未発達な概念的思考を人間は成長させ続けているということが進化と言えることである。 また、未発達な概念的思考を人間は所有しているのであるから、その脆弱な体質にあれば、 人類はすべて精神の病者になる可能性があることだとも言える、 辛うじて健康を保っているものの、いつ病気に冒されるとは断言できないことになる。 精神治療に関係する概念が近年に至ってますます増大しているとしたら、 地球環境が温暖化によって壊滅的となる状況と平行して、 人類の精神は壊滅的な病気と化してしまう兆候を示している、という予想のできることである。 人類の終末が予兆される、それこそが黙示である、と言われても、納得できることかもしれない。 世界を善の方向へ向かわせる、精神治療こそが人類を<救済>するものである、 といった宗教性を帯びることは、現段階では、やむを得ないことなのである。 未発達な概念的思考から生み出されるものは、所詮、絶対性の神の前提では、赤子でしかないからである。 権田孫兵衛老人の黙示など、それに比べれば、実にたわいのないものと言える、 人間は、強靭な生存への意志を所有する存在であるから、 その生存への意志を如何にして発揮させるかということがあり、 <民族の予定調和>は、そのひとつのあらわれに過ぎない、というおめでさである。 未発達な概念的思考があるとすれば、 より発達する方向へ向かわせることが新しい心理学の機能である、と考えていることである。 言語による概念的思考の心理学は、まだ始まったばかりのものである、 ほかの文芸がそれなりの根拠を持ってあるように、この文芸物語は、新しいその心理学を採用している。 美しい女、醜悪な男、おぞましい縄、この三つの物的対象のありようは、 言語による概念的思考の心理学からすれば、陳腐でさえある紋切り型の配置にありながら、 そこにおける縄の存在ひとつで新たな様相をあらわす概念となることなのである。 その縄であるが、明らかに数多の人間が縛られてきたことをあらわすように、 人間の滲み出させる、汗、涙、唾液、鼻汁、小水、愛液、精液を吸い、 色褪せて灰色と化した老獪な麻縄であった。 女人の美しい顔立ちの前へぶらぶらと不気味に揺れていたが、 澄んだまなざしは、忌まわしいものを見つめるように深い陰りを漂わせ、それから、 おもむろに老人の方へ向けられた瞳には、きっとなった敵対する表情があらわとされていた。 「このようなところへ無理やり連れて来られたからといって、 どのようなことをされたからといって、 私は、あなたの思い通りにはならないわ!」 開かれた赤く綺麗な唇から、吐き捨てられるように飛び出した言葉だった。 権田孫兵衛老人は、たじろぎもせず、険しい老いをあらわとさせた無表情で答えていた。 「いいから、さっさと身に着けているものを脱ぐんだ。 みずからの本性をさらけ出させることに、虚飾で覆い隠された美しさなど、まったく必要ないことだ。 さあ、生まれたままの全裸の姿になれ」 女人は、にらみ付けるまなざしを返しながら、頑なとさせた態度のままにあった。 老人は、さらに相手へにじり寄ると、険しい老いの無表情を真顔にして言い放つのであった。 「どうだ、わしがその美しい着物を無理やり剥ぎ取ろうか! そうされることを本当は望んでいるのだろう、誰からもされたことはないからな! そのようにつんと澄まして、男を見下げたようにしたところで、 いや、人間そのものを貶めるように思い上がったところで、本性はあからさまとされるのだ! わしは、今日のこのときのために、縄の結びを精進してきた! 姉さん! わしは、あなたを生まれ変わらせるために、縄による緊縛の真髄を極めてきたのだ! ぐずぐずしているなら、わしが脱がせるぞ!」 権田孫兵衛老人は、艶かしいうなじをのぞかせる着物の襟ぐりを捉えようとしたが、 女人は、汚らわしいとでも言うように、美しい顔立ちをそむけて振り払い、 すねた素振りをあからさまとさせながら板張りの床の上へ立ち上がっていた。 「いやよ、やめて! 私は、あなたの思い通りなんかにはならない、と言ったでしょ! 誰があなたになんか脱がせてもらうものですか! いいわよ、自分で脱ぎます、私は、みずからの意志で裸になります! すけべえな思いをたんとふくらませて、 私の女としてのありようをしっかりとそこで見ていることね!」 姉は、そう言い終わると、くるりと背を向けて、ほっそりとした白い指先を帯締めへ掛けていた。 たとえ、実の姉弟という近親の間柄であったとしても、 女性が男性の前で裸になる、それも、生まれたままの全裸の姿になるというのである。 しかも、その全裸の姿には縄が打たれるというのであるから、 姉の美しい顔立ちも、羞恥と不安と緊張を漂わせた思いをあらわす変化が浮かび上がっていたが、 持ってこられた指先はしっかりとしたものであったから、すぐに、帯締めは解かれていった。 それから、帯揚げが外し始められたが、それも間もなかった。 白い指先は、艶麗な帯へと掛かっていた。 弟は、姉の背中を眺め続けるだけであったが、 手際よくするすると解かれていく帯は、滝の落下を思わせる華麗な感じを見て取らせるものがあった。 瀟洒な柄の着物の裾元には、帯締めや帯揚げの色とりどりに加えて、帯が艶麗なうねりを見せ、 着物を支えている伊達巻や腰紐までもが外されていくと、 百花繚乱の花々に足もとを埋められて立つ風情さえかもし出されるのであった。 民族の女性が民族伝統の衣装を脱ぎ去るありさまというのは、 綺麗で、愛らしく、艶やかで、艶めかしく、匂やかで、麗しく、美しさそのものの外観があることだった。 姉は、支えるものを失って裾前が左右に割れた着物を双方の手で掻き合わせるような仕草を取っていた。 流し目をくれたまなざしに薄っすらとした笑みさえ浮かべて、背後からの視線を意識して見せた。 それは、これ以上見ることを望むのならば、はっきりとそうおっしゃってみたら、と言っているかのようであった。 女人がみずからの存在理由に立てば、それを立証する自負や矜持を抱いたところで当然のことである、 それほどに、この地球上において、女人のあらわす美の表現は傑出しているものがあるのである。 険しい老いをあらわとさせた無表情が答えとなるばかりのことであった、と見受けられたとしても、 見つめる男性としては、表現はさらに展開してもらいたい、という充血の始まりであったことだった。 しばしの間が妖艶な静寂を伴わせた。 女人は、焦らされて悶えている謎の答えを出すように、姿態をさも悩ましそうにくねらせて斜めにすると、 瀟洒な着物を肩からそろそろとすべり落としていくのであった。 そして、あらわされた純白の長襦袢姿の艶めく美しさだった。 芳しい香りが撒き散らされるように匂い立つ色香が漂っていたが、 緊張していた顔立ちも、いまは、羞恥の衣まとった自負を意識して、桜色にほんのりと上気していた。 それがますます、成熟した女人の喜悦と艶美と恥じらいをかもし出せているのだった。 いつまでも眺め続けていることに飽きがこないほど、醇美、優美、秀美が漂っているのであった。 女人自身も、見せつけるように直立させた姿勢を微動だにさせず、顔立ちを前方へと華麗に向けていた。 見つめ続ける男性には、たとえ、後姿であっても、艶かしさの余りある風情が感じられることであった。 それから、女人は、きらきらと潤いを帯び始めたまなざしをほんのわずか落した仕草をして見せたが、 これから行うことの羞恥の思いを滲ませたようで、愛くるしくさえ映らせるものがあるのだった。 純白の長襦袢を支えている伊達巻へ、ほっそりとした白い指先が掛けられていた。 思いさえ固まっていれば、そのような結びや紐は、難なく解かれていくものであった。 伊達巻がはらりと落下すれば、純白の長襦袢の裾前はおのずと左右へ割れていく、 裾の長く引かれた姿になった女人は、その割れた内奥にある肌襦袢の結びをためらわずに解いていた。 それから、腰をかがめ横座りの姿勢になって、左右の足袋を脱いでいった。 ふたたび立ち上がったときには、長襦袢と肌襦袢の裾前は大きくはだけて、 身に着けている衣類よりも、さらに白い胸のあたりがのぞいているのであった。 それ以上に覗くことが可能かどうか、といった懸念などまるで無意味と言わんばかりに、 朱色の湯文字の帯紐を解き終わると、長襦袢と肌襦袢を一気に肩からすべり落させたのであった。 一糸もまとわない生まれたままの全裸という姿があらわとされた。 結い上げた艶やかな黒髪が白くほっそりとしたうなじを艶かしく際立たせ、 その首筋から左右へ撫で下りた優しい線は両肩の華奢な感じを震わせていた。 なめらかさのある背筋は、潤いのある乳白色を輝かせながら、 左右へ添えられたように伸びた柔和な両腕とか弱い両手を揺らめかせ、 腰付きの優美な曲線を悩ましいほどに美しく立ち昇らせていた。 深い亀裂に割られたあざといくらいの淫靡が尻の肉付きを深い情感をたたえたものとさせ、 すらりと伸びて尻を支えるしなやかな両脚を危なげなものにさえ映らせていた。 さらけ出された女体の背後という、妖しく麗しく揺らめく美しさであったが、 それを地上の存在物であるという圧倒であらわとさせたのは、女人がこちらへ向き直ったときだった。 綺麗に結い上げた黒髪の美麗は、その顔立ちの艶麗さがあってこそのものであり、 大きくもなく小さくもなくふっくらと隆起したふたつの白い乳房は、桃色をした可憐な感じの乳首を光らせて、 眼を見張らせるものがあったが、その下にのぞく綺麗な形をした臍のくぼみは、 悩ましい色香を放つ腰付きの方へとおのずと視線を向けさせるものがあるのだった。 艶かしい量感のある乳色をした左右の太腿をぴったりと閉じ合わさせて、 のぞかせる漆黒の和毛が夢幻の靄を思わせるように、女の秘所を浮き立つようなふくらみが覆い隠している。 ウィリアム・ブレイクが<婦人の全裸は、神の聖業>と述べたことがイギリス女性を見つめてのことであれば、 地球上で最も美しいのは日本女性の全裸である、ということを躊躇なく言わさせるものがあるのであった。 姉の女体のその美しさに、弟も、老いの無表情を茫然とさせたまま、 ただ眺める以外にないというように、立ち尽くしているばかりのことであった。 あらわされる美の真実は、言語の超越された美の戴冠である。 姉の方も、純粋な男性のまなざしを強烈に意識させられ、突然、激しい羞恥に見舞われたようになっていた。 みずからの手でみずからの裸身をあらわとさせてしまった女人は、 人前へ生まれたままの全裸を晒すというその恥ずかしさは、 そのような大胆な振るまいを行わせたみずからというものを恐れさせ、 そのような姿になってしまったみずからは、これからいったいどのようになるのだろう、 という不安を一気に募らせているようであった。 あらわとなったふたつの乳房は、情感をたたえた美しい隆起をあらわしていたが、 桃色に息づいている乳首の愛くるしいほどの可憐さは、 まるで乙女のそれのようにさえ感じさせる趣きのあるものであったが、 その乳白色に色づくふたつの乳房をほっそりとした両腕で覆い隠すようにして掻き抱くと、 見つめられていることはもうままならないとでも言うように、くず折れるようにして床へ片膝をつくのであった。 そして、最も恥ずかしい箇所は絶対にひとめには晒すまいと、 艶めかしい量感をあらわす左右の太腿をぴったりと重ね合わさせるようにするのであった。 さらに、なめらかと言えば、まるで、純白の磁器のような麗しさをかもし出させている背中を丸めて、 裸身を小さく縮み込ませると、見られることを恐れるかのように、顔立ちを懸命にそむけるのであった。 女人は、こらえ切れずに、しくしくと泣いていた。 澄んだ瞳の両眼に涙があふれ、それが銀のしずくとなって膝へ落ちるたびに、艶やかな黒髪がそっと揺れ、 すすり泣く声音を消え入るような切なさ、やるせなさ、哀しさを帯びたものとさせていた。 それは、いじらしさを滲ませたものであったが、腰付きから尻へかけての優美な曲線へ眼を奪われると、 妖しい美しさを漂わせた深く淫靡な亀裂に割られて、 悩ましいふくらみをあらわとさせた尻が官能を匂い立たせる貪欲な量感を示しながら、 美の顕現者である女性であることは、女性の性欲があることを如実と感じさせるものがあるのであった。 「姉さん…… 姉さんは、本当はそのように美しく優しい普通の女性に過ぎない、 お願いだから、目覚めてくれ、 もう、残虐非道な鬼婆の振舞いに、みずからの生の喜びを見出すような真似は終わりにしてくれ! そうして涙を流す人間のままで在り続けてくれ、お願いだ! 姉さんを縛る縄など、もはや必要のないことを明らかとしてくれ!」 権田孫兵衛老人は、手にしていた麻縄を強く握り締めながら、 顔付きこそ老いの無表情であったが、思いが震わせる声音で叫んでいた。 姉は、涙に濡れた美しい顔立ちをそっと起こすと、弟を見据えながら、優しい声音で答えるのであった。 「いいのです、私は、覚悟しています…… それだからこそ、あなたに付いてきたのではないのですか…… 縛ってください……あなたの思うがままの縄で私を虐めてください…… 虐められることで、私のなかにある被虐の思いが目覚め、それが本望となり喜びとなることがあれば…… 私から、女を虐め殺すなどという忌まわしい加虐の思いを追い出すことができるはずです…… 私は、そのように概念化された女として、考えられてきた女なのですから…… 縛ってください……」 姉は、そう言い終わると、乳房を覆い隠していた両腕を離して、そろそろと背中の方へまわすのであった。 それから、ほっそりとした双方の手首を重ね合わさせて、縛られることを求めるのであった。 弟は、その仕草をじっと見つめながら、姉は本当は普通の女性に戻りたいのだと思ったが、 生まれたままの美しい全裸の姿にある女性が縄で縛られることを求めてあらわすその姿が、 それは、これ以上にないというほどに、絵になる妖美を漂わせるものであったが、 実際に縄を掛けることをためらわせる、性欲をそこはかとなく放つ肉体という迫力があることも事実であった。 姉は、待たされるのに痺れが切れたとでも言うように、俯かせていた顔立ちを上げると強い口調で言った。 「何をぐずぐずしているのです、先ほどの意気込みは何処へ行ったのです! 私を縛るために、今日のこのときのために、 縄の結びを精進してきた、緊縛の真髄を極めた、と言ったのでしょう! ならば、私の身体でそれを示して見せなさい、さあ、早く! いきり立たせたものも、より迫真的な美の前では萎えてしまう、ということなのかしら、だらしがないわ! さあ、私を虐めて、私は、あなたから虐められることを望んでいるのよ!」 姉の美しい顔立ちは、燃え立ち始めた情欲で桜色に上気し、ふたつの瞳はきらきらと輝いていた。 弟は、相手から叱咤され、立膝とさせ後ろ手になって待つ裸身へ、意を固めて近づいた。 全裸の女体から匂い立つように漂っていた芳香がむせ返るような強烈な体臭となって間近となり、 重ね合わされた華奢な手首へ、ふた筋とさせた麻縄を巻き付けていくのだった。 麻縄が柔肌へ触れた瞬間だった。 姉は、びっくとした驚きを裸身を震わせてあらわとさせたが、 すぐに、縄の感触へ意識を集中させるように寡黙をあらわして、されるがままとなっていった。 手首をふた巻きして縄留めされた灰色に色褪せた麻縄は、すぐさま、 女人の身体の前方へと持ってこられ、ふっくらと綺麗に膨らんだふたつの乳房の上部へまわされ、 背中まで戻されるともう一度前方へとまわされ、最初の縄へ重ね合わせるように掛けられていったが、 姉は、柔肌へ密着する麻縄の圧迫に、後ろ手に縛られた不自由な身の上を思い知らされたように、 美しい顔立ちのまなざしを掛けられていく麻縄へ落し続けながら、綺麗な形の唇を真一文字とさせていた。 一本目の縄が背中で縄留めされると、すぐに二本目の縄がその箇所へ結ばれ、 身体の前方へ持っていかれたが、今度は麗しく隆起している乳房の下部へ掛けられていくのであった、 上部の縄と同様にして二重にまわされていくと、柔和な両腕が厳しく固定されていく思いを伝えるかのように、 姉の赤い唇からは、ああっ、ああっ、というやるせない溜め息が押さえ切れずに漏らされるのであった。 二本目の縄の残りが背後から左右の腋の下へ通されて、正面の縄を締め上げるようにしていくと、 ふっくらとしたふたつの乳房は、桃色の光沢が際立つくらいに乳首を突き出させる格好となり、 肉体へ掛けられた縄は、身動きを思いのままにはさせない、ということをしっかりと教え始めていた。 そこに言葉は必要なかった、縄がみずから語り始め、緊縛される女人はみずからそれを聞くのであった。 <縄による緊縛>ということが<陵辱>だけを意味していた時代には、およそ考えられなかったことであるが、 人間は、性的欲望という属性として、サディズム・マゾヒズムというものがあるのではなく、 その概念の根拠とされたマルキ・ド・サドやザッヘル・マゾッホがひとつの文芸表現であったに過ぎないように、 <縄による緊縛>ということが<陵辱>だけをあらわす表現ではない文芸表現の出現にあっては、 いつしか、オセロ・ゲームのように、概念の形勢は逆転していることがある、というだけのことであった。 当時、そのようなものを出版したら、読者にそっぽを向かれてしまう、といった作品評価や、 そのようなものを書く作者は、本人が気がついていないだけで気違いだ、とされた批評があったことでも、 文芸表現の存在意義は、その表現された言語の<本質>にあるというよりは、 <見せ掛け>となる<売れ行き>に依存することが社会的に認知された度合いをあらわす、 という不変の指標を成立させていることを示す事実があるだけのことであった。 <売れ行き>に影響を及ぼさない言語表現であれば、 どのような表現が行われようと、遥か対岸の火事のようなもので、社会的な問題とはされないということである。 クラフト=エビングがどのように再評価されようとも、商売の邪魔となるようなことでなければ、 高々、猥褻な文芸表現に過ぎないものがある、というだけのことなのである。 つまり、事物の<本質>という問題は、言語の発生以来より、そのようにあるように、 <見せ掛け>や<売れ行き>に依存しないありようにおいて<本質>を示すことでしかない。 概念の成立が時代の嗜好に合わせた転変・流動のありように比べては、きわどいものであるということである。 <本質>という概念は、まかり間違えば、<無>をあらわすことでしかない、とさえあることだからである。 <本質>の云々と言っていることの大半は、<見せ掛け>と<売れ行き>を示すことでしかない所以である。 権田孫兵衛老人にとっても、姉の本性をあからさまとさせることは、きわどい事柄であった。 醜い男性が美しい女性を嬲っている、ということであれば、陳腐ではあるかもしれないがわかりやすく、 <見せ掛け>と<売れ行き>のある文芸表現のひとつであったかもしれない。 だが、縄というものに向き合えば、緊縛という概念にあって、縄はみずからを語り始めるのである。 自然の植物繊維から撚られた物体が実際に言語を語るわけではないから、 当然、それは、語られる事柄を聞き取る被縛者の言語において示されるものとなる。 もっとも、この点も、言語による概念的思考の認識がまだ明確ではなかった古い時代においては、 みずからの声を縄そのものが語っているような驚きと不思議と目覚めで意識させられたことであったから、 縄に人間を超越する神的存在が宿る、というアニミズムとしてあったことである。 権田孫兵衛老人が立てようとするあかしは、人間を超越する神的存在の是認ではなかったから、 胸縄として施した縄尻を手にして、相手を床から引き立てるようにして、 無理やり立ち上がらせるそのありさまが罪人扱いのように酷く映ったとしても仕方がなかった。 女人は、直立させられた姿勢に、あられもない姿をさらけ出してしまったという激しい羞恥に襲われて、 全裸の姿態をよじるようにしながら、懸命に顔立ちをそむけさせていた。 老人は、その相手の正面へ立つと、険しい老いの無表情をあらわにして、じっと見据えるのであった。 女人の方は、美しい顔立ちを真っ赤にさせながら、まなざしさえこちらへ向けようとはせず、 麻縄で後ろ手に縛り上げられ、胸縄を掛けられた、生まれたままの全裸を必死にこらえるように、 羞恥と不安と恐れから湧き上がる震えを姿態にあらわとさせているばかりであった。 <縄による緊縛>行為を性感を高めるための常習的な行為としている女性にあってさえも、 女性がそうした立場に立たされれば、不自由な身の上であって、しかも、全裸となれば、 <陵辱>されることを必然とさせられる思いを感じることは一般的なありようである。 その<陵辱>は、男女の性行為を意味する概念であるから、 みずからの望まない男性によって性器を自由にされる恥辱が意味されることであるが、 一方では、男女の性行為は、<官能のオーガズムへ導かれる快感>を意味するものでもある。 <被虐>ということが、ただ、虐められるということであれば、それは、言語においてであろうと、 暴力を伴ったものとしてあろうと、<苦痛>を意味するだけのものでしかない。 従って、その<苦痛>の概念が<官能のオーガズムへ導かれる快感>へ結び付くことはない。 <被虐>という概念は、それを思考するとき、<陵辱>の概念を結び付けて行うことで、 初めて<官能のオーガズムへ導かれる快感>を意味するものとなるのである。 <苦痛>は、その最中にあっては、苦しく痛いものでしかない知覚である。 <苦痛>を与えたり、<苦痛>を与えられたりして、性的快感が呼び覚まされるということは、 異性間ばかりでなく、同性間にあっても、性的対象を相手としていることがあるというだけで、 そのような性的欲望が人間にあるわけではない。 拷問は、どのように表現されようと、形容詞の付かない<苦痛>があるだけのものである。 ただ、異性や同性が全裸にされたり、鞭打たれたり、拷問道具に晒されたりすることは、 <陵辱>の概念と結び付けられるということがある、ということである。 <陵辱>は、<官能のオーガズムへ導かれる快感>を意味するものがある、ということである。 <加虐>に意味があるとすれば、それは、みずからよりも弱小の立場にある対象に対するということで、 人間に備わる<殺戮欲>が満たされる対象を選択していることでしかない。 <加虐>は、その者よりも強靭な立場にある対象には決して行われることはないという意味で、 相対する両者のいずれがより生存を求めているかを表現するという行為でしかない。 それを相手に思い知らせることを通してみずからを知る、ということである。 <加虐>の至る最終行為が殺戮であることは、当然のありようであって、 そこへ至るありように、<官能のオーガズムへ導かれる快感>を感じるということがあっても、 それが<陵辱>の行為にあれば、<加虐>と<陵辱>の結び付きがあることは当然である。 概念的思考において、<官能のオーガズムへ導かれる快感>ということが余りにも強烈なものであれば、 その得体の知れない力と感じられるものを強烈に神秘的なものと見なして、 人間を超越する神的概念と結び付ける性の神秘思想が生まれるのは、その民族の宗教性でしかない。 <加虐>と<被虐>は、人間であれば、誰でも行うことの可能な表現行為のひとつでしかない、従って、 その表現の方法以外の概念が案出されれば、民族の宗教性から生まれる性の神秘思想へ向うことなく、 その新しい概念による表現を用いることは可能である、ということに過ぎない。 表現の特徴的な傾向だけを寄せ集めて、それを病的な心理のあらわれとして考察するという方法は、 心理は、言語による概念的思考である限り、物質としての肉体と同様に行える事柄としてはあり得ない。 心理の科学を称する者が人間を超越する神的存在の信奉者では、その整合性は成立し得ないことは、 人間の認識が次の段階へ展開する過渡期にあることをあらわしていることでしかないのである。 人間は、言語による概念的思考を行っているに過ぎない、という認識への過渡期である。 柔肌を縄で拘束された感触は、最初は冷え冷えとしたものである。 それは、ごわごわとした縄がそこにあるということを伝えて、両手を動かすことはできても、 折り曲げられた両腕の手首は固定されてままならない、という思いを確かとさせていく、 やがて、ごわごわとした縄が厚ぼったい感じを帯びてきて、熱さを感じさせるようになると、 身動きの自由を奪われているという思いは、縄で拘束されているというよりは、 縄で熱く抱擁されているのではないか、という感じへ移り変わっていく、 縄で縛られたことは、苦痛を感じさせることであるというよりは、むしろ、疼かせる刺激に感じられる、 生まれたままの全裸の姿にあるという、あられもなく、恥ずかしい姿態にあることが、 疼かせる刺激をますます意識させていく、その刺激が縄の感触にあるというよりは、 みずからのなかにある、疼かせる刺激であることを思い至らせるのである、 その疼かせる刺激が気持ちの良い快感へ向うものであることがわかると、 全裸を縄で縛られているということの羞恥と屈辱でさえ向うことへの拍車のように感じられる、 縄は、縛られた者へそのように語り、縛られた者は、明らかな言語でもってそのように答える、 <官能のオーガズムへ導かれる快感>へ向けては、羞恥も屈辱も苦痛も、概念は総動員されて、 縄によって<緊縛>されたありようが意味することはただひとつ、 <喜び>をあらわすことにあることを示すのである。 <縄による緊縛>と<喜び>は、<官能のオーガズムへ導かれる快感>があって結ばれる、 <官能のオーガズムへ導かれる快感>がなければ、<縄による緊縛>と<喜び>は結び付かず、 それは、羞恥と屈辱と苦痛を感じさせるだけのものでしかないのである。 <加虐>や<被虐>の心理が最初から備わっているということではない、 ましてや、<加虐>や<被虐>の体質が最初からあるということではない。 <被虐>の<喜び>に目覚める、というのは、文芸表現としてはそれらしいものではあるが、 生まれつきのサディストやマゾヒストがあることを意味していることではない。 サディズムやマゾヒズムは、ひとつの文芸表現でしかないものである。 人間にある属性でもなければ、ましてや、<本質>ではない。 人間ということの認識の諸段階にあって、通過する<概念>にしか過ぎないものである。 <売れ行き>のある<見せ掛け>として有用でなくなれば、 古色蒼然とした陳腐な<概念>として、新しい<概念>に取って代わられるということである。 それは、作り出された<概念>である以上、 人間という認識の探求に終わりがなければ、転変と流動の淀みに浮かぶうたかたに過ぎないものである。 性的官能は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という五感と同様にある感覚としては、 常時活動しているものである、<官能のオーガズムへ導かれる快感>は日常茶飯事のものである。 人間は、この日常茶飯事の性的官能を<概念>として意識できるから、 その気になりさえすれば、時と場所と相手を選ばずに性的行為が行えるのである。 群棲する人間を<人間性>というひとつの目的のために結束させて<社会>を形成させるためには、 この性的行為の随意・野放図・放埓は、整合性のある思考を荒唐無稽とさせるものがある。 人類がその誕生以来、性的行為を<人間性>という<概念>の埒外のものとして戒めてきた所以である。 従って、<官能のオーガズムへ導かれる快感>は、善悪としては、悪を意味するものでしかないから、 性的行為に関係する事柄は、悪の犯せる者が取り扱う、<人間性>の反対を意味するものでしかない。 このように、<人間性>の<概念>は、性的行為を除いたものとして考えられているのであるから、 人間が<社会>を形成していく動物である以上、この善悪の認識は超えられるものではない。 ポルノグラフィの発生と歴史は、性的行為が善悪の彼岸にあることを表現してきたことであるが、 それは、一方では、人間の<本質>としてある<荒唐無稽>をも明るみに晒してきたことである。 人間を生存の目的へ活動させる<四つの欲求、食欲、知欲、性欲、殺戮欲>の存在、 その<四つの欲求>が横たわる<荒唐無稽>という<宇宙>の存在があることをである。 人間の<本質>に<荒唐無稽>というものがあるから、 人間は、その知欲による概念的思考において、整合性を求めることをするのである、 関わるすべての事象に整合性を求めるのである。 <概念>は、整合性を持たねばならず、<概念>と<概念>は、整合性の結び付きがなければならない。 人間には、サディズム、マゾヒズム、同性愛、フェティシズム、エディプス・コンプレックス、 エレクトラ・コンプレックス、ロリータ・コンプレックス……といった性的行為があると<概念>化したところで、 それは、表現の多様が意味されるというだけのことであって、出所は一緒のことである、 <人間は、その気になりさえすれば、時と場所と相手を選ばずに性的行為が行える>ということである。 ただ、その全体性の認識では、<見せ掛け>を作り出して<売れ行き>を示すことができないから、 <物語>の幻想、恐怖、推理、官能といったように、<概念>の範疇化が行われるのである。 <概念>の範疇が細分化していくことは、概念的思考が整合性を求める活動にある以上、 <見せ掛け>を複雑・多様化させて、<売れ行き>の付加価値を高めるということをもたらすのである。 人間は複雑・多様であるからこそ、それに応ずる複雑・多様の価値がある、ということである。 価値とは、言うまでもなく、社会に流通する金銭のことである、 <社会>という<概念>にとって、<金銭>は不可欠の組成のひとつであるから、 その重要さをあからさまに言うか、言わないか、 経済的にもっともらしく表現するか、えげつなく下世話にさらけ出すかの違い、ということがあるに過ぎない。 言語が作り出す<概念>には、唯一も、絶対も、最終も、あり得ないことなのである、 それがあり得るとすれば、現在あるようには、人間は存在しない、 それ以上に、<民族の予定調和>と称されるような未来についての表現もあり得ない。 人間の言語による概念的思考が作り出す<概念>に<唯一・絶対・最終>がないことは、 わが日本民族の偉大な文人、鴨長明がその転変・流動のありようを見事な言語で表現している通りである。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」 その鴨長明が女人を生まれたままの全裸とさせて、縄で緊縛した事実があったものかどうか、 現在に至るまでの研究では明らかとされていることではないが、 <縄による緊縛>が<官能のオーガズムへ導かれる快感>と結び付くような仕方で行われれば、 つまり、江戸時代における、<縄による緊縛>の精華である捕縄術が緊縛の主旨としていたことのように、 <縄抜けができないこと、 縄の掛け方が見破れないこと、 長時間縛っておいても神経血管を痛めないこと、 見た目に美しいこと> という<四つの主旨>で行われたことがあったとしたら、 被縛者は、異常、変態、残虐、非人間、といった<概念>を意識化させて反発することのない限り、 <縄による緊縛>は<喜び>となる、ということを知ることは、 鎌倉時代も、江戸時代も、平成時代も、変わらない事柄である。 ただ、そうしたありようの<概念>が傾向となる<見せ掛け>の<売れ行き>があるものかどうか、 という<謎と答えの因果の整合性>の問題があるというだけである。 縄が柔肌を圧迫することそのものが肉体への刺激として、日常性の紋切り型の感触を逸脱させる、 それが習慣とされるように常習的思考となれば、 <縄による緊縛>が<被虐>をあらすものだとすれば、<被虐>は<喜び>を意味するものとなる。 縄を見せられるばかりでなく、縄という言葉を聞かされるだけで、官能を疼かされることになるのである。 <官能のオーガズムへ導かれる快感>ということが言語による概念的思考に果たす役割は、 <人間の思考が性的官能に支配されたものである>ということの容認であるとすれば、 <社会>を<人間性>から見ようとする立場からは、反発を感じるのは当然のことである。 人間を生存の目的へ活動させる<四つの欲求>は、 各々は独立した活動であって、一者が他者を支配するという関係を持ってはいない、 相互に独立した活動である理由は、ひとつが減退や破損しても、残りは活動できるということにある。 <生存への意志>と呼ぶにふさわしい強靭さがあるのである。 だからこそ、それらが活動するために、<荒唐無稽>ということが生ずるのである、 <荒唐無稽>とは、生存への活動以外には何もない、ということである。 <混沌>という概念は<秩序>と相対化されて考えられることであるから、 <混沌>ではなく、<荒唐無稽>と言っていることであり、 その<荒唐無稽>は、<四つの欲求>が生存の目的のために活動することで見事に示される、 欲求を満たすための<随意・野放図・放埓>は、ほかの共存する動物や植物を根絶やしするばかりでなく、 戦争行為で同種を強姦・殺戮し尽くすことは言うまでもなく、 生存が目的の欲求の活動であれば、それを矛盾なく行わせるのが整合性であるはずのことが、 地球というみずからの生存環境でさえ危険に晒すくらいのでたらめさ加減があるのである。 人間の概念的思考が支配を受けているとすれば、その<荒唐無稽>であって、 性的官能に支配されているというような安易なことではない、 性的官能は、実直なものであり、五感と同様なものでしかないのである。 この<荒唐無稽>による人間支配に対する救済の試みは、 これまで、<人間を超越する存在>という<神>の概念を作り出すことで行われてきたことであるが、 人間が言語による概念的思考を不可能とする動物とならない限り、 <神>という概念が暫定的に人間を救済するように用いられてきたことであったとしても、 将来まで、それが有用な<概念>としてあることが困難であるのは、 言語による概念的思考が整合性を求める活動を行うことそのものにあり、 <唯一・絶対・最終>のない転変・流動をあらわすものでしかないことにあるからである。 人間は人間を超えることはできない、 これが実際であるから、 <人間の抱く想像力こそが人間本来のものとしての神であるというヴィジョンを実現すること> という<民族の予定調和>という<概念>も生まれるのである。 人間の<本質>である<荒唐無稽>の前にあっては、すべては、<荒唐無稽>でしかないのである。 <荒唐無稽>を可能な限りあらわとさせないための整合性の所以なのである。 人間が<荒唐無稽>である限り、求め続けられる整合性である。 その整合性の成果を文明・文化と呼んで、継承・維持・発展させていることが人類史なのである。 すでに、人類の当初にあって認識されている<荒唐無稽>であるから、 人類というのは、すでに答えの出ている<人間の存在理由>にあえて謎を投げかけて答えを求め、 その答えにまた謎を投げかける、という因果の整合性を繰り返しているだけのものでしかない。 そのありようも、比較的居住しやすい生存環境にあるから、熱心に時間を傾けることのできることである、 生存が脅威に晒される天変地異を迎えることになれば、それどころではないというのは、 文明・文化の成果として獲得されてきたあらゆる事柄も、そのときに有用に使用されることでなければ、 <見せ掛け>を露呈するに過ぎないものであり、ましてや、人類が絶滅して、遺産として残されたとしても、 ほかの動物種は、<売れ行き>の相互関係を用いないから、巨大な廃棄物にしかならないことである。 いずれは至る人類の終末、その黙示である。 ここから話を起こして、提示する<概念>を説得力のあるものとさせる<見せ掛け>は、 <売れ行き>を作り出すためには必要なことであるが、人間が絶滅すれば意味のないことである以上、 <荒唐無稽>の<本質>が変わるわけではないから、終末を創始であるとするしかないものである、 つまりは、<唯一・絶対・最終>のない転変・流動にあることなのである。 人間はそのようにある、地球はそのようにある、宇宙はそのようにあることである。 人間の生存は、生きてあることが当然のように思われる日常性にあれば、 ましてや、生きてあることが当然であることから考え出される<概念>で思考が組み立てられていれば、 みずからの<荒唐無稽>へ眼を向けることがないのは、<社会>にあっての自然なありようである。 生存が脅威に晒される環境にあって、非日常性を思考することが整合性であるからである。 緑豊かな自然に囲まれ、人里離れた閑静な庵という環境にあっては、 人間は大いなる自然・宇宙の一部である、という想像を羽ばたかせることは、自然なありようである。 そのような環境で、地球上で最も美しい全裸の姿態をあらわす日本民族の女性を縄で縛り上げて、 女性の生まれたままの全裸は美しい、だが、縄で縛られたその姿はさらに美しい、ということがあるとすれば、 人間の<荒唐無稽>に対抗する<整合性>は、<美>の存在である、と言わねばならないことであろう。 人間にあっての<美>の認識は、その<整合性>を逸脱した概念的思考にあることだからである。 <美>は、すべての<概念>の最上位に立っていることで、<美の戴冠>をあらわすものである。 人間は、<美>の認識において、思考の属性である想像力を常に進化させてきたのである。 それは、<神>という<人間を超える存在>の<概念>が失われていく現在にあって、 人間を<荒唐無稽>から救済するものとなるか否かは、 これまでに行われた前例のないことである以上、将来としての<予定調和>とする以外にないことである。 権田孫兵衛老人が想像力から生まれた人物であり、 その黙示を行うためにあらわれたという、人類史の必然としてあることなのである。 想像力から生まれた人物が人類史の必然であるのだから、 生まれ出て生きる人間は、言うまでもなく、すべてが人類史の必然としてあることである。 ここに示される黙示を知る者は、人類史の最先端を生きているということである。 生きて在るということは、人類史の最先端である、<人間の前衛>を進むことでしかないのである。 柔肌へ緊縛された縄が語り、それを聞く被縛者は、みずからの言語でそれを表現する。 生まれたままの全裸を麻縄で縛り上げられた女人にとって、結び合わされる概念の準備さえ出来ていれば、 <官能のオーガズムへ導かれる快感>へ更なる刺激を求めることは、必然的な成り行きとなることである。 <官能のオーガズムへ導かれる快感>は、その因果を整合性をあらわすものとしかさせない、 言語による概念的思考がその活動において整合性を求めるものとしてあることは、 両者は互いの整合性を一致させられることに<法悦>がある、ということを答えとしているのである。 羞恥と恥辱と不安に晒され、か弱い女性をあらわとさせている女人を前にして、 権田孫兵衛老人は、縄尻を取る手とは反対の手をおもむろに上げていた。 上下へ掛けられた麻縄で突き出すような具合にされた、乳白色のふっくらとした乳房のひとつへ、 ささくれ立った茶色の指先を触れさせていた。 骨と皮だけの醜い指先は、豊満な弾力と潤いをあらわす乳房を鷲掴みにして、 ゆさゆさと優しく揉み上げる仕草を始めているのであった。 女人は、美しい顔立ちをこちらへ向け、驚きをあらわしたふたつの瞳で相手を見やっていたが、 僅かに開かれた綺麗な赤い唇からは、あっ、と声音が漏らされたものの、あらがう言葉はなかった。 むしろ、それは望んでいた行為でもあるかのように、両眼を静かに閉じさせると、 されるがままになることへ集中するために、緊縛の裸身をしゃんと直立させるのであった。 柔らかく、強く、乳房が揉み上げられる指先に応じて、うん、うん、という溜め息で反応をあらわし、 桃色の可憐な乳首が二本の指で挟まれて、しこり立つようにつままれたり、こねくりまわされたりし始めると、 両眼をしっかりと閉じていた顔立ちは、さらに感触へ意識を集中させるように、 柳眉の眉根を悩めるように寄せさせ、鼻腔を喘ぐように膨らませるのであった。 老人のすっかり歯の抜けたくぼんだ口もとがもうひとつの桃色の乳首へ押し当てられていっても、 緊縛の裸身の胸部をせり出させ、しっかりと受け留めるような姿勢まで取るのであった。 口へ頬張られた乳首は、歯の生えない赤子が乳を求めて吸い付く一途さに比べれば、 吸い上げるばかりでなく、舌先で舐めまわして転がし、歯茎で噛むようなことさえしていたから、 女人にしても、その感触は、みずからの母性を意識させることであるよりは、女性を自覚させることであった。 飽きるということを知らない老人の執着は、純真な赤子の愛着にも優っていたことは、 ささくれ立った指先で愛らしい乳首と豊満な乳房を熱心に揉み上げながら、 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、くちゃ、くちゃ、くちゃ、と淫靡な音色を響かせて、 柔らかな乳房へ茶色の舌先を這わせて舐め上げ、つんと立った桃色の乳首を頬張っては吸い続ける、 どこまで我慢強い女人であったとしても、下手をすれば物語の最後まで続けられるのではないかという、 老人の異様な感触の執拗な愛撫の前には、眉根を寄せて両眼をしっかりとつむっていた顔立ちも、 煽り立てられる官能をこらえ切れずに、桜色に上気して揺れ動くようになっているのであった。 ついに、ああ〜ん、というやるせない甘美な声音が赤く麗しい唇の間から漏れ出した。 それを合図と言うように、乳房を揉み上げていた指先がそろそろと下の方へ向って這い始めていた。 なめらかな潤いを放つ腹部の柔肌をなぞるようにして、綺麗な形をした臍のくぼみを縁取るように撫でながら、 優美な曲線をあらわして悩ましい色香を放つ腰付きから、さらに下の方へと降りていくのであった。 乳房への愛撫で官能を煽り立てられ、無我夢中となっていた女人も、 その下の方へ降りていく異様な指の感触には、双方の手を使って防ぐことがかなわない以上、 艶かしい量感のある乳色をした左右の太腿をぴったりと閉じ合わさせて、 覗かせる漆黒の和毛が夢幻の靄のようなふくらみで覆い隠している女の秘所を守るしかなかった。 ささくれ立った指先が漆黒の靄へそっと触れられたときだった。 「ああっ、だめよ、だめっ!」 悶える声音を張り上げて、麻縄で緊縛された裸身をびくんと硬直させて、 女人は、そこへ触れられた反応をあらわとさせたが、 骨と皮の茶色い指先は、漆黒の色艶をあらわす和毛を柔らかく梳き始めたというだけであった。 歯の抜けた口へ頬張られたまま、つんと立ち上がらされた乳首へ執拗な愛撫を繰り返され、 柔らかな靄を優しく掻き上げられていくと、漏らされる吐息も、うう〜う、うう〜う、と悩ましさを帯びたものとなり、 内奥に覗かせた愛らしい女の割れめが縁取られるように指先で愛撫される至っては、 ぴったりと閉じ合わされていた左右の太腿も、力を失ったようにおのずと開かれていくのであった。 ささくれ立った指先は、容赦なくまさぐり、陰毛を掻き分けて割れめ深くへと繰り込まされていくのであったが、 女人は、縄で緊縛された裸身をのけぞらせるようにして、ああっ、ああっ、と訴えかけるばかりになっていた。 差し入れられた二本の指が掻き出すような仕草でうごめきまわると、 優美な曲線を描く腰付きも、その悩ましい感触を伝えるように妖しいくねりを見せた。 骨と皮の指が女体の熱くただれた敏感な箇所から引き抜かれるのと同時に、 老人は、頬張って執着していた瑞々しい乳房から皺だらけの唇を離して、みずからの指先を見やっていた。 ささくれ立った指先からは、したたり落ちるくらいの豊かさで、ねっとりとした女の花蜜がきらめいていた。 女人も、官能にほだされたまなざしを思わずそれに向けていたが、老人が振り向けたまなざしと出会うと、 知りません、と言うような恥じらいをあらわとさせて、真っ赤とさせた美しい顔立ちをそむけさせるのであった。 老人は、早速、別の麻縄を手に取り上げていた。 それをふた筋とさせて、くびれの優美な女人の腰付きへ巻き付け始めていた。 そむけられた顔立ちのまなざしだけを向けて、みずからの肉体へ新たに始められたことを知った女人は、 驚きを感じさせられていたが、語り掛けようとする言葉は、唇を僅かに開かせただけであった。 灰色に脱色した老獪な麻縄は、腰付きへ二重に掛けられて、くびれが際立つように締め上げられると、 綺麗な形をした臍のあたりで結び目をこしらえられた。 それから、真下へ垂れ下がった麻縄の残りがなめらかな腹部へと添わされていくのであったが、 女人は、その伝わってくる感触に、気が気ではないという動揺をあらわとさせて、たまらずに、 「いやよ! そのようなこと、いやっ! いやっ! やめて!」と叫んだ、 それから、艶やかな光沢をあらわす乳白色の太腿を懸命に閉ざすようにするのであった。 しかし、老人の両手が左右から太腿の内側を掴んで、押し開くようにさせていくと、まるで抵抗はなく、 しなやかに伸びた両脚は、大の字をあらわすように、ずるずるとされるがままになっていくだけだった。 両頬を真っ赤に火照らせたその美しい顔立ちは、せめて、まなざしだけでも閉じさせて、 羞恥をこらえている思いをあからさまにさせようとしていたが、 半開きとなったままの赤い唇の端にはよだれが浮かび上がり、 容赦なくもぐり込まされていく灰色に色褪せた老獪な麻縄を望んでいるかのようにも映らせた。 いやよ、いやっ、と叫びながら、縄目の綾に織り成された美麗な姿態は、じっとなったままにあるのだった。 股間へ通された麻縄の先端が引き締まった艶美な量感をあらわす尻の方へと持ってこられ、 淫靡をあらわす深い亀裂の間からたくし上げられて、くいくいと引かれながら食い込まされるようにされていくと、 刺激される官能の疼きを耐えられないと言うように、美しい唇を噛み締めさせているのだった。 漆黒の和毛が夢幻の靄のようなふくらみで覆い隠す女の割れめへ、 柔和な小丘が盛り上がるほどに、ふた筋の麻縄が深々と埋没させられているありさまは、 背後の腰縄へがっちりとした縄留めが終了したことのあかしでもあった。 権田孫兵衛老人は、数歩退いて、その女人のありさまをしげしげと眺めやるのだった。 綺麗に結い上げた艶やかな黒髪も今はほつれて、 その波打つ豊かな艶かしさに縁取られて、目鼻立ちの端正で艶麗な顔立ちがあった、 その顔立ちを支えるほっそりとした首筋は、柔らかな撫で肩へと流れていたが、 後ろ手にさせられている格好は両肩を張り出させて、か弱さをあらわとさせていた、 ふっくらとした麗しい隆起を示すふたつの乳房は、乳白色の潤いを深い光沢で輝かせ、 息づく桃色のふたつの乳首の愛らしさを際立たせて、 その胸から腰付きにかけての優美な曲線をしなやかに伸びた両脚へと一気に運ばせていた、 可憐な臍がなめらかな腹部にあって、その下に慎ましく茂る漆黒の恥毛を華麗とさえ映らせるのは、 ぴたりと閉ざされた太腿がそこはかとない色香を匂い立たせていることにあるのだった。 女性の生まれたままの全裸の姿態があらわす優美・艶麗・華麗のありさまは、 人類が絵画や彫塑という表現方法を獲得して以来、あらゆる様相をもって明らかとしてきたことであり、 それは、この地球上において、その美に比肩し得る動物は、ほかには存在しないという自負である。 その女性に掛けられる縄であった、 縄は、自然に生育している植物を採取し、人間の手によって加工され生み出されたものであった、 数多の繊細な植物繊維を束ね、ふた筋とさせたものを撚り合わせる、 それを用いて、結び、繋ぎ、縛り、解くということには、 人間が言語によって組み立てる概念的思考のありようのすべてあらわされている。 その<縄による緊縛>ということがただ加虐や被虐の様相をあらわすだけのものでしかなかったとしたら、 人間がみずからを伝達する、という表現方法は、まだ、まだ、これからの段階のものである。 生まれたままの全裸にある女性が比肩し得る動物のない美をあらわしていることであるならば、 人間の手によって作り出された縄がその美を貶めるどころか、 さらに、高めるものとさせたとしても、それは、案出される表現方法が展開されたに過ぎないことである。 権田孫兵衛老人は、何故、女性を縄で縛ることをするのか、それが問われることであれば、 それは、美を認識するということである、色を認識するということである。 眼の前にある女性は、権田孫兵衛老人にとっては、血の繋がった双子の姉に違いなかった、 しかし、これまでに、全裸にして縄で縛り上げてきた、数多の女性のひとりに過ぎなかったことも事実である。 すでに、権田孫兵衛老人の縄によって、そのあかしが立てられてきたように、 後ろ手に縛られ、胸縄を施され、股縄を掛けられた、俗に言われる、哀切で、残酷で、淫猥な緊縛にあって、 ひとりの全裸の女性は、みずからを目覚めさせられるのである。 くびれを際立たせられた腰からの縦縄が股間へ掛けられたときからであった。 生まれたままの優美な全裸を後ろ手に縛られ胸縄を施された縄による緊縛の姿態は、 股間から与えられる刺激をしなやかな両脚を突っ張らさせてこらえさせていたが、 それが疼かせられるもどかしさから、次第に突き上げられるものへと変わっていくことを、 腰付きのうねりくねりの悩ましさが見事にあらわすようになっていたのだ。 股間にある女性の三様の官能、鋭敏な豆粒、花びらの奥にある果肉、すぼまった菊門、これらを同時に、 老獪な麻縄が灼熱としたうごめきをあらわとさせて、老人の執着する愛撫をあらわしているのであった。 自然の植物繊維を撚り合わせただけの物体にそのような力があるのかと信じられないほど、 もっとも、文芸物語であれば、超自然であろうと、非現実であろうと、奇跡であろうと、 どのようなことでも言語で表現することは可能なことであるから、 読まれる方にあって、<まあ、そのようなものだな>と納得することさえできれば、 想像力は、地球から大気圏を飛び出して、冥王星は惑星から除外されたということであるので、 海王星をまわって太陽系の惑星を戻ってくる、というほどの官能の高ぶりを起こさせたという、 権田孫兵衛老人の縄による緊縛の真髄のあらわれと言えることだった。 <縄による緊縛>の一般論からすれば、加虐・被虐の用途に使用されるだけの女体緊縛ということも、 加虐・被虐の超脱にあって求められる<美>の表現へと向うことをすれば、当然としてあることであった。 表現がどのような傾向にあるかは、傾向の<見せ掛け>が<売れ行き>を示す割合でしかない。 <売れ行き>が落ちれば、<売れ行き>のある<見せ掛け>へ移行していくだけのことで、 <SM>が<売れ行き>のある傾向であれば、加虐・被虐ということも取り沙汰されるということである。 人間の行っていることが<言語による概念的思考>である限り、必然的成り行きとしてあることである、 ただ、それでは、余りにも、世知辛い、節操がない、金本位である、ということから、 社会のため、国民のため、人類のため、という<人間性>の喧伝を一方で行うことがあるということである。 人間にとっての<美>の問題は、これまでの美学が明らかとさせてきたことは、ほんの始まりであって、 <荒唐無稽>と対峙する<美>にあっては、生存に関わる認識としてあることである、 と矛先をよそへ向けたとしても、 女の割れめへ深々とはめられた麻縄は、刻々とした動きをあらわとさせていることに変わりはなかった。 女人は、その美しい顔立ちを真っ赤とさせ、額に脂汗を滲ませ、眉根を激しく寄せさせ、 見開い両眼を恨みがましいまなざしで下腹部のあたりへ投げつけていたが、こらえ切れなくなっていた。 ついに、半開きとなった綺麗な形の唇から、泡を飛ばして言葉が漏れた。 「ああ〜ん、だめっ、こらえられないわ! 許して、もう、耐えられない!」 緊縛された乳白色の裸身を桜色に染め上げ、噴き出せた汗を飛び散らせながら、 姿態全体を悩めるように悶えさせて、結い上げていた黒髪がほつれた頭を懸命に打ち振るうのであった。 その艶やかな黒髪がべっとりと頬へ掛かることさえまどころしいというように、 早く答えを出して欲しいという思いは、いやっ、いやっ、いやっ、と顔立ちを揺り動かさせて、 股間から煽り立てられる強烈な疼きを雲散霧消させようとするのであった。 だが、緊縛された裸身をどのように身悶えさせようが、はかない試みであったのは、 漆黒の色艶を帯びた陰毛へ埋没している灰色の麻縄は、さらに沈み込んだように映っていたことだった。 老獪な麻縄は、生き物であるかのような貪欲なうごめきをあらわとさせていたのだった。 花びらの奥にある鮮烈な果肉へぴったりと付いて、滲み出る女の花蜜をあらん限りに吸い上げ、 それでも、あふれ出す豊饒をきらめくしずくとして床へ落とさせているのであった。 女人は、もう、立っていることもままならないというほどに、腰縄の巻かれた優美な腰付きをくねらせ、 汗の浮かんだ乳白色の艶やかな太腿を引き締めて、しなやかで美しい両脚を激しくよじらせていた。 「股間の縄を外して頂戴、お願いだから! このままでは、突き上げられてしまう、いかされてしまう! そんなことは、いやっ! いやっ! お願い! あなた! 姉さんをこんな風に虐めて、そんなに楽しいことなの!」 姉は、美しい顔立ちに必死の形相を浮かべて弟へ訴えかけていたが、 権田孫兵衛老人は、小柄な身体を仁王立ちとさせ、険しい老いの無表情のまま、見守り続けるだけであった。 女人は、まるで反応のない相手に、にらみ付けるまなざしを恨みがましく投げつけたが、 さらに、吐き出そうとした言葉は、こらえ切れない激烈な疼きに翻弄されて消え失せてしまうのであった。 縄で緊縛された全裸は、板張りの床へずるずるとへたり込んでいった。 しかし、横座りとなった姿態も、いつまでもじっとしていられる格好ではなかった。 すぐに、不自由な身体をいじらしく悶えさせながら、横臥するように床へと横たわっていくのであったが、 股間から突き上げられる激烈な快感をあらわす疼きは、 波打つ黒髪の乱れた頭から、後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた上半身へ、 くびれの際立つ縄で締め上げられた腰付きから、すんなりと伸びた両脚の足の指先までに至って、 うねり、くねり、身悶え、震え、のた打ちまわらせる、官能の燃え上がりをあらわとさせるものがあるのだった。 その中心となっている股間は、もはや、羞恥という言葉など露骨の意味しか持たないと言うように、 あられもなくさらけ出されて、女の花蜜に濡れそぼった縄目を色鮮やかなものと覗かせていた。 灰色に脱色した麻縄は、吸い上げた花蜜に黒ずんでいたが、 それを包み込むようにしてある花びらと鮮烈な色合いをあらわす果肉は痙攣を示し始めていて、 縄と股間の箇所は一体となって、官能の快感の息づくさまをあらわしているのであった。 あ〜、あ〜、あ〜 う〜、う〜、う〜 ああん、ああん、ああん〜 ううん、ううん、ううん〜 あっ、あっ、あっ〜 うっ、うっ、うっ〜 女人は、言葉にならないうわごとを繰り返すように、うめき声とも泣き声ともつかない声音で、 やるせなく、切なく、甘く、悩ましく、みずからをよがらせているのであった。 まばゆいくらいの乳白色の潤いを光り輝かせた、縄で緊縛された全裸の姿態は、 板張りの床から浮遊してしまうのではないかと思わせるほどの悩めるうねりをあらわとさせていたが、 その甘美な声音も、動物の発情の切羽詰った吠え声に変わると、 突然、びくんと大きく裸身をのけぞらせるように硬直とさせて、官能の喜びを極めていくさまをあらわした。 抑え切れずにくの字に折れ曲がった緊縛の裸身は、 上下の縄で挟まれて突き出したふたつの乳房が痛々しいくらいにつんと立ち上がった乳首をせり出させて、 深々と縄の埋没した女の割れめから全身へ痙攣が走る度に、ゆさゆさと揺れているのであった。 この地球上で比肩するものがない美をあらわす女性の全裸が官能の喜悦にあって、 妖艶、艶麗、壮麗な生の至上をあらわしているありさまがあった、と言っても過言ではなかった。 少なくとも、権田孫兵衛老人は、そのように感じていた。 「そのような姿をあらわす姉さんは、残虐非道の鬼婆なんかではない! ただの普通の女性に過ぎないのだ! そうでしょう! そうだと言ってくれ、姉さん!」 みずからが打った縄で官能の絶頂を極めている相手を真剣なまなざしで見つめながら、 老いの険しい無表情とは裏腹の感動に震える声音で、思わず問い掛けているのであった。 問われた女人の方は、快感の頂きへと押し上げられ、喜びの天上に恍惚としているといった顔立ちのまま、 縄で縛られた全裸を全身に及んで、ぴく、ぴく、と痙攣させているばかりで、聞く耳もないという状態だった、 静かに両眼をつむると、歓喜に震えるみずからへ深く沈みこんでいくような素振りをあらわすだけになっていた。 弟には、姉のその姿を見つめ続けるほかないことだった。 官能の晴々しい高揚は、女人の恍惚とした美しい表情を漂わせた顔立ちや、 内股へあふれ出させた女の花蜜が艶やかな乳白色の潤いのある柔肌をさらに輝くものとさせて、 床へ横たわらせた生まれたままの姿態に綾なす縄の紋様を生々しく映えさせていた。 縄は、結ばせるものである。 縄は、それが用いられたとき、或るものと或るものを結び合わせるものである。 それは、縄という実際の物質が<結び>という言語による概念を表現していることであり、 或るものと或るものは、結ばれることで意味をあらわし、謎を問い掛けるものとなる。 その謎は、解かれなければならない<結び>なのである。 全裸にある女体を縄で縛り上げることが<陵辱>を意味することであれば、 それは、<官能のオーガズムへ導かれる快感>があるということをあらわしていることであり、 縄による緊縛が<苦痛>を意味するだけのものとしてしかあり得ないことならば、 縄は、<責め苦>の縄と言うことでしかない。 縄は、単なる道具である、道具は、用いられる目的に相応して形造られものであるが、 道具は、唯一の目的ために存在するものではない。 人間が造り出してきたすべての道具は、人間の有用である目的のためには、可変の性格を持つものである。 縄も、また、女体の緊縛、物体の結束、首吊りの縄から命綱に至るまで、可変の性格をあらわしている。 全裸の女体を縛り上げて、謎をあらわとさせている<結び>である。 それは、概念的思考の整合性の因果からは、答えのために、解かれなければならないものであった。 権田孫兵衛老人は、女体へ近づいて、みずからの掛けた縄目の結びに触れようとしていた。 眠っていたように穏やかだった女人の両眼が唐突に開き、ぎらりとした鋭いまなざしがこちらへ向けられた。 「何をする気なの…… まさか、縄の縛めを解くなんて、馬鹿な真似をする気ではないでしょうね! ふざけないでよ!」 相手の方へしっかりと向けられた顔立ちの綺麗な赤い唇が開かれて、脅すような声音が漏らされた。 縄の結び目に掛けられていた、ささくれ立った皺だらけの指先は、動きを止められた。 「何よ、あなたの縄による緊縛の真髄って、これだけのものなの。 縄で縛り上げて、女をよがらせて、官能の絶頂へ押し上げる、こんな程度のものなの! 確かに、あなたの縄は、私に感じたことのないくらいの素晴らしい快感を与えてくれたわ、 でも、それで、何度、性的官能のオーガズムを極めたとしても、それが何だって言うの! 生ぬるいわね、あなたのしていることは! それで、みずからの目覚めを得たなんて言っている女がいるとしたら、 思い違いも甚だしいということではないかしら! 人間というのは、死に至らせるまで、相手を虐めてこそ、 虐める者にも、虐められる者にも、真の喜びがあるというものよ! 人間にある、サディズム・マゾヒズムとは、そういうことじゃない! 私が描かれている、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』をしっかりと見ることね、 そこには、人間の淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望が浮かび上がっているのではなくて! 人間が人間を虐めることに喜びが感じられるから、その淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望に啓発されて、 みずからの妊娠した妻を逆さ吊りにした姿を写真に撮影したり、 ありとあらゆる方法を使って、人間を虐め、責め、殺傷するという絵画表現が行われたことではないの! その表現から啓発された追従者が鵜呑みに同様の表現を行うことができたことも、 性的対象を虐めることは性的興奮のある快感、 性的対象から虐められることは性的興奮のある快感、 それは、男と女、男と男、女と女の性的対象の相互を結び付ける、人間としてあることの快感、 その快感にあってこそ、性的官能のオーガズムへ導かれる喜びがあるということだからではないの! そのように表現され、そのように教え込まれて来ている事柄に、 新しい概念など、まったく無意味ということだわ! 人間は、私が描かれてあるような絵画をそのように理解して、人類の終末まで在り続けるだけよ! 私は、言ったはず! どのようなことをされたからといって、私は、あなたの思い通りにはならないと! さあ、私をそこの天井の梁から逆さ吊りにして、思いのままに、鞭打つなり、切り刻むなり、すればいいわ! 私を本来の人間として目覚めさせるというのならば、私を死に至るまでの被虐の苦痛へ追い立てて! その淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望の極みにあってこそ、官能の法悦があり得ることをわからせて! あなたも、そうした加虐にあってこそ、淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望の真の法悦を知るということよ! それがあなたの言う、縛って繋ぐ力による色の道ということではないの! それでなければ、どうして縄で縛り上げる必要があるの! 人間の淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望のあらわされない加虐・被虐など、 陵辱のあらわされない縄による緊縛など、荒唐無稽のたわごとに過ぎないということよ! さあ、私を憎たらしい女だと思うのなら、やりなさいよ! 人間は、誰にでも間単に感じることのできる、嫌悪、憎悪、嫉妬、という感情の動機があって、 加虐・被虐の行為は、簡単に行えることよ! みずからの産んだ子供でさえ、ままならないだけの嫌悪から、梱包の縄で首を締めて殺すことは容易なのよ! 小難しい心理の概念の云々なんて、まるで必要ないことは、 これまでに表現された、加虐・被虐の文芸はおろか、人類史をを見れば、まったく明らかなことじゃない! 嫌悪、憎悪、嫉妬、という感情の動機が人間にあればこそ、 愛という免罪符もまた成り立つということじゃないの! 人間の淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望は、最終には、 愛によって救済されるということが成り立つということじゃないの! 愛が定義可能な概念としてあるよりは、感情の動機としてあり続けるからこそ、 嫌悪、憎悪、嫉妬、という感情の動機を救済できるという整合性が成り立つということじゃないの! 言語なんかでは到底及ばない、広大で深遠で神秘的な愛というありようがあることよ! あなたも、縛って繋ぐ力による色の道に迷ったら、愛を持ち出すことね、 愛は、この地球上において、重力に匹敵する、万有引力としての力があるのよ! 愛の存在を持ち出す限り、人間らしさを失ってはいない、という信頼を勝ち得るものであるということよ! 想像から生まれたあなたのような産物だって、それらしい現実性を帯びることができることだわ! どう、姉さんは、善いことを教えてあげるでしょう、 あなたよりも、みずからの存在理由が明確なものとされているからだわ! 善だか、悪だか、わからない、そのような存在を人間は望んでいないのよ! 私は、悪! 私の女性を虐待して死に至らしめるという行為が絶対の悪を表象するから、 私は、鬼婆という唯一の明確な存在として、最終まで在り続けるのよ! わかった! わかったなら、さっさと人間を淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望へ陥れなさいよ! あなたも、陰茎の付いた男性なんでしょ! 女性を虐待して喜びを得るという、あなたの存在理由を明確とさせないよ! 私とあなたは、共に手を携えて、人間を淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望へ陥れることで、 本当に結ばれる宿命にある、ふたりなのよ!」 その美しい顔立ちのまなざしは、淫猥な輝きをきらめかせて、 薄っすらと滲ませた微笑みには、残虐、悲惨、哀切の皮肉が漂い、 激しい口調の言葉の余りに浮かんだ、綺麗な赤い口もとの唾液は、絶望の滴りを帯びているのであった。 生まれたままの全裸の女性を縄で縛り上げ、天井から逆さ吊りとさせて、 被虐の苦痛の極みまで柔肌を切り刻むことなど、権田孫兵衛老人には、到底、行えることではなかった。 行えることではなかったから、<民族の予定調和>ということも、 それを成し遂げるための<縛って繋ぐ力による色の道>も、大衆化しないという実情にあったことだった。 嫌悪、憎悪、嫉妬は、淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望の加虐・被虐の行為を身を持ってあらわすことなしには、 他人を説得することがままならないというほど、移ろいやすく、不定形の感情の動機であったからである。 姉の言うように、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を人間の淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望の表現と理解して、 人間は、人類の終末まで在り続けることの方がそれまでにあった事実を裏付ける事柄としても、 むしろ、民族の将来としては相応しいことかもしれない、とさえ考えさせることであった。 姉と手と手を携えて、人間を淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望へ陥れることへ向うことは、 姉から生まれた弟という出自からすれば、まったくの自然な成り行きである、という説得力があるのだった。 人間を全裸にして縄で縛り上げる行為は、淫猥、残虐、悲惨、哀切、絶望の加虐・被虐であって、 その<陵辱>は、<陵辱>以外のものをあらわさない、 姉は、その生まれたままの全裸を縄で緊縛された、 淫猥で残虐で悲惨で、しかも、余りにも妖美な姿でその<陵辱>を誘惑しているのであった。 権田孫兵衛老人の縄による緊縛の真髄など、そのような程度のものでしかなかった、あかしであったのか。 それでは、権田孫兵衛老人がみずからの出自としている人間の想像力の存在とは、 いったい如何なるものであると言うのか。 敢えて、無いものから生み出される想像力とは、いったい何のためのものであるのか。 人類が地球上に数多あるほかの動物から独自の進化を遂げた存在であることは、 ほかの動物のありようと比較すれば、歴然とした優秀さをあらわしていることを目の当たりとさせるものがある。 ほかの動物にあっても、それぞれに固有の進化を遂げた現在であることは変わらないことである、それは、 その動物が生存のための<四つの欲求>をどのように活動させているか、ということのあらわれである。 人類の進化も、<四つの欲求、食欲、知欲、性欲、殺戮欲>のあらわれであるから、 知欲が<人間の歴然とした優秀さ>を求めて行われてきたことがあらわされている、ということになる。 ほかの動物は、人類と比較しては、動物としての歴然とした優秀さを激しく欲求していないことは、 人類がこの地球上において、<四つの欲求>を発揮することにおいては、覇者であることに示されている。 人類は、食することのできるものはどのようなものでも食し、 交接することのできる対象とはどのようなものとでも交接し、 みずからの生存ために殺戮できるものは同種であってさえも殺戮し、 これらをみずからに可能とし有利とする、知恵と呼ばれる概念的思考を活発とさせている。 人類を除くすべての動物は、人類の<四つの欲求>に隷属することにおいて、 その存在理由を明確なものとさせている、人類の食欲、知欲、性欲、殺戮欲の対象として、 存在理由の明確でない動物は絶滅させられてきたのである。 地球の居住環境が大きく変化しない限り、種族の保存と維持に支障の来さない限り、 人類以外の動物が大きな変貌を遂げることは極めて少ない可能性であるから、 地球上の人類の体制は、唯一・絶対・最終である。 つまり、人類は、唯一・絶対・最終の動物でしかない、ということである。 その誕生から成長、衰退、絶滅に至る人類史は、一度限りのものでしかない、ということである。 人類史の変遷は、地球という居住環境の変化にまったく依存していることであるから、 地球もいずれは物質としての消滅を迎えることであれば、人類の消滅も同様にあるということである。 それがわかっているから、地球外へ進出しようという努力が傾けられるのである。 ましてや、地球環境は、温暖化という壊滅への兆候をますますあらわとさせて来ているのである。 それが予想以上に早く、手の施しようのない癌の末期症状のようなものとなれば、 そのような居住環境を回復させる膨大な人力と金銭と時間を掛けているよりも、 ほかの動物諸共に打ち捨てて、人類のみが生存し続けられる地球外の居住地が求められることも火急となる。 ただ、医者も、患者を精神恐慌へ陥れる恐怖感を与えないために、癌における延命の可能性を示すように、 <本質>の代わりに、<見せ掛け>の<売れ行き>を喧伝し重要視させる、ということがあるだけである。 人間を心安らかな死へ向かわせるための愛であり、 死んでいく当人さえ知らずにいれば、問題のない現実である。 問題になる現実は、常に、生存し続ける人間が思考する事柄にある。 人類史にあっては、かつて、ほかの猿類のなかにあって、独自の進化を遂げたように、 人類が宇宙人となることは、成功すれば、第二の進化となる<人間の歴然とした優秀さ>である。 そのために活動している、<四つの欲求>である。 ここで、最初の進化が行われた契機は、人間が<虐められっ子>であったということを考えてみよう。 人間は、その動物にあって、固有の身体の構造を持っている。 これは、近縁にあたるオランウータン、チンパンジー、ゴリラから、猿という動物の一般にまで及ぶ、 頭部、ふたつの手、ふたつの足、胴体、陰部を備えているという点では、特別なありようではない それを特別なありようとさせているのは、ふたつの手とふたつの足を用いて移動することを止め、 ふたつの足で直立歩行をして、ふたつの手を開放させたことにある。 このことを可能とさせたのは、ふたつの手とふたつの足を使用せざるを得ない、 森林から原野へ棲息を移したという、猿が一般に行う森林の樹上生活からの超脱があったことによる。 そうせざるを得なかったのは、森林が棲息を許さない環境の変化に見舞われたからである、 従来の居住に可能な自然環境が破壊されたということである。 自然環境が劇的に変化すれば、それに適応して生存を維持できる動物だけが生き残るということであるが、 そのとき、ほかの猿類の祖先は、人間の祖先を押しのけて樹上生活を維持させることができたのである。 森林の排斥者とされた人間だけがそこから独自の進化を遂げざるを得なかったということである。 人間は、ほかの動物が備えている攻撃や防御のための固有な身体を備えていなかった、 人間は、そのままの状態では、攻撃にも防御にも劣勢をあらわす動物であったから、 森林の樹上生活にあった当時でさえも、虐められっ子であった。 森林を追い出された虐められっ子には、生きる術のない死の原野が待ち構えているだけだったのである。 生存の権勢を表現するための<虐めっ子>と<虐められっ子>のありようは、 動物としての存在であれば、必要不可欠の関係性であるから、動物をやめない限り無くなるものではない。 問題は、<虐められっ子>は、そこから、どのようにして生きることを勝ち得たかということである。 生存を求める<四つの欲求>を満たすために、新しい環境へ形振りかまわず適応しようとしたのである。 <四つの欲求>は、その活動を欲求のあらわれとしていることであるが、 それらは相互に関係性を保ちながらも、各々は、独立した活動を行っているものとしてある。 独立した活動は、ひとつが損傷や減退にあっても、全体としての生存を可能な限り維持させるためである。 人間は、その<四つの欲求>をそれぞれに激しく欲求したのである。 新しい環境の変化は、激しく欲求して変化が示されければ、絶滅を答えとするほどに過酷であったのである。 その結果、食欲、知欲、性欲、殺戮欲は、 その過酷な状況を生存へ向けるために、最大限の柔軟性を備えることになった。 人間は、食することのできるものはどのようなものでも食し、 交接することのできる対象とはどのようなものとでも交接し、 みずからの生存ために殺戮できるものは同種であってさえも殺戮し、 これらをみずからに可能とし有利とする、知恵と呼ばれる概念的思考を活発とさせる活動を獲得したのである。 生存のための種族維持として、性欲が発情期と言う条件付けられたありようから超脱していったことも、 動物としての脆弱な条件にあって、死亡率を上回る出産が求められたことにあり、それは、 <人間は、その気になりさえすれば、時と場所と相手を選ばずに性的行為が行える>ということを達成させた。 食糧とする対象を森林生活にあった時代の限られたものから雑食へと移行させたことは、 植物に限らず、ほかの動物や魚類を殺戮して、或いは、非常事態であれば、 同種の人間を殺戮して生存を維持させたことは、居住していた環境の激烈さを物語るものである以上に、 人間の強靭な生への意志のあらわれが示されている。 自由になった両手は、動物の恐れる火を利用し、動物の利用しない道具を作り出すことを可能とさせて、 <四つの欲求>の可能を最大限に表現させるものとさせたのである。 人間にとって、戦争や強姦が不可欠に消滅しないのは、それが人間を進化へと導いた原動力であるからで、 <見せ掛け>の<売れ行き>をあらわす文明・文化では抑制できない、<本質>としてあるからである。 文明・文化というのは、地球環境が居住に適する平穏な状況になって、形造られたものでしかない。 従って、生存そのものが問われる状況にあっては、文明・文化は、その脆弱な基盤を露呈するほかない。 <四つの欲求>という生への意志を抱く動物としての人間が根源である。 それは、生まれたままの全裸とされた状況にあっても、剥奪されることのない<人間性>である。 人類の文明・文化というのは、 人間が動物状態にあることを如何にしてみずからの眼から覆い隠すか、という飽くなき努力であり、 その生まれたままの全裸を覆い隠す衣服のようなものであるから、様式と流行と変遷をあらわすものであり、 それは、人間は<四つの欲求>を抱いた単なる動物である、という<本質>ではなく、 もっとほかの<本質>があり得ると概念的思考を繰り返させて、 夢・希望・幻想という想像力によって、<新たな人間像>を作り出そうとしている絶え間のない試みである。 人間の概念的思考に<唯一・絶対・最終>があり得ないのは、 動物であることの<本質>が根源であることは不変である、ということにあるのである。 そこから、人間を超越する<唯一・絶対・最終>の神的存在が概念的思考されるということになる。 人間の想像力とは、ないものをある、と概念的思考できる力である。 人間は、不可知の事柄を思考するときにおいて、ないものをある、として思考できるのである。 ないものをある、と思考して、それを実際の形として整合性を求めたことの結果が<道具>という存在である。 概念的思考は、整合性を求めることが活動であり、 その整合性の所以は、<四つの欲求>のひとつである<性欲>の官能のオーガズムにある。 一度発動すれば、この上のない快感をもたらすために昇り詰めることが答えでしかないこと、 その問いに対する答えという見事な整合性の実感は、比類のない快感としてあるということ、 思考が整合性を求めるのは、その活動が快感をもたらすものであるから、ということにある。 概念的思考の活動は、快感をもたらすものである、 この事実は、事実であるほどに、明確な認識をもって理解されていることではない、 概念的思考に苦悩する人間が<人間らしさ>をあらわしているという見方は、 各々の時代に<見せ掛け>の<売れ行き>を繁盛させるための流行がある、というだけのことであって、 その苦悩というのは、求める整合性が思考にあり得ないことから生ずるというだけのことに過ぎない。 <自我の苦悩>を問題視する概念的思考が性的官能をまったく度外して問題とすれば、 概念的思考の活動にもとよりある快感が見失われて、苦悩だけがあり得るというのは当然のことである。 その苦悩の挙句の問いに対する答えが自殺ということであれば、 <自我の苦悩>は殺戮欲にしか答えが見出されないということを表現しているだけで、 概念的思考における想像力は反故とされ、 <性欲>に至っては、その自殺が<心中>というありようであれば、 性的官能の喜びが知覚されていながらも無視されていることであって、 そもそも、<自我の苦悩>と問題としていることも、深い事柄の考察の所以さえないことになる。 嫌悪、憎悪、嫉妬、という不定形の感情の動機から表現されることが、 これまた、不定形の愛という感情の動機と結び合わされるものでしかなければ、 どのように体裁の良い<見せ掛け>の<売れ行き>で表現されたところで、 底の見え透いた感情表現ということにしか過ぎないことになる。 従って、そのときは、感動として思い高ぶるが、<認識>ということには至らせないのである。 認識というのは、そこへ到達したときには、もはや元へ戻せない思考のありようのことであるから、 認識へ導かれない感情表現は、そこからの展開もまた生まれない道理である。 概念的思考の活動は、快感をもたらすものである、 <性欲>の属性である性的官能は喜びをもたらすものである。 喜びは、整合性の満たされた知覚から認識を生じさせるものであるから、喜びは展開を導くものとなるのである。 喜怒哀楽というのは、<知欲>のある動物である限り、不可欠の不定形の感情の動機としてあることだが、 この感動という活動は、喜と楽は、整合性の満たされた知覚としてあり、 怒と哀は、満たされない整合性の知覚としてあることである、 従って、怒と哀は、整合性を求めることが喜びのある答えとなる以上 怒りと哀しみは、性的官能を呼び覚まして、オーガズムへ至る整合性へ向わせることをさせるのである。 幸福感のある状態では、その整合性の知覚から性的官能が呼び覚まされることは少ないが、 <悲哀は淫心を誘う>という表現があるように、 悲哀のあらわされるところに性的官能が掻き立てられるのは、 それが満たされたない整合性を求めては、整合性のある性的官能と結び付くことが答えとなるからである。 怒りをぶつける対象に性的行為の表現を結び付けたり、 或いは、実際の陵辱行為であらわすことの所以は、それが喜びという整合性を求めさせることにある。 整合性は、言語による概念的思考の因果のありようである、 感情表現が豊かであることが人間らしさをあらわすと見なされる傾向にあっては、 それだけ、概念的思考の活動の喜びがおざなりにされている傾向にあるということであるが、 感動という活動は、<知欲>のある動物であれば、同様に行える原初のありようでしかない。 感動は、喜びとしてあり得る場合にしか、展開を生まないものである。 概念的思考の活動の喜びは、性的官能のオーガズムに根拠を置くものであれば、 <性欲>には、ほかの欲求に比べて、<荒唐無稽>を如実にあらわすものがあり、 <善>を思考する<知欲>を凌駕すると思われるその力は、<悪>という相対とされることでさえあれば、 <悪>が比類のない快感をあらわすものであることは、矛盾であり、言語道断であるから、 性的官能のオーガズムに<善>の意義を見出すことが成されないのは当然の事柄となる。 従って、概念的思考の活動の所以が性的官能のオーガズムにあることも認識されない。 たとえ、認識されたところで、 性的官能のオーガズムを超越する整合性の<知欲>は人間にはあり得ないとなれば、 概念的思考の活動は、喜びのある快感をもたらすものであるどころか、 <性欲>を思考する精神には、そのものに病理がある、 と見なされることになったとしても、何ら不思議のないことである。 人間の精神をその肉体同様に病理があるものだと見なす<ものの見方>は自然なようであるが、 <人間の精神>と言っていることの概念的思考の活動そのものがまだ未発達な段階である。 精神活動から表現される何もかもを病理で解釈されるというには、 まだ、人類は、終末の段階を迎えているわけではないから、 さらに、展開せざるを得ない事柄となることを必然としているのである。 官能のオーガズムがあらわす整合性は、それほどまでに至上であるということである。 動物という存在であれば平等に知覚できるこの整合性の存在が、 人間においては、<言語>による概念的思考の発達を促した。 人間における<言語>の問題は、その整合性を求める活動にあることから、 概念的思考から生み出されたすべての<ものの見方>にあることである。 人間においての<言語>は、単なる意思伝達の手段という道具ではないことは、 すでに、古来より、言霊と称されてきたように、 概念的思考の活動そのものであり、整合性を表象化する手段であり、存在の認識それ自体であった。 人間においての概念的思考が未発達なものであるならば、 同様に、その<言語>活動も未発達にあるということは認識されなければならない。 言い方を換えるならば、これまでの言語による概念的思考が<性欲>と絶縁させられて、 形而上学と呼ばれるような整合性の美をあらわす探求に求められるだけであったことは、 人類史の展開にあっては、まだまだ、前段に過ぎなかったことであるのは、 概念的思考の所以が性的官能のオーガズムにある以上、 <性欲>を絶縁させた哲学は、人類の未発達をあらわすものでしかないことだからである。 言うなれば、人類の偉大な先人の概念的思考の成果は、 <思考の整合性というオーガズム>の認識へ導かれるために準備されたものだからである。 すなわち、人類の偉大な先人の概念的思考の成果は、 <思考の整合性というオーガズム>の認識に基づいて、再評価されるものとなることだからである、 喩えるならば、既存の形而上学は、<性欲>に基づく精神病理学と寝床を共にして、 陰茎と膣を結び合わせる睦まじい婚姻が行われるということがあり得るということである、 その生まれたままの全裸の姿態にあるふたつが共にひとつの枕とするのは、 言語による概念的思考が行う<思考の整合性というオーガズム>ということである。 そこから誕生する概念的思考は、<新たな人間像>を作り出すという絶え間のない試みである。 思考においての整合性、実際の形としての<道具>の整合性は、 さらに、問われるという整合性でしかないものなのである、 これまでも、その繰り返しが概念的思考と<道具>の展開をもたらすものとさせてきたのである。 整合性を求める概念的思考は、謎と答えという因果律を活動としていることであるから、 そこに伴う不可知という概念を斥けることはできない。 最初に神的存在を想像した人類の祖先には、すでに、この概念的思考のありようは理解されていた。 理解されていたからこそ、概念的思考の活動としてはあり得ない<唯一・絶対・最終>を想像できたのである。 人間を超越する<唯一・絶対・最終>という神的存在は、想像力の産物である概念に過ぎないことである。 人間を超越する神的存在を信じるか信じないかということではなく、 人間を超越する神的存在を概念的に思考するかしないかということがあるだけである。 <唯一・絶対・最終>という概念を概念的思考へ導入することは、 人類の生存へ向けての動物種としての大きな展開をもたらすものであった。 動物状態としてある<四つの欲求>が生み出す、 ただ生存の目的のために<荒唐無稽>な存在となるだけの<無常>のありようから脱却できる、 人間の想像することができた、ひとつの有効な概念であったからである。 <唯一・絶対・最終>の神的存在の根拠にあっては、人間は、ただの群棲しているだけの動物ではなく、 ほかの動物や自然災害からの攻撃に対して生存するために、集団となって棲息する<社会>を作り出し、 <国家>を作り出し、地球規模となれば、<人類共同体>を作り出して、 <人間の歴然とした優秀さ>を発揮することで、数多の動物のなかにおいて、 地球上の覇者となるまでにさせたことであったのである。 かつての<虐められっ子>が動物の覇者となれば、当然、<虐められっ子>は<虐めっ子>になり、 ほかの動物は、家畜、愛玩動物、鑑賞動物、食用動物として、 人間によって分類整理されて、人間へ隷属させられている現在があるという次第である。 人間を超越する<唯一・絶対・最終>という神的存在も、 <新たな人間像>の誕生にあっては、祖先の偉大な概念として、 いずれ、神話として語り継がれることになるものである。 人間が言語による概念的思考を行う、<四つの欲求>を抱いている動物である以上、 その生存のための活動には、<唯一・絶対・最終>というものはあり得ないからである。 あるのは、果てしのない転変・流動をもって、生への意志を貫くというありようしかないことは、 <新たな人間像>を生むことを求めさせずにはおかないことだからである。 <新たな人間像>とは、夢でも、希望でも、幻想でもない、 現実としてあり得る人間が生存を持続させ、展開させようとする必然のありようでしかない。 情報の開示ということが<知欲>の求めによって、 次々に生まれる新しい情報の伝達手段によって進行している現在である、 この事柄を読むことの可能である、人類の最先端に生きる人間にとっては、 知っているか、知らないでいるか、ということがあるだけの相違でしかない現実である、 殊更に知らないことだしても、人間の生存は、<四つの欲求>の因習で立派に果たし得ることである。 世界の終末に起こる善と悪との最後決戦という世界の終わり、ハルマゲドンを持ち出しても、 地球環境が居住に適する平穏な状況においての文明・文化の下にあれば、 神的黙示というよりは、映画やコミックスや小説の表現するエンターテインメントとなることは、 神的存在が想像から生まれた概念でしかない認識のあらわれである。 神的存在を信じているから表現されることではない、 神的存在を概念的思考できるから表現できることなのである。 <神的黙示>ということがそれにまつわる人間にもたらす金銭よりも、 その概念を用いる映画やコミックスや小説の表現するエンターテインメントの方が優っていれば、 金銭を動かす表現の方が伝播することは、形成されている<社会>の因果律である。 人間は、<社会>に生活していることがあって、<人間性>というものを思考している。 生まれたままの全裸とされた状況にあっても、剥奪されることのない<人間性>ではない、 人間が組み立てた<社会>が集団を結束させるための利害の関係性によって作り上げた<人間性>である。 利害の関係性とは、言うまでもなく、金銭の損得勘定にあらわされるそのものである。 損得を明確に把握できるありようとしての金銭の存在は、利害の関係性を明確に判断させる整合性である。 <人間には、金銭では絶対に買えないものがある>という表現は、 ないものをある、とする想像力が肯定されているばかりでなく、思考の整合性があらわされている、 買えないものが存在するという金銭は、それ以外はすべて買うことが可能であるという整合性である。 買えないものを除いては、<社会>における利害の関係性は、 金銭の損得をおしなべて勘定することができる、ということが示されている。 地獄の沙汰も金次第、という表現であれば、 地獄という想像の概念においても、金銭の損得勘定は働くものであると考えられている。 では、何が金銭で買うことができないものであるか、 という問いが答えを求めようとする整合性の思考に残されるのである。 この不確かな残余の思考は、想像力をもってしてしか思考できないことであるから、 金銭の損得をおしなべて勘定することができる、というありようへ被せる衣装の役割を持たされることで、 <おためごかし>と呼ばれる表現があり得るのである。 <おためごかし>というのは、<おためごかし>と見なされることのないありようによって、 初めて<おためごかし>となることであるから、 手練手管のない、暴露されるような表現方法では、子供だましやままごとにしか過ぎない。 しかしながら、<社会>を組み立てるためには、群棲している動物をひとつの集団に結束させるには、 相互間に利害関係の認識は必要不可欠のものとしてある。 それは、相互の立場がどのようなものとしてあるかを判断しなければ、 支配も、協調も、独断も生まれないことだからであり、当然、結束も生まれない。 誰においても、損得勘定を明確で容易に確認できる<道具>が必要であることの所以である。 その<道具>が金銭の誕生であるが、それは、整合性を求める概念的思考が数の思考をできることにある。 数字は<言語>であるから、言語による概念的思考の活動のない動物には、あり得ないものである。 思考という整合性を求める活動は、数字という<言語>を生み出すことで、 人間の相互間に必要不可欠の利害関係性の認識を明瞭とさせることができたことは、 現在は、利害の表象として<金銭>が用いられているが、将来は別の媒体へ変わることになるかは、 <思考の整合性というオーガズム>の認識に基づく新たな経済学の問題としてあることである。 <性欲>に関係する<思考の整合性というオーガズム>を考察し始めると、 問題は、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の絵画ひとつの解釈の問題に留まらないのは、 それが人間の生存活動としてあるからである。 その生存活動の根拠となる<四つの欲求>があらわす生への意志は、善悪の彼岸にある。 人類が獲得した<言語>というのは、 その善悪の彼岸にある生への意志を此岸であらわすことでしかない。 「何をいつまでもぐずぐずと考えているの! 至らぬ考え、休むに似たりよ! さっさとやりなさいよ! 『英名二十八衆句 稲田九蔵新助』にあるように、私を吊るし斬りにでもしなさいよ! 悪を断つ、正義の権田孫兵衛!」 業を煮やして、美しい顔立ちへ怒りをあらわとさせた形相で、 縄で緊縛された全裸を震わせながら、姉は叫んでいるのだった。 「……本当に結ばれる宿命にある、ふたり…… 姉さん、確かに、あなたの言う通りなのだ…… 新しい概念が生まれるためには、古びた概念は結び合わされなければならない……」 そう言い終わると、権田孫兵衛老人は、身に着けていた、 その言語表現以上に着古して色褪せている着物を脱ぎ始めていた。 帯を解き、肩からするすると着物をすべり落としていく相手の振舞いを見て、 緊縛された女人は、びっくりしたように、思わず叫んでいた。 「なっ、何をする気なの! まっ、まさか! あなたは! 実の姉を相手に……」 その後は、言葉にならなかった。 権田孫兵衛老人のさらけ出させた生まれたままの全裸の姿態は、 それほどまでに目を見張らせるものがあったのだ。 <実の姉を相手に>の後に続く言葉は、 その隆々と反り上げて赤々と剥き晒した陰茎の溌剌とした輝きが見事な回答をあらわしているのであった。 鬼婆である姉が唖然として見つめ続けた鬼婆の双子の弟の全裸は、 若々しい髪型の精悍な顔付きもさることながら、 みなぎる強靭さを発散させた筋肉質の日焼けした見事な身体付きには、 そのために選ばれたポルノ文学の男性主人公さながらの猛々しい美しさがあらわされたものがあるのだった。 いや、それでは、表現が矛盾しているのではないか、とおっしゃられる方もおいでであろう。 権田孫兵衛老人は、八十歳を優に超えた、禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、 どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわとさせている姿は、 一瞥しただけで、ぞっとさせられる風采の人物である。 生まれたままの全裸の姿態は、当然に老いさらばえているありさまがあるものだ、 さらけ出させたおちんちんに至っては、かつての栄光、いまは何処、 辛うじて身体に付いているのではないかという、はかない風情があって必然のことではないのか。 そのようにお感じになるのはごもっとも、 しかしながら、もとより、醜悪な鬼婆であるはずの姉が若さみなぎる美しさにあっての始まりでありました、 ここにおいて、権田孫兵衛老人の全裸姿が精悍あふれる若者としてあらわされたとしても、 それは、尋常とは思えない奇跡的な現象が起こった、というようなことではないのです。 むしろ、生まれたままの全裸の姿になるということが、 虚飾で覆い隠された醜悪さなど、まったく必要ないこととさせ、 みずからの本性をさらけ出させることになるとすれば、 想像力による幻想の整合性は、このような事態をまともなものとさせることが可能であるのです。 それは、整合性が幻想の展開させる事柄に掛かってあることだからです。 荒唐無稽な幻想ということは、雲散霧消するだけの心象ということであって、 概念的思考は、整合性の求められない幻想を概念として把握することはないからです。 心象に浮かぶうたかたを言語化することで概念となるものは、 すべて整合性の求められる表現となるものでしかないということだからです。 そのような組成にある言語による概念的思考であるからこそ、およそ無関係と思われる概念を並置させて、 シュールレアリスムと呼ばれるような見事な表現を可能とさせるのです。 もとりより求められる概念的思考の整合性あっての<表現の可能>と言えることがあるのです。 幻想は、欲求を満たすための<随意・野放図・放埓>を表現の形態としますが、 それは、整合性の思考なくしてはあり得ないことである以上、 幻想における象徴性の問題も、夢における解釈の問題も、 改めて、概念的思考の整合性の点から問い直される事柄であることは、避けられないことになるわけです。 すでに、美しい姉の優美な全裸を彩る縄の紋様の艶美を見守り続けていたばかりでなく、 妖美に打ち震える女体の官能のオーガズムのありようさえ見せつけられていた男性にとっては、 赤々と充血して反り上がった先端から、きらめく糸のしずくが尾を引いて流れ出しているありさまは、 相反・矛盾のない自然な姿であったことでした。 女性にとっても、眼の前に突き付けられた自然に息づく陰茎を見せられては、 きらきらと情感に潤んだまなざしをもって、見つめ続けることしかできないものでありました。 本性があらわす自然というありようは、厳粛な儀式の趣きさえ漂わせる雰囲気があったのでした。 そこで、示された麻縄であったのです。 男性は、真剣な顔付きで、手に携えた一本の麻縄を示して見せました。 それは、山吹色に輝く真新しい、人類の誕生以来、変わることのない形態で用いられたきた、 自然に生育する植物から生まれた、整合性の所以としてのひとつの<道具>でありました。 それで、何をする気であるか、明らかとさせることが答えとなることでありました。 麻縄は、ふた筋とされ、男性みずからの菊門へ当たる位置を定めるように、結んで瘤がこしらえられました、 それから、縄頭が赤々と剥き出して反り上がった陰茎へ引っ掛けられて、 ふた筋は左右から睾丸を挟むようにして股間へともぐらされました、 瘤が菊門へ当たるように縄を引き絞られると、陰茎は、否応でも反り立つ硬直を示すようになりました、 縄は、尻の方から出されると左右へ割られて腰へとまわされ、臍のあたりできっちりと結ばれたのです。 民族の予定調和の信奉者である男性がみずからへ掛ける、不浄の縄と呼ばれるものでした、 生まれたままの全裸を麻縄で緊縛された女性と結ばれることで、浄化の縄とされる信奉者の流儀でありました。 女性は、相手の所作を知ると、異様でありながら厳粛をかもし出させる流儀に圧倒されて、 従順なる思いへと至らせらるように、男性の手で優しく仰向けにされていく姿態も、 ただ、されるがままになるだけのものでしかありませんでした。 陰茎へ掛けられた被虐をあらわす麻縄を見せられての加虐・被虐の価値転倒は、 <人間は、その気になりさえすれば、時と場所と相手を選ばずに性的行為が行える> ということを明らかとさせているだけのものでしかありません。 そこに厳粛がかもし出されたからと言って、神聖な儀式であるはずのない所以は、 人間を超越する<神的存在>の是認が示されていることではなかったからです。 神聖は、<神的存在>を前提とした概念にしかあり得ないことだからです。 そうではなく、鬼婆が存在理由としていたサディズム・マゾヒズムの縄による緊縛ではもはや解釈のできない、 <結び>の意義が知らされたことでした。 <縄による緊縛は、陵辱だけしか意味するものでない>という既成概念の成立は、 わが日本民族の<結び>という概念的思考の<縛って繋ぐ力>の前にあって、 更なる段階を準備するための経過の概念に過ぎない、という認識が示されたことだったのです。 鬼婆も日本民族の女性であれば、みずからの出自に目覚めることが問われたことだったのです。 男性は、女性の割れめへ埋没するように掛けられていた股間の縄へ、指先を触れました。 股縄の結びは、解かれました。 乳色をした潤いのある柔肌の優美な腰付きから、縄は外されていったのです。 縄は結ばれねばならず、また、解かれなければならないものであるのです。 それから、しなやかで艶かしい両脚が割り開かれるようにされていくと、男性が見つめる方へ、 これ見よがしに、女性の妖美な花びらと愛らしい芽と果肉の深遠と可憐な菊門がさらけ出されるのでした。 綺麗に開き切った妖艶な花びらからは、きらめくしずくが甘い芳香を匂わせてあふれ出ているのでした。 その余りの美しさに、男性は、陶然となった表情で、身じろぎひとつしないで、 ただ、縄の掛けられた陰茎を官能の火照りから揺らめかせているだけで、眺め続けるばかりにあったのでした。 そこに、果肉の収縮が息づいているのが見て取れることが始まりであるとすれば、 女性は、官能の恍惚に舞い上がる最高の表現へと及ぼうとしていることを如実とさせていることでした。 思いを寄せられる相手から、熱っぽいまなざしと興奮したため息と沈黙の激情の言葉をもって、 見つめられ続けるということが、これほどまでに、女性を高ぶらせるものであるかと言うほどに、 汗で光らせた純白の裸身をあらんかぎりに悩ましく身悶えさせて、 美しい顔立ちに陶然とした表情を漂わせながら、女性という艶麗のあらわれをそこはかとなく発揮させ、 性的官能の喜びの絶頂へ、さらに到達しようと求めていることをあらわしているのでした。 もらし、うめき、上げる、悩ましく、やるせなく、切なく、甘美な声音を響かせながら、 優美な腰付きを妖艶に揺さぶってよがり始めているのでした。 女性の凄艶なありようが生々しく立ち昇っていることに違いなければ、 男性は、赤々と剥き晒して反り上がった縄の掛けられた陰茎をその美しい花びらへあてがっていくことでした。 含み込んでいく収縮の思いの熱さがあらわされるままに、思いを込めて、強く差し入れられていくのでした。 もぐり込まされていく度に、どろっとあふれ出す女性の花蜜の豊饒は、 それにも負けないくらいの男性の放出の豊饒を求めていることでした。 「ああ、姉さん! 麻縄で全裸を縛られた姿にある、民族の予定調和の表象としてあるあなたに対して、 ぼくは、信奉者の流儀に従い、あなたと結ばれることで、 想像力が生み出す偉大なヴィジョンへと飛翔させられる! ああ、姉さん、その顔立ちの清楚で愛らしい美しさは永遠の絶対のようで、 その生まれたままの全裸の優美な姿態は美意識の権化のようで、 聡明な思いと豊かな感受性と広くて深い優しさは母性の顕現のようで、 その官能の絶頂を極めた妖艶とした美麗は、人類救済の女性そのもの! 人間は、成り変ろうとするためには、修行の試練を超え続けて行かなければならない! ぼくは、生まれ変わるあなたと手を携えて、民族の予定調和の実現を歩み続けたい! ああっ!」 激しく抜き差しを続けながら、男性は、女性へあふれるばかりの放出を果たすのでした。 女性の官能の絶頂に浮遊させられた飛翔は、喜びの痙攣となって相手をも満たすことでした。 こうして、権田孫兵衛老人と鬼婆は、陰茎と膣をひとつに結ばせました。 それは、歓喜の幸福をあらわしたことでありました。 概念的に思考する喜びは、性的官能のオーガズムの喜びと結ばれて、 人間にある歓喜の法悦が生存への意志としてあることを自覚させることでした、 人間は生きるために生まれてくるものである、という強靭な生存への意志です! ………… ………… ………… ………… しかしながら、歓喜あふれる美しさの表情にあった鬼婆でしたが、官能の快感の余韻が鎮まっていくにつれて、 白々しくなる思いにみずからを見つけ出したように、気難しい顔立ちとなるのだった。 麻縄で後ろ手に縛られ胸縄を掛けられた優美な全裸姿を身じろぎもさせずに床へ横臥させたままの姿は、 まるで、必死の抵抗も空しく、強制的に高ぶらされた性的官能から、 みずから思いも掛けなかった快感の喜悦を感じてしまった被虐の女主人公にでもあると言うように、 淫情に敗れ去った女性の恥辱の悲哀を滲ませているようだった。 そこに、そこはかとない女性の情感が漂い、 被虐の喜びにも目覚めることが女性らしさということのあらわれであるとすれば、 権田孫兵衛老人が緊縛の縄を解こうとしてその姿態に触れたとき、 か細い声音でもらされた次の言葉は、もはや、答えに窮する問い掛けとなっていることだったのである。 「……あなたの思うがままに高ぶらされて逝かされた私は、 もはや、あなたの思うがままの女でしかありません…… あなたの姉という存在ではなく、もはや、ただの女…… ただのあなたの性の奴隷に過ぎない女なのです…… あなたの手による縄の緊縛、あなたの<縛って繋ぐ力による色の道>は、 素晴らしい官能の喜びにあって、そのような理解を私にもたらせたのです…… 縄を解く必要はありません、奴隷の身上にある女は繋がれていることを身体であらわすものです…… そうでしょう、権田孫兵衛様…… どうぞ、私を淫情に敗れてしまうだけの浅ましい性の奴隷女と蔑んでください…… そして、お許しを頂けることであるなら、私にもう一度、被虐のなかでの官能の絶頂を与えてください…… 私は、あなたの思いのままとなる、あなたの性の奴隷女であることをあらわしてみせます…… 私は、高ぶらされる官能の気持ちの良い快感のなかへ、永遠に漂い続けていたい…… ねえ、よろしいでしょう、権田孫兵衛様……」 乱れた艶やかな黒髪が火照り上がった頬へ絡み付くように掛かったその美しい顔立ちは、 黒眼の奥深い妖艶な輝きをたたえて、すねて見せるように相手をまじまじと見据えるものであった。 そして、横臥させていた緊縛された裸身をもどかしそうににじり寄らせてくるのであった、 その綺麗な形をした赤い唇を求めるように半開きとさせて、相手の股間の方へと近づかせてくるのであった。 権田孫兵衛老人は、思わず身体を退かせていた、 若々しく精悍な肉体は、再びもたげ始めるだけの勢いのあるものには違いなかったが、 口を尖らせてそれを含もうとしてくる相手の強引さに応じることはできなかった。 つれないお方ですわね、と言っているような恨みがましいまなざしを投げつけて、 鬼婆は、縄で緊縛された生まれたままの全裸を悩ましそうに身悶えさせた。 それは、女性という存在の計り知れない貪欲な姿があらわされているだけではなかった、 そのなめらかであった剥き出しの腹部が見る見るうちに膨らみ始めたことは、 女性の隠された威容を圧倒的に示すありさまがあったのである。 交接から妊娠に至り出産までを一般に十月十日と数えるものであれば、その僅か数十分の経過は、 臍が飛び出して妊娠線が走り、純白の柔肌がはち切れんばかりに膨らんだありさまをもって、 臨月をあらわす妊婦の姿そのものへと変容させたことで、 早産と言うには、余りにも早過ぎる早産であって、父母の自覚という心の準備など消失させる出来事だった。 鬼婆は、生まれたままの全裸を縄で緊縛された臨月の妊婦、という姿態をあらわしていた。 かつて、みずからの手で胎児の生き胆を取り出さんがために、 孕み腹を切り裂いた実の娘・恋絹を晒した姿態、 そのまま天井の梁から逆さ吊りとされることで、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』の構図となる、 因縁の姿態にあるのであった。 いや、恋絹にはまだ湯文字が着付けられ、手拭いで猿轡がされていたから、 ふっくらとした陰毛もあからさまな鬼婆の剥き晒しの全裸の構図では、 『奥州安達ケ原ひとつ家の図・新版』となることである。 『新版』とは、言うまでもなく、 その逆さ吊りのかたわらに、床へ座り込んだ権田孫兵衛老人が鬼婆と相似の風采で、 植物の繊維を撚り合わせて縄をなっている姿があるというものである。 この光景を絵画として表現する者がこれまでに存在しなかったということは、封印された事柄である。 もっとも、これを読まれた方で、そのような絵画表現の存在を知る方がおいでになるということであれば、 その絵画の実在は、封印を解くことになる重大事である。 何故ならば、わが日本<民族の予定調和>は、現出することを予兆されていたことだからである。 或いは、そのような絵画が存在しなかったとしても、 いつしか解かれなければならない封印であることは変わらないことであるから、 いずれは、実現される<民族の予定調和>へ向けて、予兆としての絵画があらわれることは変わらない。 高々、絵画ひとつの存在、その解釈の問題であると言われてしまえば、ただ、それだけのことに違いないが、 絵画表現が芸術の方法であることであれば、 芸術が人間の表現方法の飽くなき探求であることであれば、 それは、たとえ、ひとつから始まる少数のものであっても、 その方法に表現の可能があることであれば、いずれは、多数へと伝播していくものとなるからである。 その表現の可能こそは、 人間にある言語による概念的思考の未発達を成熟へと導かせる動因となることだからである。 権田孫兵衛老人が臨月にある妊婦の姉を全裸の逆さ吊りとした実際があったかどうかは、 写真のように残存するものがあったわけではないから不明の事柄となるが、 偉大な月岡芳年も、『奥州安達ケ原ひとつ家の図』を想像において描いたということが示すように、 表現の可能ということの動因は、スキャンダラスなパフォマ―ンスにあるということではなく、 発揮される想像力にあるということが証明されねばならないことである。 人間の性の表現を芸術と称して行うことであるならば、 その<表現の可能>が<人間の意思伝達の表現の可能>を導くということでなければ、 所詮は、とうちゃん・かあちゃんの夜の睦み事でしかないことである。 芸術と言うからには、芸術の整合性が問われなければ、 子供だましかままごとのようなものしかならない所以である。 そこで、鬼婆がその場へ産み落とした赤子の存在が新たな問いとなる、 人間離れした早産という現象ということではない、 お産婆さんを必要としないでみずから産み落としたという離れ業ではない、 絵画にある女性主人公と彼女から生まれた言語にある男性主人公が交接して、 子供が生まれるかどうかということである。 もし、生まれるならば、それは、<謎から生じる答えという謎>の探求、という整合性のありようである。 人間における言語による概念的思考は、思考し続ける活動に終わりというものがない、 生じた謎から出された答えは謎を孕むものでしかない、 この概念的思考の永劫回帰を超脱できる存在を<超人>とすることは可能であるが、 <超人>も、性的事柄と人間離れした離れ業をあらわす限りの<超人>でしかないことである。 動物状態にあることを超えられない人間、 このありようを超える<超人>は、<謎から生じる答えという謎>の探求者でしかない。 被虐の女性らしさをあらわした鬼婆であった、 妊婦をやめてからも、その殊勝な女性らしさは、健気とも思える仕草で赤子を世話することにあらわれた。 権田孫兵衛老人にとっては、姉は鬼婆を超克した、と判断させたことであったから、 姉を生まれたままの全裸の姿態にさせて、麻縄で緊縛した姿に晒すことは、 <民族の予定調和>へ向けて精進するとうちゃん・かあちゃんの夫婦の睦み事として、 毎夜において行われたことに過ぎなかった。 言うまでもなく、年齢も八十余歳を数えての所帯染みた夫婦の新婚生活の実際であったから、 禿げ上がった真っ白な頭髪に歯のないくぼんだ口もと、どぎつい目つきや鋭い鷲鼻、 皺だらけの小柄で痩せ細った身体が険しい老いをあらわとさせている姿の権田孫兵衛老人と、 骨と皮という老いさらばえた姿を黒ずんだ肌であらわとさせ、 しぼんだ乳首の皮だけという醜さのふたつの乳房をだらしなく垂れ下がらせ, 禿げ上がった真っ白な頭髪、歯のないくぼんだ口もと、どぎつい目つきと鋭い鷲鼻があいまって、 老いた険しい形相を剥き出しとしている姿の鬼婆が全裸で絡み合っての夫婦の睦み事だった。 将来を託する子供の成長と手を携えて<民族の予定調和>へ邁進できる女性の存在は、 権田孫兵衛老人にとって、歓喜の幸福に満たされた、生涯唯一の時期でもあったのだった。 だが、或る日、山へ芝刈りに行っていた権田孫兵衛老人が庵へ戻ると、 待っているはずの鬼婆と赤子の姿がなかった。 代わりに、板敷きの床の上には、巻紙に達筆で記された手紙が残されていた、 そこには、このように記されてあったのである。
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